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よもやま瓦版
(2004年)
今日の話はなんでっか?
バックナンバー
平田語録100号
今日の一言
平田さん
  発行者
  平田政信さん
  瓦版:よもやま便り
      交野市私市4-39-2   平田 政信
☆ 世の中に山とあるような話や、あんなこと、そんなこと、日常のあたりまえのことでも、歳とともに忘れがち、忘れたことを思い出すのが煩わしい、思い出せない今日この頃、チョット書きとめておくことにしました。なにかの参考になればとはじめましたのでよかったら一服にでも……。 
                  
瓦版・TOP 2007.12月号 2008.1月号
瓦版 2008年 2月号 バックナンバー
58 2/29 =他から出土して交野から出土していないもの・・・その1=
57 2/28 古墳とは、土または石を積み上げてつくった墓をいう。
56 2/27 =ふたたび雪に覆われる石仏(いしぼとけ)=
55 2/26 =最古の前方後円墳はどこに発生したか?=
54 2/25 = 巴形(ともえかた)銅器(どうき)・筒形(つつかた)銅器(どうき) =
53 2/23 =仏の首には三本の皺がある=
52 2/22 手印とは・・・? 「目は口ほどにものをいう」といいます
51 2/21 =常に一直心(いちじきしん)を行ず=
50 2/20 =埴輪の起源=
49 2/19 =縄文時代の人口はどれくらいだったか?=
48 2/18 =いつも「明日」があると思うな=
47 2/16 =自由自在に救済――如意輪観音さん=
46 2/15 =景初三年銘の銅鏡= 
45 2/14 =耶馬台国いずこ=  (2007.5.18よみうり新聞掲載記事より)
44 2/13 =大阪市は11年ぶり積雪= その日の交野市内の積雪は
43 2/12 =一里塚の今昔 その2= 戦闘機残骸発見
42 2/9 =一里塚の今昔=一里塚(金門・四馬塚)・東高野街道
・中村中尉鎮魂碑・戦闘機残骸発見・陸軍用地
41 2/8 =釈尊(しゃくそん)の理想のかたち三十二相(さんじゅうにそう)     
40 2/7 =賓頭盧(びんずる)さん・・・神通力を発揮=私市:獅子窟寺本堂安置
39 2/6 =梅の木伝説(その2)=
38 2/5 =梅の木伝説(その1)=
37 2/4 =節分と積雪= 今年初めての積雪
36 2/2 =市内指定文化財紹介=交野市立教育文化会館
35 2/1 市内指定文化財紹介=山野家住宅・天野川堰堤


2008.2.29 発行(58)

 =他から出土して交野から出土していないもの・・・その1=

銅鐸
 われわれ現代人には理解しにくい弥生時代の不思議な出土品が銅鐸(どうたく)である。
釣り鐘状という独特の形をしたこの青銅器は、いったいわれわれにどんなメッセージょをのこしてくれているのだろうか。
平成8年(1996)10月、島根県大原郡加茂町の加茂(かも)岩倉(いわくら)遺跡(いせき)から、39個という大量の銅鐸が発見された。ひとつ遺跡から出土数としては最大のものだった。それまでの出土数が約430個であるから、その一割近くを占める39個という数は驚異的なものであり、テレビ・新聞で大きく報道された。
銅鐸は弥生時代につくられ、初期のものは銅鐸の中に「舌」と呼ばれる棒がついていて、揺らすと音が出た。しかし、次第に大型化して、銅鐸は「聞くものから」から「見るもの」に変化していったものと見られている。
弥生時代の遺跡を特徴づける銅鐸は、近畿を中心に各地から出土したが、なぜか弥生時代の終焉とともに忽然と消えてしまった。なぜ急に消えてしまったのか?。

【銅鐸の謎】
その1:何のためにつくられたのかという用途・目的である。
    豊穣を祈る農耕祭祀のためにつくられ、つかわれた祭器と見るが一般的だが、
    悪霊から集落を守るための呪器という説もある。
その2:なぜ土の中に埋められたのか。
    祭りに、祭りが終わったあとに埋めたという見方や、豊穣を祈念して地の神に
    捧げるために埋められたという見方などがある。
その3:悪霊から集落を守る。
    銅鐸は集落の境界に埋められ、悪霊が侵入するのを防いだと見る。
その4:その他
    隠したとか、捨てたとかいう説もあが、銅鐸の埋め方には、鰭(ひれ)の部分を
    立てて埋めるという一定の法則が確認されており、隠したとか捨てたかという説は
    成り立たないだろう。 
    やはり、何か宗教的な理由によって埋められたと考えるのが妥当なところで
    あろうか。では、その宗教的な理由とは何だったのだろうか?次号につづく。
    

   
   
   


2008.2.28 発行(57)

 古墳とは、土または石を積み上げてつくった墓をいう。

墳丘の上には、石を葺いたり(葺石)、埴輪を立てる。
墳丘を取りまいて濠(周濠)や空堀(周溝)がめぐり、さらにその外側に、堤や低い余剰帯(周庭帯)がめぐる場合もある。
そして、より厳密にいえば、人工的に盛り土されている点で、方形周溝墓や方形台状墓と異なる。これらは弥生時代の低墳丘墓の系譜をひく。
また、凝灰岩・砂岩など、やわらかい岩盤に彫りこんだ横穴とも区別されるだろう。
埋葬施設としては、竪穴式石室や横穴式石室が一般的だが、木棺を粘土で包みこんで埋めた粘土槨や、木棺・石棺のまま直葬する場合もある。

竪穴式石室
 4、5世紀の古墳に設けられた埋葬施設である。
まず墳丘を掘り下げて墓壙を堀り、木棺を置く。その後周囲に石を積みあげ、墓壙とのすきまに土をつめていく。最後に天井石をのせ、土で覆った。基本的には一人を葬るための埋葬施設である。
横穴式石室
 畿内では5世紀の後半から末頃に導入され、7世紀中ごろまでもちいられた。柩をおさめた墓室(玄室)とそれへの通路(蒼ケ)とから成る。その構築方法は、まず墳丘を掘り下げ、玄室の奥壁・側壁の第1段の石や袖石をすえ、玄室のアウトラインを定めたのちに、木棺・陶棺・石棺などを安置する。第2・3段の石を積みながら並行して羨道にも石をすえ、最後に玄室・羨道に天井石をのせて、封土を積む。
入口には拳大の石をつめて閉じる(閉塞石)。閉塞石を取りのぞけば出入りはできるので、一つの横穴式石室には、何度にもわたって埋葬が行われた(追葬)。10体ちかい人骨の出土する例もある。




=編集後記=
 交野市には前期古墳→中期古墳→後期古墳とすべて存在している。しかし、古墳にかかわる生活、古墳造りに参加した人たちはどこから来たのか?村人たちの生活の場であったのか?古墳造りには、他村からの通いだったのか?それともキャンプを張っての生活だったのか?などなど謎は多いしロマンも広がっていく。今、第二京阪国道建設に伴い、弥生時代・古墳時代の遺構、住居跡などが確認されております。この人たちが古墳造りに参加した人たちであったのか、それとも古墳造りの人たちをサポートしていた人たちだったのか、まだまだこれからの課題であり夢である。古代人が残してくれた遺跡・遺物をこれからの暮らしに役立てていくかは?我々自身であろう。           =了=



