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よもやま瓦版
(2004年)
今日の話はなんでっか?
バックナンバー
平田語録100号
今日の一言
平田さん
  発行者
  平田政信さん
  瓦版:よもやま便り
      交野市私市4-39-2   平田 政信
☆ 世の中に山とあるような話や、あんなこと、そんなこと、日常のあたりまえのことでも、歳とともに忘れがち、忘れたことを思い出すのが煩わしい、思い出せない今日この頃、チョット書きとめておくことにしました。なにかの参考になればとはじめましたのでよかったら一服にでも……。 
                  

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瓦版 2008年 6月号 バックナンバー
157 6/30 自分探し?=
156 6/28 =寝屋長者屋敷=
155 6/27 =意見が違うことと 仲がいい、悪いことは別のことなのです=
154 6/26 ■乱 ■変 ■役 その正しい使い分けは?=
153 6/25 藤原、源、織田・・・「苗字」といえるのは?=
152 6/24 =釈迦が亡くなってから500年以上のあいだ仏像は造られなかった?=
151 6/23 仏像の耳朶(じだ)にはなぜ穴があいているのか?=
150 6/21 =暮らしのなかの仏教用語(その2)=
149 6/20 =暮らしのなかの仏教用語(その1)=
148 6/19 = 三内丸山(国指定特別史跡)で変わった「縄文のイメージ10」 =
147 6/18 「運」の強い人間とは、言い換えれば
              「勘」のよい人間のこと
146 6/17 =文化財保護法(ぶんかざいほごほう)=
145 6/15 =一番古い男性器の呼称「ふなど」=
144 6/14 =今日の一言集より=
143 6/13 =箸墓の由来=
142 6/12 =何らかの理由で移座された仏たち=
 「神宮寺、宮の下の阿弥陀石仏が村中へ」
141 6/11 =和名抄について=
140 6/10 =神話のもう一つ、神代篇に登場するもっとも魅力的な神スサノヲ=
139 6/9 =神話とは=
138 6/7 =長屋王家・木簡による日常業務=
137 6/6 =物部氏の伝承する神話=
136 6/5 =氷室物語=
135 6/4 =長屋王家と木簡=
134 6/3 =長屋王=
133 6/2 =今日の一言より=


2008.6.30 発行(157)

 自分探し?
あなたはここにいるでしょうか?  (今日の一言集より)

 ここにいる自分を見つけられない。
きっと探しがいのある自分にまだなっていない、ということだと思う。
だから、本当は、自分探しをしにいくんじゃなくて、探す価値のある自分になるために
ここから出て旅をするのでしょう。
どこに行って、何をしたら、探しがいのある自分になれる。
どれくらいがんばったら、そこまでたどり着けるか。
いとも簡単に、「自分探し」という言葉を使う人の中には、結局、何を探していたのか分からなくなったり、何も変わらない自分のまま、時間を浪費していたりするようなことも少なくない。とりあえず、ここにいる自分にどんなことが足りないか、それくらい考えていなくちゃ、地図も見つけられないことでしょう。
自分探しの実際は、探しがいのある自分になること。
これを忘れちゃいけませんね。

  

=編集後記=
 交野山頂からの夜景・・・高い所から見ればチッポケなこと。でもひとつ、ひとつ見れば、そこにはいろんな出来事があるのでしょう。              =了=



2008.6.28 発行(156)

 =寝屋長者屋敷=
 弘安二年(1279)、河内の国、交野郡寝屋村に、寝屋備中守藤原実高と申す大長者があった。田畑1200余町(約12万e)、山林数知らず、屋敷の東西12丁(1丁は約109b)南北4丁で東西に大門があった。家造りの豪勢さは言語に絶していた。
河内国讃良郡の長者屋敷という設定で描かれた絵巻を紹介します。
(「粉河寺縁起」第3・5段 国宝 和歌山県 粉河寺所蔵)

 

 

  

 図1〜4につなげてみると、館の表門から裏門までを描いた形になっていることがわかる。
図1右側から、堀と橋、櫓門と板塀、広い空間に面して、厠、網代垣で囲われた倉、母屋、渡り廊下でつながれた離れ、倉、そしてまた板塀となる。
裏門は単なる塀の切れ目として描かれている。
=編集後記=
 寝屋長者鉢かづき(初瀬)物語の舞台となっていく・・・。    =了=


2008.6.27 発行(155)

 意見が違うことと 仲がいい、悪いことは別のことなのです。
                       (今日の一言より)
 思いがけずに、意見が同じと嬉しい。
気の合う人が見つかる、っていうのは楽しいですからね。
けれど、意見が同じ振りをするのは、だんだん疲れてくる。
相手のことを好きだとしても、いつまでも「振り」をするのは、無理な気がする。
仲がいいということを意見が同じとか、ケンカをしないとかの価値観だけで思い込んでいると、周囲にアピールするために、きっと自分に対して、そういう振りの無理強いをさせることでしょう。
がっかりすることがあるまでは、それを続けられるんですね。

  
            交野山観音岩から沈む夕日

=編集後記=
 今日の一言集より拾ってきました。一緒にしてはいけませんが、人間ですもの。                                =了=



2008.6.26 発行(154)

 ■乱 ■変 ■役 その正しい使い分けは?
 「応仁の乱」「本能寺の変」「前九年の役・後三年の役」など、歴史上の事件は、「乱」「変」「役」など、事件内容によって呼称が異なる。
まず「乱」は、ときの政治権力に対して、反乱が起きた事件をいう場合と、長期にわたる戦乱をいう場合がある。
前者は「島原の乱」など、後者が「応仁の乱」など。「変」は、政変で使われることが多い。武力行使を伴うことが多いが、短期で終結するか、突発的な事件であることが多い。
織田信長に対するクーデターである「本能寺の変」や、幕末に、大老井伊直弼が暗殺された「桜田門外の変」が代表である。
「役」は、戦争という意味。武士だけではなく、農民などの庶民が徴兵されて戦う大規模な戦争をいう。
蒙古が襲来した「文永・弘安の役」や、秀吉が朝鮮に出兵した「文禄・慶長の役」などで、外国との戦いは基本的に「役」となる。
日本国内でも「前九年の役・後三年の役」のように、中央から離れた辺境地域での戦いのことをいう場合もある。また、権力者が反抗勢力を征伐する場合にも「役」が使われることもある。豊臣家が滅びた「大坂の役」は、徳川側からからみれば、征伐戦なので、そう呼ばれる。だが、この「大坂の役」については、「大坂の陣」と呼ぶことも多い。


  

明治以降になると、国内での大規模な内乱は西南戦争をもって終わるが、この西郷隆盛をリーダーとする反乱を「西南の役」ということもある。
「戦い」と「合戦」は同じように使われる。戦闘行為そのものを指すことが多く、敵と味方が直接対峙して戦うもの。
信長が今川義元に勝った「桶狭間の合戦」や、日本の大名が東西に分かれて戦った「関ケ原の戦い」などが有名。「○○の陣」という場合もある。
=編集後記=
 日ごろ何気なく使っている言葉、意味知ったらなるほど =了=



