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瓦版よもやま便り
2007.12-2008.12
よもやま瓦版
(2004年)
今日の話は
なんでっか?
バックナンバー
平田語録100号
今日の一言
平田さん
  発行者
  平田政信さん
  よもやまセミナー Q&A
      交野市私市4-39-2   平田 政信

☆「瓦版:よもやま便り」、昨年の暮れNo280号(2008.12.31)をもって終え少しの休みを頂ただいておりました。
 新しい年度、新しい月、新しいタイトルで装い新たに「よもやまセミナーQ&A」を始めたいと思います。前回同様、愛読いただけますようよろしくお願いいたします。
                
よもやまセミナー Q&A 2009年4月号 バックナンバー
14 4/29 仏さんは【智慧】と【慈悲】だといいますが、最近の出来事から
分かりやすく教えて欲しい。
13 4/27 岩清水八幡宮本殿遷座が4月25日に行われたそうですが、その様子は
12 4/25 今年も西川原古墳にジャーマンアイリスの花が咲いたのか?
11 4/23 今、交野市歴史民俗資料展示室で行われている「交野木綿織り作品展・和わたプロジェクト成果展」模様を教えてください。
10 4/22 交野市歴史民俗資料館では、今どのような催しが?
9 4/20 天の羽衣伝承とは?
8 4/17 巨大な古墳を造った目的は?
7 4/15 古墳の発掘を最初にした人物は誰か?
6 4/13 花、桜を代表するか 
5 4/10 全国統一の貨幣が最初に誕生したのはいつ?交野では?
4 4/8 桜の開花、交野の見頃、見どころは?
3 4/6 交野の地名は、いったい、いつごろまでさかのぼることができるだろうか?
2 4/3 交野市の大字寺という地名の由来?
4/1 寺とは何だろう
No14(2009.4.29)
Q:仏さんは【智慧】と【慈悲】だといいますが、最近の出来事から分かりやすく教えて欲しい。

A:いうなれば、彼氏と彼女が二人だけの時を過ごしているとき、実は仏さんと一緒なんですよ。仏さんは智慧と慈悲です。
智慧は、おろかさとさとりの両方が見える力であり、慈悲は、いたみと思いやりの両方が働く力です。この智慧と慈悲に照らされた中での彼氏と彼女だったら、おろかさを繰り返すことのない男女関係を維持することができるはずだが。

 

=編集後記=
 なぜ、こんなことが出来るのだろうか?
どんな理由が、この子が何をしたと言うのか?
我が大人の身勝手から、犠牲者となった幼い命・・・あまりにも酷い。
小さな叫び、嘆きを聞きとめてあげる大人たちよ!他人事ではない、悲しい出来事だ。
家族の絆、まわり、近所の温かい眼差しを、小さな小さな子たちに。

No13(2009.4.27)
Q:岩清水八幡宮本殿遷座が4月25日に行われたそうですが、その様子は

A:平成16年から大修造が行われ、今年45年ぶりに本殿遷座祭が夕刻、日没とともに小雨降るなか厳かに行われました。私市からは御前拂神人13名が参列した。


               
                  私市御前拂神人(平成21年4月25日)

=編集後記=
 当日は朝から大荒れの天候であったが、午後からは小雨となり、行列出発時には止みました。足下が悪いうえ、暗闇の中、草草履に足袋、行列が進むにつれ、体全体が冷えてきました気力を持って全員最後まで役目を果たすことができました。
No12(2009.4.25)
Q:今年も西川原古墳にジャーマンアイリスの花が咲いたのか?

A:見事に咲きました、自画自賛!
 


