ホームページ
TOPに戻る
よもやま瓦版
(2004年)
今日の話はなんでっか?
バックナンバー
平田語録100号
今日の一言
平田さん
  発行者
  平田政信さん
  瓦版:よもやま便り
      交野市私市4-39-2   平田 政信
☆ 世の中に山とあるような話や、あんなこと、そんなこと、日常のあたりまえのことでも、歳とともに忘れがち、忘れたことを思い出すのが煩わしい、思い出せない今日この頃、チョット書きとめておくことにしました。なにかの参考になればとはじめましたのでよかったら一服にでも……。 
                  

瓦版・TOP 2007.12月号 1月号 2月号

瓦版 2008年 3月号 バックナンバー
83 3/31 =天の羽衣伝承は、「トヨ」と関係があった!=
82 3/29 =「八」を聖なる数とする地域はどこか?=
81 3/28 =私部:住吉神社の大鳥居=
80 3/27 =神棚の飾り方=
79 3/26 =孫と北の大地へ=
78 3/25 =六道めぐる六地蔵=
77 3/24 =瓦版:一番最初につかんだスクープはなんだった?=
76 3/22 ■上皇■法皇 なぜ「院政」を敷くほどの影響力が持てた?=
75 3/21 =最古の貨幣別バージョーン『冨』本銭 (奈良・藤原宮跡)=
74 3/19 =金毘羅さま=
73 3/18 =出雲大社は東大寺大仏殿より大きかった!=
72 3/17 =東車塚古墳(第3次調査)=
71 3/15 =交野東車塚古墳(出土遺物)=
70 3/14 =交野東車塚古墳(第2次調査)=
69 3/13 =親しまれる石地蔵=
68 3/12 =交野の地名:寺(てら)=
67 3/11 =和= 相手の幸せの中に自分も生きる
66 3/10 =観音菩薩の人気の秘密は、その現世利益にある=
65 3/8 =廃千手寺(如意輪観音坐像・聖観音立像):交野市私市
64 3/7 =大坂築城と大坂という地名=
63 3/6 卑弥呼の「鬼道」について=
62 3/5 =墳墓祭祀の出現と青銅器祭祀の消滅=
61 3/4 =魏志倭人伝に見る矛の重要性=
60 3/3 =雛祭りは女の子教育の場=
59 3/1 =他から出土して交野から出土していないもの

2008.3.31 発行(83)

=天の羽衣伝承は、「トヨ」と関係があった!=
 羽衣伝承は日本に何か所か残される有名な話だが、本家本元は丹後半島だ。
『丹後国風土記』逸文には、次のような話が伝わっている。丹後の国丹波(京都府中郡)比治の里の、比治山の山頂に井戸(真名井)があって、あるとき八人の天女が舞い降りてきて沐浴(水浴び)をしていた。たまたま通りかかった老夫婦が、ひとりの天女の羽衣を奪ってしまった。その天女は恥じて水から出られず、そうしておいて老翁は、「私たちには子がないから、どうか留まってほしい」と懇願する。やむなく従った天女は、そののち老夫婦の家を豊にするが、増長した老夫婦は、天女を家から追い出してしまう。さまよい歩き、竹野の郡(京都府竹野郡)の船木の里の村(京丹後市弥栄町船木)にたどり着いた天女は、「ここにやってきて、ようやくわが心は穏やかになりました」と告げ、この地に住むようになったという。この天女が、いわゆる竹野の郡の奈具の社に鎮座する豊宇賀能売命(豊受大神)になったというのである。梅澤氏は、この「羽衣を盗まれた天女」という伝承が、件の万葉歌の裏側にかくされている、と推理した。
つまり、天香具山の「白栲」とは、豊受大神が沐浴している姿を詠ったものであり、「春が過ぎて夏が来る」というのは、穏やかな政局から、激しい、流動化する政局に、これから突き進むのだ、という意味にとった。それはなぜかといえば、「あの白栲をこっそり盗めば、豊受大神は身動きできなくなる」からである。
事ここに至り、七世紀の蘇我の王家が「トヨ」の名を冠していたことが、重要な意味を持ってくるのだ。

   

わが町交野のにも「伝説はごろも橋」がある。
 磐船街道から田原に出る道にかかっている橋がこの橋である。
この「はごろも橋」について「河内名所圖會」に平安中期の歌人曾根好忠の家集「會丹集」の、
天の川にまつわる天女の説話が記されている。

「むかし一人の仙女あり、この渓水に浴して逍遥するところ少年の戯れにその衣をかくす、
  ゆえに帰することあたわず、ついに夫婦となりて三年を経て飛び去るゆえに天の川と号す」
=編集後記= 
天の川にこのような説話が生まれたのは、天の川の往時における風光がきわめて清幽佳麗なものであったからだろう。



2008.3.29 発行(82)

 =「八」を聖なる数とする地域はどこか?=
 日本の文化の形成には南方的な要素が大きくかかわっている。
満州やモンゴルなどの要素が北方的であるのに対して、東南アジアや太平洋諸島の要素が南方的である。中国ではこうしたちがいを揚子江のあたりをさかいに、北と南に分けて考えることができる。中国の北部では、川を「黄河」のように「河」であらわし、南部では「揚子江」のように「江」であらわすのが、そのいい例だろう。朝鮮文化の持つ要素はふつう北方的とされるが、川の呼び名からみるとむしろ南方的である。
 こういう分け方をしたとき、「古事記」や「日本書紀」で代表される日本の神話には、北方的要素よりも南方的要素の方が強い。
 たとえば、「古事記」にでてくるヤマタノオロチ神話のなかには、「八」という数字が次から次から次へとでてくる。高天原を追放されたスサノオノミコトが出雲の国へったとき、一人の娘をなかに泣いている老夫婦がいた。わけを聞くと、老夫婦には八人の娘がいたが、頭が八つ、尾が八つある怪物八岐大蛇のために毎年娘を一人ずつ食べられ、今ではこのクシナダヒメ一人になってしまったという。その八岐大蛇の長さは八つの谷と八つの峡にまたがっている。近々またやってくるというので、スサノオは自分が退治しようと申出て、八塩折の酒を造り、家のまわりの垣に八つの門を作り、門ごとに八つの桟敷を作り、桟敷ごとに酒船をおき、船ごとに八塩折の酒を盛るようにと指示する。
 こうしてスサノオは八岐大蛇が酔いつぶれたところを切りつけて退治し、その尾から草薙剣をとりだすのだが、この物語のなかには、「八」という数字が11回もでてくる。
 なぜ、これほどまでにくだくだしく「八」の字が繰り返し使われるのだろうか?これに限らず、神話には特定の数字が好んで使われることがある。その数は聖数と呼ばれ、民族によってさまざまである。インド・ヨーロッパ語族では三または九、アメリカ・インディアンでは四、ツングースでは五、アイヌでは六といったように。
 これらの聖数はまた、「ぼう大な」あるいは「無限の」という意味にも使われ、日本では「八」がこのような役割もはたしている。
 「八」を聖数とする民族が太平洋西南部、オセアニアに広く分布している事実は、日本人の祖先のなかに南方系の人びとがいたことを示している。

=編集後記=
桜(ソメイヨシノ)開花が大阪管区気象台は26日発表した。平年よりも4日早い。
交野でも寺の桃源郷や倉治変電所、妙見の桜に今年も多くの人が花の下で宴を繰り広げ
ることでしょう。火気の使用、ゴミの持ち帰り、近隣住民の人達に迷惑がかからないよう
注意してほしい。                           =了=



2008.3.28 発行(81)