2008.2.27 発行(56)

 =ふたたび雪に覆われる石仏(いしぼとけ)=

2.9に続き2.24早朝より降った雪は交野の野山を白銀の世界に!
前回は森→寺→かいがけの道→傍示まで歩いた。今回は私部・官田内の中筋地蔵と寺・今井から青山の水守り地蔵さんを訪れた。

   
  
  

  

  
 
  

 =編集後記=
 今年は例年にない大雪に交野の野山は真白!雪景色と石仏さんを求めて子どもの頃のようにはしゃぎました(年齢を忘れて)。



2008.2.26 発行(55)

=最古の前方後円墳はどこに発生したか?=

 歴史の分類では三世紀末から7、8世紀にかけて造営された墳墓を古墳といい、年表では3世紀末から、6世紀末までを「古墳時代」と呼んでいる。そして、その時代を前期(3世紀末から4世紀)、中期(5世紀)、後期(6世紀)に分けている。つまり、大和朝廷の統一の始まりから飛鳥時代までと考えればよい(7世紀までを古墳時代と区分する説もある)。 
 古墳の形は基本的には、円墳、方墳、前方後円墳の三パターンに分けられるが、前方後円墳の特殊形式として前方後方墳・帆立貝式古墳・四隅突出型古墳などもあり、このように形が多いのは、古墳の成立や身分の違いによって異なるといわれるが、確定的な要素はない。そうした中にあって異彩を放つのは、前方後円墳である。わが国独自のもので、規模も大きく、時の権力者の墳墓であることはまちがいないからだ。前方後円墳という名称は江戸時代の蒲生君平らが付けたものだが、なぜこのような特異な形の古墳が生まれたのか、どの古墳が最古のそれであるかは、いまのところまだわかっていない。
 最古の前方後円墳は、いつどこで発生したのか?この問題は古代王権の謎を解く有力なヒントになるので、古代史研究家の注目の的となっている。
 有力地は三か所ある。大和、北九州、吉備である。大和には最古の前方後円墳といわれる箸墓古墳があり、そのほか行燈山古墳(伝・崇神陵)、渋谷向山古墳(伝・景行陵)など多くの初期古墳があり、いずれも長径200bから300b級の大古墳である。北九州では大分県宇佐市の赤塚古墳(長径40b)、福岡県京都郡苅田町の石塚山古墳(同90b)が前期古墳であるが、こちらは大和に比べれば規模は格段に落ちる。
 いっぽう近年、熱い視線が注がれているのが吉備地方だ。もともと吉備には造山古墳(長径360b)、作山古墳(同286b)という、全国でも十指に入る巨大古墳があることで知られているが、この地方からはさらに弥生時代の巨大墳墓が発見されたのである。
 それが倉敷市矢部の楯築神社の下に眠っていた「楯築遺跡」である。これは前方後円墳ではなかったが、突出部のついた弥生時代の墓とわかり、「弥生の墳丘墓」と命名され、前方後円墳の原型だと認定された。
 だが、そうはいっても前方後円墳の遺跡は、その規模、数の多さ、埋納品の質からいっても、大和地方が断然他を圧していることはいうまでもない。とくに四世紀になると古墳は最盛期を迎え、その中心地は三輪山周辺から河内地方に移り、ピラミッドより大きな応神・仁徳陵を誕生させ、地方へと伝播していく。
 そこで古墳の移動から推測すると初期は大和王権の古代の祭祀の山であった三輪山周辺にあり、古墳時代中期になると、その王権は畿内の河内地方に移っている。そのために学者によっては、この二つの王権は別の王権だという説も出てくるのだ。


 

 

 
        麦木晩田遺跡群の四隅突出墓

=編集後記=  麦木晩田遺跡群は鳥取県西伯郡淀江町と大山町にまたがり7つの
遺跡の総称で、いまから200から1700年前(弥生時代後期)を中心とする遺跡群です。もう一度訪ねてみたい遺跡です。  =了=



2008.2.25 発行(54)

 = 巴形(ともえかた)銅器(どうき)・筒形(つつかた)銅器(どうき) =

 巴形銅器は古墳時代の前半にまれに発見される遺物で、中央が半球形で周囲に数本の脚状の飾りが突き出ている。
 その形態から、巴の形状を連想させるために巴形銅器という名称が付されたものと思われる。巴形銅器は古墳時代に先立つ弥生時代にはすでに出現しており、用途は古墳時代のものと変わりはないとみられているが、形態に少し差がある。
 弥生時代のものは、周囲に突き出た脚状飾りの数が多く、7〜9本ある例が普通で、その脚は平面的にみて左回りに曲がっている。
 古墳時代のものとなると脚状突起の数が少なくなり、4、5本である。そして、脚は右回りと左回りの両者がある。大きさは色々あるが、全体の直径が5aから10a程度のものが普通である。
 この銅器の用途については、昔はよくわかっておらず、飾り金具の一種であろうということは言われていたが、実際にはどのように飾られていたのか不明であった。
 しかし、大阪府の黄金塚古墳の出土例は、約1.6bの長さの盾の表面に三個の巴形銅器が装着されており、使用例が明らかになった。
 三重県下の古墳でも同じような出土例があり、さらに人物埴輪が手に持った盾にも線刻巴形銅器が付いている様子が表現されていることが確認されたりして、巴形銅器は盾の表面を飾る金具であることが確実になった。
 盾は防禦するためのものであるが、いちおう武具であり、巴形銅器は盾だけでなく、他の武具の表面も飾っていた可能性が強い。
 
 
         筒形銅器                     巴形銅器
  昭和47年12月大阪府立交野高校建設に伴い、用地内で東車塚と地元の人たから呼ばれているところを調査、偶然にも発見!古墳であることを確認し、銅器2点を取り上げ、元の状態にして埋め戻した。
 筒形銅器は古墳時代前期の古墳で、粘土槨を主体部とするものから出土するのが通例である。はやくから考古学者の興味をひいた遺物で、すでに明治時代に学術雑誌に報告されている。それ以来、いく人かの人達の論文にとりあげられている。しかし、現在までわが国で出土した筒形銅器は50個前後と少なく、奈良県下でも10点(伝承品も含めて)ほどである。分布状況は畿内を中心とするといってもよいだろう。筒形銅器は字のごとく、細長い円筒筒形状のもので、全長は11aから約20aのものまで、そのうち13aから15aのものが半数を占めている。直径は2〜3a程度である。筒の一方は開口し、もう一端は閉じられているものが普通である。器面には縦方向に四条の透かし窓があけられており、これを二段にくぎっている。まれには三段のものや、あるいは透かし窓のないものがある。
 そして透かし窓の間や両端に突帯があるものとないものとで形式的に区分される。
ところで筒形銅器の用途については現在でも定説がない。従来からいわれているのは
@ 剣の把
A 槍などの石突
B 装飾的な儀杖の頭につけられたもの
C 儀杖の石突
D 鈴として使用したもの、というように色々に分かれる。
 筒形銅器の開口部に木質がのこっている例があり、何かを差し込んでいたことは間違いないようである。(透かし窓のところまでは差し込まないで、この部分は中空になっていたようである)。しかし、実際に差し込んだ状態で出土した例がなく、それがいろんな説がでてくる原因である。また、中空のところに青銅製の小さな棒がはいっていた例がある。
 同じ青銅で出来たものであるから、小棒を中に入れて振れば良い音色がしたであろうことはすぐ思いうかべることができる。
 いずれにしろ、筒形銅器は儀礼的なものであろうし、それを所有することが権力を示していたと考えてよいと思われます。