=編集後記=
 夏野菜の苗の植え込みも終わりました。家庭菜園で楽しんでおります。
これからも折々の野菜と花と古墳とのスナップを紹介します。
家の中よりも、青空の下、畑におりますので、時間があればお立ち寄り下さい。
古墳の話でもしながら・・・。

No11(2009.4.23)
Q:今、交野市歴史民俗資料展示室で行われている「交野木綿織り作品展・和わたプロジェクト成果展」模様を教えてください。

A:この様子もボランティア便りで案内させていただきます。
  尚、この企画展は4/26(日)までとなっております。一度、河内木綿織りを体験してみてください。

  
  4/15−26日まで当資料館1F展示場にて「交野木綿織り作品展・和わたプロジェクト成果展」開催中!是非この機会に資料館まで足を運んで見て下さい。

河内木綿(交野木綿)の複元を目指している機織り教室生の作品展と、和わたプロゼェクトの成果を実物・パネルで紹介しています。(広報「かたの」3/1日号より)
  
=編集後記=
市は一昨年から、河内木綿の生産地だった交野の綿づくりを目的にした「かたの和わたプロゼェクト」をスタートさせました。このプロジェクトは、小学生から高齢者までが世代を越え、綿作りや機織りを通じて交流を行っています。
 



 

No10(2009.4.22)
Q:交野市歴史民俗資料館では、今どのような催しが?

A:常設展の他、前室において「私が選んだ交野100選」展を開催しております。
  内容についてNo−10号「ボランティア便り」でお知らせします。 

     

 第二京阪国道の建設に伴い大きく変貌を遂げようとしています。
しかし、交野にはまだまだ昔の原風景が残っております。
その風景を追って、100選を選び展示いたしました。
そして来館者の皆様に「私が選んだ交野5」を投票していただいております。
 
 
 
      
=編集後記=
近々、「私が選んだ交野5」を集計し、「市民が選んだ交野ベスト21展」を開催予定!
ベスト21は平成21年にちなんで。
また、4/15−26日まで当資料館1F展示場にて「交野木綿織り作品展・和わたプロジェクト成果展」開催中!是非この機会に資料館まで足を運んで見て下さい。

No9(2009.4.20)
Q:天の羽衣伝承とは?

A:羽衣伝承は日本に何カ所か残される有名な話だが、本家本元は丹後半島である。
  『丹後風土記』逸文には、次のような話が伝わっている。
  丹後の国丹波(京都府中郡)比治の里の、比治山の山頂に井戸(真名井)があって、あるとき八人の天女が舞い降りてきて沐浴(もくよく・水浴び)をしていた。
  たまたま通りかかった老夫婦が、ひとりの天女の羽衣を奪ってしまった。
  その天女は恥じて水から出られず、そうしておいて老翁は、「私たちには子がないから、どうか留まってほしい」と懇願する。やむなく従った天女は、そののち老夫婦の家を豊かにするが、増長した老夫婦は、天女を家から追い出してしまう。さまよい歩き、竹野の郡(京都府竹野郡)の船木の里の奈具の村(京丹後市弥生町船木)にたどり着いた天女は、「ここにやってきて、ようやくわが心は穏やかになりました」と告げ、この地に住むようになったという。

Q:交野にも「はごろも伝説」の話が残されているが、それはどのようなお話ですか?
A:「むかし一人の天女が天の羽衣を木の枝にかけ、水浴びをしていました。そこに現われた青年が羽衣をかくしたので、天女は天に帰れなくなり、しかたなく青年の嫁になりました。それから三年の後、天女は羽衣を見つけ天に帰ったと伝えられています。
天女が水浴びをしていた川が天の川となり、羽衣をかけた場所が「はごろも橋」となった。(磐船神社から田原にでる県境に架かる橋)天の川にこのような説話が生まれたのは天の川が往時、風光がきわめて清幽華麗なものであったからだろう。

=編集後記=
『河内名所図会』に平安中期の歌人曾根好忠の歌集「曾丹集」の天の川にまつわる天女の説話が記されている。

  
 
No8(2009.4.17)
Q:巨大な古墳を造った目的は?