 =私部:住吉神社の大鳥居=
 住吉神社の石の大鳥居は地震で倒れ、「萬延元庚申年三月吉日辰(1860)再建」された近郊では見かけない大きな石鳥居です。
石材は私部口山から切り出し、つくね飯(にぎりめし)を腹一杯食べ、音頭をとりながら村中の人が北川の川床を修羅に載せてひっぱてお宮まで運んだという。
この時世には事件つづきで改元七連発とめまぐるしく、弘化(4年)・嘉永(6年)・安政(6年)・萬延(1年)・文久(3年)・元治(1年)・慶応と年号が次々変わった。
特に安政期には桜田門外の変や悪疫の流行など暗い事件が多かったので、安政7年(1860)3月18日「萬年も繁栄が続きますように」との祈りを込めて萬延元年と改元されたが、ところが実際は凶作・物価高騰などで人心が動揺。
翌年2月20日に早くも文久元年と変えられている。萬年どころか、1年もつづかなかった「萬延」であった。

参考
 鳥居は最初文政八年(1825)に建てられ三十年後の安政二年(1855)秋、地震により倒れたが、その五年後の萬延元年(1860)に再建された。
鳥居谷(とりいだに)
 住吉神社の東方3`、標高180bの位置にある私部領小字口山(くちやま)で、採石された谷が「鳥居谷」とよばれている(標柱あり)。
この標柱のあるところを少し東南に入ると、東側の急斜面になっているところが採石跡で、この上の背には「だんご岩」と呼ばれている奇岩があり、神聖な気配が感じられる。
まだ、「だんご岩」の確認はしていないので近々、調査に行く。

石引きの唄
 あーやーよいやな 竹に雀はいよー
あーしなよくいな とまる あのよいやせ 
そこせ
とめて とまらせん よいしょ いろのみち

ここはどこじゃと 尋ねて見たら 
ここはひら田の川の中
つくねめし三角 石四角
アヨイヤサッ ドッコイショ

さてもどなたも 石挽きなさる
麦の芽おろしや いつでける
アヨイヤサッ ドッコイショ

頭にきんかん 乗ったか乗らんか
よいやさ 淀の殿さんにしんで
お茶づけよいやさ

(解説)
 住吉神社(私部)の石の大鳥居は、萬延元年(1860)に建てられた。
原材は口山の鳥居谷から切り出され、大阪八軒家の石工三平が加工した。そして、手拭い鉢巻き姿の村人200〜300人がこれを修羅に乗せて北川の川底を曳いていった。
一同が力を入れると、アーエンヤラヤ、ソラドッコイショ、ソラノッテキタの声で采配が動き、この唄の1〜3番がうたわれた。また鳥居の組立てには、4番がうたわれた。

=編集後記=
 現在のように重機や輸送力もなかった時代に、このような大きな石を切り出し、目的地まで運び、加工し、建てる、大変な重労働であったことと思います。
もし、今、何かの災害で倒れ、再建のための労働を課せられたら市民の反応はいかに。
「そんなアホな」・・・で終わってしまうのではないだろうか?
当時の人々の思考力と体力に敬服せざるを得ない。          =了=



2008.3.27 発行(80)

=神棚の飾り方=
 特別の信奉者でなくとも、私たち普通の日本人が日常生活において、神に深くかかわってきていることはまちがいない。
しかし、神棚を飾っている個人の家は、そう多くない。
家のなかに神棚を設ける場合、場所の選定が重要だという。そこは神を祭るところなので、神域となる。それだけに、できるだけ静かな清浄な場所を選ぶことが大切だ。
次に、少なくとも目の高さ以上で手の届く範囲内に設けるべきだという。
棚の向きは南か東向きだ。神を祭る神座は、三種類ある。伊勢神宮をかたどった神明型と、片屋根型、箱宮型といわれるものだ。この三つを合わせたものもある。
いずれも神社をかたどったものなので、正面中央が最上位となる。ここに伊勢神宮の護符を祭り、向かって右側に氏神、左に自分たちの信じる神の護符を祭るのである。
この神座の前の飾り物として、正面中央に鏡をおき、左右に榊を飾る榊立てと灯明を配す。そして、紙でできている幣下げた注連縄を前面の上方に張るが、この場合、注連縄の太いほうが向かって右側にくるようにする。
古来、鏡には神の魂が宿るものとされ、神聖視されてきた。そして姿を映すものというより祭器や権力の象徴であった。
今、私たちがその鏡を神棚に飾るのは、神が照覧するためと、鏡はケガレのない真心を意味する清浄のしるしだからだ。
また、榊を飾るのは「神霊の宿る木」「栄える木」という意味もある。
灯明は、火で照らすことで浄められるからだといわれる。
神棚にはお供えものをする。
これを「神餞」というのだが、毎朝供えるのは、米・塩・水がふつうだ。祭祀があるときには酒、魚介、鳥獣、海藻、果物などいろいろあるが、そのときにふさしいものを選べばよいといわれている。

=編集後記=
神棚の間口が三尺六寸五分に切ってある。
この寸法は一年365日の安泰を祈ることからきたのである。寸法にもちゃんとした意味がある。


2008.3.26 発行(79)
 
 =孫と北の大地へ= 
 今春、3月18日小学校を卒業した孫・雄希くんと3泊4日の「思い出つくりの旅」に出かけました。最初、沖縄方面を計画し、心も体も南国モードいっぱい!
早朝、浜辺でのランニング、美ら海水族館、グラスボート、嘉手納米軍基地などのコースを予定していたがツアー最少催行人員に満たなかったためやむなく変更せざる得なかった。
孫に変更を伝えたところ、雪や流氷も見たかったとのこと、飛行機で行く所ならと変更にも喜んで応じてくれました。
それで行き先も一変して北海道オホーツク紀行(旭山動物園・網走・富良野・層雲峡)に変更して3/21〜24日(3泊4日)旅となりました。

第1日目
神戸空港→新千歳空港→定山渓温泉(泊)

 
 
 

 

 

=編集後記=
 初孫の雄希くん、小学生から中学生に、この節目の時「思い出の旅」を計画し実行できたこと、また今まで数々の旅をしてきたが一味違う楽しい旅が出来ました。何よりも孫と一緒に4日間行動をともにすることができたことに尽きます。         =了=



2008.3.25 発行(78)
 
 =六道めぐる六地蔵=
 お地蔵さんという菩薩は、仏のいない時代に現われて、すべての悩み苦しむ人びとを平等に救済する菩薩であるが、それは、単に人間が住んでいるこの世界だけではなく、その感化は、未来に輪廻する可能性のある六つの世界のすべてに及ぶ一という考え方から、六体の並んだ地蔵尊が造られるようになったわけである。
冥土にある賽の河原で、幼くして死んだ子どもが石を積んで塔を作っていると、鬼が来てこれを崩すので、そこに地蔵菩薩が来て子どもを救うという信仰は、有名な賽の河原和讃にもうたわれているが、このように、地蔵から始まり、輪廻転生する世界に、例外なく現れることを示して六体造られている。
この六地蔵に対する信仰が極めて一般的であったことは、「六笠地蔵」といった子どもに対する物語として残っていることからもわかるが、事実、全国の道ばたや峠などに、左手にはすべて宝珠を持ち、右手には
・経(天上道) 
・梵筺(箱型の経巻・阿修羅道)
・如意(説法のとき僧が持つ短い棒・畜生道)
・錫杖(地獄道)をそれぞれ持ち
・人間道の地蔵は施無畏印
・餓鬼道の地蔵は与願印
地蔵一体だけの場合は、六道の最下位である地獄に教化する姿の菩薩となっている。

  