2008.6.25 発行(153)

■氏 ■姓 ■苗字
藤原、源、織田・・・「苗字」といえるのは?
 現在の日本人の名前は「苗字」と「なまえ」によって構成されている。
苗字のことは氏とも姓ともいうが、どう違うのか。
源氏とか平氏、藤原氏というときの「源」「平」「藤原」にあたるものを「姓」という。
これらの姓は、天皇から与えられたもので、公的なときに使う名前である。
天皇家に「姓」がないのは、そもそも「姓」とは「天皇が与えるもの」だから。
この「姓」は個人や家単位の名称ではなく、一族全体の名称となる。その一族のことを「氏」というのです。
「氏」とは、古代において血縁関係にある集団そのもののことを言った。
つまり組織である。そして、それぞれの集団の名前のことを「氏」というようになった。
では、苗字とはなにかというと、それは家単位の名前で、自分で名乗っているもの、つまり私的なものである。苗字は、地名に関係するものが多い。
歴史上の人物で、「の」とつく場合は、姓のことをいう。「源義経」は「みなもとのよしつね」であって「みなもとよしつね」ではない。「平清盛」も「たいらのきよもり」となる。
これは「源」「平」が姓だから。
一方、「織田信長」の「織田」は「姓」ではなく苗字なので、「おだののぶなが」とはならない。信長は姓としては平氏を名乗っていた。「徳川」も苗字なので「徳川家康」は「とくがわのいえやす」ではなく、「とくがわいえやす」である。家康は源氏だった。
ややこしいのが、「姓」を「かばね」と読む場合で、古代の豪族の姓は、天皇から賜ったものではなく、自分たちで勝手に名乗っていたものである。
葛城(かつらぎ)、和珥(わに)、蘇我(そが)、阿倍(あべ)、大伴(おおとも)、物部(もののべ)などがよく知られている。
だが、これらの姓も、諸氏が自称していたものを、次第に国家が統制するようになり、684年に八色(やくさ)の姓に整理された。   
     「日本史が100倍面白くなる本」より

=編集後記=
 685年(天武天皇)10月に大化前代以来の姓を改めて新たに制定した姓制。
真人(まひと)・朝臣(あそん・あそみ)・宿禰(すくね)・忌寸(いみき)・道師(みちのし)・臣(おみ)・連(むらじ)・稲置(いなぎ)の順の八姓から成る。

  

日本にはじめて機織の業を伝えたという大陸渡来の文化人たちが、竜王山麓の「はたやま村」・交野山麓の「はたもの村」で盛大な勢力と文化の花をさかせたであろう、昔が偲ばれる。これらの人たちは壬申の乱で天武天皇方に味方して戦い、その功によって村おさに
「交野忌寸」(かたのいみき)の称号官位を授けられています。         =了=



2008.6.24 発行(152)

 日本人の歴史を、生活を見続けてきたお寺と仏像。
そんな中にはホッとするエピソード、興味深い謎が限りなくある。その中から、知りたくなる不思議について、(その2)紹介します。

釈迦が亡くなってから500年以上のあいだ仏像は造られなかった?
仏教の開祖、釈迦は今から約2500年前に活躍した実在の人物だ。
そして、釈迦の姿をモデルにして仏像が造られたのは、釈迦が亡くなってから500年以上後の紀元一世紀の中ごろのことである。
なぜ、そんなに長きにわたって仏像は造られなかったのか?それは当時のインドでは偶像否定の観念が支配的だったからだ。
偶像否定とは神や仏のような尊い存在は姿を表すことができないというもので、インド中を歩き回って説法された釈迦の足のうらの形を石に彫りつけた仏足石(ぶっそくせき)をシンボルとして礼拝の対象としていたといわれている。



しかし、時代が下って仏教が広まると、釈迦のインド西北部のガンダーラで最初の仏像が造られ、その後はインド各地で造られるようになったのである。
わが国には、中国を経由して伝わったといわれている。
日本に残る仏足石のうちでは、天平時代につくられた奈良の薬師寺のものが最も古い。
=編集後記=
 薬師寺・大講堂内にある。礼拝対象としての仏陀(釈迦)の足跡を刻んだ石。 =了=



2008.6.23 発行(151)

日本人の歴史を、生活を見続けてきたお寺と仏像。
そんな中にはホッとするエピソード、興味深い謎が限りなくある。その中から、知りたくなる不思議について、いくつかを紹介します。

仏像の耳朶(じだ)にはなぜ穴があいているのか?
 仏像の耳朶には必ず穴があいているが、この穴は豪華なピアスの痕だといわれている。
仏像のモデルとなった釈迦はインドの王国の王子として生まれたが、29歳のときに悟りを求めて出家した。そのとき、地位、財産、家族など、すべてを捨てて修行の旅に出た。
それから、6年後、35歳のときに悟りを開いた。
出家したとき、もちろん耳につけていたピアスも捨てた。しかし、20年以上にわたって着けていた特大のピアスの穴は塞がることなく、悟りを開いたあともその痕跡がハッキリと残ったという。

               
  
                 獅子窟寺国宝:薬師如来坐像(交野市私市)

=編集後記=
 なるほど!如来をはじめとする仏像の耳朶は長く垂れ下がり、中央に大きな穴があいている。インドの王候貴族の習慣で、釈迦は王子時代に豪華なピアスをしていた。出家したときは、そのピアスも外して老バラモンに与えた。しかし、ピアスの重みで広がった穴は塞がることがなかったというのである。今度、仏像を拝む時には耳にも注目して下さい。
            =了=


2008.6.21 発行(150)

 =暮らしのなかの仏教用語(その2)=

嘘をつくと舌を抜かれる
子どもの頃、一度はこういわれたことがあるのでは。この慣用句は地獄・極楽を日本で初めて著した恵心僧都(源信)の『往生要集』(985年)に拠っている。それによれば地獄は八つあり、そのひとつに「大叫喚地獄」がある。ここは嘘偽りをいった罪人が落ちる地獄で、鬼が熱した鉄のやっとこで舌を抜く。抜くとまた舌がはえ、それをまた抜くという苦しみが永遠に続くのである。もっとも今どきの子どもには「うそだ〜」などといわれ、あまり効き目はないかも。

嘘も方便
最高の結果が得られる可能性が高ければ、場合によっては嘘が許されることもあるという意味。「方便」とは、ある目的を実現するための一時的な手段のこと。仏教用語では、菩薩が真実を衆生に正しく伝えるために用いる仮の方法を指す。『法華経』では、それぞれの時と場合に応じて「方便」を使って法を説くことが重視されている。
「人をみて法を説け」という諺も同じ趣旨。