=編集後記=
東車塚古墳の試掘調査で出土した巴形銅器・筒形銅器がきっかけで交野車塚古墳群(@〜D号墳)へと発展していく。



2008.2.23 発行(53)

 =仏の首には三本の皺がある=

 仏像の首には三本の皺が刻まれている。これを三道といい、ガンダーラやマトゥラーでつくられた初期の仏像にも、この特徴を表しているものがある。
 本来は如来の特徴であるが、実は菩薩や明王、さらには天(神々)など、多くの仏像の首には三本の皺が刻まれているのである。この三道(さんどう)とは、悟りに至る修行の三段階、つまり、見・修・無学の三つを示したものであるという。
「見(けん)」とは、物事をありのままの姿を正しく見ること。
「修(しゅう)」とは、その正しい見方に基ずいて修行すること。
「無学(むがく)」は、一般的には学がないものを指すが、仏教では学ぶべきことがなくなった者のことを示す。すべての修行を終えて、もう為すべきことがなくなった者のこと。
 つまり、悟りを開いた者のことで、三道は如来が三つの段階を経て、悟りに達したことを表すものである。
もうひとつの三道とは、「やさしさ」「素直さ」「暖かさ」とも教えてもらった。

 


2008.2.22 発行(52)

手印とは・・・? 「目は口ほどにものをいう」といいます。

とすれば、「手が口ほどにものをいう」のが仏像です。
仏像を拝観するときは、その両の手に注目してください。手印(印相)とは、平たくいえば、仏の持っている法力を手のうごきで示すことです。

合掌印と拳印
 印相の基本のかたちは、両手を合わせる合掌印(がっしょういん)と、にぎりこぶしをつくる拳印(けんいん)です。
合掌印は、ねがいを込める菩薩像に多く、拳印は、仏の強い意思を示す明王像に多いのです。そしてこの基本形をさまざまに組み合わせて、法力、法徳を参拝者に知らしめるわけです。
  • 降魔印(ごうまいん)=修業中の釈迦が、しきりに誘惑する悪魔をしりぞけたときの相で、片手を地につけているため、触地印ともいいます。
  • 定印(じょういん)=釈迦が、ガンジス川の南で瞑想し、ついに悟りをひらいたときの印相。法界定印とか、禅定印ともいいます。
  • 転法輪印(てんぽうりんいん) =釈迦が悟りに達したあと、サールナートの地ではじめて説法をしたときの相です。迷いを粉砕する意味があります。
  • 施無畏印(せむむいん)=人々の畏れを去らせる印相。ふつうは右手を上げますが、まれに左手を上げる仏像もあります。
  • 与願印(よがんいん)=人々の願いに応じて、恵みをあたえる相です。ふつうは左手。
  • 智拳印(ちけんいん)=忍者が印を結ぶときにそっくりの相。じつは忍者のほうがまねたのです。転法輪印と同意味の印相です。
  • 降三世印(ごさんぜいん) =人々をまどわせる三毒(貪(どん)・瞋(しん)・痴(ち))を降伏させる印相。主に降三世明王が結ぶ印です。 瞋とは怒りのこと。
  • 九品印(くぼんいん)=これぞ阿弥陀如来の印と思ってください。阿弥陀さまを信じて念ずれば、死後に極楽浄土に行ける――その際、生前の信仰や罪の深さによって、あの世で九つのランクに分けられるのです。これを九品往生といって、阿弥陀如来も上品上生から、下品下生まで九つの印相であらわされます。

  •  *有名な浄瑠璃寺(京都)は、別名九体寺といって、この九つの仏像が拝観できます。
     降魔印から与願印までを、釈迦五印とよんで、釈迦如来に多い印相です。
    しかし、転法輪、施無畏、与願の三印は、薬師・阿弥陀の二如来もむすぶ印相なので、よく判別しないと三如来の区別がつきにくくなります。

      
     

=編集後記=
 昨日は暖かい一日でした。交野市駅AM9:30集合でNALC「天の川クラブ」の方たちと第二回歴史ウォークを行いました。前回は、郡津駅から東高野街道を逢合橋までで、今回は、交野市駅から四条通りを長砂橋→すたこ橋→砂子坂→上の山→弥生時代の神殿跡→星田共同墓→一里塚→中村中尉鎮魂碑までの東高野街道パートUを歩いてきました。
次回は3/27京阪河内森駅から山の根の道を寺・住吉神社まで予定しております。
同じところを歩いていても、毎回、違った勉強をさせていただいております。今日の瓦版は阿弥陀石仏を案内、説明しておってチョット気になったこと「手印」について書かせてもらいました。 =了=


2008.2.21 発行(51)

 =常に一直心(いちじきしん)を行ず=
  
どうでもいいことなど何もない
 人生は誠心誠意をもって、無心に仕事をしておれば、どんな難しいことでも、必ずできるものだ。知恵にまかせて、手ぬきをしようとすると、不良工事のような人生になり、もう一度、やり直さなくてはならなくなる。「常に一直心を行ず」(六祖壇経)
 どんな小さなことでも、直心をもって、まっしぐらに打ち込んでいく。「これはどうでもよい」というものは、人生に一つもない。行住坐臥(ぎょうじゅうざが)、朝、目を覚まして顔を洗うときでも、今日一日のスタートとして、いいかげんに洗面してよいわけはない。すっきりと、人の前に出る顔として、曇りのないように、細心の注意をととのえなくてはならない。人は、計算をしているうちは、誠心誠意になれない。計算は大きく超えて、無心になることができれば、仏道になることができる。     心が晴れる「禅」の言葉 赤根祥道著より

  

=編集後記= 俺が、俺がと思っているうちは無心になれない。どんな小さなことでも
 真心をもって打ち込んでいきたいと思う今日この頃!         =了=



2008.2.20 発行(50)