=編集後記=
 「村のはずれの お地蔵さんは いつもにこにこ 見てござる」と童謡にうたわれたお地蔵さんが、わたしたちの精神生活の大きな支えになっていることは、何人も否定できないと思います。お地蔵さんは、そういう存在なのです。    =了=


2008.3.24 発行(77)

 =瓦版:一番最初につかんだスクープはなんだった?=
いまでも大事件が起きると、新聞の号外が街で配られるが、江戸時代は、宅配制度などないので、すべて、街頭で売られていた。その江戸時代の新聞を「瓦版」という。
放送などないから、江戸時代の唯一のマスコミである。事件や事故を面白おかしく書いて、紹介していた。現存する最古の瓦版は、大坂夏の陣を報道したものだという。それ以前にもあったのかもしれないが、いまのところ、「最古のニュース」は豊臣家の滅亡ということになる。「瓦版」という呼び方は幕末にできたもので、最初は「辻双紙」とか「読売」と呼ばれていた。売り子が街頭で読み上げながら売っていたので、「読売」というのであろう。
「瓦版」という語の由来については、瓦に文字を彫って版下にしたことからという説があるが、現存するのは木版がほとんどで、本当に瓦を版下としていたかどうかは、分からないらしい。版下に使われたと思われる瓦は一枚も発見されていないのだ。
京都の河原町で、芝居に関する情報を印刷したものが売られていたものが、「かわら版」と呼ばれ、それが江戸にも伝わり、「瓦版」という文字が当てられたという説もある。
実は瓦版は、非合法出版だった。現在は憲法によって出版の自由が認められているが、明治憲法でも制限されていたように、メディアの存在は権力者にとっては、邪魔なものである。自分を批判されたくないので、弾圧する。瓦版も、幕府の取り締りの対象となっており、ドラマで見かけるように、大っぴらに売られていたわけではないようだ。
だが、あまり弾圧すると、地下出版となり、何が書かれていて、庶民のあいだにどんな情報が伝わっているのか把握できないので、幕府としても黙認していたのが実情。ただ、内容によっては取り締まっていたようだ。
                    「日本史が100倍面白くなる本」より
=編集後記=
 瓦版:「よもやま便り」昨年12月20日発行以来、3日坊主を、3月をクリアーして
現在77号までやって来ました。これからも自分のメモ帳として続けてまいります。
今後ともよろしくお付き合いの程お願い申し上げます。    =了=



2008.3.22 発行(76)

 ■上皇  ■法皇  なぜ「院政」を敷くほどの影響力が持てた?=
 企業で、社長を辞めた後、会長、あるいは相談役として実権を握り続ける人がいる場合、「院政」と呼ばれることがある。日本史において、天皇の位を息子に譲った後も、上皇・法皇として実権を握った天皇がいた時代があり、そういう政治を「院政」と呼んだのにちなんでいる。もともと、譲位した天皇のことは「太上天皇」といい、その略称が上皇である。最初の太上天皇は、文武天皇に譲位した持統天皇。最後は江戸時代末期の光格天皇。
 いわゆる「院政の時代」は、平安時代末期のことで、武家政権の誕生とともに終わるのだが、上皇という位そのものは、けっこう長く存在していた。
その上皇が出家した場合を「法皇」と呼ぶ。法皇の住むところを「院庁」と呼んだので、そこで政治が行われることを「院政」と呼んだのである。
  
  
   私市:獅子窟寺王の墓・亀山上皇・皇后の供養宝塔

 法皇になった天皇は、宇多天皇が最初。源平の争乱の時代の、白河法皇、鳥羽法皇、後白河法皇が、最も有名な法皇であろう。純粋な法律論でいけば、天皇よりも上位の位はありえないのだが、上皇は「天皇の父」という立場で、天皇に影響力をもち、さらに、自ら院宣という文書を出すことで、官僚機構を動かしていた。院政が生まれたのは、天皇の母方の祖父が外戚として権力を握った摂関政治への反動であったとされる。現行の憲法と皇室典範では天皇の譲位は制度化されていないので、上皇はありえない。
=編集後記=
亀山院御病気の時、獅子窟寺の薬師如来を信仰されて、御全快になったといわれている。
院は平癒の喜びのため、荒廃していた堂塔を再建された。   =了=



2008.3.21 発行(75)

=最古の貨幣別バージョーン『冨』本銭 (奈良・藤原宮跡)=
 奈良県橿原市の藤原宮(694−710年)跡で出土した最古の貨幣・冨本銭(ふほんせん)が、鋳造工房だった同県明日香村の飛鳥池遺跡で見つかったものと字体や材料の成分、重さが異なることがわかった。鋳造時期や場所が異なっていた可能性が高く、富本銭の成立や役割を考える貴重な発見となった。                               
字体の違い
@「口」の上の「一」がない
Aウ冠でなくワ冠
B「口」と「田」の左側がくっついている
C左右の七つの点の真ん中が大きい語穴の縁取りが太い
E小ぶりで字が少し太い


   冨本銭って何?

 中学の歴史の教科書では、708年に初めて和同開珎(わどうかいほう)という貨幣をつくったと書かれています。710年に藤原京から奈良の平城京へ都が移されますが、和同開珎はこの奈良の都を建設するために、つくられた貨幣と考えられています。
しかし、奈良時代につくられた「日本書記」という歴史書には、683年に銅銭を使うように天武天皇が命じた記事や、694年と699年にも、貨幣鋳造のための役所を置いた記事がみえます。この貨幣が一体何か、ながらく大きな謎でした。
冨本銭は1969年と1985年に平城京から発掘されていましたが、奈良時代のまじない銭と考えられてきました。
ところが飛鳥池遺跡の発掘調査で、33枚の富本銭が発見され、7世紀の後半に飛鳥の中心地で富本銭がつくられていることがわかった。
これによって、富本銭が和同開珎よりも古い貨幣であることが明らかになり、先に見た「日本書紀」の記事と関係する可能性が高まった。

富本の意味は?
 「国を富まし、国民を富ませる本」という意味で、貨幣そのもものことです。

どうやって作ったのだろう?
 古代の貨幣は、銭を何枚も粘土に押し付けた裏表の鋳型をあわせ、上から溶けた銅を流しこんでつくります。飛鳥池遺跡の富本銭には、鋳造時に、銭の周囲にはみだした銅や、本体を切り離した跡が残っており、作っている途中で捨てられた失敗品であることがわかります。また、製品を切り離した後に残った湯道(鋳棹・いざお)も出土しており、一度に14枚以上がつくられたようです。まるで一枚の型に流し込まれたプラモデルの部品のようです。

お金の価値は?
富本銭の価値がどれくらいであったのか、残念ながら記録がないのでわかりません。
参考までに奈良時代の和同開珎は、1枚(1文)が一日の労賃であったとされ、お米2160cc(1升2合)が買えた。

=編集後記=
 「富」と「冨」の違いは何か?藤原宮跡で出土した地鎮具の富本銭は、飛鳥池遺跡で出土した富本銭とは、字体が大きく異なっていた。「冨」の字体は現在は使われていないが、飛鳥時代から奈良時代にかけて出土した木簡にも書かれ、当時は広く普及していたらしい。
最古の貨幣新たな謎・・・「造幣局」遷都合わせ鋳造?あなたの見解は?   =了=
  


2008.3.19 発行(74)

