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よもやま瓦版
(2004年)
今日の話はなんでっか?
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平田語録100号
今日の一言
平田さん
  発行者
  平田政信さん
  瓦版:よもやま便り
      交野市私市4-39-2   平田 政信
☆ 世の中に山とあるような話や、あんなこと、そんなこと、日常のあたりまえのことでも、歳とともに忘れがち、忘れたことを思い出すのが煩わしい、思い出せない今日この頃、チョット書きとめておくことにしました。なにかの参考になればとはじめましたのでよかったら一服にでも……。 
                  
瓦版・TOP 2007.12月号 2008.2月号
瓦版 2008年 1月号 バックナンバー
34 1/31 何らかの理由で移座された仏たち(行方不明) 青山の腰痛地蔵
33 1/30 市内で見かける石造物あれこれ紹介
32 1/29 市内指定文化財紹介= 山添家
31 1/28 市内指定文化財紹介= 北田家住宅
30 1/26 文化財保護法の制定について=交野市の指定・登録文化財
29 1/25 箸墓伝説 時の人、その墓をなづけて、箸墓という
28 1/24 前方後円墳 箸墓古墳
27 1/23 「舟形の埋葬施設」や「舟形光背」は何を意味するのか
26 1/22 早来迎仏 星田薬師寺の早来迎
25 1/21 極楽浄土の主宰は阿弥陀さん 小松寺の阿弥陀如来立像
24 1/19 観音は女性か男性か? 須弥寺の三十三観音菩薩
23 1/17 縄文のともしび 神宮寺式縄文土器(尖底土器)
22 1/16 素朴な石仏 かいがけ地蔵
21 1/15 交野の不動明王 その1  磐船神社の不動明王
20 1/12 交野の写真で見る今昔 京阪電車交野線
19 1/11 郡門(こうど)〜郡津(こうづ)への地名の由来 その2
18 1/10 星田慈光寺の一石十三仏 
17 1/9 じろう : 唐臼地蔵  板碑の二尊仏の凹
16 1/8 何らかの理由で移座された仏たち その4 星田寺の十一面観音
15 1/7 錫杖の頂部に五輪塔  獅子窟寺境内・椿地蔵
14 1/5 五輪塔について 獅子窟寺・王の墓
13 1/4 歳神様が年神様に・・・交野市・倉治に残る 
12 1/3 交野の重文:快慶作・阿弥陀如来立像 傍示の八葉蓮華寺
11 1/2 交野の国宝:獅子窟寺・薬師如来坐像
10 1/1 謹賀新年 十二支による守護神 2008年は子年=千手観音

2008.1.31 発行

何らかの理由で移座された仏たち(行方不明) 

 「青山の腰通地蔵」・・・久御山バイパスを越えると、すぐ右手に小さな池があった。
(青山地区)この池のほとりに4体の石仏がおられた。昔、灌漑用(かんがいよう)のはね木の錘(おもり)にするために、地元の百姓が石仏を二つに割って手頃な目方にしたところ激しい腰痛が起こったという。早速もとに戻しておゆるしを乞うたのは勿論であるが、以来誰いうとなく「腰痛地蔵」の名がついた。腰痛を起こした人たちがお参りすると、よく利いて下さるといった。このことは、村からこの「腰痛地蔵」さんまで歩いてくる距離が適当な運動量ともなっていたのであろう。
でも、いまおられない。
4体の中で一番大きな阿弥陀さん。どっしりと重量感あふれる仏さん、火災にあったのか焼け跡がある。また、光背の上部がえぐられていて(凹)仏さまの頭部にまで達しているのは唐臼の基台に使われたためだろうか。
そのような苦難にも遭遇しながら村人を守ってこられた石仏さん、また宅地開発のあおりで行方不明となっておられます。

   

=編集後記= 行方不明になっておられる仏さん、まだまだおられます。   了


2008.1.30 発行

=市内で見かける石造物あれこれ紹介=
 
 

 もっともっと、あると思われます。これからボチボチ調査をはじめます。



2008.1.29 発行

=市内指定文化財紹介= 
 今回は交野市寺の庄屋 山添家住宅(国指定重要文化財:
 昭和44年6月20日指定)をご案内します。

 指定説明
  山添家住宅は六代前の九左衛門平精が建てたと伝えられており、宝永二年(1705)棟札が発見され、その墨書に平精の名があるので宝永の建立と推定される数少ない建立年次の比較的明らかな遺例の一つである。
この住宅は背面部分の柱間装置に不明な点があるが、四間取りの変形と考えられる平面に「おくざしき」が東側に突き出している。正面側の柱間装置は殆ど明らかで「くちのま」は「げんかん」を兼ねた形と考えられ「ざしき」は半間壁で、片引戸を入れる古式の形式になり、「おくざしき」は縁をつけ雨戸を設けている。また「なんど」と「だいどころ」の境は一間半に三枚の板戸を入れ、非常に開放的である。土間は居室とほぼ同じ広さである。以上の様に、この住宅は古様と新しい手法とが混用され、特色ある手法がみられる。その建立年次を、ほぼ知り得ることともに、民家研究に重要な遺例である。
 