 =埴輪の起源=
 応神・仁徳天皇のころからあとの、いわゆる中期古墳時代から、いろいろな形をした形象埴輪が登場する。
 前期古墳からは埴輪は発見されていないが、その末期において壺形・円筒形の焼き物があらわれ、応神・仁徳のころになると、家・盾・甲冑・きぬがさ・人・馬などを模倣した形象埴輪が盛んに古墳の側に置かれた。なぜ、埴輪が作られたのか?埴輪に関する最も古い記録というのは「日本書紀」(垂仁紀28年・32年条)で、つぎのような有名な話がある。「垂仁(すいにん)天皇のとき、天皇の弟の倭彦(やまとひこの)命(みこと)が亡くなって葬ったが、近習の者を一緒に生き埋めにした。殉死である。ところが、土の中から数日間泣き続け、やがて犬や鳥が集まって肉を突っついた。天皇はこの悲惨な様子を見て、殉死をやめさせたという。
 その後の32年の記事には、皇后の日葉酢媛(ひばすひめの)命(みこと)が亡くなったとき、殉死は良くないからどうしたらいいだろうかと群臣に問うたところ、野見宿禰(のみのすくね)がいいアイデアを提案したとあります。出雲国にいた土部(はじべ)の人たちを呼び寄せて、埴(はにつち)つまり埴輪を粘土をもって人や馬など種々の物の形を作り、生きている人に代えてこれを陵にたてようとしたというのです。これが埴輪の起源だ。ちなみに、初めて埴輪が作られたのは畿内であったが、製作された期間は畿内では短く、六世紀中ごろには姿を消している。
 これに反して、おおいに埴輪文化が花を開いたのは関東地方であり、人物や動物、家などの優秀なものは関東の古墳から出土している。(垂仁)
 この記事をそのまま信じますと、非常に古い4世紀の出来事になるわけですが、古墳の編年研究にあてはめてみると人物や馬の埴輪が4世紀までさかのぼるとは認められないと、早くに、小林行雄先生が指摘しておられます。
 現在の考古学の研究では、5世紀になってから人物埴輪が出てきたということについての異論はありません。
 しかし、5世紀の前半かそれとも中頃か後半かとなりますと、微妙に異なってきます。
皆様の見解は?「人物埴輪はいつ頃出現したか」・・・・。

 
 
 
          日本書紀「垂仁紀」の一部抜粋

 

2008.2.19 発行(49)

 =縄文時代の人口はどれくらいだったか?=

 縄文時代というのは縄文式土器が使われた時代を便宜的にそう呼んでいるのだが、当然のことながら石器類も使用した。こちらは旧石器時代と分けて、新旧石器時代と呼んでいる。そして弥生式土器が登場するのが紀元前300年だから、約一万年の期間が縄文時代ということになる。この時代は早期・前期・後期・晩期の五つの時代に区切られている。
 そうした中にあって、縄文時代の最盛期と思われているのが中期時代(紀元前300〜2000年)だが、では、この時代の人口はどれくらいだったのだろうか?
 この難問に挑戦したのが国立歴史民俗博物館の小山修三氏である。昭和50年小山氏は、これまで発見された釣5万か所の遺跡リストをもとに、当時の食糧事情、家族組織、集落組織などをコンピュータにかけ、人口の推計を発表した。
 その結果、日本列島の人口は約26万人(東日本25万人、西日本1万人)で、その91%は東日本に住んでいたことがわかった(中公新書『縄文時代−コンピューター考古学による復元』より)。つまり、縄文時代中期では、弥生時代、その後の古墳時代とは逆に、関東地方と中部地方に人口が集中していたというのだ。
 しかし、なぜ東日本に人口が集中していたかについては、いまだに決定的な答えは出ていない。かつて小山氏の前に縄文時代の人口推定を発表した山内清男氏も、「東日本12万〜20万人、西日本3万〜5万人』と発表したが、このとき山内氏は「東日本のほうはシカやイノシシも多く、サケ、マスが多く獲れ、木の実もたくさん採れたのではないかjと説明した。これが有名な「サケ・マス諭」である。だが、サケ・マスが多かったのは理解できるにしても、木の実は西日本のほうが多いはずだ。単なる食糧事情だけでは説明できない。
 このことから今日では、遺跡の発掘場所による差ではないかと思われている。というのも、東日本は近年、台地上まで開発が進み、発見の機会が増加しているのに対して、西日本は遺跡が低地に立地するところが多く、深く埋没しており、同時にすでに市街地となっているため、発見される機会が少ないからだと考えられている。したがって、この人口分布は現在の遺跡調査だけの結果であって、西日本でも同じような発掘がおこなわれれぱ、これほどの差は生じないだろうといわれている。 (古代日本の謎  神一行著より)
 当市、神宮寺土器は縄文早期約8000年前も前の古い土器だとされている。押型文といわれる神宮寺式土器には縄文がない。押型文は円棒に刻んだ原体で型をつけたという事がわかった。縄文文化の非常に古い時代を代表する文化がこの押型文土器である。昭和32年から昭和35年・昭和48年の第五回の発掘調査では遺構等発見することは出来なかったが縄文時代に人が何らかのかたちで暮らしていたことに変わりがない。しかし、この頃この地に何人くらい住んでいたのかは今は推測もできない。

  

  
               神宮寺式押型文土器


=編集後記=
 「神宮寺先縄文時代住居遺跡」一帯の縄文人の食生活は?豊かなものであったのか。それとも食を求めて、次から次へと移動していったのであろうか。今、この付近一帯には新しい住宅が建ち並ぶ、昔も今も暮らしやすい土地なのであろう。この丘陵に立ち、沈む夕日を見ながら平和を祈ったのであろう。       =了=


2008.2.18 発行(48)

 =いつも「明日」があると思うな=
 この世の中には「これは確実だ」といえるようなものは何もない。いたるところに無常の風が吹き荒れ、一切を揺り動かしているからだ。壮年は老いに、健康は病いに、生は死に一切が無常の風に揺り動かされ、いつ、どのように変わるかわかならい状況下にある。

  「明日ありと思う心の徒桜(あだざくら)夜半(よわ)に嵐の吹かぬものかは」

 確かに「一寸先は闇」であり、何が起こるかわからない。そこでは、鬼神の姿に変身した帝釈天が修行者に対して次のように説き示している。

 「諸行無常(しょぎょうむじょう)(諸行は無常なり)・・・ いろは匂へど散りぬるを
是生(ぜしよう)滅法(めつぽう)(是れ生滅の法なり)・・・我世たれぞ常ならむ生滅々(しょうめつ)己(い)(生滅々し己り)・・・ 有為の奥山今日こえて寂滅為楽(じゃくめついらく)(寂滅を楽となす)・・・浅き夢みじ酔ひもせず」

 ゲーテはその著「ファウスト」の中で、「とまれ!人生はいいものだ」といっている。

 私たちの人生にも、ときおり「ああ、このまま・・・」と、不変を熱望する瞬間がある。
 しかし、そうはいかない。「いろは匂へど散りぬるを」と歌われるように、世の中の一切の現象、万物はつねに変転してやむことがない。だれの生命にしても、「我世たれぞ常ならむ」で、しばしば一瞬のうちに無常の風に吹き飛ばされてしまう。にもかかわらず、私たちはそれぞれ自分なりに小賢(こざか)しい分別(有為(うい))を尽くし、自分の都合のために作ったものを「常あるもの」として執着するが、「行く川の流れは絶えずして、然も本の水にあらず。よどみに浮かぶうたかたは、かつきえかつむすびて、久しくとどまる事なし。世の中にある人と住家と、又かくの如し」(鴨長明「方丈記」)なのである。

 だからこそ、私たちは「有為の奥山」をこえ、酔生夢死(すいせいむし)を避ける道を見出さねばならないのだ。死の腕は、まさに誕生の瞬間に生命の首に巻きつく。咲く花は必ず散る。花咲き、実を結び、そして壊滅する。現世のこの宿命を覚悟すればこそ、精一杯に今をいきられるのだ。                   「釈迦の遺言」 志村武著より
=編集後記=
 過去と他人は変えられないが、自分と未来は変えられる。今、いま、いまこそ!