有頂天

すべてが思い通りに進み得意の絶頂にいる人を指して「有頂天になっている」などという。多少非難の意味を込めて使われることが多いが、仏教本来の意味では、天界の最高所のこと。仏教では命あるものが住む世界は下から「欲界」「色界」「無色界」があるとし、これを「三界」と呼ぶ。「無色界」をさらに四つに分けた頂点を「有頂天」という。そこから、最高点に上り詰めたような気持ちを表す言葉となった。
=編集後記=
 うそだ〜、うそも方便・・・通じない、有頂天も逆ギレの元。   =了=



2008.6.20 発行(149)

=暮らしのなかの仏教用語(その1)=
仏さまの花・・・ ハス
泥水からすっくと茎を伸ばし、夏の朝早く色鮮やかな大輪の花を咲かせる様子は、古代のインドの人々にとっても感動的だったのでしょう。仏教以前から、命を生み出すものの象徴とされ、やがては仏さまがそこから現れる花、浄土に咲く花として考えられるようになりました。それで仏さまは蓮華座に座り、観音さまは手にハス(蓮)のつぼみを持っているのです。そう思って食べればレンコン(蓮根)もより滋養が増すかも。
愛 愛嬌 
「男は度胸、女は愛嬌」というように、にこやかでかわいらしい様を指すが、仏教用語では「愛敬」と書き「あいぎょう」と読む。菩薩のような慈悲にあふれ、誰もが敬い愛したくなるような表情が本来の意味だ。

阿弥陀くじ
もともとは、くじを引くとき、人数分の線を放射状に書いて、その先に当たりとか、何々とか書いておき、上から紙などをかぶせて隠しておいたもの。放射状の線を引いた形が阿弥陀仏の光背に似ていたから。帽子を「阿弥陀にかぶる」というのも、笠などを後ろに傾けてかぶると、光背のように見えたから。

=編集後記=
 仏教が日本に伝わってから1400年以上。お葬式のときぐらいしか仏教に縁がないという人でも、知らず知らずのうちに仏教から生まれた言葉を使っています。
今号では「愛嬌」と「阿弥陀くじ」を使ったことがありますよね。次号に続く! =了=



2008.6.19 発行(148)

 = 三内丸山(国指定特別史跡)で変わった「縄文のイメージ10」 =
 平成6年、発掘その規模の大きさ、出土品の量と種類の豊富さ、そして1500年の長期にわたる遺跡であることから、大きく、多く、長いと形容される三内丸山遺跡(青森県)。
「出土した資料をすべて分析するには、まだ100年はかかる」という研究者もいるとも言われている。しかし、すでにあがっている成果の中には、旧来の縄文人の常識を覆えすものも多い。この巨大遺跡は縄文のイメージをどう変えたのか。
三内丸山が生み出した新たな縄文のイメージ10は次のとおり。
1.1500年にわたっていとなまれた、最大500人規模の大集落。
縄文人が移動生活のみでなく、ムラを作って「定住」していたことは、以前から明らかになっていたが、これほど長期にわたる集落跡が広範囲に発掘されたのは初めてだった。
2.狩猟・採集のみではなく、食料の生産も始まっていた。
人口的な広いクリ林の管理など、農耕社会へのきざしがあった。
3.自然環境に手を加えることを知っていた。
食料生産の可能性のほか、堤防と見られる遺構など、「あるがままの自然」に暮らすのではなく、みずから住環境を整えていた。

   

4.安定的に、さまざまな食料を得ていた。
蛋白源はシカ、イノシシなどの大型獣ばかりではなく、ノウサギやムササビ、カモ、魚類ではサメやブリの骨が多く出土。植物資源もクリ、クルミ、ブドウ、エゾニワトコなど、多彩だった。
5.「墓地」があった。
  集落内に、居住空間とは別に、埋葬のための区画があったことから、「死」を特別なことと意識していたことが伺える。
6.多様な「工芸品」を扱っていた。
木製品や骨製品、ヒスイの玉や黒曜石の石匙(いしさじ)、漆による加工品、イグサ製「縄文ポセッエト」のような繊維製品など、これほど多彩な品々がひとつの集落から出土することは珍しい。
7.海路を使った広範囲の交易。
  北海道産の黒曜石や新潟産のヒスイが出土しているほか、舟の櫂らしい木製品も見つかっている。
8.「交易品」のバリエーションも広がった。
  従来いわれていたヒスイやアスファルト、黒曜石などの資源のほか、出土する土器・土偶の量が多すぎることから、こうした生産物や食料も交易の対象だったのではという見方も出始めている。
9.「権力」や「階層」が存在した可能性。
  巨大な建造物や、埋葬の仕方に「ランク」があることから、「平等社会」ではなく、「階層社会」だったという見方もある。
10.「縄文」といえば「三内丸山」のイメージが定着した。
  縄文人=原始人というイメージを払拭し、北日本の古代文化として、佐賀県の弥生遺跡「吉野ヶ里」と並んで、研究者以外の一般の人々の関心を、考古学に引きつけた。
 
  

=編集後記=
 縄文人は自然に支配されるだけの「原始的な存在」ではなく、みずから自然に手を加え
改造する存在であったということもできる。クリの栽培、広い交易、「都市型」寄生虫
階層社会・・・巨大遺跡が提供してくれたデータにより縄文のイメージが変わった。
                               =了=


2008.6.18 発行(147)

 「運」の強い人間とは、言い換えれば
              「勘」のよい人間のこと。


運は、科学で説明できないけど、なんとなく、あるような気がする。
勘もまた、そんな説明はできないけど、当たっている時がある。
説明できないものが、説明できないものに通じてる。
なんとなく、そういうことなら、そうかもなっていう気がします。
いろんな人の判断や行動が重なって、自分に、いい風が吹いてくる。
時には、悪い風もありえる…
この人は、こんな性格で、今日はこんな気分だろうから、こういうふうにするだろう。
そういう予想は、経験からすることもできるけど、経験だけで分かるものでもない。性格はある程度決まっていても、その日その日の気分は変わってくる。気分が同じでも、何をするかまでは決まっていない。

  
       一石三尊仏と六体地蔵(森共同墓地)

そして、そんな気分の違う人がそれぞれ集まって、いろんな結果が生じる。
そんな結果を、自分の得にするために、勘が必要になってくる。
けれど、その勘がいつも当たるとは限らない。とは言っても、経験やデータが少ない時ほど、勘がなくてはならない。
勘を試して、運を試して、人は強くなっていくのです。どちらも試さなければ、どうにもならない。  
=編集後記=
 今日の一言集より、文と写真は関係ありません。わかっているようでわかってない自分がここにいる。                       =了=



2008.6.17 発行(146)