 

 

=編集後記=
今のうちに、各地区に残っている古い民家の写真をとって残しておかなくては。



2008.1.28 発行

 =市内指定文化財紹介= 
 今回は交野市私部の代官屋敷 北田家住宅(国指定重要文化財:
 昭和54年2月3日指定)をご案内します。

 指定建造物の概要

  主  屋  建築年代は定かでないが、宝永5年(1708)から享保19年(1734)の
         間に建てられている。建築当時は茅葺きであったが、寛政9年(1797)
         瓦葺きとなった。
  表  門  長屋門ともいい天保14年(1843)に建てられる。民家としては、日本一
         の長さ(55.8m)を誇る。白壁の長屋に挟まれた門の中に入ると右に
         人見室があり天井には籠が吊り下げられている。
  乾  蔵  最も古い棟札に享保7年(1722)とある。
  北  蔵  天明5年(1785)に建てられる。
  土  塀  表門北方にて折れ曲がり延長95.2mを有し裏門1か所を含む。
         天保15年に建てられた裏門は、片袖形式といって障子雨戸の片側が
         戸袋ではなく壁でふさがれている。
  撥木納屋  切妻造。

沿  革
 北田家は、南北朝時代に南朝方に仕えていた北畠顕家の子孫であり、南朝没落後は帰し、その姓をはばかって、北畠の白を除き北田と称したという。その後、顕家より9代目の好忠の時に私部城主安見直政の重臣となるが、元亀元年(1570)の織田信長による本願寺攻めに参戦した城主直政が大敗し、逃げ帰った私部城内にて病死したために、城は大和の筒井勢により攻められ遂に閉城となった。この時なお残って、最後まで奮戦し下士9人と共に壮烈なる戦死を遂げたのが北田好忠であった。
 その後20年程経って、京都の伯父の家に送られていた嫡子の好孝が私部に戻り現在の所に家邸を構え、田畑を耕し農業を生業として生活を始めたのが、現在の北田家の最初で好孝が中祖の第1世とされている。元和5年(1619)私部村の2/3が旗本畠山修理大夫の知業地となるに及んで第2世好治の代からこの地の庄屋を勤めることとなる。
 そして第8世好祖の(1768〜1824)の代には代官職を担うようになり、以後第10世好剛の代まで続くが、嫡子豊太郎幼弱のため元治元年(1864)この職を同村原田伝兵衛に譲る。
 明治になって、庄屋、年寄役は廃止されたが、それ以後も北田家は私部の名士として多方面で活躍、現在に至っている。  

   

     北田家の表門(長屋門)   

私部の子守歌に北田はんの歌が残っている。
     「いたら見てこい北田の屋敷
            四角四面の良い屋敷」
この歌がうたわれたのは大正の初めのころだろう。
屋敷は約四反(1200坪)ある。
門長屋の南の辻に立って、北からの道を見、西への道をながめると、ここは前方を見通せない遠見(とおみ)遮断(しゃだん)の道である。これは防御的工夫のされた道。この道を山根街道という。

=編集後記=
次号は寺の山添家を紹介します。両家とも一般見学日が決められていますので、
詳しくは、交野市文化財事業団までお問い合わせください。


2008.1.26 発行

    =文化財保護法の制定について=
 第二次世界大戦によって爆撃による消失、さらに戦後の社会的混乱と経済界の混乱の中から、ようやく文化財保護への関心が高まりはじめた折、決定的な事件が起きた。
 昭和24年1月26日の暁け方、わが国最古の木造建築物、法隆寺金堂に火災が発生し、堂内の四壁などに描かれた浄土図などの壁画がほとんど焼損してしまった。
 このかけがえのない国宝を一瞬のうちに失ったことへの反省は世論を湧かせ、これが直接の契機となって、昭和25年「文化財保護法」が制定された。
 1950年施行の文化財保護法は、文化財の保存と活用を図ることを目的とし、文化財の所有者に「可能な限り公開するなどの文化的活用に努めなければならない」と求めている。









