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 第62回 交野歴史健康ウォーク

2004.4.10 落合橋、スタコ坂から、逢合橋、うえん山を歩く 

(とき)平成16年4月10日(土)晴れ
(コース)いきいきランド交野→南川→落合橋→砂子坂(スダコザカ)
→逢合橋→本尊掛け松→上の山→上の山遺跡→高堤→
大松・磐船街道石碑→森・城戸
→いきいきランド交野

4/10(土)天候晴れ、参加者18人元気な顔が揃った。
いきいきランドを9:10過ぎ出発。満開が過ぎたけれども、綺麗に咲き競っている染井吉野の桜や八重桜をを愛でながら南川沿いを歩いて、北川と南川の合流地点の落合橋にでる。ここから見える、交野山もまたイイですね。新芽を一斉に吹き出した木々は交野山連峰を鮮やかな緑色で覆っている。
 ここから私市道を南に少し行った所に、大門(砦)があったと言われる。戦国武将の戦いの場所である。その近くを京阪第二国道が計画され巨大な高速道路が走る。大事にしたい場所の一つである。
 落合橋から下流は前川となり、天野川に注いでいる。青年の家を北へと抜け、倉治から通じる山根道へ出て真っ直ぐ西へ行きと「すだこ坂」の交差点にでる。
落合橋北川と南川の合流地点
ここから下流を前川という
前川の堤の桜道
前川の桜堤 青年の家の八重桜
私部の山根道・青年の家の北側付近 逢合橋の上で、しばし七夕談義

  砂子坂(すだこざか)交差点風景すだこ坂MAP
 国道168号線が生駒に向かって右折する交差点に
「砂子坂」の標識があがっている。
また、「スタコ」と横断歩道橋に書かれている。
変わった地名である。
ふるさと交野を歩く(ひろい話A)には、次の様に説明されている。
 このあたりのから東や西に見える山は花崗岩質で
風化し、砂は水に流され、堤を高くしながらどん詰まりに洲ができる。
東の低い道から洲の高い処に上って行くのだから「洲さか」、「すだこ」である。
 北田騰造家の古地図を見ても、落合橋から下流を砂子坂といいそれが「すだこ」と変わっている。
原田英二氏所蔵の古記録に
 私部村樋数御改之帳 元禄5年□月2日 字「すだ子」栂の木伏樋長壱□□とある。
これらのよって「すだ子」から「すたこ」になったことがわかる。
 最近になって、「スタコ」から「砂子坂」にかわった。 


 逢合橋を渡りまっすぐ「逢合橋西」の表示板の方向に歩いて、30bほど行くと南北の道と十字に交わる。その道が東高野街道で交野市と枚方市の境である。 この道を左にとり、水道道を越すと、すぐ右に「本尊掛松遺跡大念仏寺」の道標がある。
 ここは、枚方市茄子作4丁目。
  ※茄子作(なすづくり)の地名の由来
 
平安時代、交野ヶ原で鷹狩をしていた惟喬親王(これたかしんのう)がかわいがっている鷹を森の茂みのなかに見失うと言うハプニングがあった。そこで鷹の足につける名鈴(なすず)を作るよう村人に命じ、この地を名鈴作村(なすずつくりむら)と名付けた故事に由来する

 南に進むと右に、玉垣があり地蔵様がおられる。ここは、上人松の伝説がある。明治30年ごろまで四方に枝を張った松があったが、今はその松はない。二代目と思しき松が玉垣の中に植えられている。うえん山の辻MAP
 すこし上ると、「うえん山」の辻に出る。ここは山根街道の分岐点で、高さ2mを越す安政2年の道標がある。他に享保の地蔵があり、大阪府の小さい道標に「右 山根街道 左 すぐ東高野道」と彫ってある。歴史上の名だたる人々が往来し、真言密教の道であるとともに、文化を伝え、産業を興した大切な道である。
東高野街道を南に出て、第二京阪国道予定地の「上の山遺跡」を見学。周りは道路予定地と新しい住宅地の開発途上中である。これからの発掘成果を期待したい。

 途中、昨年新しく開店されたという陶芸店に立ち寄り、国道168号線沿いの高堤の小道を歩き、旧磐船の道標の辻に到着。私市の旧道の入口に道標としては珍しい六角形のものが、常夜灯とともに保存されている。表側の3面に、東 かいがけ、南 いわふね弥道、西京ひらかた。裏側に、ざいのミち、北天保7申7月建立、地ぞうミちと彫られている。ここは、「かいがけの道」の分岐点である。

帰りは、森の城戸を通り、大量権(だいりょうごん)の地名が記載されている駐車場などを再確認し、小路の西側に「元森小学校の跡地」という石碑が立っていた。

 森小学校及び交野小学校の変遷を見ると、以下のようである。
 明治7年(1874)10月 森村に百四十番小学校創立、
 明治8年(1875)森小学校と改称
 明治18年(1885)交南小学校が天野川堤に建ち、森は第二分校となる。
 (星田、寝屋、打上、灯油、茄子作、山ノ上、村野、倉治、私部、森の10校を廃して、交南小学校を本校とし、第一分校星田、第二分校森、第三分校倉治、第四分校山ノ上、第五分校灯油、第一分教場を村野に設ける。)
 明治25年(1892)交野、磐船、星田、川越、水本、5ケ村組合で交南高等小学校創設。
 明治28年(1895)交野、磐船両村組合尋常小学校できる。
 昭和22年(1947)3月 教育基本法、学校教育法によって、六・三制義務教育となり、交野小学校、星田小学校、交野中学校できる。

 久御山線に出て、いきいきランドに帰った。
平田さんの軽妙な説明に感動し、交野の古い歴史を肌で感じた、楽しい歴史ウォークでした。
次回が楽しみである。一人でも多くの市民の方々にこの喜びを味わっていただきたいと思います。
 是非とも、皆さん誘い合って参加しましょう!!!