A:ヤマト王権が日本統一に向かう4世紀〜6世紀にかけての時代を「古墳時代」と呼ぶ。
  数々の豪族が生まれ、またヤマト王権が誕生して、有力者の墓である古墳が多数造ら  
  れた時代。そして、ヤマト王権の勢力拡大によって、古墳は各地に広まっていく。
  古墳は、水田経営を積極的に進めた豪族たちが、自らの開発地域を一望できる場所に墓所を造営したことが始まりだとみられる。
そして、豪族の力が高まると、「首長霊信仰」が生まれ、巨大な墓所が次々と造られるようになったと考えられている。当時の「首長」とは、蘇我氏や物部氏といった中央政界で力をもつ豪族や、地方を支配する豪族を束ねる者のこと。
たとえば、蘇我氏という組織全体が「豪族」であり、蘇我馬子のような人物が「首長」となる。豪族を率いる首長は、その家の神が守る唯一の人間として、豪族の構成員に命令を下すことができる。そして、首長が死ぬと、首長霊の一員となって、次の首長を守る。したがって、新たな首長は、前の首長のため、神を祀るにふさわしい墓を造る必要があり、当時の最高の技術を駆使して古墳がつくられることになった。
逆にいえば、先代の古墳を築く人物こそ、周りから正統な後継者と認められたのだ。
もちろん、もっとも有力な首長が「大王(おおきみ)」だった。大王を守る首長霊は日本全体を支配すると考えられ、その古墳はいよいよ巨大化していくことになった。
                          =古代史の舞台裏より=  
     
          
=編集後記=
古墳前期の雷塚古墳(森古墳群1号墳)は標高160b、市内を一望出来る高所に
全長106bの前方後円墳。豪族を率いる首長はどこを支配?し、被葬者は誰か?
ロマンを秘めた古墳、後円部の頂きからの見晴らしは素晴らしい。


No7(2009.4.15)
Q:古墳の発掘を最初にした人物は誰か?

A:それはおそらく、水戸光圀であると言われている。
  盗掘ならそれ以前にいくらでもあったが、光圀は発掘調査をしようとしたのである。
  光圀は那須の代表的な古墳である上侍塚古墳(全長114b)と下侍塚古墳(全長84b)が、
  国造りの碑に関係するものと考え、1692年、古墳の発掘を行うのである。
  その記録が「那須記」や「下野国誌」に記されている。
  直接発掘にあたったのは、大金重貞だったから「助さん格さん」の格さんの方だったことになる。
  発掘してみると約1.5メートルの深さかに埋葬施設があり、中からは鏡、鐙の破片、太刀の
  破片が出てきた。
  光圀の目的は墓誌の発見にあったわけだから、発掘は失敗に終わった。
  そこで光圀は、出土したものを厚い松の箱の中に入れて古墳にもどし、塚の霊に対して
  非礼をわび、墳丘を修理したと言われている。

 

=編集後記=
 世は江戸前期。舞台は下野国那須郡湯津上村、今の栃木県大田原市の古墳。そして水戸黄門として知られる水戸藩2代目藩主、徳川光圀(1628-1700)こそが調査の立役者。

No6(2009.4.13)
Q:花、桜を代表するか 

A:わが国では「花」というと桜を指す場所か゛圧倒的に多い。
 「お花見に行こう」と言えば、桜の花を見に行くことと、誰も疑わない。
 日本人はいつの間にか、桜を花の代表におし上げてしまいました。
 しかし、大昔からこのように桜が他の花を圧倒して愛好されていたかというと、必ずしもそうでは
 なさそうだ。
◎ももしきの大宮人はいとま(暇)あれや 梅をかざ(挿頭)してここに集へる (万葉集)
◎春の夜の闇はあやなし梅の花 色こそ見えね香やはかくるる (古今集)

 梅には桜にない芳香があって、けっこう珍重され歌われている。「花」という語が
 桜を表す以前に、梅を指していた時期さえあったのだ。

=梅一輪一輪ほどの暖かさ=
 と、梅がたった一輪でもじゅうぶんに鑑賞にたえるのに、桜はたった一輪
 折り取っても話にならない。
 梅が香りと気品の点で桜を凌駕しているのに対抗するかのように、桜は
 「万朶の桜」(多くの枝に咲く桜の意)で勝負する。
 枝全体、いや樹全体、さらには多くの樹が一体となって全山桜、といとこ
 ろに桜の美があるようだ。
 