2008.1.25 発行
    =箸墓伝説=
 

 倭迹々日百襲姫は奈良盆地を囲む三輪山の神・大物主神の妻となった。しかし、大物主神は夜しかやってくることはなく、昼は姿を見せることがなかった。そこで、姫は昼の明るい光のもとで夫の顔を見たいと言った。すると大物主神は、姿を見ても決しておどろかない、という条件で姿を見せることを承諾した。翌朝、姫が大物主神に言われたまま櫛笥(くしげ)(櫛を入れる箱)を開けると、そこには美しい小さな蛇が入っていた。それを見た姫はおどろいて叫んだ。すると大物主神は、蛇神であることを知らされたことを恥じ、三輪山にのぼってしまった。そして、後悔した姫は後を追うように自らの命を絶ち、その亡きがらは大市(おおいち)(奈良県桜井市の北部)に葬られたという。

その墓こそが、
とあるように箸墓古墳というわけである。さて、このように「日本書紀」に記載があり、宮内庁も倭迹々日百襲姫の墓に相違ないといっているにもかかわらず、この箸墓古墳が卑弥呼の墓であるという説は、古くから説かれていた。昭和十七年に倭迹々日百襲姫は卑弥呼であるとした文献学者の笠井新也氏をはじめ、その後も多くの学者や研究者が説いている。このように、「日本書紀」の記載を否定して、箸墓古墳が卑弥呼の墓だという人がたくさんいるのはなぜなのだろうか?「魏志倭人伝」に墓の大きさを伝える記載がある。そこには「径百餘歩(直径百余歩)」とある。「歩」とは魏の単位であり、約1.5b。したがって、「百餘歩」とは、約1.5×100=150bとなる。箸墓古墳の後円部の直径は156b。箸墓古墳の大きさは「魏志倭人伝」の伝えるところとほぼ一致しているわけである。(歩の長さはまちまち)
       
=編集後記=
「魏志倭人伝」。本名は「三国志魏書東夷伝倭人条」という。
三国誌は3世紀中国で編まれた歴史書。魏(220〜265年)、呉(222〜280年)、蜀(221〜263年)の栄枯盛衰が語られている。
そのうち「魏書(魏志)」の第30巻「東夷伝」中の「倭人」の条、これが魏志倭人伝と呼ばれているのである。「倭人伝」の総文字数は漢字1984字をもって紹介されているのみである。
今回は倭人の条の中から墓の大きさが記されている部分を紹介しておきます。  =了=



2008.1.24 発行
  =前方後円墳=
 古墳時代の前の弥生時代にも塚が出現し、古墳を「土を盛り上げた塚」と定義するなら、弥生時代から古墳はあったといえる。しかし、弥生時代の塚を「墳丘墓」といって区別するのは、その形態が弥生時代から古墳時代にかけて大きく変わるからである。その変化を象徴するのが、奈良県桜井市の箸墓古墳である。弥生時代の墳丘墓にしろ古墳にしろ、これほど大きい墓はなかった。しかも、その墳形は単なる土を盛り上げた塚ではなく、蓬莱山を連想させる壺形に築造されている。その計算されつくした形、規模は、それまでの墳丘墓や古墳とは一線を画するものである。なぜこのような埋葬に関する劇的な変化が生じたのか?それは古代の権力者、首長たちが中国の神仙思想に魅了され、神仙界にあこがれていくなかで、その一人であった卑弥呼が連合国家の女王となったことに起因する。

 鬼道、すなわち神仙思想に通じた卑弥呼は、その死に臨んで神仙界への旅立ちをはかった。その人物が、連合国家の盟主であったことから、かつてない規模の、しかも神仙思想が顕著にあらわれた墓がつくられたのである。それが箸墓古墳であり、前方後円墳時代の幕開けだった。したがって、古墳時代のはじめは前方後円墳時代と言い換えることもできる。

  
               箸墓古墳

=編集後記=  当市森古墳群の中の第一号墳、雷塚古墳も同型の前方後円墳(全長106b)である。昭和56年3月学童の土器発見がきっかけ。       =了=


2008.1.23 発行

=「舟形の埋葬施設」や「舟形光背」は何を意味するのか=

 古代人の海上他界観は、当然のごとく、その埋葬施設である古墳や石造物等にも見ることができる。海上他界観を裏付けるいろいろな遺物が、古墳から出土している。
被葬者の遺骸を納めた棺(木棺)は朽ちはてて見えないが、その周囲には「円礫」という拳大の丸い石が、舟形に積み重ねられている。このような埋葬施設を舟形礫槨という。
舟形礫槨のなかに納められていた木棺は「割竹形木棺」と推定されている。割竹木棺は、古墳時代の前期・中期によく見られる木棺で、文字どおり、竹を割るように丸太を縦半分に切って、その中を刳り抜き、蓋と身にしたものである。木は、船材や建材に用いられている高野槇などが使われた。この木棺の形を「舟形木棺」であると見る説もある。

