交野歴史健康ウォーク 2010.2.13 第101回
=古道を歩く=
伝・寝屋長者屋敷跡・西蓮寺・秦河勝の墓・国松の弘法井戸
行程;JR星田駅9時出発→旭尋常高等小学校石碑→山根街道→ 伝・寝屋長者屋敷跡→正法寺→西蓮寺→山根街道の道標→細屋神社→ 八幡神社→伝・秦河勝の墓→春日神社→国松の弘法井戸→ 外環状線→京阪電車・香里園駅 12時頃解散 徒歩 約 7Km |
久しぶりに晴れ間の見える天候となり、JR河内磐船駅で中さん、黒田さん、高尾さんと合流。 午前9時、JR星田駅前には、いつもの元気なメンバー12名が揃った。 本日の案内人・中会長の挨拶の後、駅からすぐ南へとつながっている東高野街道沿いに立っている「旭尋常高等小学校」の石標を皮きりに、山根街道へと元気にスタートした。 今回は、鉢かづき姫にまつわるお話と秦河勝の史跡などをゆっくりと訪ねてきました。 史跡などの記述は、「寝屋川市のHP」と、「寝屋川ふるさとかるたウォーク」のHPを 参照させていただきました。記して感謝申し上げます。 |
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集合場所:JR星田駅前
![]() 本日の案内人・中会長の挨拶 |
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![]() 明治18年(1885)交南小学校の第一分校(星田)が創設された。 明治20年(1887)星田水本両村は学校組合を離れ、星田に旭尋常高等小学校を創設。 小学校令がでて、明治23年(1890)旭尋常小学校設置せられる。 |
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![]() 室町時代の「御伽草子」の中の「鉢かづき姫」の舞台になったと言われている所です。 |
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![]() ●広大な長者屋敷の言い伝え |
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山根街道沿いに寝屋長者の屋敷跡と言い伝えられる場所があり、江戸時代のいくつかの書物にも屋敷跡のことが記されています。この場所には小さな池があり、以前は池の畔に数本の松が茂っていたそうで、これが屋敷の庭園跡ではないかといわれています。 | |||||||
![]() 歴史街道(山根街道) この街道は、寝屋の集落を東西に横切る古来からの主要道であり、その延長上あ東に 東高野街道、西は京街道へとつながります。寝屋川市のほぼ中央を東西に横切ることになり、 現存する街並みと併せ、古来の人々の往来する姿を充分に彷彿させてくれる歴史街道です。 この街道整備は、「歴史街道跡整備事業」として、平成4年から8年にかけて整備されました。 |
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![]() 綺麗に整備された山根街道図 |
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=寝屋長者屋敷= 平田政信さんの「瓦版・よもやま便り」を参照 弘安二年(1279)、河内の国、交野郡寝屋村に、寝屋備中守藤原実高と申す大長者があった。田畑1200余町(約12万e)、山林数知らず、屋敷の東西12丁(1丁は約109b)南北4丁で東西に大門があった。家造りの豪勢さは言語に絶していた。 河内国讃良郡の長者屋敷という設定で描かれた絵巻を紹介します。 (「粉河寺縁起」第3・5段 国宝 和歌山県 粉河寺所蔵) 図1〜4につなげてみると、館の表門から裏門までを描いた形になっていることがわかる。 図1右側から、堀と橋、櫓門と板塀、広い空間に面して、厠、網代垣で囲われた倉、母屋、渡り廊下でつながれた離れ、倉、そしてまた板塀となる。 裏門は単なる塀の切れ目として描かれている。 寝屋長者鉢かづき(初瀬)物語の舞台となっていく・・・。 |
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星田に残る地名からも寝屋長者鉢かづき(初瀬)物語が窺い知れる…。 | |||||||
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=一里塚の今昔= 平田政信さんのよもやま話 一里塚(金門・四馬塚)・東高野街道・中村中尉鎮魂碑 戦闘機残骸発見・陸軍用地 交野郷土史かるたに 「路傍には 東高野の一里塚」と詠まれています。一里塚は街道の一里(4`)ごとに土を盛り、上に木を植えて里程のしるしとした塚。道を挟んで向かい合わせに二つ、木はエノキや松が多い。一里塚の起こりは織田、豊臣の時代からつくられはじめたが、全国的には、徳川家康が秀忠(2代・1605−1623)に命じ、お江戸日本橋を起点とした主要街道に築かせてから広がった。JR星田駅から高架沿いを東に向い四辻を北に少し行くと小字名を街道の東を四馬塚(しばつか)、西を金門(かなど)という所がある。その田の中にあった。 江戸中期ならびに元禄10年(1697)の星田絵図にはそれぞれ「一里塚」と書き、道の両側の盛土のうえに大きな松が一本ずつ画かれている。当時を偲べば、街道には里程の目標と旅人に木陰を与え、休憩するために一里ごとに土を盛って松などを植え、一里塚とか一里松といった。 今は舗装道路となり、毎朝の車通勤ラッシュの迂回道路として賑わっている。現在は古川柳にある「くたびれたやつが見つける 一里塚」となりつつある。 平安時代、信仰のため旅をする人の通った東高野街道は京都鳥羽から河内に入り郡津、星田を経て高野山まで続いていた。そして一里ごとに目印として、木を植えて、お大師さんを祀ったのが一里塚です。太子堂、今は星田村中の半尺口に移転されています。 |