2008.2.16 発行(47)

 =自由自在に救済――如意輪観音さん=

 変化観音のひとつです。二臂、四臂、六臂の姿がふつうですが、日本では、二臂と六臂の像がもっとも多くつくられました。二臂像のほうが、時代的には古いのです。すでに奈良時代には、飛鳥の岡寺の観音像のように、人々から深い信仰を受けていたものと推定されています。六臂像は平安以後、これも空海がひろめた密教の影響をたぶんに受けたといわれます。
右足を立てひざにした坐像で、右の第一手を頬に当てて思惟(考える)の相にし、第二手は宝珠、第三手は年珠(大きめのじゅず)を持っています。左の第一手は垂らして触地印、第二手は蓮華(れんげ)、第三手は輪宝を持つというスタイル。

★六道救済に対応する六臂
ちなみに如意輪(にょいりん)とは、
@ 如意宝珠+宝輪のこと。宝珠は財宝を意のままに動かすことができ、宝輪は、人間の煩悩を打ちやぶるという説。
A いやいや、如意と輪をふたつに分解してはいけないという説。そのまま一義に解して、「自由自在に、どこにでもころがっていく宝珠」の意味がある、とする説。
 いまでは、ほとけの救済が自由自在であるAの説が梵語(ぼんご)の原意にもっともちかいと支持されているようです。したがって、左右に伸びる六臂が、仏教でいう六道救済に対応しているのもうなづけます。
 六道とは、@地獄(じごく)A餓鬼(がき)B畜生(ちくしょう)C修羅(しゅら)D人(ひと)E天(てん)を指しています。たとえば地獄に堕ちた亡者が、なんらかの救済を受けて、仮に天まで這い上ったとしても、心に少しでも邪悪・慢心が生じれば、たちまちにして、元の地獄へ落とされる、といいます。これを有頂天というのです。だから、人生何によらず、有頂天になって慢心するのだけは、禁もつ、禁もつ、ということです。

 今回は倉治・光明院さんの如意輪観音さんを紹介いたします。
・江戸時代の作 
・形状は二臂
・品質・構造(ヒノキ材)、寄木造り(玉眼篏入)、漆箔。
 体部は一材で、中央で前後に割り、頭部は耳後ろを縦にとおる線で前後二材、差首とする。高かつ部別矧ぎ。両足部に一材を寄せ、両腰脇三角材、右膝部に別材を矧ぐ。
 両手肩・臂で各矧付。
 保存状態は本堂建替え(平成19年)に伴い、如意輪観音さまも製作時代に修復された。
  
   
  

 

 

現在、古文化同好会の中角氏が調査中
・交野山山頂の観音岩はじめ滝の不動明王までの梵字等は法印実傳さんが施主。
・観音岩の梵字、聖観音(しょうかんのん)(サ)に寛文六年(1666)三月廿八日大阿闍梨法印実傳の記銘あり。
・銅版に清正寺之如意輪観音とある。
・光明院に大阿闍梨法印実傳の位牌 貞享三年(1686)十月廿二日とある。
・滝に開元寺があったこと。

=編集後記=
 広報かたの(1.1日号)中角甫氏執筆の「里の仏さん」を見られた光明院のご住職がうちのお寺に法印実傳さんの位牌があると教えて下さった。
もう少し調査が必要、詳細は「瓦版:よもやま便り」に掲載します。



2008.2.15 発行(46)

 =景初三年銘の銅鏡=  
 昭和26年、大阪府和泉市の一古墳から、中国の年号を記した銅鏡が発掘されました。
和泉黄金塚古墳と呼ばれるこの前方後円墳は、海を見下ろす和泉丘陵の先端に築かれています。大阪南部の和泉地域を治めた4世紀の首長の墓と考えられています。古墳の後円部には、3つの長大な木棺が発見され、中央の木棺を包んでいた粘土の中からこの鏡が見つかりました。鏡は、画文帯神獣鏡(がもんたいしんじゅうきょう)と呼ばれ、中国の神仙思想の世界を主要な文様とし、そのまわりにある銘文に「景初三年」の文字が鋳出されていることがわかり、話題を呼びました。
景初三年の年号にはどのような意味があるのでしょうか?

@ 景初三年は、中国三国時代の「魏」で使われた元号で、西暦239を指します。
A この年、邪馬台国の女王卑弥呼が、魏の皇帝に対して使いを派遣したことが三国志の魏志倭人伝に掲載されています。
B この翌年の正始元年、魏の皇帝は、卑弥呼に対して詔書を下し様々な宝物を与えました。
C その中に銅鏡100面が含まれていました。
D 景初三年の年号が記された鏡は、卑弥呼が魏の皇帝から与えられた100面の鏡のうちの1面である可能性があります。

 弥生時代に、中国から運ばれた文物は、各地の遺跡から見つかっています。
前1世紀の北部九州の王は、30面を数えるような多量の中国鏡を墓に納めることもあり、古墳時代までその傾向は続きました。魏志倭人伝にも皇帝から特別に与えられた物の一つに銅鏡があったと記されています。
 中国との交渉権をもった支配者が、銅鏡に秘められた中国の権威を後ろ盾に、その支配を広げていきました。
 4世紀頃の古墳から出土する銅鏡には、前漢・後漢・三国時代の中国鏡が多く含まれています。弥生時代にわが国に運ばれたであろう中国鏡は、どのようにして古墳に納められたのでしょうか。これらの鏡の経歴には、弥生時代から古墳時代にかけての社会情勢の移り変わりを探る重要な情報が秘められています。和泉黄金塚古墳に納められた景初三年銘鏡も、魏の皇帝から卑弥呼に与えられた鏡の一つとして、重要な手がかりを握っています。
                           大阪誕生・弥生時代 参考
=参考=
 画文帯神獣鏡の銘文十四字のうち二字は、発掘当初、完全な文字として読み取ることができなかった。「景□三年陳□作??之保子宜孫」としか判読できなかったのである。
紀年鏡のわが国での出土例が少なかったこともあって、とくに「景□三年」をどう解読することが大きなポイントになった。

 そこで、中国歴代の年号のうち15ある「景□」のなかから古墳時代とかかわるのを選び出した。すなわち ▲景初(魏・AD237〜239年) ▲景耀(けいよう)(蜀・258〜262) ▲景元(魏・260〜263) ▲景平(宋423〜424) ▲景和(宋・465) ▲景明(北魏・500〜503) ▲景武(唐・707〜709) ▲景雲(唐・710〜711)の八つである。
そして、鏡と黄金塚の製作推定年代から景初、景耀(けいよう)、景元のいずれかとされ、景耀の耀は字画上から除いてよいということになって景初と景元にしぼられた。
 銘文の拓影をとり、魏時代の墓誌や碑に残された「初」の字と比較検討したうえ、ついに景初に軍配をあげたといういきさつがあった。


  

2008.2.14 発行(45)

 =耶馬台国いずこ=  (2007.5.18よみうり新聞掲載記事より)