 石棺にも「舟形石棺」というものがあり、四世紀後半から五世紀にかけて用いられている。また、埴輪にも海上他界観を見ることが出来る。四世紀初頭の古墳である奈良県天理市の東殿塚古墳から出土した円筒埴輪に、三雙の舟の絵が彫られていた。舟には、推進用や操船用の櫂、甲板上の屋形のほか、舳先には鳥がとまっている。鳥は黄泉の国に案内する神聖な動物であり、この舟は葬送のための舟と見られている。

 このような死者と舟の関係で、日本に古くから伝わるものに「太陽の舟」という信仰がある。太陽崇拝の太陽神話の一つである。日本の日神の乗り物は舟であり、しばしば死霊を同乗させて他界に運んでいくと信じられていた。この太陽の舟は、古墳の壁画にも見られます。このように、舟形礫槨にしろ舟形木棺、舟形石棺、埴輪の舟の絵にしろ、死者の埋葬にあたり舟形を意識したということは、当時の人々に海上他界観があったことの証といってよいだろう。死者が舟に乗って、海の彼方にある神仙界へ旅立つという海上他界観は、これらの古墳の埋葬施設によっても、また石造物等からも見ることができる。
 

 ←天理市・柳本   
    黒塚古墳の石室内部
 
大王を運んだ霊柩船
 奈良・巣山古墳 2006.2.23よみうり

=編集後記=
 一切空 すべては起こりすべては消える。
     こだわることは何もない。



2008.1.22 発行

 =早来迎仏=
 仏教では普通、礼拝の対象として仏像をまつるが、仏像を描いた「仏画」も基本的には仏像と同じである。そのほかに、仏やお経の名を書いたものを礼拝する場合がある。
 名号がそれである。誰しも死ぬのはいやである。しかしながら、人間としてこの世に生まれてきた以上いつかは死ななければならい。ふだん死ぬことをなんとも思っていない人もいざ自分の番になってみるとあわてふためく。ただ死を待つだけの人にとって、胸をかきむしるほど切望したいのは、おそらく臨終間際に救いとってくれる神仏の存在であろう。
 そうした要望には、救ってくれる神仏の存在であろう。そうした要望には、救ってくれる神仏があの世で待っていてくれるだけで十分でない。一刻も早く救ってもらいたいというので、浄土教では臨終のときに阿弥陀仏が西方極楽浄土からたくさんの菩薩や聖者を引き連れて雲に乗って迎えにきてくれという信仰が生まれた。すなわち、われわれが病床に伏せて動けなくても、仏がみずからお迎えにきてくださるというのである。
 また、スーパーマンのように急いで臨終の場に駆けつける阿弥陀仏の「早来迎仏」や、気の早いのではすでに往生した人を連れ立って帰路につく「帰り来迎図」さえもつくられた。


  
              星田 薬師寺境内
      向って右側→早来迎  左側→宝瓶三茎蓮

=編集後記=  これほど科学の発達した現在においても、人間の一生には必ず恐ろしい「死」という終点が待っています。その問題を解決しておくひとつの方法が、阿弥陀如来の西方極楽世界に往生させてもらうということであり、残された人生の一日一日を「おかげさま」の心で生きることなのです。         =了=


2008.1.21 発行

=極楽浄土の主宰は阿弥陀さん=  
 阿弥陀如来は、梵名をアミターバまたはアミターユスと言い、それぞれ無量寿と訳されている。西方極楽浄土の教主である。
 歴史的に実在が確認されているわけではないが、経典では、インドの王族の太子として生まれ、世自在王の感化によって出家。法蔵比丘と称して四十八の大願を成就して如来となったと説く。
 そしてそれらの大願のうちには、阿弥陀の名号を称えて念仏する者は死後必ず極楽浄土へ迎えるという「往生願」や、念仏者の臨終の時には自ら多くの菩薩を連れて迎えに行くという「来迎引接願」がある。
 そのため、阿弥陀信仰はわが国でも早く白鳳期頃から見られたが、とくに藤原時代には、末法思想・浄土思想と結びついて盛んになり多くの像が作られた。
 「南無阿弥陀仏」を唱えることを念仏というが、仏教信者でなくても、仏と聞くと念仏という言葉が連想されるのではないだろうか。

    
     星田:小松寺境内  阿弥陀如来立像

 「アミダさん」・・・坂村真民さんの詩より
 空の美しい日は あなたを思います。海の美しい日はあなたを偲びます。
 広い広いおん胸がわたしをそのように思わせるのでしょうか。
 あなたのおん胸がわたしをそのように思わせるのでしょうか。
 あなたのおん前に座っていますと、悩みも苦しみもすべておまかせして、
 やすらかな気持ちになってゆくのです。
 阿弥陀如来さま、母もあなたによって救われました。
 わたしもあなたのお手に導かれてこの世を渡ってゆきたいと思います。                                     =了=