=金毘羅さま=
 江戸末期の俗謡に、「こんぴら舟々、追い手に帆かけてしゅらしゅしゅしゅ」という陽気な歌がある。ここで歌われているのが金毘羅さまである。歌詞に舟が出ているように、海と航海に関わる神である。
「こんぴら」とは、日本語としては不思議な響きだが、全国に「こんぴら」という名の社は多い。漢字は、琴平、金刀比羅などがある。
 さて、この金毘羅さまの本家は、香川県琴平町にある金刀比羅宮である。全国にある金毘羅さまは、この金刀比羅宮の分社である。金刀比羅宮は明治期までは、金比羅大権現と呼ばれていた。典型的な神仏習合・神仏混淆の神社である。
 祭られているのは、大物主神という。聞きなれない名前だが、これは大黒さまこと大国主命の別名でもある。
 また、1156年の保元の乱に敗れて讃岐の国(香川県)に流刑となり、この地で亡くなった崇徳上皇も、金刀比羅宮に祭られている。上皇が金毘羅大権現を深く信仰していたからだ。このような由緒を聞くと、金比羅さまは日本古来の神のように聞こえる。しかし、そうではない。
 金毘羅は、元はサンスクリット語の「クンビーラ」からきた言葉である。クンビーラは、インドのガンジス川に住むワニの神の名まえである。のちに、クンビーラは、仏教に取り入れられ、仏法の守護神となり、中国経由で日本に伝わった。クンビーラは、日本人にはあまりに発音しにくかったのか、いつの間にか「こんぴら」となった。
 ワニは水辺にいることから、竜神、海神という水に縁のある神となり、航海の安全を守る神、漁民の間では宝漁祈願の神ともなっている。
農村では農神、水神として信仰された土地もある。
 江戸時代から金毘羅宮参りは盛んだったが、当時の人たちは、はたして自分たちの拝んでいるものが、もとはガンジス川のワニ神だったと知っていただろうか。

 

 
=編集後記=
 わがまち交野にも、「金毘羅大権現」の信仰が「かいがけの道」にある。
竜王山の麓、寺住吉神社から傍示に通じる道、ごみの木地蔵(阿弥陀仏)を拝み通り過ぎたところの右側にその石標がある。
交野の場合は農神、水神さんとして信仰されていたのでしょう。
                               =了=



2008.3.18 発行(73)

=出雲大社は東大寺大仏殿より大きかった!=
 平安時代の「口遊(くちずさみ)」という本の中に、「雲太・和二・京三」という言葉がある。当時の建造物の中で、日本一の大きさが「雲太・出雲大社」、二番目が「和二・大和の東大寺大仏殿」、三番目が「京三・平安京大極殿」だったというのである。
現在の出雲大社の、本殿は18世紀に建てられたもので、高さは八丈(24b)だ。これでは大仏殿には勝てない。そうなると、出雲大社に残されていた伝承で今の倍の16丈(48b)、あるいは四倍の三十二丈(96b)あったというのである。
一方出雲国造家(いずもこくそうけ)には、「三本の柱を一本に束ねて、それを何本も屹立させる」という奇妙な設計図『金輪御造営差図(かなわごぞうえいさしず)』が残されていたが史学者たちは、「現実味がない」と、相手にしなかった。

  

ところが、2000年4月、出雲大社の地下室工事に先立つ発掘調査によって金輪御造営差図にあったそのままに、奇妙な巨大な木柱(宇豆柱・うずばしら)が、姿を現したのである。出雲大社境内遺跡の出現である。

  
現在の出雲大社の大きさなら、このような巨大木柱は必要なく、柱の太さから逆算すれば、かつての出雲大社の大きさは、伝承通り、今の倍、あるいは4倍あった可能性も出てきた。そして問題となってくるのは、もし通説通り、出雲の国譲りが根もないほど巨大な神殿を造る必要があったのか、ということになる。
  
  

=編集後記=
 2007.6.9孫の雄希くんと一緒に出雲大社と古代出雲歴史博物館(2007.3.10開館)に行てきました。博物館内は「島根の人々の生活と交流」「出雲大社と神々の国のまつり」「青銅器と金色の太刀」「神話の回廊」のセクションに分けられ展示され日本文化の基層を浮きぼりにし、出雲に象徴される古代のこころとかたちが、歴史と文化が表現されていました。                       =了=



2008.3.17 発行(72)

=東車塚古墳(第3次調査)=
第2次調査により、当古墳は墳長60b前後の前方後方墳であるとほぼ断定された。
しかし、それらを確定するには、まだ資料が不足していた。
このため、再度古墳の範囲と墳形の確認を目的として第3次発掘調査を実施、古墳の東端と西端部並びに北端部を確認するため7本のトレンチを設定調査した結果、前方後方墳であることが判明した。
まとめ
・墳形は前方後方墳となる。
・この形は市域だけではなく、周辺地域においても確認例はない。
・前方部が原形をとどめていない。
・復元可能な範囲で値を割りだしたところ、墳長は約65bを越える。
・後方部の高さ約6b、後方部幅約33.5bを測る。
・墳丘の段築は後方部3段、前方部2段の可能性が高い。
・内部主体は木棺直葬の形体をとる。
・割竹形木棺1基、箱形木棺2基(埋葬時期不明)の合計3基から構成されていた。
・割竹形木棺の長さ8.1b、幅0.7bの巨大な木棺。
・棺内からは多数の副葬品を検出した。
・朱の分布している位置、遺物の配列状態により埋葬遺体は2体と考えられる。
・主な遺物から時期を考えると、前期的色彩の濃い筒形銅器・巴形銅器・
 石製腕飾類(石釧)
・比較的新相を示す、石製模造品(琴柱形石製品)・ミニチュア鉄製品類が同時に出土。
・定形化した甲冑である小型三角板の革綴衝角付冑・襟付短甲も出土した。
・円筒埴輪の製作技法などから古墳時代中期の中でも比較的早い時期、5世紀初頭があて
 はめられると考えられる。
   「交野車塚古墳群交野東車塚古墳(調査編)」2000.3 参照

 
 
 

=編集後記=
 当古墳の発掘調査の規模は最大規模、最初で最後のものと思われます。
倉治古墳群の発掘を通じて「ふるさと交野の考古の礎」を生み出したように交野車塚古墳群の発掘調査は多くの後継者を輩出した。当市には、まだまだ未発掘の古墳が多く残っている。いつか、調査する時期があれば、これからの交野を守ってくれる後継者にも出会えるかも。                              =了=


2008.3.15 発行(71)

=交野東車塚古墳(出土遺物)=
昔から「車塚」と呼ばれていた当古墳は、周囲とは2b程高くなった東西60b、南北15b〜20bの台地状で2枚の畑に分かれていた。
この東側部分は高さ39.2b、西側部分は40.2bで自然地形に反して西側(校舎側)が約1bほど高くなっていた。

日本一長〜い木棺跡
・木棺にコウヤマキが使われていた。
・コウヤマキは耐水・耐湿にすぐれ腐りにくい性質。
・民俗学的に霊魂の宿る聖木との伝承も残る。
・また木棺に残る朱は古代宗教的に邪霊を追い払う力があると考えられており、粘土棺床
 や木棺、石壁などに大量の朱が塗られていた。
・遺骸は北枕で安置されていたが、宗教的思想はこの時代にはなく、ここに中国的思想の
 影響が考えられる。


・四乳四獣鏡(舶載鏡) 1  舶載鏡とは輸入品  ・四獣鏡(ほう製鏡)   1  
・盤龍鏡(ほう製鏡)   1  ほう製鏡とは国産品
装身具
・勾玉  1  ・管玉 94  ・棗玉(なつめ) 7  ・臼玉  2.525
・石釧  1  ・琴柱形石製品 5
武器・武具
・三角板革綴衝角付冑  1  ・三角板革綴襟付短甲  1  ・錣(てい)  1
・鉄刀  4  ・鉄剣  6  ・筒形銅器  1  ・巴形銅器  1
農工具
・鎌  22  ・手鎌  9  ・鍬・鋤先  8  ・斧  17  
・錐(きり)  9  ・?(せん)等  31  ・鋸(のこぎり)  2  ・刀子 14
・蕨手刀子  9  ・その他鉄器  5