 =文化財保護法(ぶんかざいほごほう)=
 昭和25年(1950年)5月30日法律第214号として制定された、日本における文化財を保存し、活用し、国民の文化的向上を目的とする法律である。
制定の契機
 この法律制定の契機になったのは、昭和24年(1949年)1月26日の法隆寺(奈良県生駒郡斑鳩町)の金堂の火災による炎上に伴って、建物とともに法隆寺金堂壁画が焼損したという事件である。この事件は、全国に衝撃を与え、文化財保護体制の整備を要望する世論の高まりとなり、文化財の保護についての総合的な法律として、議員立法により制定された。この火災が起こった1月26日は文化財防火デーとして定められ、文化庁は、毎年防火事業など災害から文化財を守るための訓練などを行うよう自治体等に呼びかけている。

  

法律の概要
 有形、無形の文化財を分類し、その重要性を考慮して、国の場合は文部科学大臣または文化庁長官、都道府県の場合は都道府県知事、市町村の場合は市町村長による指定、選択、選定、認定あるいは登録により、文化財の保護のための経費の一部を公費で負担することができる制度を実現している。
施行期日
 文化財保護法の施行期日を定める政令(昭和25年政令第276号)によって、昭和25年(1950年)8月29日に施行された。
=編集後記= 今回は埋蔵文化財についての図をつけておきました。    =了=



2008.6.16 発行(145)

 =一番古い男性器の呼称「ふなど」=
女性器で一番古い言い方は、前回No143号=箸墓の由来=で、【ほと】だけど、それじゃ男性器の一番古い言い方はなんだと思う。
ウォーキングの後、喫茶にてモーニング・・・たまたま。
スポーツ新聞に目を通していたらグラビアアイドルのとなりに次の記事があった。
内容はタイトルが一番古い男性器の呼称「ふなど」とありました。
古事記を読んでも、(ほと)は頻繁に出てくるけども・・・」古事記から(ほと)を拾ってみたら、全部で9ヵ所にあった。
ついでに【まぐあう】は15ヶ所【はらます】【はらませる】は11ヵ所」。
それで、CHINKOはあったのか?
「古事記の最初の方に、イザナギが黄泉(よみ)の国から逃げ帰ってくるくだりがあるだろう」イザナミに追っかけられて。で、黄泉の国の穢れを落とそうと、禊(みそぎ)をする。そのとき、イザナギは持っていた杖をほうり投げる。
その杖がツキタツフナド神になったんだろう。それそれ・・・。
<ふなど>が、一番古い男性器の呼称じゃないかと。
頭にツキタツがあるから、勃起したCHINKOか。静脈の浮上がった。
<ふなど>は、やがて、【くなど】にもなる。
それで、どう解釈すりゃいいんだ。<と>は、性器を表している。
フナは塞ぐとするのが一般的だ。
確かにCHINKOは穴を塞ぐもんな。それじゃ、くなは?
古語のくなはつなぐの意味がある。
もう一つは、<来るな>、つまり悪霊は来るなってことになり、道祖神信仰と結びついていく。集落の入口にぶっ立てて、悪霊の侵入を塞ぐ。
最近ゲットした知識なんだけど、<道祖>と書いて<ふなど>と読ませるケースもある。
一時だが孝謙天皇の皇太子になった道祖王は、<フナドノオオキミ>と読ませている。
                       2008.6.6サンケイスポツより

市内、大字森に船戸(ふなと)と呼ばれている地名があるので紹介します。
船 戸(ふなと)
 岩船小学校の東側の道を北へ行くと府道久御山線と交差する。
この交差点の下を大知川が流れている。「船戸」は、川や海岸での渡し場を意味するのと、ほかに船戸の神、すなわち道祖神のことをいうのとがある。
森の船戸は渡し場ではなく、道祖神のことである。この南北の筋は地蔵筋に当たっている。
村から出る旅人の安全を祈願した。また、村に残った家族の者が旅立った人が無事帰ってきますようにと、あるいは日頃から無病息災、家内安全を祈ったであろう。

   

         船戸におられた地蔵菩薩立像
            (現在は須弥寺の地蔵堂で祀られている)

 大知川という川があるところから、特に盆の供養や精霊流しをここでしたものと考えられる。遠い昔の、ほのぼのとした習わしを思い起こさせる地名である。

=編集後記=
 船戸はクナトから転じたもの?クナトは「来な」と「門」をあわせたもので、悪いものが入ってくることを防ぐ門の役目を持つものを指す。            =了=


2008.6.14 発行(144)

 =今日の一言集より=
 過去の思い出に浸ったり、将来を待ち焦がれたりするのは心地よいことかもしれませんが、今を生きることの代わりにはなりません。

他人をうらやましがって、他人の人生を生きようとすること、他人にあれこれ言うだけで、自分の人生を忘れちゃっていること。
そういうことも、過去や未来を生きようとしていることに似ている気がします。自分の今の人生から目をそらしてくれるものは、数限りなくある。
いったん、それらと付き合ってしまえば、自分の「今」を忘れさせてくれる。忘れたくなるような時があってもおかしくはないが、忘れれば解決されることだけでもない。

   
             天野川古代条里制一条通り(私市)

ちゃんと「今」に戻ってきて、生きることです。
それが、本当の未来のため。人間っていうのは、ふと考えたときに、あれ、これって、今やんなきゃいけないことかなぁ、なんて感じることがあります。言われるがままにやっていたり、目の前にあったから手をつけていただけだったり、時には無意識のうちに逃げていたり…
自分がイヤにならない方法で、「今」に戻りましょう。
戻りたくない気持ちが長引くのは、もっとダメになりますからね。

=編集後記=
 今日の一言集より、文と写真は関係ありません。わかっているようでわかってない自分がここにいる。                       =了=



2008.6.13 発行(143)

=箸墓の由来=
 日本書記第五巻、崇神天皇(第十代)紀に、この箸墓の被葬者は倭迹迹日百襲姫命(やまとととびももそひめのみこと)であると記されている。
姫の事績は、古事記には出てこないが、日本書記によると孝霊天皇の皇女ということになっている。倭は大和と同じ意味だが、迹迹日というのは意見が分かれるが、鳥飛(ととび)び、つまり魂の飛昇するさまを鳥にたとえたものというのが有力で、百襲は百十(ももそ)だろうという。しかし襲(そ)は衣(そ)かも知れず、百の衣裳と解した方が女神にふさわしいかもしれない。
古代の王たちは、神を祀り神のお告げをきくことの出来る巫女王と、実際に政治を掌る男子王との一組によって成り立っていたものと思われる。
これは魏志の倭人の条に記された倭人の女王国、邪馬台国の巫女卑弥呼が、もっぱら神のお告げを伝えるだけで決して民衆の前に姿を現したことがなく、男弟を用いて実務に当たらせていた事実とも符合する。
次に日本書記は、こんな物語を伝えている。
倭迹迹日百襲姫命は、大物主神の妻となった。ところがこの神は、いつも昼間は姿を現したことがなく、夜になるとやってくる。そこで姫は夫に向かって、しみじみと訴えた。「あなたはいつも夜いらっしゃるので、昼の光でお顔をとくと拝見したことがございません。どうか一度で結構ですから、朝までいらっしゃって、私に、そのうるわしいお姿をみせてくださいませんか・・・」すると大物主神は、よしよしとうなずいた。「無理もない。たしかにそのとおりだ。では、お前の櫛を入れておく櫛司(くしげ)の箱に入っていることにしよう。