2008.1.19 発行

=観音は女性か男性か?=
 観音像は如来と違い、いわば人間臭い。観音は菩薩だからである。
頭上に宝冠(中に化仏〈その仏の本来の姿=如来〉)、胸や腕や足に飾り物を付けたり(ネックレス、ブレスレット類)、髪はきれいに結い上げる(または垂らす)など華美なのが特徴。こうした姿は出家前の釈迦を表すものといわれ、また多面多臂(十一面観音など)はヒンズー教の神々の姿が影響しているとみられている。
 釈迦は当然男性で、仏像は男性といってよいのだが、本来は男女の性を超越した姿に作られているという。 しかし、弁才天など天部の仏や柔和な温顔の観音などは、やはりヒンズー教の女性神の影響で、女性的な観音像も作られたのだ。


    
          三十三観音菩薩(交野市森:須弥寺)

 三十三身に変化する三十三観音信仰は、西国三十三か所の観音霊場巡礼を生んだ。一番が青岸渡寺(和歌山県)で長谷寺(奈良県・八番)、石山寺(滋賀県・十三番)などを巡り華厳寺(岐阜県)が三十三番。また天台宗では聖観音、十一面観音、千手観音、不空絹索観音、馬頭観音、如意輪観音を総称して六観音と呼ぶ。真言宗では不空絹索観音の代わりに准胝観音を入れた六観音(すべてを含めて七観音ともいう)だ。

=編集後記= 観音とは「音を観る」と書くように、きとおった温かい目で世の中のあるべき姿を明らかに観ることである。



2008.1.17 発行

   縄文のともしび
 人と動物とを分かつものは、火と言葉と衣服である。
 動物はどんなに人類に近いものでも火を使わないし、言葉をもたない。
 着物を着ない。
 私たちは言葉によって考えるし意志や感情を第三者に伝達することができる。 着物によって人間は初めて人間としての生活を営み得るのであって、肉体 隠すことに よって肉体以上の存在になった。
 本能を抑制し、社会秩序を与えたもの衣服の力であるし、やがて男女の別、階級や身分の 別をあらわすに至った。火によって食物を煮たり焼いたりして、柔らかくして食べるように なったために、顎の力がそれほど強くなくてもすむようになり、その部分が退化したために 脳の容積が大きくなり、思考ができるようになった。
 また、野獣がもっとも苦しめられているダニやシラミを克服するために体毛を少なくして、 やがて現在のように部分的に残すだけになったと考えられるが、脱体毛を成し遂げたのは、 衣服の発明によるという結論に達しよう。


      
  

2008.1.16 発行

  

         

  

2008.1.15 発行

  

   
   
   

2008.1.12 発行

  
  

=編集後記=
 昭和30年代の交野の風景写真など、職業写真家くらいしか撮っていなかったでしょう。
個人がカメラなど持てる時代ではなかった。
交野が大きく変わっていったのは昭和40−45年頃。
私がカメラをもったのが昭和50年ごろだったと思います。
でも「移りゆく交野などテーマ」としてはいなかったのが今思うと残念であるし、悔しく思う。いまさら何を言っても過去の風景などは撮れない。
ならば、今これから変貌を遂げていくであろう「交野の原風景」に目を向けていきたい。そして、広く声をかけることによって「うちにこんな古い写真がありまんねん」との協力も引き出して行きたい。
こうして、今回の写真提供に応じて下さった戸川氏に感謝いたします。 =了=


2008.1.11 発行

 
 瓦版No9(2007.12.31)で「お地蔵さんが教えてくれた郡門から郡津」で極楽寺の地蔵さんが教えてくれたこと、実際にはいままで郡門と呼んでいたこと、江戸時代末の文化元年(1804)大坂町奉行の命によって郡津と改めたと市史などに書いてあったことなど書いたが、その後古文化同好会の仲間から郡津のお墓にあると教えてもらった。「瑞塔寺」という寺標塔の右側面に書いてあることのこと早速訪れた。

   

また、文献資料)の中にもありました。
「明遍寺」(交野市教育委員会・交野市文化財事業団)
「平橋大工組文書」(門真市)
河州交野郡郡門村浄土宗明編寺作事ニ付き・・・享保四(1719)亥年十二月
河州交野郡郡門村大工  安兵衛・・・・・・・    同上
河州交野郡郡門村 請負大工 伊兵衛・・・・・天保十四年(1843)
善導坐像の銘記に宝暦四年(1754)郡津村明遍寺とあるのが気になる。

=編集後記=
知らぬは仏じゃなしに、知らぬは私だけ
聞くは一時の恥、知らぬは一生の恥   なんでも教えて下さい。


2008.1.10 発行

            星田・慈光寺の一石十三仏

  