水野正好奈良大学教授(現・大阪文化財センター理事長)は、当時鉄製の大工道具は、盾などの木製品を作ったり、家の建築に使っていた。ただ、交野で出土した鉋や手斧には、木の柄が取り付けられておらず、未使用品と見ている。「鉄は貴重品だったので、使う前に木箱に詰めて副葬品にしたらしい。大和朝廷から授かったもののようだ。朝廷では実用品として作っても、授かった地方の豪族は権威のシンボルや宝物にしていたことを物語る」と説明している。       
    (昭和63年11月15日よみうり新聞記事より)






2008.3.14 発行(70)

 =交野東車塚古墳(第2次調査)=
 No 54号(08.2.25)の続編で第2次調査模様を掲載いたします。
一面見渡す限り水田の広がる交野市寺南野の地に、大阪府立交野高等学校が建設されることになり、事前に試掘調査が行われた。
第1次調査(試掘調査を含む)は、昭和47年12月16日より翌48年7月12日まで行われた。試掘調査初日に予期しなかった筒形銅器・巴形銅器を発見し古墳であることを確認し、静かに埋め戻した。
第二次調査
 この古墳の北側を流れる南川の緑道整備工事に先立って調査が行われた。
昭和63年8月22日より作業が開始され、第1次調査の際、筒形銅器・巴形銅器・短甲の一部を発見した場所、保存用に敷き詰めた砂を取り除くと、緑灰色の粘土塊とともに薄桃色の朱と短甲の一部を確認、本格的に主体部の調査が始まったのは、同年10月17日より、その結果、未盗掘で8bの木棺跡に2人を埋葬?副葬品も多数発見された。



=編集後記=
 次号に発掘当時の木棺跡や遺物の出土状況写真を予定しています。  =了=



2008.3.13 発行(69)

=親しまれる石地蔵=
 地蔵菩薩ほどポピュラーな仏はないし、いかなる願いでも気易くかけられる仏もない。しかもどこにでも立っている仏である。
しかし、これは石像化されたために、いかなる野外にも路傍にも小堂にも立っておられるのであって、これが木像であればどこにでも安置してまつるというわけにはゆかない。地蔵菩薩の木像が朽ちたり色が剥げたりした姿は、普通の仏像とちがって痛ましく、うす気味わるい。
これは地蔵菩薩が唯一の人間(比丘)の姿をした仏だからで、ここにこの仏への親しみの原因の一つがある。
すなわち多種多様な地蔵信仰を分析してゆけば、結局は日本人のもっとも根源的な信仰対象である「祖霊」または「先祖」を仏教化したものにほかならないことがわかってくる。地蔵菩薩は現世と来世の救済者だという。
阿弥陀如来は来世だけの救済者なので、死んだ後でしか用はない。もしそれ以外のことをお願いすれば「雑行雑修」だといって叱られてしまう。

   

=編集後記=
 住吉神社の宮寺、元禄時代に現在の位置住吉大明神と神徳山現光寺という宮寺があり、その宮寺の社僧として空蝉という僧がおられた。歴代宮寺のお墓が東南の藪の中にある。
その中におられる地蔵さんで「空蝉藪の地蔵」さんと呼んでいる。
像高66a:室町時代中期。      =了=



2008.3.12 発行(68)

=交野の地名:寺(てら)=
 寺は倉治と同じく村の位置を変えている。
最初の寺の集落は交野高校の北側、今池の南、田んぼの中にあった。
小字名は「いまい」と言っている。それは弥生時代、稲作を中心とした集落で、村の名を「てるは」と呼んでいた。
しかし、古墳時代になると大陸から新しい文化が入り、また、渡来人もやってきた。彼らは進んだ文化、技術を持っており、大和、山背、河内のあちらこちらに居を構えた。
交野の地にもやってきた。
津田山(つだ)・交野山(倉治)・竜王山(寺)の三ヶ所に別れて住んだが、彼らは製糸や機織の技術に優れたものを持っていた。
寺の背後にそびえる竜王山の麓、現在の寺の集落の地に住んで機織を専業とした。
その村の名を「はたやま村」と呼んだ。
進んだ技術をもって生産した製糸は、当時の日本において高級品であった。
それゆえ、この村の支配者(豪族)は相当の力を持ったであろう。
寺の周囲に点在する多数の横穴式古墳が存在することでも、そのことがうかがわれる。
この繁栄も長くは続かなかったらしい。竜王山一帯は風化した花崗岩地帯である。一度、大雨、集中豪雨でもあれば、多くの土砂を下に流す。それによって崖崩れ、川の氾濫、土石流等によって、麓の「はたやま村」も寂れ、また、下の「いまい」にいた「てるは」の人々は山麓の尾根筋を中心とした場所に移り住み、農耕は北川、南川に挟まれた低地へ出向いていった。元の「はたやま村」ではなく、農耕を主にした「てるは村」になった。
その「てるは」が時代が下がるにつれ、いつのまにか「てら」となってしまったということである。

 寺とは
中国の漢時代(弥生時代)に、外国の使臣を泊める役所あるいは、官庁を指し仏教僧がインドから来朝した時に鴻臚寺(こうろうじ)という役所に泊まったところから次第に僧侶の住居を寺というようになった。
寺をテラと呼ぶのはパリー語(インド古語)のテーラ(長老)韓国語のチョル(礼拝所)日本語の「照らす所」から転化したとの三説がある。交野の寺は「照らす所」であろう。今井に村があったころ、朝日が登り、村の木葉に日が差し込み、葉っぱが日照るところから「照る葉」が転化し、てら・テラ・寺となったという説はいかがなものか?

 
          2008.2.23 寺・今井から交野三山を見る

=編集後記=
 知ってしまえばそれまでよ、知らないうちが花なのよ。
交野の地名の大部分は、名もない庶民によってつくられた。地名の中で、それがつくられた由来を正規につかめるものはきわめて少ない。
地名調べもそんなものかもしれない・・・・これから交野の地名も順次紹介します。



2008.3.11 発行(67)

=和= 相手の幸せの中に自分も生きる
 どんなに自分が心を和やかにしていても、相手の我欲に腹が立って、和の心を忘れてしまうことがある。
そんなとき、心に湧いてくるのは、聖徳太子の和の精神だ。
「十七条憲法」に、「和を以て貴しと為し、忤うこと無きを宗と為せ」と記されている。
聖徳太子は、憲法の第一条に、和の精神をもってきている。
まわりとうまくやるためには、お互いが、我欲を捨てて、相手のことを優先して考える。
相手の立場をじっくりと考える。
相手の幸せの中、自分も生きて幸せになる心が、和なのである。
和は妥協からは生まれてこない。
自己を捨てるところから、真の和は生まれてくる。
                    「心が晴れる禅の言葉」赤根祥道著より

    

第一条全文を記す
一に曰く、和をもって貴(とうと)しとし、忤(さから)うことなきを宗(むね)とせよ。人みな党(たむら)あり。また達(さと)れる者少なし。ここをもって、あるいは君父(くんぷ)に順(したが)わず。また隣里に違(たが)う。しかれども、上和(かみやわら)ぎ、下睦(しもむつ)びて、事を、論(あげつら)うに諧(かな)うときは、事理(じり)おのずから通ず。何事か成らざらん。  
(原文漢文体だが、ここでは読み下し文で紹介)