   

 ただし私の姿を見て驚いてはいけないよ」「いいえ、びっくりなどするものですか。大切な方ですもの・・・」しかし姫は内心怪しんだ。あんな小さな櫛箱に入っているなんて、この人はきっとからかっているのだわ。そう思ったけれど、念のため翌朝、櫛箱をあらためてみることにした。こんな小さな箱の中にどうしてあの人が入れるものですか、そう思いつつ蓋をとるなり、姫はあッ!と叫んだ。なんと箱の中には、きれいな色をした蛇が入っていたではないか。
その長さといい太さといい、ちょうど下着につける紐そっくりだが、あまりのことに姫は叫び声を上げてしまった。いつもの美青年の姿となった大物主神はその妻百襲姫に言った。
「汝は、忍耐心もなく叫んで、私に恥をかかせた。その報いを覚悟しておれよ」
神がいったん口にした以上、前言を覆すことはできないものである。大物主神は、雲を踏んで大空へ帰ってしまった。なんということをしてしまったのだろう。姫はがっかりしてその場に坐り込もうとした。
すると箸が女陰(ほと)に突き刺さって、とうとう彼女は死んでしまった。
そこで亡骸を大市(奈良市の北)の地に葬った。時の人は、この墓を箸墓と呼ぶようになった。この墓を築く時、昼は人が作り、夜は神が手伝った。二上山の北にある大坂山の石を運んできて葺いた。そのため、山から墓までずらりと人が並んで、手渡しにして石を運んだと伝えられている。

 大坂に 継ぎ登れる 石群(いしむら)を
      手(て)逓伝(ごし)に越さば 越しかてむかも

 大坂山を上から下まで埋めた石を手渡しで果たして運び切れるだろうかというこの歌は、当時の民衆の、なんでも人力でやってのけた自信の程と労働の辛さを物語っている。
=編集後記=
 ここに出てくる「ホト」は女性器で一番古い言い方。古事記の中に9ヶ所出てくる。
いろんな伝承の中から拾ってみたものを紹介していきます。それじゃ男性性器の一番古い言い方?・・・追って                       =了=


2008.6.12 発行(142)

 =何らかの理由で移座された仏たち=
 「神宮寺、宮の下の阿弥陀石仏が村中へ」
 石仏調査を始めた頃(昭和53年)、ここ神宮寺の宮の下にある阿弥陀さんに連れて行ってもらい写真を撮っている。
それから数年後、何度となく訪れたが見つけることが出来ず、あきらめ半分、今日に至った。
昨日、古文化同好会の仲間とともに「山の根の道を歩く」の下調べを行った。
メンバーは中角・村田・高尾・大野・平田の5名で倉治グランド(旧交野中学校)から出発し、神宮寺の村へ入った「塞の神」のところで、宮の下の阿弥陀さんはどの辺りなのかと聞かれ、皆で行ってみたが見つけることができませんでした。下草がほこり、見つけにくいため冬季に再度調査しようということで現地を後にした。私は一足先にその場を離れていた。
帰る途中、農作業しておられた女性の方に聞くと、このあたりにあった石仏なら村中の厚主宅の前におられるとのこと。(一同集結)
 
  
               村中の阿弥陀さん
 つきあたりの道が「山の根の道」、宮の下は山裾の右側、祠の家が厚主宅
 

  

  

 現在、神宮寺の村中の祠内で祀られている、同一阿弥陀さんであることがわかった。

=編集後記=
 石仏を愛するということと、石仏を研究するということは、そんなに違うものではない。
ただ石仏という存在に対して、やや受で接する場合は「愛好的」といえるし、やや攻撃的に接する場合を「研究的」といって分けることはできるかもしれない。今日の場合は「愛好的」・「研究的」の両方とも言え、接し方が深いか浅いかであって、皆の今日の思いが深かったことにつきる。
こうして仏の意志とは関係なく何かの理由で場所を移され今もなお人びとの暮らしの中で生き私たちを見守って下さる仏様。
まだ、まだ行方不明になっておられる仏様が市内にはおられます。接し方が深いか、浅いかによって再び私たちの前に、お姿をあらわして下さることを念じ・・・。  =了=



2008.6.11 発行(141)

 =和名抄について=
和名類聚抄(わみょうるいじゅしょう)は、平安時代中期に作られた辞書である。承平年間 (931年 - 938年) 、勤子内親王の求めに応じて源順(みなもとのしたごう)が編纂した。
中国の分類辞典『爾雅』の影響を受けている。名詞をまず漢語で類聚し、意味により分類して項目立て、万葉仮名で日本語に対応する名詞の読み(和名・倭名)をつけた上で、漢籍(字書・韻書・博物書)を出典として多数引用しながら説明を加える体裁をとる。今日の国語辞典の他、漢和辞典や百科事典の要素を多分に含んでいるのが特徴。
当時から漢語の和訓を知るために重宝され、江戸時代の国学発生以降、平安時代以前の語彙・語音を知る資料として、また社会・風俗・制度などを知る史料として国文学・日本語学・日本史の世界で重要視されている書物である。
和名類聚抄は「倭名類聚鈔」「倭名類聚抄」とも書かれ、その表記は写本によって一定してしない。一般的に「和名抄」「倭名鈔」「倭名抄」と略称される。
巻数は十巻または二十巻で、その内容に大きく異同があるため「十巻本」「二十巻本」として区別され、それぞれの系統の写本が存在する。
狩谷エキ斎は、十巻本を底本としている。また、国語学者の亀田次郎は、二十巻本は後人が増補したものとしている。
なお二十巻本は古代律令制における行政区画である国・郡・郷の名称を網羅しており、この点でも基本史料となっている。
[例] 大和国葛下郡神戸郷・山直郷・高額郷・加美郷・蓼田郷・品治(保無智)郷・當麻(多以末)郷
私市(きさいち)
 交野市南東部の私市の山間部には、本堂の後ろに獅子が吼える形の巨岩がある獅子窟(ししくつ)寺があり、その南には巨石をご神体とする磐船神社があります。
 この「きさいち」は、マオリ語の
 「キ・タイ・チ」、KI-TAI-TI(ki=to the place,at,upon;tai=wave,violence,rage;ti=throw,cast)、「(淀川の洪水時に)波が打ち寄せた(場所)」 の転訛と解します。

交野(かたの)市

交野市 は大阪府北東部にあり、枚方丘陵と生駒山地にまたがり、淀川の支流天野川上流に位置しています。縄文・弥生時代の遺跡が多く存在します。平安時代以降は皇室の狩猟地となり、とくに桓武天皇がしばしば鷹狩をおこなった場所で、交野禁野が設定され、歌枕の地となっています。