 交野でただ一つという十三仏は花崗岩の舟形の一石に十三の仏がならんでいる。(慈光寺の配列)向って左側に「慶長十二年(1607)丁未三月十五日」の銘がある。
十三仏というのは 「死者の追善を行う忌日の思想が一般化」した南北朝時代に成立したとされており「死後の仏事をあらかじめ自分で営む逆襲仏事のため」に信仰されてきたものであり、またそれぞれに忌日、年忌が決まっている。配列は様々。

=編集後記=
 1/9市内のあるサークルの皆様、約20名の方たちとJR河内磐船から天田神社→
一条通り→私市橋→妙見口→星田神社まで、この地域には立派な阿弥陀如来立像
石仏や、宝瓶三茎蓮など珍しい石造物も見ることができます。
一度おでかけ下さい。


2008.1.9 発行

 じ ろ う
 地蔵の舟形石は、尖らないまでも山型が普通である。
石の先がまるくへこんで(凹)いるもの、そのくぼみが仏さんの頭に食い込んでいるものさえある。米つき(唐臼)の心棒受けを「じろう」と呼ぶ。
これは地蔵の舌足らずだったのかも。足で踏む重い杵(キネ)の重心に、地蔵石仏をかませてきたと
いう驚くぺき事実の名残りだと思われる。
鎌倉、室町期に生まれた仏は、徳川時代から一個の石でしかなかったのか。
光背をこすり、けずり取られた地蔵の受難は、信仰と風土が生んだ歪だったのか。
真言宗は地蔵を大切にする寺、その真言宗に背を向ける何か歴史的な原因があったのかも知れない。
浄土真宗への信心は徹底的で阿弥陀信仰一辺倒で地蔵さんなど眼中になかったようだ。また、石垣が出ないという風土が数多くの地蔵尊をかっこうの石と思わせた。
こうした石垣に使用された仏も市内で見ることができる。
宝筐印塔の台座が家の土台に使われていたりする。ひどいくぼみ、浅いへこみ。
地蔵は六道(地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天)輪廻の実績をそれぞれの表情に刻んでいる。しかし、受苦代民衆にかわって、苦しみをあがなう、安らぎは変わらなかった。

  
 上垣内にあった祠、今は石仏のみが草むらの中にひっそりとたたずむ
 祭神は大和の三輪山の神、水田を守る神として勧請したと言われている


  

 唐臼の心棒や石垣、池に投げ捨てられたり、家柱の基台に使用される等は、明治初年に行われた神仏分離の被害者であったのだろうか。
幾多の受難時代を過ごし再び村の辻に復活された仏さんたちに合掌。

=編集後記=
 何もなかったように微笑みかけてくださる石仏さん、人間が一度でもこのような目にあったなら、
こんな姿でおれるでしょうか?自分の思うようにならないからと言っての事件沙汰。
一度、石仏さんを訪ねてみるのも。                 =了=


2008.1.8 発行

 何らかの理由で移座された仏たち:その4
   =星田寺の十一面観音立像(廃小松寺〜星田神社〜星田寺)=


十一面観音は十一の顔がある観音像を指し、平安時代に多くつくられている。ふつう頭上にミニ仏面をつけており、前の三面は慈悲相、左の三面は忿怒相(ふんぬ)、右の三面は白い牙を出した相になっていて、すべての方角にいる人々を救うという。
てっぺんの一面のみを仏(如来)面とし、真後ろの暴悪大笑相は、人の悪を暴露し、さげすみ冷笑する姿を表している。前の三面は素直に仏の教えに従う人に慈悲を垂れ、左の三面は善行の人をほめたたえ、後ろの一面にある笑面はゆとりを
表している。

なぜ頭上に十面の仏面をつけているかというと
@諸病の苦をとる
A如来の愛護を得る
B財宝を得る
C敵の危害から守る
D上司の庇護を受ける
E毒蛇・寒熱の苦を免れる
F刀杖(とうじよう)の害を受けない
G水におぼれない
H火に焼かれることがない
I天命を全うすることができる、というこの仏の十の誓願が込められ、この仏さまを
拝むと災害から免れると信じて、平安時代には特に盛んに崇拝された。
ふつう手には蓮華の花と水瓶を持っており、それ以外は与願の印を結んでいる。




廃小松寺
 本尊が安置されていた小松寺とは「小松寺縁起」によると、山号は三宅山と称し、宗派は真言宗東寺派とある。もとは、荒山寺といい、和銅5年(712)田原郷(四条畷市)の住人により草葺の小堂を建てたのが始まりだとされ、その後、荒廃したこの寺を秦姉子なる人が延長2年(924年)に再興し、これまで荒山寺を小松寺と改めた。
盛時には金堂・根本草堂・講堂、三重塔婆、鐘楼、経堂、西大門、北大門、宝蔵、食堂、毘沙門堂等、坊舎67宇、僧衆120人、児童38人という大規模な寺院であったが元禄16年(1703)に廃寺となった。