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![]() ここから見える交野山山系の姿が素晴らしい! 手前の道路は水道道、現在整備中。 |
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山根街道沿いの鉄工所の壁に、描かれた「山根街道の風景」 | |||||||
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![]() 3月完成を目指して、急ピッチで作業が行われている現場風景 |
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![]() 街道筋に昔、使われていたと思われる「唐臼の土台石」 |
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![]() 寝屋神社の標識 八幡神。祭神は誉田別命(ほんだわけのみこと)。流水疎通の神と雨をつかさどる龍神も祀られている。 境内にはカナメモチの林やアラカシ、コナラ等の木々がある。 |
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![]() マンションの奥に見えるのが寝屋神社 |
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![]() 正法寺 紫雲山 浄土真宗本願寺派 ![]() (江戸時代・慶長期のもの)(平成10年指定) 銘文によると、慶長二十年(1615)に現在の島根県太田市にあった覺法寺の鐘として大工山根九左衛門によって鋳造され、その後、明暦二年(1656)広島市にあった永照寺に移り、京都の仏具商、さらに昭和3年(1928)謝徳堂に移ったことがわかる。昭和37年(1962)に正法寺に移された。鐘は池ノ間を上下二段に分け、広い中ノ間を作っている。鐘の表面のみならず、鐘身の内面まで所狭しと多くの銘が刻まれてあり、法名・家名が602にも上る。草ノ間に施された唐草文は簡素である。 (文化財台帳より) |
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![]() 正法寺の梵鐘 |
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●鉢かづき姫の父母が信仰した観音様とお地蔵様 街道沿いには、浄土宗西連寺(さいれんじ)があります。この観音堂には木造の千手観音像と木造の地蔵尊が安置されています。言い伝えによると、初瀬姫の父母はこの観音様とお地蔵様を信仰されていたとか。物語は、江戸時代に加筆され、さまざまな話となりましたが、その写本の一つ居が現在も寝屋川市に残る「寝屋長者鉢記」。ここには、初瀬姫の母(照見の方)の墓は西連寺にあると書かれています。 |
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![]() 観音堂の珍しい屋根と鰐口 |
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![]() 1.10mの木造の地蔵尊 |
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![]() ![]() 山門を入ると右側に観音堂がある。高さ1.22メートルの木造りの千手観音立像が安置されている。 鉢かづき姫と、その母の照見の方が、信仰していた観音さま。 |
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![]() 往来安全の祈願と共に道標をかけた、高さ73cmの地蔵尊 |
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![]() ![]() 地蔵さんに「右ねやほしだ道」「左くらじたき道」 集落の西のはずれにあったもの。 往来の安全祈願と道標を兼ねている。 |
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![]() 平田政信さん撮影 |
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寝屋川の起点付近 交野市からのタチ川と枚方市からの北谷川とが、寝屋の西で合流して寝屋川となり、 市の中央を南へ流れ(約8キロ)大阪市の天満橋付近で大川と合流している。全長約21キロ。 |