 鉄器や絹 圧倒的な出土量九州説 畿内説 卑弥呼の時代に前方後円墳
古代史ファン最大の関心事、邪馬台国の所在地をめぐって、九州説と畿内説が激しくぶつかりあっている。
 邪馬台国(やまたいこく)の所在地問題は、単なる「お国自慢」の延長ではない。中国の史書の「魏志倭人伝(ぎしわじんでん)」によれば、3世紀前半の倭国は、約30の小国が邪馬台国を盟主とした政治連合体を結んでいた。つまり、邪馬台国の位置によって、当時の倭国が九州北部に限られた地域政権か、ほぼ西日本全域に及ぶ統一政権だったかという違いが生じてくるのだ。
朝鮮半島に置かれた帯方郡から邪馬台国への行程は別図のとおり受け取ると、邪馬台国は九州のはるか南海上にあったことになってしまう。そこで、図(最後)の「行程」の項に示したような「倭人伝」の読みかえが必要になってくる。
・「倭人伝」の記事が日本の文献に紹介されたのは「日本書記」が最初。
・そこでは卑弥呼が応神天皇の母、神功皇后(じんぐうこうごう)に当てられていることから、長く、邪馬台国=大和朝廷と信じられてきた。
・論争が始まったのは、江戸時代中期の朱子学者、新井白石(あらいはくせき)が地名の研究に基づいて九州説を主張してから。
・これに対し、国学者の本居宣長(もとおりのりなが)は畿内説で応じた。
・論争は明治以降も続き、「倭人伝」の解釈をめぐる議論が行き詰まった感のあった
1950年代、畿内説(きないせつ)に有利な画期的な研究が考古学から提出された。
・古墳時代前期(4世紀)の全国の古墳に副葬されている三角縁神獣鏡(さんかくぶちしんじゅうきょう)が、畿内の勢力から配布されたものであることをうかがわせる証拠が確認されたのだ。
・そのうちの1枚に卑弥呼の遣使の翌年にあたる正始元年(240)の紀年銘があることから、三角縁神獣鏡が卑弥呼に下賜(かし) された「銅鏡百枚」に当たるとの認識が一気に広まった。
・ところが、この鏡は中国では1枚も見つかっていない上に、国内での出土数は増え続けて、すでに400枚を超え「卑弥呼の鏡」であるという根拠は危なくなってきた。
・これと相前後して、80年代後半、佐賀県の吉野ヶ里遺跡が大ブームに。
・「倭人伝」に記された卑弥呼の宮殿を思わせる「楼観・城柵」を備えた遺構の発見に、九州は大いに勢いづいた。
・畿内説の弱みは、鏡の副葬された古墳の築造年代と卑弥呼の時代に1世紀近い差があることだった。
・しかし、近年の年代年輪学などの進歩により、初期の前方後円墳が卑弥呼の時代と重なる3世紀前半にさかのぼる可能性が高まってきた。
・つまり、前方後円墳を出現させた初期ヤマト王権は邪馬台国連合そのものであったという解釈が導き出されたのである。
・もっとも、当時の鉄器保有量を見ると、九州北部が畿内を圧倒しているなど、畿内説では合理的に説明できない課題もあり、論争は容易には決着しそうにない。

 

  

 
 


2008.2.13 発行(44)

=大阪市は11年ぶり積雪= その日の交野市内の積雪は

 近畿の平野部に雪をもたらした低気圧は9日午後、本州の太平洋側を東に進み、東海地方、関東甲信越など広い範囲で積雪を観測。当、交野市においても午後5時過ぎまで降り続き大雪となった。10日、早朝より雪帽子の石仏さんを写真におさめるべき、家を出た。

  
  

  
  
  
  


  
  

=編集後記=
 10日朝一に私市→森→寺→かいがけの道→傍示の里→スマイル地蔵→傍示の里→天田 久振りの雪景色に感動!かいがけの道で2〜3人の方を見かけたが、北浦の辻から里に向かう田んぼ道は雪におおわれ、誰一人歩いた跡がなかった。深雪を踏みしめ自分だけの世界に満足。



2008.2.12 発行(43)

=一里塚の今昔 その2= 戦闘機残骸発見
 2005.3.6一里塚より北、第二京阪国道の建設用地から、機関砲と砲弾3発が出てきた。周辺の地下3b余りからは飛行機のエンジンやプロペラも相次ぎ出土した。
60年前、付近上空での戦闘で墜落した旧日本軍の戦闘機「飛燕(ひえん)」の残骸。搭乗していたのは、結婚を控え、歌を残していた23歳の故・中村純一(鹿児島県・鹿児島市)青年兵士だった。1945年に特攻隊員となったが、沖縄戦終了とともに近畿の防衛のため伊丹の基地に配属された。同年7月9日正午過ぎ、大阪を襲った米軍戦闘機約50機を迎え撃とうと17機で出撃したが、被弾し、墜落。純一さんは水田に激突、即死した。
 当時の模様を見ていた人の話では、戦闘機が黒煙を吐きながら自宅の屋根をかすめて落ちていくのを見た。水田に横たわる機体も覚えている。
 JR星田駅を北側に出て高架沿いに少し歩くと中村中尉の鎮魂碑が建立されており、今でもお供えものが絶えない。交野において戦争があったということを示す貴重な記録である。



結婚を控え、歌残し出撃
 「秋空の如く朗らかな心
  深山の雪の如く聖らかにけがれなき
     あきらけき心もち生きよう」
  扇子に書いていたのを弟の三郎さん  
  が書き写した。
  故郷に恋人がいた。
  出撃直前、純一さんは基地の整備士
  に結婚する決心がついたと言って
  戦闘機に乗り込んだ。それが最後の
  言葉になった。
   (2005.4.14朝日新聞より)


  =編集後記=
 星田で米軍機墜落とのラジオ放送を聞き飛んで見に行った父親がしょんぼりして帰って来て「日本機やった」と言った顔が今でも思い出しますと語ってくださった。(銃後の記録より)
 もう二度とこのような悲惨な戦争を起こさない、起こさせないと願っている。




2008.2.9 発行(42)

=一里塚の今昔=  
 一里塚(金門・四馬塚)・東高野街道・中村中尉鎮魂碑
  戦闘機残骸発見・陸軍用地




交野郷土史かるたに
 「路傍には 東高野の一里塚」と詠まれています。一里塚は街道の一里(4`)ごとに土を盛り、上に木を植えて里程のしるしとした塚。道を挟んで向かい合わせに二つ、木はエノキや松が多い。一里塚の起こりは織田、豊臣の時代からつくられはじめたが、全国的には、徳川家康が秀忠(2代・1605−1623)に命じ、お江戸日本橋を起点とした主要街道に築かせてから広がった。JR星田駅から高架沿いを東に向い四辻を北に少し行くと小字名を街道の東を四馬塚(しばつか)、西を金門(かなど)という所がある。その田の中にあった。
 江戸中期ならびに元禄10年(1697)の星田絵図にはそれぞれ「一里塚」と書き、道の両側の盛土のうえに大きな松が一本ずつ画かれている。当時を偲べば、街道には里程の目標と旅人に木陰を与え、休憩するために一里ごとに土を盛って松などを植え、一里塚とか一里松といった。  今は舗装道路となり、毎朝の車通勤ラッシュの迂回道路として賑わっている。現在は古川柳にある「くたびれたやつが見つける 一里塚」となりつつある。
 平安時代、信仰のため旅をする人の通った東高野街道は京都鳥羽から河内に入り郡津、星田を経て高野山まで続いていた。そして一里ごとに目印として、木を植えて、お大師さんを祀ったのが一里塚です。太子堂、今は星田村中の半尺口に移転されています。