星田神社
 星田山中の小松寺の根本草堂に安置されていた十一面観音立像は、寺の荒廃により元禄16年(1703)に星田神社の古宮の北の観音堂に移された。

星田寺(しょうでんじ)
 十一面観音立像は明治初年の神仏分離後、星田寺に移された。
当寺は、山号を三宅山、院号は花岳院で、宗派は東寺真言宗で、開祖の年代は明らかではないが長治2年(1105)の奥書「金剛界大潅頂次第」(河内長野市・金剛寺)に星田寺の名がみえることから、平安時代には存在していたことがわかる。当時は古くから星田の氏神社の神宮寺であった。

=編集後記=
 星田の寺には市指定文化財が三つあります。
@ 星田寺(星田2丁目)→十一面観音立像
A 薬師寺(星田1丁目)→薬師如来立像
B  同上      →千体仏(現在は671体) 
春と秋の一般公開日等は広報にて案内されるが詳しくは文化財事業団まで。


2008.1.7 発行

 錫杖(しゃくじょう)の頂部に五輪塔
 地蔵菩薩が持っている先に輪のついた杖を錫杖という。
先端の大きな輪にいくつかの小さな輪がついていて、歩くと音が出る仕組みになっている。この音をシャクシャク(錫々)という擬音で表したことから、錫杖の名がついた。
もともとインドで修業僧が山野に分け入って修行するときに、これらを鳴らして毒虫などを追い払い、
また、乞食(こつじき・食べ物などの布施を受けること)に来たことを知らせたものである。錫杖は菩薩が衆生救済のため、諸方を巡歴していることを表している。
また、めずらしい錫杖として頂部に五輪塔を乗せたものが市内にある。
それは獅子窟寺領内にある「王の墓」より奥に入ったところの椿地蔵さんの錫杖がそうである  (市内石仏の中では唯一錫杖)。        


  
   

 =編集後記=
前号で四方(東・西・南・北)の梵字を話ました。その五輪塔の写真がありましたので紹介しておきます。   
     


2008.1.5 発行

 五輪塔について
 塔婆の一形式。密教において創始された塔形で、下方より方形・球形・三角形・半球形・団形の五部を積み上げ、地・水・火・風・空の五つの元素から形成されているという考えから発している。
この塔形を胎蔵界大日如来の三昧耶形(ざんまいやぎょう)とする。
五輪塔形の源流については諸説があるが、インドの卒塔婆がラマ塔になり、さらにラマ塔を中国化して五輪塔形の線図で表すようになり、それを日本で立体化したという説や、舎利を安置する塔身(宝瓶形)を中心として、それに基礎・笠・宝珠を加えた宝塔かたに五大思想が加えられ、五輪塔形が完成したと、大日如来の座った形が五大思想を表し、五輪塔が生まれた等の説があり、その起源の説にはまだ定まったものがない。
 しかし、五輪が大日如来を本尊とする供養塔として発展したことは確かなことであり、それゆえに五輪の各部には大日如来の真言「キャ・カ・ラ・バ・ア」が刻まれているのである。五輪塔が他の塔と性質を異にする点は、塔身といった部分がない点である。
 塔全体が大日如来の抽象化されたものであり、当然のことながら仏像を刻まないのが本来的である。
また、東西南北の各方面にそれぞれに定められた四門の梵字を刻するのが本格的であり、それらは東方→発心門・南方→修行門・西方→菩提門・北方→涅槃門であり、この場合東が正面となる。
しかし実際には各門を正しく刻するものは、全体の数からは少ない存在である。
一般には発心門の「キャ・カ・ラ・バ・ア」のみ刻する遺品が多く、まったく梵字を表さないものもかなりある。


  

 =編集後記=
 先日の新春初歩きで、獅子窟寺の王の墓で五輪塔って「キャ・カ・ラ・バ・ア」って知っていますか?言われました。何でも疑問に思ったら調べてみることですね。



2008.1.4 発行

 歳神様が年神様に・・・交野市・倉治に残る 

 正月行事は、日本の農耕社会の最も重要な祭りであった。
一年の二回の節目にあたる一月一日と七月一日に、祖霊が人間の世界にやってくるとされた。この祖霊は、豊作をもたらす農耕神で「歳神様」と呼ばれた。
 「とし」とは稲の実りをあらわす古代語である。しかし、七月一日の祭りは飛鳥時代(7世紀)のころから次第にすたれていった。のちに七月一日の祖霊祭りが盂蘭盆に変わり、一月一日の「歳神様」の祭りが大がかりなものになっていった。
そして、一月一日に年が変わることから「歳神様」の語「年の変わり目に訪れる神」を意味する「年神様」に変わっていった。年の神を恵方神といい、恵方は干支に基づいて決まるため2008年は「子」、よって神様棚を南南東方位に向けてお迎えする。