この「かたの」は、古代以来の郡名で、(1) 「カタ(潟)・ノ(野)」の意、
「カタ(片)・ノ(野)」で片方が山や岡、片方が原野の地の意とする説があります。
 この「カタノ」は、マオリ語の

「カタ・(ン)ガウ」、KATA-NGAU(kata=opening of shellfish;ngau=bite,hurt,attack)、「浸食されている・貝が口を開けているような地形の場所」(「(ン)ガウ」のNG音がN音に、AU音がO音に変化して「ノ」となった) の転訛と解します。
([ここでは『和名抄』所載の旧国名、旧郡名のほか、その地域の主たる古い地名などを選び、原則としてマオリ語により(ハワイ語による場合はその旨注記します)解説し、その他はまたの機会に譲ることとします。] )
 ただ「交野」という漢字の当て方は、比較的新しい使い方のように思われ「交」という字から戦場を心配する必要はないと思う。ちなみに「かたの」には加多乃・肩野・片野・片埜という表記もある。
 大阪京都間を走る京阪電車の牧野駅を山側に10分程度歩くと「片埜神社」がある。だから「かたの」という呼び名はかなり古くからあったであろう。
 片埜神社は延喜式の古社で本殿は桃山時代に豊臣秀頼が造営しているが、戦国時代に幾度か戦火で灰塵に帰していることから戦場とは全く無縁とも言い難いが・・・。

 
 
片方に開けたまち:私部:官田から
=編集後記=
 交野の名称は、和名抄に「加多乃」と読みとあった。それで和名抄について調べてみました。                    =了=


2008.6.10 発行(140)

 =神話のもう一つ、神代篇に登場するもっとも魅力的な神スサノヲ=
死んだイザナミを迎えに黄泉の国に行ったイザナキが、イザナミの腐乱死体を見て畏れ逃げ帰った後に体を清めて生み成したのが、アマテラス、ツクヨミ、スサノヲという三柱の貴い神であった。

 

 そして、アマテラスは天上の高天の原を、ツクヨミは夜の支配する世界を統治することになるが、スサノヲは父から命じられた海原の統治を拒否して追放され、姉アマテラスのいる高天の原に昇り、正統の側の権化であるアマテラスと対立して乱暴を働いたために、高天の原からも追放されてふたたび地上に降りてくる。
そこから、よく知られたヤマタノヲロチ退治へと展開する。
ヲロチ退治神話の主人公スサノヲは、神がみから楽園追放を命じられて出雲へと降りる途中でオホゲツヒメという食物の女神を殺してしまうような、横溢する力を抑えきれない凶暴さをもっている。
そのスサノヲにクシナダヒメは救われ、二人の結婚によって地上には新たな秩序がもたらされる。一方、怪物ヲロチは肥の河(島根県の斐伊川)を象徴する自然神として登場する。
図式的にいえば、荒れ狂う自然を象徴するヲロチに対して、スサノヲは文化を象徴する神なのである。混沌に対する秩序と言い換えてもよい。たとえば、アシナヅチに問われたスサノヲが自らをアマテラスの弟だと名乗るのは、スサノヲが秩序化された世界(高天の原)から来訪した高貴な神であることを明かすためだ。
自然の力とは別の、もうひとつの力=文化をもつ神によって、地上世界は、「今」につながる豊かな生活を手に入れることができたのだと、ヲロチ退治神話は語っている。

 

それゆえに、稲作をはじめ五穀の起源はスサノヲによって語られることになったのである。
歴史書としての古事記が描こうとしたはずの、天皇家の血筋や支配の正統性を主張するための枠組みは、語りの論理の前では十分に機能していない。
古事記は、文字の論理と語りの論理とがせめぎ合うただ中に置かれた作品だったということが、神代篇の語り方をみるとよくわかるのである。
    口語訳「古事記」(完全版) 訳・注釈 三浦佑之 
=編集後=
 ヤマタノヲロチ伝説は荒ぶる神スサノヲの出雲での嫁取り物語? =了=

  



2008.6.9 発行(139)


=神話とは=

 人と、大地やそれをとり囲む異界や自然、あるいは神も魔物も含めた生きるものすべてとの関係を、始原の時にさかのぼって説明するものだ。

それを語ることによって、人が今ここに生きていることを保証し、限りない未来をも約束することで、共同体や国家を揺るぎなく存在させる。

神話とは、古代の人びとにとって、法律であり道徳であり歴史であり哲学であった。
だからこそ、人が人であるために神話は語り継がれた。

神代篇の語り出しの部分を例にとると、天と地とが初めてその姿を見せた時、高天の原にはアメノミナカヌシ・タカミムスヒ・カムムスヒという三神が出現し、「独り神」のままに姿を隠していった。

一方、大地は水に浮いた脂のような、漂うクラゲのような混沌とした姿としてあり、そこに葦の芽のように萌え出したのが「立派な葦の芽の男神(ウマシアシカビヒコヂ)」であった。泥の中から芽吹く葦の芽と重ねられて、最初のいのちが言葉と像をもったのである。

この神もまた高天の原に生じた神々と同様に姿を隠してしまうが、一度あらわれた生命の兆しは受け継がれ、次々に神を生じさせ、独り神から配偶神をもつ神となり、ついにはイザナキ・イザナミという兄弟神が誕生する。そして二神は、天空に浮かぶ天の浮橋に立ち、大地以前のドロドロと漂う地表をかき回してオノゴロ島を作り、その島に降り立って結婚し、骨のないヒルコを生むという失敗を経たのちに、豊かな大地や島を生み、風や山や水や霧や火など、あらゆる自然を神として生み成した。

そのように語られることによって、地上世界はたしかに誕生し、あらゆる神がみに守られた豊かな大地として人びとの生活をはぐくむ場所となる。
人間もまた、その豊かな大地から萌え出した「草」として誕生したと古事記は語っている。

人は「青人草(青々とした人である草)」と呼ばれる草だから、冬には枯れて死ぬが、春になると大地から芽吹く草と同じく、人は新しい生命を生み継いでゆくことができる。

人間の生と死が循環する草として認識されることで、人が地上に生きることの揺るぎなさを確信する、それが神話を語ることの意味であった。


=編集後記=
 地上に降りた男女の神が織りなす日本創世記・・・国生みに隠された古代の日本の思想= 了 = 
   



2008.6.7 発行(138)

 =長屋王家・木簡による日常業務=
 王家では、毎日の仕事に木簡を伝票として使った。
朝夕の食事。人の呼び出し。物を届ける。給料(米)の支払い。使用人の出勤調べ。
地方から届く米や塩、野菜などの確認など。おどろくほど細かいことまで木簡を使っている。

長屋王家の伝票木簡の読み方
〔例〕
(表)○内親王御所進米一升
    @      A B
(裏)○受  小長谷吉備
       C      書史
       十月十四日  E
       D
(○が孔があけられていることを示す)
@食料をもらう人(動物の場合も)
A食料品名(米が普通)
B支給量(当時の米一升は今の四合、約600グラム)
C受取人(本人の場合も)
D支給日付
E支出責任者
 支給の控えにはこの@〜Eが書かれるのが普通で、@からここにだれが住んでいたか、どんな人々が働いていたかなど、邸内の様子が具体的にわかる。
端に孔をあけ、ひもを通して束ねて保管したらしい。