=編集後記=
「自然と人の和むまち 交野」でっせ



2008.3.10 発行(66)

=観音菩薩の人気の秘密は、その現世利益にある=

 弥勒菩薩のように遠い未来(56億7千万年後)にあらわれて衆生を救済するのでもなければ、釈迦如来のように過去の世にあらわれた仏でもない。
現在、この世にいて、我々を救ってくれるのが観音菩薩の最大の特徴ということができる。
法華経の観世音菩薩普門品(ふもんぼん・通称:観音経)には、この世で苦しみにあえぐ衆生が、この観音菩薩の名を一心にとなえれば、観音菩薩はすぐにその声を聞きつけて、即座に救ってくれる、という観音菩薩の巧徳が説かれている。
 観音菩薩は片時も休むことなく、すべての人々を観察し、観音の名を称えて助けを求める人があれば、すぐに救ってくれる、しかも、どんな願いでも聞き入れてくれるというものである。このような性格をもつ観音菩薩は阿弥陀如来の補佐役として、極楽浄土で活躍するだけではなく、あらゆる世界で救済の活動に専念していると信じられています。そして観音菩薩は人々の多様な願いに対応しなければならないので千手観音等、さまざまな変化身が考えられるようになった。観音経には観音の33身が説かれている。観音菩薩が衆生の救済の種類に応じて、さまざまな姿に変化することを示している。このように、今すぐにあらゆる願い事をかなえさせてくれるという性格から観音菩薩は早くから盛んな信仰を集めた。
 
  

=編集後記=
 この観音様は獅子窟寺の本堂を中心に三十三観音道におられる如意輪観音さまで優しいお顔立ちである。如意輪とは自由にどこへでも転がっていく宝珠(釈迦の遺骨容器)の意味があり、自由自在に人々を救う観音さまである。=了=



2008.3.8 発行(65)
 
=廃千手寺(如意輪観音坐像・聖観音立像):交野市私市
 千手寺は私市の院田(いで)にあり山号亀王山、寺号は観音寺ともいいました。
元禄年間に記された禅僧月潭の「獅子窟寺記」に、亀山上皇(90代・鎌倉1260-1274)が紀伊熊野神社参詣滞在された時、体の不調を訴えられました。ちょうど熊野三社の高官であった叔父静仁法親王の勧めで、獅子窟寺の薬師仏にその平癒を祈願され、ここを行在所となったが、後に千手観音像を祀って寺院とした。
 この後大坂の陣の頃諸堂は焼き払われ廃墟となりましたが、江戸時代に再興され、幕末まで存在しました。現在は、寺域の一部に収蔵庫が建てられ、地元の人々によって市指定文化財の仏像をはじめ多くの仏像が祀られています。
  [交野郷土史かるた]より

  

○交野郡 観音寺(千手寺) 星田寺 神福寺(不明)  天野山金剛寺
(奥書)
「大灌頂次第 金剛界」
「大灌頂次第 胎蔵界」
康和四年(1102)十二月一日 河州国交野郡観音寺伝法巳了
                


=編集後記=
このあたりを院田(いんでん)といいます。病気も良くなり、大変お喜びになって、ここに観音寺をお建てになりました。このお寺の維持のため、田をお与えになったので、院田(亀山院の寄進された田)という地名が残った。現在は井出(いで)と呼ばれている。   =了=


2008.3.7 発行(64)

=大坂築城と大坂という地名=
 いまの天守閣は、豊臣秀吉がつくった天守閣から数えて、三代目になります。
秀吉のつくった初代の天守閣は、天正13年(1585)ごろできたのではないかと思われ、それが元和元年(1615)の大坂夏の陣で焼けてしまったので初代の天守閣というのはたった30年しか存在しなかったことになります。
 二代目は、夏の陣がすんで数年してから、徳川幕府が改めて大坂城の大改築をいたしますが、これは前後11年もかかる大工事で、西国の大名家を動員して焼けた大坂城のあとに徳川製の大坂城をつくります。ところが二代目の天守閣も、できてからわずか39年、四代目将軍家綱の寛文5年(1665)に、落雷で焼けてしまいます。
 そんなわけで、初代も二代目も、存在期間はごく短かったわけです。それ以来、ずっと昭和の時代まで、大坂城には天守閣がありませんでした。それが昭和になって、現在の鉄筋コンクリートの天守が再建されたのは昭和6年の10月7日です。
【交野の郷土史かるた】
 豊臣秀吉が大坂築城の時、諸候に命じて巨岩を運ばしましたが、この磐船の巨岩もその中に入れられました。石屋に命じて石を割ろうとしましたが石から血が出たため、そのままにされたと伝えられています。昔の説話ですが船形の巨岩が生きているような巧みな話といえましょう。                         =以上がカルタ札の解説より=

「ふるさと交野を歩く・山の巻」の磐船神社の項では、大阪築城のとき、加藤肥後守清正が持ち出そうとした伝説の石である。
御神体である巨石の頂部に加藤肥後守の銘文が彫られている。
また、左側に小さく彫られているアイリンは意味不明である。
  

 大岩には上記銘文拓本のとおり加藤肥後守と彫られているが、従五位上、侍従・肥後守に叙任されるのは慶長10年(1605)の43歳の時である。叙任とは位を授けて官に任ずること。
初代天守閣が出来たのは天正13年(1585)頃にはまだ肥後守は名乗っていなかった。
少し、疑問が残るので私なりに整理した。
@ 普請を開始した日が、天正11年(1583)9月1日。それからずっと工事が続く。
A 最終的には慶長3年(1598)8月、秀吉は伏見城で病死。
B 死ぬ直前まで病床から奉行を呼びよせて「外郭一里余にわたり塁塀を構築」せよと
  命じている。
C つまり15年間、断続的にせよ大坂城の構築・補強に対して、力を注いでいた。
D 第一期は天守を中心とした本丸の工事(天正11−13)。
E 第二期が、それ以降天正16年(1588)4月まで、主として二之丸の工事。
F 第三期は、文禄3年(1594)、惣構(そうかまえ)堀(ほ゛り)の普請です。惣構堀という
  のは、城のいちばん外郭の堀のことで築城工事は全部終了というわけです。
G 秀吉は慶長3年、死ぬ直前に「外郭一里余にわたり云々」という工事を最終的に付け
  加えている。これが四期の三之丸の工事ではなかったか。
以上のことから「加藤肥後守」という銘は、叙任されてから思い出深い巨岩に追刻されたのでしょうか?

=大坂という地名=
 明応5年(1496)、石山に本願寺を建立した第八世蓮如(兼寿)の82歳のときの手紙の中に、「摂州東成郡生玉之庄内大坂」(蓮如御文)と出ています。
これが、大坂の地名が文献にあらわれる一番古いものとみられています。
生玉庄とは、もと京都の相国寺の領地であったといわれ、生魂神社と関係があるとも思われますが、熊野へ参詣する途中の王子と呼ばれる小さな社のあった所だとみられます。
おそらく現在の上町台地の北の方だったであろうと考えられます。
  参考資料:「大阪城400年」・「ふるさと交野を歩く・山の巻」・「交野郷土史かるた」

=編集後記=
 私なりの見解であり、急いで整理したこともありこれからの課題であります。
「交野郷土史かるた」には諸候に命じてとあるだけで加藤肥後守はふれてないので問題はないと思いますが。




2008.3.6
 発行(63)