 


2008.2.8 発行(41)

=釈尊(しゃくそん)の理想のかたち三十二相(さんじゅうにそう)
     八十種好(はちじゅうしゅこう)=


 仏像がはじめてつくられたのは、紀元一〜二世紀ごろに、ガンダーラ(いまのパキスタン)とマトラゥラ(北インド)地方であるといわれています。どちらが先というのではなくて、偶然にもほぼ同じころであろうと、推定しています。
 その後は、人間の姿でありながら、悟りをひらいた釈尊の理想のかたちを求めて、インド、中国、朝鮮、日本などで、さまざまな仏像がつくられてきました。
 三十二相とは・・・なかでも、理想の釈迦像はこうである、と定めたインド像の龍樹(りゅうじゅ)の説(大智度論)は、ほとけの三十二相として、決定的な影響をあたえました。紀元三世紀ごろのことです。

@ 足下安平相(あくげあんぴょうりつそう) 
           足の裏が平ら(偏平足)で、どっしりと大地に密着します。
A 足二論相   両足裏には、千福輪(せんぷくりん)というめでたい模様があります。
B 長指相    手と足の指は、長く、しなやかです。
C 足跟(そっこん)広平相  かかとはひろく、円満です。
D 手足縵綱相(しゅそくまんもうそう) 
           手足の指のあいだに、水かき状の膜が付いています。
E 手足柔軟相  手足はやわらかくて、高貴の人の相をしめしています。
F 足趺(そくふ)高好相  足の甲は高く盛り上がり、亀の甲ら状です。
G 鹿王延膝(ろんおうえんしつ)相  ひざは鹿のように、丸くしなやかです。
H 正立手過(しょうりつしゅか)膝(しつ)相 直立すると、手は膝までとどく長さです。
I 陰蔵(おんぞう)相    陰部は、体内にかくされているのがふつうです。
J 身広長等相   身長は、手を横にひろげた長さに等しくなります。
K 毛上向相    毛はすべて、上向きです。
L 毛孔生青色相 毛穴はすべて、一本づつの青毛がはえています。
M 金色(こんじき)相    全身がえもいわれぬ金色に輝いています。
N 丈光相    仏体の周囲に、一丈ほどの長さの光が輝いています。
O 細薄皮(さいはくひ)相   皮膚は薄くのびやかで、ちりも汚れもありません。
P 七処(ななしょ)平満相  肩、首、両手足などの肉がやわらかく、円満です。
Q 両腋隆満相  腋の下も肉付きがよく、くぼみがありません。
R 上身獅子相  上半身は、獅子のように威厳があります。
S 大直身相   仏体は、広く端正で、ゆたかな状態です。
○21 肩円好(けんえんこう)相   両肩が円満で、ゆたかな状態です。
○22 四十歯相   歯は四十本並び、白く、あざやかで、清らかです。
○23 歯斉(しせい)相 
        歯の大きさも一定で、すきまはなく、まるで一本に見えるほど。
○24 牙白(げはく)相    上下四本の牙は、白く、するどく、美しい。
○25 獅子頬(ししきょう)相   両ほおのふくらみも、獅子のようである。
○26 味中得上味(みちゅうとくじょうみ)相 
       何を食べても、最上の味をあじわうことができます。
○27 大舌(だいぜつ)相    舌は大きく、広くやわらかく、口から出すと顔全体を
       おおうのに口中では、小さくおさまります。 
○28 梵声(ぼんじょう)相    五種の声を持つ梵天王のように、美しい声です。
○29 真青眼(しんせいがん)相   青い蓮華のように、紺青色の目をしています。
○30 牛眼睫(ぎゅうがんしょう)相   
        牛王のように、長く、美しく、みだれのないまつ毛です。
○31 頂髻(ちょうけい)相    
        頭のてっぺんは、肉が盛り上がって、もとどりを結ったようです。
○32 白豪(びゃくごう)相    
        顔の正面のみけんに、光りを発する白いが巻いています。

 この三十二相のほかに、さらに細かい八十の特徴があり、それを「八十種好」という。
八十種好には、耳たぶが垂れているとすると「耳輪垂成(じりんすいじょう)」、髪の色は真珠のように青いとする「髪色好如青珠(ほつじきこうにょしょうじゅ)」、まゆが細く瑠璃色である「眉如初生月紺瑠璃色(みにょしょしょうがつこんるりじき)」、目(め)が切れ長(きれなが)だとする「広長眼(ひろちょうがん)」などがある。   

 


2008.2.7 発行(40)

 =賓頭盧(びんずる)さん・・・神通力を発揮=  
         私市:獅子窟寺本堂安置

 羅漢の筆頭の弟子を賓頭盧尊者、サンスクリット語では「ピンドゥーラ」といい、かつて飢餓(きが)に苦しむ末法の人々のために食事を供給した故事により、この一尊のみを独立させて寺院内の食堂(じきどう)にまつることがある。また、病人がこの像をさすると病気が治ると信じられ、俗に「お賓頭盧さま」として親しまれている。賓頭盧は神通力にすぐれたといわれ、あるとき、サーヴァッティーの金持ちが竹の上に托鉢(たくはつ)の鉢を載せて、それをとってくる者はないかと集まってきた各宗教の修行者たちに問うと、さっそく賓頭盧が名乗り出て持ち前の神通力を発揮し、一気に飛びあがって、鉢をとってきたという。
これをあとで釈迦が知って、「神通力というものは、一般の人々の前に見世物として使うものではない」としかり、それがもとで賓頭盧は堂外にまつられるようになったのだという。
 
    

 =編集後記= 古文化の勉強会で賓頭盧さんは人目のつかない所におられると言ったところ表(堂外)に出されているとのこと。ここ獅子窟寺では本堂の隅に安置されている。ここも人目のつかないところでもあり堂外と同じであると思うが?人目のつかないところ



2008.2.6 発行(39)

=梅の木伝説(その2)=
 磐船街道(R168)の「梅の木」という所には、「八幡宮」と彫った燈籠があり、その横に梅の木が生えている。これは昔、宇佐八幡から山城へ八幡さんをお送りしてきたとき、梅の木を杖代わりについてこられ、この街道ばたで休憩されたが、八幡宮に近くなったというので梅の杖をつきさして行かれた。その杖から芽をふき出したのがこの梅の木だといわれている。
毎年、さきの放生会(9月15日)には、私市村の神人たちがやはり御前払としてこの梅のずあい(新芽)を持って行くことがしきたりになっている。
  