     

役所なみの家政機関
 王家の内外には二十あまりの事務所(家令所・務所・司)があり、国が派遣した役人が働いた。ここでは、日々の食事、鶴や猿、犬の世話、長屋王が持つ農園の耕作や収穫物の管理、たくさんの職人の監督や材料の手配など、あらゆる仕事を取りしきった。
役人の下には、国の費用で雇った400人近い使用人がいた。

  

=編集後記=
 多量の木簡群及び発掘資料は、今後の奈良時代史を書き換えるような画期的資料である。
わが交野市内にも木簡をはじめとする埋蔵遺物が眠っている?    =了=

 
2008.6.6 発行(137)

 =物部氏の伝承する神話=

  
  
 とあって、物部氏の祖神である饒速日尊は、はじめ河内国の哮峰に天から降臨したと記している。それは物部氏の祖先が、この地へ渡来したことを語ったものである。
そしてそこから大和国の鳥見へ移動したと伝えている。
この哮峰は『河内志』に北河内郡讃良郡(四条畷市)の「田原村にあり、今石船山と号す。饒速日尊降臨の地」とみえる。天平(731)年の作という『住吉大社神代記』では、それを饒速日山と記しており、そうした名でも呼ばれたようである。
しかし、ここは河内国とはいっても、大和国との境界にあり、そこからわずか行くと大和である。古く大阪湾はいまよりも大きな入江で、上町台地の北から内陸に深く切れて湾入していた。

  

             図:「古代物部氏と『先代旧事本紀』から

生駒山麓の弥生遺跡を線で結んでみると、恩智川の以東にしかみつからない。以降、東大阪市の瓜生堂遺跡・高井田遺跡が発掘されたが、淀川の氾濫をたびたびうけており、中州のように突き出ていたようである。したがって、生駒側は山に接して、平坦地はまことに乏しい地勢であった。
そこで当時の地勢から判断すると、いまの枚方市のあたりまで海が湾入していたと思われる。神武天皇は草香邑の白肩之津に着いたことになっているが、シラカタ・ヒラカタ(枚方)は音韻転訛の法則にのっている。
いま草香(日下)は中河内郡孔舎衙村日下として名を残しているが、古くは生駒山の西北部の平坦地の総称であったようである。
そこで大阪湾から入った物部氏が、集団として居住するための広い平坦地としては、生駒山の西北部、いまの北河内郡交野町(交野市)のあたりしかない。
その交野市の中央を、生駒山からの天野川が流れているが、緩い坂を登りつめてその上流に饒速日命が降臨したという磐船岩がある。
大きな岩は高さ18b、そうした巨大な岩石が川底を埋めるように累々と重なり、古代人が降臨地と伝えるにふさわしい神秘的な場所である。
祖神の降臨地を川上の巨岩にもとめるのは、心理的にも当然なことであろう。
こうした地理的条件から判断して、物部氏の祖先が最初にたどりついて居住したところは、天野川をはさむ交野市の平坦地帯であったと思われるし、磐船山降臨の神話もみとめられるものである。しかし海に近いことは、敵を防禦するには不利であった。大和盆地が長く都となったのも、また吉備国の主都が山を隔てた内陸にあったのもみな同じ理由からである。そのため主力は、峠を越えて大和側に入ったのであろう。
天野川に沿う磐船街道(R168号)は、小さな峠を越えて大和へ通じる。しかも、ここは高峰の生駒の山並みが切れて、もっとも楽に大和へ入る道でもあった。
大和に入ると、すぐ東側が富雄川の流域である。その川がつくる細長い谷間を下りてゆくと平野が広がる。『旧事本紀』にも、「すなわち大倭国鳥見の白庭山に遷ります」とみえるが、それは『和名抄』の添下郡鳥見郷である。鳥見の地への移動はごく自然なものである。
物部氏の伝承は、そのまま認めるのに不都合なものではない。
          神々と天皇の間 =大和朝廷成立の前=    鳥越憲三郎著

=編集後記=
 昭和45年5月第一印刷の書物で故・奥野平次氏が読まれたもので、私が平成17年転落事故で入院中に読んだもの。奥野平次の本には、購入月日(S45.9.16)とその時々の出来事が書いてある。この本には「交野のことが書いてある」と記してあった。
今日、古文化の会合でニギハヤヒの足跡をと白庭台→鳥見方面に下調べに行くことが決まりました。                      =次号に続く=


  


2008.6.5 発行(136)

 =氷室物語=
 長屋王家は、都祁(平城京の南東約10`の高原。奈良県天理市・都祁村)に氷の貯蔵庫(氷室)を持っていた。
長屋王や吉備内親王は、当時は貴重品だった氷を、自由に使うことができた。「今年もこれでやっと夏の氷の準備ができた。長屋王さまも吉備内親王さまもきっと満足していただけるに違いない」火三田次(ひのみたすき)はほっと胸をなで下ろす。去年作り直した貯蔵庫(氷室)も切り出した氷でいっぱいになった。
「あとは夏の来るのを待つだけだ。そうだ、早速このことを報告しなくては!」火三田次は手近の大きな板切れに書き始めた・・・・

下記の右側の木簡
 都祁の氷貯蔵庫(氷室)二箇所、深さはそれぞれ約3b、周囲の長さは約18b。
うち一箇所は厚さ約9aの氷用、もう一箇所は厚さ約7.5aの氷用。氷にかぶせた草千束(一箇所につき五百束)、その草を刈った人夫が二十人(1人あたり五十束)、その給料が麻布約11.7b分(幅約70aのもの)、食料が米約24`・塩約1.5`・・・・
和銅五(712)年二月一日、火三田次より。
こうして冬の間に蓄えた氷は、夏になると毎日のように馬に積んで都の長屋王邸に送られた。その時の送り状の一例が次の木簡。
〔表〕進上氷一駄丁阿倍色麻呂
〔裏〕九月十六日火三田次
馬一頭分の氷をお送りします。人夫は阿倍色麻呂(あべしかまろ)です。九月十六日
火三田次より。

下記の左側の木簡
 これは和銅四(711)年のもの。狛多須万呂(こまのたすまろ)のようないわば運送業者に運賃を払って運ばせる場合もあったが、火三田次や彼の同僚の他田臣万呂(おさだのおみまろ)が直接自分で運ぶこともあったようだ。
秋風が立つ日、冬の間に蓄えた氷を全部送り届けてほっとしたのも束の間、火三田次には氷室の作り直し作業が待ちかまえていた。初氷がはるのもそう遠いことではないだろう。