 邪馬台国の時代
卑弥呼の「鬼道」について
Q:卑弥呼とは
A:歴史書(魏志倭人伝)に記載されている日本最古の謎の女王です。
Q:女王になるまでの卑弥呼は
A:「鬼道に事(つか)え、能(よ)く衆を惑わす」と書かれています。
Q:鬼道というのは
A:原始的な呪術と捉えると、卑弥呼は恐山の巫女さんのようなシャーマンというか、呪
  術者ということになる。しかし、それだけではなく、中国の初期道教の思想を採り入
  れた新興宗教の教祖であったというふうに考えられています。
Q:卑弥呼は「魏志」倭人伝の記述からすると
A:3世紀になった頃、つまり紀元200年前後のあたりに、倭国30ケ国の女王として擁
  立されたものと思われます。
  そのとき20歳前後だったと思われます。
Q:それまで何をしていたのか
A:おそらく山の霊だとか、天の神様の啓示を受けたとか言って呪術で病人や悩める人た
  ちを治し、非常に効験あらたかな呪術者として、大勢の信者を持っていたと思います。
Q:当時、卑弥呼が着ていた服は
A:絹の服でしょう。これが女王になると、倭錦(わきん)、錦の服に代わる。
  それまでは絹の服を着、ガラス玉を首から胸に下げて、キラキラさせていた。そして
  おそらく、吉野ヶ里遺跡から出てきたような、ライトブルーの管玉でつくった冠のよ
  うなものをかぶり威厳を示していたと考えられます。
Q:男性関係は
A:推測し難いがなかったとは言えないでしょう。
Q:卑弥呼が朝早く起きて自分の屋形の外に立つと
A:もうすでに信者たちが集まっていて、そこらあたりを清掃したりしている。おそらく
  信者たちは自分たちで泊まるところをつくったと思われます。
  卑弥呼のご託宣を聞きに、各国から大勢の信者たちが集まって来たでしょうから。
Q:その信者たちに何を
A:卑弥呼は道教によると「神の水」と称する水を飲ませて、病気の治療に当たったり、
  悩める人たちを救ったり、神のお告げを伝えたりしたと思われます。
Q:水を与えたというのは
A:当時の中国の新興宗教もそういうことをしているので、それと同じようなことをして
  いたのではないかと思うから。
Q:その当時のクニというのは
A:いまでいえば1つの郡、吉野ヶ里遺跡でいえば40fの環濠集落と周辺の遺跡を含め
  た位の大きさです。もちろん大きなクニと、小さなクニがあったわけですが、郡ないし
  小さな市ぐらいの大きさであったと考えていい。
Q:卑弥呼と邪馬台国について語ることは
A:当然「魏志」倭人伝について語ることになる。その際、江戸時代以来いちばん問題に
  なっているのが、邪馬台国の場所です。
  卑弥呼は擁立されて女王となって邪馬台国に都を持ったわけですが、その邪馬台国が
  どこにあったのかはこれが江戸時代以来、論争の的になっています。
Q:これまでにさまざまな場所が指摘されているんですが
A:太平洋の中などの説は度外視して、主な説は九州と畿内の大和の二つに分かれます。

 
=編集後記=
 謎の巫女王の真の姿は?
邪馬台国の女王・卑弥呼。
魏志倭人伝の短い記述以外、すべてが
謎に包まれている。
倭人伝に言う「鬼道」とは何か?
古代のシャーマンとは?
卑弥呼とは何者だったのか?
そして最期は?
?・?・?なぞの女王は?
所在地論とともに卑弥呼とは?

これからも、いろんな書物と推論を
もとに邪馬台国の世界に入って
いきたい。

=了=



2008.3.5 発行(62)
 邪馬台国の時代
 墳墓祭祀の出現と青銅器祭祀の消滅
Q:出雲は弥生後期に入ると
A:倭人の墳墓と思えないような四隅突出方墳が出現し、越中にまでひろがる。
  この新しい墳墓祭祀と青銅器祭祀の消滅は無関係ではあるまい。首長権力の強化が
  青銅器祭祀を必要としなくなったのである。
  同じ例は、吉備の楯築遺跡に象徴される王権の出現が青銅器祭祀の消滅につながった
  ことにも見られる。
Q:邪馬台国東遷後の大和王権は
A:巨大前方後円墳をつくることで、兵士たちが気勢をあげる青銅器祭祀を廃止したので
  ある。首長級の墳墓祭祀が、村落共同体の青銅器祭祀にとって替わった。
Q:問題は纏向遺跡だ
A:住居跡や倉庫がないのは、やはり聖都であろう。
  いつつくられたについては、卑弥呼王権の前夜を考えたい。女王の死は、248年頃
  だから230年〜240年代ではないか。
Q:大和を都とすることについては
A:吉備・出雲が重要な役割を果たしたものと考えてよい。
Q:卑弥呼が亡くなった後
A:北部九州で台与が女王となるまで男王問題の争いで半年か1年かかったとすると台与
  は250年頃には女王となっている。
  おそらく台与の東遷はその頃で、卑弥呼が都とした邪馬台国の国名は、東遷と共
  に大和の東南部にも移りヤマト(倭)となったと思われる。
Q:前方後円墳は「壺形の宇宙」
A:中国では死者は一度壺の中に入って、壺の中を通ってはじめて天上世界、神仙世界に
  行けるのだと言っておられます。そして、そのような壺の観念は広く世界的にあったと
  指摘されています。
Q:そうだとすれば
A:前方後円墳の前方部を上にしてみますと壺の形をかたどったのだろうと思われます。
Q:中国の漢代には五罐という口がいくつも肩の所に付いている壺がみられるのは
A:そこも死者の出入りする所であり、そうした壺の口を霊が出入りするという形をとる
  のだろと思われます。
Q:つまり、霊が天上世界に行き来するための出入口ということですか
A:そのほかに霊が地上世界、現実世界に降りてくる出入口もあって、後者の出入口に
  相当する古墳の墳丘部分がくびれ部の造り出しだろうと思われます。


 

=編集後記=
引き続き前方後円墳の起源は「壺」か・・・を探っていきたい。   =了=



2008.3.4 発行(61)

 邪馬台国の時代

魏志倭人伝に見る矛の重要性
Q:倭人伝には「兵は矛・盾・木弓を用う」とはっきり述べているが
A:剣ないし刀でないところに重要性がある。
  兵は武器と考えられる。九州では、弥生中期に入ると鉄剣が使用されるが、後期に
  なると九州以外の地域でも使われるようになった。
Q:倭人伝は「宮室・楼観・城柵を厳かに設け、常に人あり、兵を持して守衛す」とある
A:この宮室・楼観・城柵がそろって出ているのは、今のところ吉野ヶ里遺跡だけだが、
  守っていた兵が持っていた武器は矛であろう。
Q:この矛は
A:記紀の国生みの神話において登場する。
  イザナギノ命は、矛で海原を掻き廻しその滴でオノコロ島(沼島?)をつくり、そこ
  でイザナミノ命と媾合い、大八州国を生むのである。この矛は、北九州が祭祀として
  使っていたもので近畿のものではない。
Q:弥生中期から後期にかけて、中国鏡が北部九州に入り墳墓に副葬されたが?
A:弥生前期から中期にかかる前漢鏡の殆どは九州で、後期の後漢鏡も八割以上が
  北九州から出土している。
Q:卑弥呼がもらった銅鏡百枚はこの後漢鏡であるが?
A:中国では1枚も出ていない。三角縁神獣鏡は渡来した呉人かどうかは別として、日本
  で作られたものであろう。
Q:鏡の副葬にはどんな意味が?
A:邪気を払い再生を願う道教的性格が感じられるが、北部九州の副葬礼であることは
  間違いない。また、北部九州では、鏡と共に剣と玉も副葬された。
  弥生後期においても、近畿地方にはそういう習慣はない。
Q:鏡は「日本書紀」においては、最初に現れる神である?
A:国常立尊が「天鏡尊を生む」と神代上の一書で述べられている。また天鏡尊の會孫が
  大八州国をつくったイザナギノ尊なのである。この意味は実に重要で天皇家の祖先神
  の一神に鏡が含まれていたということになる。
Q:次に玉だが
A:ニニギノ尊が海原を祭ったときの矛は、天之瓊矛である。
  瓊は玉であるから、矛と同じく重要な場面で記述されている。
Q:剣の方は、神代上に十握剣として現れのは
A:イザナミノ尊は火の神を生むが、その火で焼け死ぬ。
  尊は死に際して涙を流すが、涙は神となり、イザナミノ尊を殺した火の神を十握剣で
  殺す。天皇家に仇なすものは、皇子であろうと兄弟であろうと許さないという解釈が
  成り立つが、剣も鏡・玉と共に三種の神器となった。