水道道から東高野街道を南へ
「本尊掛松遺跡大念仏寺」の道標がある
途中、昨年開店された陶芸店に立ち寄る
国道168号線沿いの高堤の道を歩く 磐船街道の道標の辻
 
上ん山(うえんやま)


「本尊掛松遺跡大念仏寺」の地藏様

 天野川ににかかっている逢合橋を西に越えると、左前にある薮のある小さい丘が目に付く、この丘を「上人松」とか、「お野立所」とか「上ん山」と呼んでいる。
(現在では、建物が建ち並び見えない。府道20号線を「逢合橋西」より50b南に下がると見える)

 ここへは、逢合橋を渡ってまっすぐ「逢合橋西」の表示板の方向に歩いて、30bほど行くと南北の道と十字に交わる。その道が東高野街道で交野市と枚方市の境である。この道を左にとり、水道道を越すと、すぐ右に「本尊掛松遺跡大念仏寺」の道標がある。それに続いて玉垣の中に大きい地蔵様がおいでになり、光背の左に「法明上人御旧跡勧進紗門」、その裏に「弘化二乙巳年(1845)4月24日 世話人交野門中」と彫ってある。

ここ「上人松」にこんな伝説がある。

 後醍醐天皇の元享元年(1321)12月15日の夜、摂津深江の法明上人に「男山八幡宮に納めてある融通念仏宗 に伝わっている霊宝を授かり、法灯をつぐように。」との夢告げがあった。上人はさっそく弟子12人を連れて男山へ向かった。上ん山まで来ると、霊宝を深江に届けようとする男山からの社人ら一行と出会った。16日のことであった。

東高野街道と山根街道の分岐点・上ん山の辻

 両者は喜んで宝器を授受し、松の小枝に開山大師感得十一尊曼荼羅をはじめ軸の尊像を掛け、鐘を叩きながら松の周囲を喜んで踊って廻ったという。

以来、本尊掛松遺跡、念仏踊り発祥の地だと言う。そこから薮の坂道を左にとると、すぐ山根街道と交わる。

左が東高野街道、右が山根街道の分岐点(うえん山の辻)

 この分岐点の辻に、上ん山地蔵がおられる。 地蔵様の光背には「私部村地蔵講中 享保十乙巳年(1725年)3月24日とある。また「大峰山 右 宇治 左 京 八幡 道」の大きな道標があり、その南側の小さい道標に「右 山根街道 左 すぐ東高野道」と彫ってある。

 元弘の乱(1337)で北条方が楠正成の下赤坂攻めにこの道を急ぎ、近畿平定には織田信長もここを通って岩倉開元寺を焼かせ、足利義昭の反抗の時には秀吉が義昭をつれて急いだと言うこの道は、なるほど権力の道だ。  真言密教の道であるとともに、文化を伝え、産業を興した大切な道である。

  ここで、「東高野街道」と「山根街道」が一つになって星田に伸びている。


       うえん山(街道の合流地点)  左が東高野街道  右が山根街道


              上の山遺跡(第2次調査)
上の山遺跡は、第二京阪道路とこれに併行して建設される一般道路(大阪北道路)予定地に対する大阪府文化財センターの埋蔵文化財確認調査によって2000年に新規発見された遺跡である。
当該地は北流する天野川左岸に臨む交野台地縁辺にあたるが、西側には北向きの小谷が開析されており、さながら南から北に伸びる尾根状を呈し、この稜線頂上部を中心に各時代の遺構が展開する。
現在も尾根筋を旧東高野街道が縦貫しており、これを境に西側が枚方市茄子作南町、東側が交野市私部5丁目と、行政区域上二市に跨る。
付近には西側の小谷を隔てて弥生時代後期から古墳時代にかけての集落遺跡、茄子作遺跡が知られている。
今回の調査地は、主要地方道枚方・富田林・泉佐野と旧東高野街道に挟まれた第二京阪道路予定地の南縁にあたり、調査の結果、調査区東半の水田耕土層直下で明橙色粘質シルト層からなる遺構面が検出され、特に東側の旧東高野街道寄りに遺構の集中が認められた。検出された遺構には竪穴住居を構成したと考えられる柱穴堀形群と炭灰を混じえた焼土坑、旧東高野街道に併走する地形の切土痕跡があり、前者の柱穴堀形・焼土坑からは弥生時代中期前半頃の土器片・石鏃が、後者の覆土からは古墳時代以降の、近世後半に至る時期の土器・陶磁器類の小片が出土した。
     (石鏃NO130号参照)

4/10 スタコ坂から、逢合橋、うえん山を歩MAP

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