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寝屋川寝屋川はどこから起こって何処で名が消えるのかと、正確にご存知ない方も多いと存じます。 東部丘陵地帯に、寝屋地区があります。その地区の南を東から流れている川を、「タチ川」といいます。水源は交野市の山地で、一名、「傍示川」ともいいます。反対に、同地区の北側を枚方市の高田の方からくる川を、「北谷川」と称されています。 寝屋の丘陵を離れた、そのすぐ西部(市営斎場入口近く)で、二川は合流しています。合流してより土地の名を冠り、「寝屋川」の名が始めて生まれるのであります。川はここから西へ流れて太秦・秦の地を経て、幸町で北へまがり西流、平池町から南流の形をとっています。寝屋川市駅の西部をなお南に、大利・木田・神田を経て萱島のところで、二十箇用水と友呂岐悪水を合流しています。水量は増して、川らしい川の姿をしてきました。それから木田の悪水を入れ、東部丘陵からの讃良川、岡部川を抱きこみ、さらに南下して河北の共同墓地手前で清滝川を合わせ、また五軒堀川を入れて本市内を離れます。 それより大東市に入り、東大阪市を経て、大阪市へ西流していきます。その途中、恩智川、玉串川など、東部の諸川と本市を水源としている古川を合流して、天満橋駅へ着く直前に渡る鉄橋があります。その下が、寝屋川最後の姿であります。 市内を流るること約8.2キロメートル、全長21キロメートルで、約40%を本市内をとおっていることになります。それが、大阪でも汚れの最もひどい川といわれているのが残念でなりません。かつては「野崎小唄」にうたわれた、あののんびりした風景を見ることができなくなりました。川の汚染も、下流の工場地帯より生じているもので、上流の、そして市名としている私たちはくやしいより悲しい思いがします。寝屋川は、泣いているように思います。 なお、寝屋川は、以前は(徳川時代中期ごろまでには)堀溝地区の南より日下江後の深野池に流れ入っていたことを付記しておきます。 (寺前治一 「寝屋川史話100題」より参照させていただきました。) |
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細屋神社(ほそや) |
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![]() 細屋神社の石標と遠景 |
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![]() 八幡神社 祭神 誉田別尊(ほんだわけのみこと) 別雷神(わけいかづちのかみ) 由緒不詳。秦氏が祀ったものであろう。 |
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四世紀から五世紀にかけて大陸から多くのひとびとがわが国に渡来してきました。秦氏の祖とされる弓月君(ゆづきのきみ)もそのひとりで、養蚕・機織の技術を伝えたといわれています。 秦河勝は秦氏の長で、聖徳太子を補佐して六〜七世紀に活躍し、太子から仏像を授かり京都の太秦に蜂岡寺(広隆寺)を建立したことでも有名な人物です。 この地には「秦河勝の墓」として、高さ約二、四メートルの五輪塔が残されています。五輪塔の地輪の四面には、秦河勝の事跡や五輪塔建立の経過などが四百余字で刻まれています。碑文によると、以前には豪壮な五輪の石塔がありましたが、豊臣秀吉の命により淀川左岸に文禄堤を築いた際に持ち去ったため、現存する五輪塔は慶安二年(1649)に再建されたものであることがわかりました。 市内にある秦・太秦の地名も秦氏に由来すると考えられ、平安時代に編集された『和名類聚抄(わみょうるいじょうしょう』に八郷の1つとして記されています。 五輪塔の前面には一対の石灯籠が建てられているほか、五輪塔の北東には「正六位上兼近衛府生秦武文(しょうろくいじょうけんこのえふじょうはたのたけふみ」と刻まれた柱状の石塔も建っています。 石柱「正六位上兼右近衛府生秦武文」(江戸初期・先祖の河勝を顕彰して、子孫の武文という官人が建立) |
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渡来人・秦氏 渡来系有力氏族5世紀以降、西日本一帯に、広範に居住する秦氏の伴造(とものみやつこ)、本拠地は、山背国葛野郡。天武朝の八色(やくさ)の姓で忌寸(いみき)姓となる。 一般には、古くから西日本一帯に渡来し、機織や農耕に従事していた新羅系の人々が、欽明朝に王権に接近した山背国の泰氏勢力を伴造(とものみやつこ)として、氏族的にまとめたものとされている。以後、各地の秦氏が、多くの貢納によって王権を支えたので、有力な氏族となり、一族は朝廷の「倉」の管理部門と関係の深い役割を担ってきた。 本拠地の山背国(京都)には、伏見稲荷大社や松尾大社を創建し、一族の氏神として崇敬してきた。推古朝には、聖徳太子から下賜された弥勒菩薩を本尊として、太秦に蜂岡寺(広降寺)を建立した秦河勝がいる。寝屋川市にも秦氏と縁の深い地名が残されている。秦、太秦である。茨田堤の難工事を担当した秦氏の一族が開発した村だったのだろうか。そこには、秦氏一族から英雄視されている秦河勝の墓と伝える五輪塔が建っている。 |
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春日神社のしいの社叢(しゃそう=神社の森) [所在地] 国松町20番4号 |
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江戸時代の「河内名所図会」に、「三ツ井群村の東、三ツ井村にあり。二ツ井は国松村にあり。一ツ井は高宮村にあり」 と市内三か所の名井が紹介されている。そのうち現在残っているのは、ここ国松の井戸(二ツ井)だけである。 この井戸は「弘法の井戸」と呼ばれ、地域の人々の生活用水として利用されてきましたが、これは弘法大師と清水に対する感謝の気持ちが結びついたものでありましょう。 井戸の中には四体のお地蔵さまが安置されていますが、村人の健康と安全を祈願したものと思われます。 |
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