    

   

=編集後記=
 墳墓祭祀の出現と青銅器祭祀の消滅についてQ&A方式で掲載いたします。=了=


2008.3.3 発行(60)

 =雛祭りは女の子教育の場=
 3月3日は3と3の重陽の日であり、重陽の節供である。
この日は、女の節供とも呼ばれている。しかし昔は女の子に限らず一家中の安全を守り、邪気を払うための節供であった。もともと奈良時代のころから人間の形=人形(ひとかた)をつくって、罪けがれを付けて川に流したり火で焼くという人形信仰があったのであるが、それがのちには、人形をつくって、それを一回ごとに捨てずに保存するようになったものだから、人形だけがいわば独立し、最後は内裏雛にまで成長して雛祭りに変化したわけである。

 そこで雛を祭ると同時に、その前で古代的な食物である花あられとか白酒とか、ひし餅とか、ことに草餅を食べるということが行われた。
 これは、要するに日本の古代的食事の回復であるけれども、その中に長い民族の知恵が残ったのである。昔は一般に女の子は、家庭にいて、社交的な場に出るということが少なかったわけだから、その日だけは自由に友達を訪問し合って、娘に社交の機会を与えようとしたわけである。そこで、雛かざりの前に婚礼用具のミニチュアを並べて、ままごと遊びをさせ、女の心がまえであるところの結婚生活への準備を暗示した。
 つまり親が、おもちゃを通じて女の子の心がまえを教えるわけで、一種の体験学習である。
そこへ、家から出にくい女の子が集まって、友人を訪問し合い、ままごとをするわけである。ままごとというのは「まんまのこと」すなわち御飯を食べるということで、炊事から食事作法を練習することであるから、要するに所帯という生活の仕方の技術の練習である。
 つまり三月節供は女性の生活の技術を学び、主婦としての訓練をさせるという教育の節供だったわけだ。それがのちに楽しみを分かつ日になり、最後には楽しみを越えてぜいたくな雛かざりを見せ合うという大変まちがった方向へ変わってしまった。
 しかしもともとの動機は、むしろ女性たちに、社交と主婦としての家庭経営の知恵と技術を教える日だったといっていいかと思う。
                    「日本人の育ての知恵」樋口清之著より 


 日本の雛祭りはいつ頃から始まったのか判然としていないが、その起源は、平安時代に既に平安貴族の子女の雅びな「遊びごと」として行われていた記録が現存している。その当時においても、やはり小さな御所風の御殿「屋形」をしつらえ飾ったものと考えられている。しかし、それはどこまでも「遊びごと」であり、決して儀式的なものではなく、そこに雛あそびの名称の由来がある。これが江戸時代の女の子の「人形遊び」と節物の「節句の儀式」と結びつき、全国に広まり、飾られるようになった。この「雛あそび」が「雛祭り」へと変わったのは天正年間以降のことであり、この時代から三月の節句の祓に雛祭りを行うようになったと推測されている。

内裏雛の左右
 内裏雛は内裏の宮中の並び方を模している。中国の唐や日本では古来は「左」が上の位であった。人形では左大臣(雛では髭のある年配のほう)が一番の上位で天皇から見ての左側(我々から向かって右)にいる。ちなみに飾り物の「左近の桜、右近の橘」での桜は天皇の左側になり、これは宮中の紫宸殿の敷地には実際に植えてある樹木の並びでもある。
 明治天皇の時代までは左が高位という伝統があったため天皇である帝は左に立った。
しかし明治の文明開化で日本も西洋化し、その後に最初の即位式を挙げた大正天皇は西洋に倣い右に立った。それが皇室の伝統になり、近代になってからは昭和天皇は何時も右に立ち香淳皇后が左に並んだ。
 それを真似て東京では、男雛を右(向かって左)に配置する家庭が多くなった。永い歴史のある京都では、旧くからの伝統を重んじ、現代でも男雛を向って右に置く家庭が多い。
 社団法人日本人形協会では昭和天皇の即位以来、男雛を向って左に置くのを「現代式」右に置くのを「古式」とし、どちらでも構わないとしている。

     

=編集後記=
中国の思想(左上位)、男左・女右はあちらこちらに点在している。例えば宮参りのまわり方で男の子は左回りに3回、女の子は右回りに3回とか、しめ縄の飾り方で綯(な)い始めは左、綯い終わりが右となっている。あなたの近くの神社は「古式」いや「現代式」? =了=



2008.3.2 発行(59)
 
 =他から出土して交野から出土していないもの  その1(N058号より続く)=

銅鐸 農耕祭祀のため、なぜ土の中に埋められたのか、悪霊から集落を守るとか、鰭の部分を立てて埋めるという一定の法則が確認されており、隠したとか、捨てたという説は成り立たない。やはり、何か宗教的な理由によって埋められたとしたら、それは何だろうか?

【それを解く手がかりは】

その1:銅鐸に描かれた鳥や獣、昆虫などの絵にある。シカ・イノシシ・サギ・トンボ・
     カマキリ・カエル・カメなどの絵がよく描かれている。

その2:日常生活を描いたものと見ることができるが、シカやサギを聖獣のようなものと
    見るならば、狩猟の成果や作物の豊穣を祈ったものと推理することができる。

その3:トンボやカマキリ、カエル、カメなどを、田畑の害虫を食べてくれる生物と見れば、
    作物の豊穣を祈念したものと考えられる。


   
 

 このように銅鐸が豊穣を祈るためのものであったとするならば、銅鐸が土の中に埋められ
たことは納得がいく。
銅鐸は農耕祭祀のためにつくられ、埋められたという説である。
それでは、なぜ銅鐸が弥生時代の終わりごろに消えたのかという謎は、それまで行われて
いた農耕祭祀が何らかの事情によって行われなくなって、土に埋められっ放しになってし
まったという。
しかし、銅鐸の多くが集落から離れたところに埋められていたとう事実は、どう説明する
のだろう。
これまで発見された銅鐸は、大きく分けて三つの場所に埋められていた。

  その@集落から離れた人目につかない丘陵斜面。
  そのA集落から離れた見晴らしのよい山頂や山腹。
  そのB集落の近くの平地、農耕祭祀という目的にあっていると思う。

しかし、@とAの埋納場所は、ともに集落から離れており、農耕祭祀という目的にはそぐ
わない。
そこで、銅鐸は農耕祭祀用の祭器としてだけではなく、もっと広範な用途、というより万
能の呪力を秘めた宝器ではなかったかと考えられる。

=編集後記=
 それでは、交野の地からは銅鐸は出土しないのか、それとも埋納されている可能性は全
くゼロなのか、そのあたりについては推測をもって弥生のロマンを今後、探ってみたい。


2008年1月の瓦版へ 2008年2月瓦版へ


ホームページに戻る