   
                    「年神様」
  

    家の砂もち
 また、お正月を迎える行事として家の砂もちがある。家の庭先に砂で丸型をかいて、綿の実がたくさんなるようとか、家庭がまるくおさまるようとか祈った。また、道で桟を作るのは神様がお通りになるのできれいにしたのだろう。



=編集後記=
 年々交野でも、年中行事が姿を消していってます。
今一度、よき伝統を見直し、残していきたいものですね。
また、これから残すべき善いこともあわせて考えていこう。      
             =了=



2008.1.3 発行

  
  
  
     
  

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2008.1.2 発行
 
 
    
  
  獅子窟寺・本尊薬師如来像は、カヤの木の一木造り、身の丈92aの等身大で、穏やかな面相はふくよかで奥行きの深い量感にあふれています。平安初期、弘仁期(810-823)の作とされ、美しい翻波衣文(ほんぱえもん)に包まれている。
この尊像は一刀三礼のもとに三年三か月を費やして刻まれた。
薬師如来の脇侍として左右に立つのが日光・月光両菩薩です。悟りを開いた薬師如来のもとで、いまだ悟りを開いてない両菩薩が修行をつむ姿を表しているのでしょう。
「右日光・左月光」といわれ昼夜を問わず24時間、人々の苦しみを救うための仏。
さらに薬師如来の守護神としてつかえるのが十二神将です。
十二神将は、薬師如来の十二の願望に応じて現れる十二の分身で、一神がそれぞれさらに七千の従者をもち、合計八万四千の力によって薬師如来の願いをかなえるために守り続けるといわれます。また、昼夜12時間ずつ、一年十二ヶ月ずつ十二神将が交替で守護するものといいます。

    

 また、日本の立派なお寺の中に獅子窟寺が入っているので紹介しておきます。
「日本九品浄土事」の中に・・・日本の九品トハ何レヤ
・上品上生→高野山
・上品中生→天王寺
・上品下生→賀峯山・忍頂寺(大阪・茨木)
中品上生→師子岩屋(大阪・交野)
・中品中生→金峯山(奈良・吉野)
・中品下生→大安寺
・下品上生→熊野山
・下品中生→東寺
・下品下生→東大寺
よって、獅子窟寺はこのように日本の立派なお寺の中にある。
ただし、順序はどのように決められたかはわからない。誰かご存知の方がおられましたら教えて下さい。
=編集後記=
1/2は交野古文化同好会、新春恒例の初歩きを獅子窟寺にまいります。   =了=


2008.1.1 発行
 

十二支による守護神
 
中国では古くから天文学が発達し、木星が天を十二年で一周するところから、その位置を示すために天を十二等分してそれぞれに呼び名をつけ、その年うまれの人の性格を動物になぞらえてあてはめた。そこから十二支への俗信がはじまったとされている。
 わが国にも、この俗信が仏教の伝来とともに流入した。そして一般庶民の間に広まったのは平安時代のころからで、当時流行した仏・菩薩に十二支の動物をあてはめて、その年うまれの人の守り本尊として盛んに信仰され、今日に至っている。
 俗信とはいえ、自分の守り本尊を持ち、その仏の功徳(くどく)をいただいて日々の生活を送ることのほうが、そうした対象や目的を持たずにただのんべんだらりの毎日を送るよりもどれだけ自分の人生が意義あるものになるかはかりしれない。
2008年は子年=千手観音
 
子年うまれの人は性格が正直でおごりの念が少なく、常に倹約の精神をもって貯蓄し、相応の財産を持っているのが、それがときには他から誤解され、ケチと言われがちである。
外面は柔和そうに見えても内実は些細なことに怒りやすく、ときには人情味に欠けるところがある。
 しかし、元来が無邪気な性格なので、時が過ぎるとその恨みを忘れ、いったん不和となった人とも機嫌よく交際するので世間の評判はわりあいよい。中年以降、逆境に悩むことがあるが、その性癖を反省して仕事に励み、人や社会のためにつくせば安楽な余生が送れる。
 この年の守り本尊は「千手観音」で、正式の名を「千手千眼観自在菩薩」といい、この名を唱えるだけですべての願いがかない、特に安産や夫婦円満などの功徳があるという。
 わが国では僧玄ム(げんぼう)が天平七年(735)帰朝に際して、当時活躍していた密教僧が漢訳した密教経典によって、この信仰が広まるようになった。しかし、本格的にこの観音が信仰されるようになったのは平安時代以降で、長寛二年(1164)には京都の三十三間堂が建てられ、千手観音を本尊として千一体の尊像がまつられた。のちには全国各地の寺院にもまつられるようになり、西国三十三番札所などの本尊の多くはこの観音像である。
毎月十七日が縁日である。

   
   
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