       
        長屋王「光と影」展 長屋親王の発見より

=編集後記=
わがまちにも氷室という地名が残っている。
 傍示村の東に蓮華寺がある。その南側正面に独立した丘(関電の鉄塔)があり、森になっている。ここを「氷室」と呼んでいる。
氷室は冬に氷を作って、その氷を夏まで貯蔵しておくための室である。
傍示は海抜250mぐらいある。冬は山の盆地と谷を吹き抜ける風で、相当寒く、冷えるので、氷を作って保存するのには適しているといえよう。村の人はかいがけ道を上がった所の田を「ひむろ」と言っている。多分、この田で氷を作ったのであろう。それを氷室に運び、深い穴をほって、わらを敷き、氷を包んで、夏までもたせたと思う。当時、夏の氷といえば相当の貴重品であり、高く売れたと思われる。ちなみに蓮華寺を氷室山という。



2008.6.4 発行(135)

 =長屋王家と木簡=
 木簡は板に字を書いた木札。
紙が貴重だった奈良時代、ふだんの事務や連絡には木簡を用いた。長屋王邸からは5万点近い木簡が見つかっており、これを長屋王家木簡と呼ぶ。
これらは、王の事務所で書いたもの、奈良県周辺にあった王や吉備内親王の農園に派遣した役人が現地で書いた品物の送り状、全国各地から都へ運ぶ品物につけた荷札もある。
この木簡によって、邸宅の毎日の暮らし、それをささえた農村や漁村との結びつき、村から働きにきた農民の勤務状態などがハッキリした。これは、記録が少ない奈良時代の生活を知る上に貴重である。たくさんの木簡が語るところは、一貴族の暮らしを通してみた「奈良時代」そのものと言ってよい。
王家木簡の発見
 1988年8月26日、長屋王家木簡は、偶然の機会に見つかった。浅い溝にぎっしりと埋まり、その数は約5万点。全国で過去30年間に見つかった木簡に匹敵する数だ。
だれも彼も興奮し、字の鮮やかな木簡を見つけるたびに、大きな歓声を上げた。まさに、宝の山を掘りあてたのだ。          (奈良そごうデパートの予定地調査より)
王邸の日常生活
 長屋王邸には王と吉備、他の夫人やその子供たちも住んでいた。
ここにはたくさんの使用人がおり、一族の身の回りの世話から王の財産管理、さらには、王邸で使う食器や衣服、調度の製作にあたるなど、長屋王家全体が今日の大企業のようなものだった。
優雅な生活
 長屋王の食卓には、志摩(三重県)の海松(みる)や上総(かずさ・千葉県)のアワビ、伊豆(静岡県)の鰹(かつお)など各地の特産品が並び、夏には、都祁の氷室から運んだ氷が暑さを和らげた。王邸では貴族や学者を招き宴会がしばしばあり、時には外国使節を迎えた。鶴が舞う庭を前に詩を詠み、舞いや音楽を楽しむなど、庶民には手が届かない別世界であった。

  長屋王邸の復原模型→ 

荷札木簡
 長屋王邸からは、全国各地から運ばれてきた品物に付けられた木の札が大量に出土した。
これらは王家の収入にあてられた各地からの税の荷札である。その数は30箇国以上に及び、全国の産物が王家の経済を支えていたことがわかる。
 
  
                 荷札の木簡

                   長屋王「光と影」展 長屋親王の発見より

=編集後記=
 発掘調査によって明らかとなった長屋王邸は、一町の四倍を占める破格で、甲子園球場の1.5倍の広さであった。
四町という宅地は京内でも最大級の広さであり、まちその建物配置からも、木簡に「王宮」と記されている通り、単なる住宅を越えた宮殿であろう。次号に続く。   =了=



2008.6.3 発行(134)

 =長屋王=
 長屋王は、日本が古墳時代から奈良時代に移る激動の時代に生きた政治家。
 奈良時代の日本は、先進国の中国・朝鮮から進んだ文化をとりいれ、国作りを進めた。
律令という法律にもとづく政治、新しい平城の都の建設、儀式の整備など。
都の貴族は、中国の詩や芸術にしたしみ、日常生活もそれにまねた。
農村では、水田の区画を改める土地改革(条里制)、新しい牛耕が広がるなど、さまざまの分野に影響をみた。この姿は、ヨーロッパやアメリカの文化がどっと流れこんだ明治維新や、敗戦直後の姿に良く似ている。
長屋王は高市皇子(たけちのみこ)と御名部皇女(みなべひめみこ)の子で、684年(676年説もある)に生まれた。704年、無位から正四位に昇進、その後、宮内・式部省の長官を歴任。718年には大納言となり、国政審議メンバーの一員となる。

  

平城京遷都前後の政界は、藤原不比等を中心に動いていたが、その不比等の死後、王は左大臣にまで昇り、栄耀栄華をきわめた長屋王であるが、突如として彼に悲劇が降りかかってきた。729年の長屋王の変である。長屋王が「左道を学び国家を傾けようとしている」との密告があり、衛府の兵が邸宅を包囲する中、王を始め、妻吉備内親王や王子たちも自害した。この事件は藤原氏の陰謀とされ、変後藤原四子が政権を独占することになる。
長屋王の政治的生涯は以上のとおりだが、『万葉集』に歌を残すなど、彼は文人としても著名であった。漢詩集「懐風藻」には、多くの文人が長屋王の佐保楼に集い、詩を詠んでだ様子が知られ、いわば彼は奈良朝詩壇のパトロンでもあった。
また、王は仏法を厚く信仰し、長屋王願経として二度の写経事業を行い、中国の僧侶に千枚の袈裟を贈り、それが後に鑑真来日の一因になったという話も伝えられている。
                    長屋王「光と影」展 長屋親王の発見より
=編集後記=
 次号は長屋王邸から出土した木簡等を紹介します。         =了=

  
           

   


2008.6.2 発行(133)

 =今日の一言より=
問題が次々に起こり
それを乗り越えていくのが、私たち、いや人間の仕事なんだ。

問題ねぇ、たしかに、次々と起こりますよ。
今度は、俺(私)の番じゃないだろ!みたいに思う人もいるでしょう。
ただ、問題にもいろいろなタイプがあって、自分が大切に思っていることなら、納得して向き合えると思うんです。
それが、そういうことでなく、横から割り込んできたようなものだと、心の準備も足りなくてイライラしてくる。
雑用に追われて目まぐるしい日々になってしまう感じ…
そんな問題にばかり付き合わされているような人を見かけるときもあります。 

 
               桜並木と老人  


人が問題を選んでいるのか、問題が人を選んでいるのか。
どんな問題と出会っているか、っていうことが、その人となりを表している気もします。
だから、それがその人の仕事。
そして、その仕事がその人を育てる。
私も、育てられています。

=編集後記=
確かに問題が!いろんな所で、いろんな場面で、いろんな人たちが問題を起こしている。逆にいろんな問題を提起し、改革・改善が行われている。
それが問題・・・問題を解決していくところに進歩がある。  =了=


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