=編集後記=
 石清水八幡宮に於ける神人制度は、貞観の御鎮座当初より今日まで綿々と継がれた大神との歴史そのものであり、如何に世の態が変化したとはいえこの結びつきこそは史実として誇りに足るものがある。この制度の確立は宇佐から当地への御鎮座に始まることは言うに及ばないが典籍によれば石清水祭(放生会)の歴史に等しい。即ち貞観五年清和天皇の御代に始まり、天元二年頃ほぼ確立され、今に観る行幸の儀に祭儀が斉行されたと観てよいのでは。


2008.2.5 発行(38)

  =梅の木伝説(その1)=
 神功皇后が三韓征伐にお立ちになる前、祖父・迦邇米雷王(かにめいかづちおう)に別れを告げるため祖父の住んでいる天王(京都府田辺町)にお出になった。
 そして暇乞(いとまごい)をしたあと、磐船谷に沿って大和に行かれる途中ちょうど磐船明神の手前に来られたとき、その路傍で兵をとめ休息して食事をとられた。食後、皇后は梅干しの種を捨てられたが、その種が芽を出して立派に成長した。
 その後、平安時代になって男山に石清水八幡宮(859年 僧・行教が勧請)がまつられ、毎年9月15日に放生会が行われるようになり、この放生会の渡御(とぎょ)に御前払(みさきばらい)として私市村の神人が奉仕することになった。その際、神人たちはこの梅の枝を持って行列の道を払うことが、古来からのしきたりとして今に伝えられている。

放生会とは
殺生を禁ずる仏教思想から出た。
捕まえられた魚・鳥を放してやって、その善根によって今後の災禍を免れようとしたのである。明治以後は神仏分離によって放生会という名称は、石清水祭に変わったが、天皇の行事に準じるという長い伝統は今も引き継がれている。
 火長神人(森)は、行列の先頭に立って道を警戒し、これに続いて火灯神人(田辺市興戸)が松明(たいまつ)をもって道筋を照らした。さらに、御前払神人(私市)が行列の前払いをして、道を浄めた行列の最後尾には押えの神人が並んだ。


   

 =編集後記= 放生会絵巻(2巻)H19.11.1市指定文化財に
2008.2.4 発行 (37)  

 =節分と積雪= 今年初めての積雪
◎節分は年に四回行われていた。 
今日、各地の有力な神社では、大がかりな節分の行事が行われている。これは、神道の正月行事からわかれるかたちでつくられたものである。現代では、節分の行事は立春、立夏、立秋、立冬の前日に、その季節にたまった穢れを祓う節分の行事が行われていた。つまり、もとは年に四回節分行事が行われていたのであるが、やがて、そのなか三つがすたれ、もっとも大切な季節である春を迎える直前の節分行事だけがのこされた。
◎なぜ「豆」を投げるのか 
 古代では、節分の日に白米を神に供えたのちに、それをまくことによって厄が祓われると考えられていた。しかし、奈良時代に中国で節分の日に行なわれた追儺(ついな)という行事が日本にとり入れられた。追儺(ついな)とは、災厄をもたらす悪い霊を追い払う行事である。中国では、陰陽五行説にもとづいてその日に豆を用いて悪いものを退ける呪術が行なわれた。陰陽五行説では、豆や桃などの硬い実は「木・火・土・金・水」の「金」を象徴するものとされる。そして、それは刀剣などと同じく悪いものを退ける性質をもつという。
 この考えによって、黄泉国を訪れたイザナギノミコトが桃の実を投げて黄泉国の雷神を追っ払ったとする神話や、桃から生まれた桃太郎が鬼退治をする物語がつくられた。中国の追儺の習俗にならって、日本の節分行事は米をまくものから豆をまくものへと変わった。そして、豆は鬼の目を打つ「魔目」であり、「魔滅」の役割をもつといわれるようになった。


 

  =編集後記= No13号歳神様で今年の恵方は子(ね)で北方位で迎えと書きましたが、南南東の間違いでした。子で北方位を守るのが薬師如来の十二神将です。訂正してお詫びいたします。


2008.2.2 発行(36)

=市内指定文化財紹介=交野市立教育文化会館(交野市歴史民俗資料展示室)

 交野市立教育文化会館(交野市歴史民俗資料展示室)が新たに国の「登録文化財」に。
建物は昭和4年5月に交野無尽金融(かたのむじんきんゆう)株式会社の新社屋として建てられました。
建坪85坪5合(282.7u)、高さ45尺(13.6m)、鉄筋コンクリートの2階建てで、外壁にはスクラッチタイルがはめ込まれています。
 当時としては大変モダンな建物でした。近畿無尽金融株式会社の新立合併に際し、同社の設立者である金沢泰治(かなざわやすはる)氏によって昭和17年11月3日、建物及びその土地全てを発祥の地交野の地方自治向上のためにと庁舎として交野町に寄贈されました。
 その後、昭和45年に庁舎が移動したのに伴い、旧庁舎は交野市立教育文化会館と改名し図書室、資料室などの文化的な活動施設として利用されました。
 平成12年から、これまで寄贈を受けた民具の展示場として、教育文化会館内に展示室「民具のへや」を設けました。そして平成16年4月21日からは、これまで展示していた民具の他に考古資料や古文書を加えて交野市内の歴史を紹介する交野市歴史民俗資料展示室を開設し、嘱託職員2名とわれわれ説明ボランティア6名で水曜日〜日曜日まで、市民皆様のお越しを待っております。一度お尋ね下さい。

  

=編集後記= 平成19年12月1日に指定されました。


2008.2.1 発行(35)

 =市内指定文化財紹介=山野家住宅・天野川堰堤(えんてい)など

 国の「登録文化財」に市内の建造物が新たに「登録文化財」として登録されました。
登録されたのは、私部7丁目の山野家住宅、私市畑山の天野川堰堤・尺(しゃく)治(じ)川(かわ)堰堤・尺治川床固工(ゆかかためこう)の4か所計9件です。
登録文化財制度とは、平成8年に、築造後50年以上経過した建造物の中で、歴史的景観に寄与するもの、再現が容易でないものを対象とし、多種多様の建造物を目録に登録するとともに、それを公表することによって保護の促進を図るために設けられた制度。


 

  登録された「登録文化財」一覧
@ 山野家住宅主屋 1棟(木造平屋建、瓦葺き、建築面積366u)
A 山野家長屋門  1棟(木造平屋建、瓦葺き、建築面積123u)
B 山野家住宅酒蔵一1棟(土蔵造2階建、瓦葺き、建築面積194u)
C 山野家住宅酒蔵四1棟(土蔵造2階建、瓦葺き、建築面積128u)
D 山野家住宅蔵  1棟(土蔵造2階建、瓦葺き、建築面積39u) 
E 山野家住宅土塀 1棟(土塀、瓦葺き、延長47m) 
F 天野川堰堤   1基(石造堰堤、堤長20m、高さ6m)
G 尺治川堰堤   1基(石造堰堤、堤長9.3m、高さ2.2m)
H 尺治川床固工  1基(石造堰堤、堤長9m、高さ1.8m)


   
             F 天野川堰堤

   
                    G尺治川堰堤
 
    
              H 尺治川床固工

=編集後記= 昨年12月1日付けで「歴史民俗資料室」が新たに登録されました。
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ナンバー
2007.12月号 2008.1月号


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