 平安時代人は、桜というと、散るを惜しむの情に歌心が駆り立てられたらしい。
 桜が春の代表であれば、秋の代表は紅葉だ。
 「桜狩り」に対して「紅葉狩り」があり「花見」に対して「紅葉見」という語もあった。
 「花の宴」があれば「紅葉の賀」がある。紅葉は「もみづ」という動詞から生まれた語で、
 木の葉が黄や紅に色づくことだから、特に現代語のような「楓(かえで)」だけを指すものではない。
 紅葉が織りなす美を「紅葉の錦」と称したくらい。

◎ またや見む 交野のみ野の桜狩 花の雪散る春のあけぼの(藤原俊成)
◎ 落花の雪にふみ迷う 交野の春の桜狩 紅葉の錦を着て帰る(太平記)

=編集後記=
 それでは、No4号(4/8)に引き続きスナップ桜を紹介します。

 

No5(2009.4.10)
Q: 全国統一の貨幣が最初に誕生したのはいつ?交野では?
A:現在の日本では、日本銀行が発行する「紙幣」と「硬貨」を持っていれば、欲しいものと交換できる。
  これを貨幣経済というが、それ以前は物々交換だったり、力づくで相手から奪っていたわけである。日本では、昔から貨幣経済は発達していた。
  古代に貨幣として流通したのは頴稲(えいとう)と布。一部ではすでに銀も貨幣として使用されていた。
  朝廷が製造した最初の貨幣(「官銭」という)は、飛鳥時代の708年(和銅元年)に作られた、和銅開珎(わどうかいちん)。
  以後、平安時代中期の天徳2年(958)までの250年間に、12種類の銅貨が発行され、これを「皇朝十二銭」と呼ぶ。
ところが、その後、朝廷は貨幣を作らなくなり、全国統一の貨幣制度の誕生は江戸時代まで待たなければならない。
平清盛の時代は、宋との貿易によって「宋銭」が、室町時代は明の「明銭」が輸入され、それが流通していた。しかし、室町時代も半ばになると、質の悪い「悪銭」の流通が問題となり、規制された。
室町時代に流通していたのが「永楽銭」で、これは明の永楽帝が1441年から鋳造していたものが、日本に輸入されたもの。「永楽通宝」ともいう。
力をつけてきた戦国大名は自分の領国内の鉱山開発を進め、独自に貨幣を鋳造するようになった。
武田氏の甲州金などが知られている。
さらに、天下を統一した豊臣秀吉は、「天正大判」など独自に貨幣を鋳造した。江戸時代になって、幕府は主要な金銀銅山を直轄するようになり、貨幣鋳造を独占したのである。金貨・銀貨・銅貨(銭貨)をそれぞれ発行する場所を、金座・銀座・銭座といった。
慶長11年(1606)慶長通宝が、皇朝十二銭以来600年ぶりの銅銭として公鋳され、永楽通宝の流通が禁じられた。江戸幕府により本格的に通貨が鋳造されるようになるのは、寛永13年(1636)寛永通宝以後とされている。 =日本史が100倍面白くなる本=

昭和45年3月、交野市私市、月の輪の滝の入口「滝ヶ広」で造成中、甕形土師器壺を掘り出した。その壺の中から富寿神宝(皇朝十二銭)50枚が出てきた。
交野で確認されている古銭のひとつである。

=編集後記=
1998年飛鳥池遺跡内の「万葉ミュージアム」建設用地内より、「わが国最初の通貨、和銅開珎」という常識が富本銭33点の出土によってくつがえされた。





No4(2009.4.8)
Q:桜の開花、交野の見頃、見どころは?

A:桜が各地で見頃を迎え、ソメイヨシノの満開を宣言(6日)した。暖冬で開花時期は記録的な早さだったが、その後は冷え込み、満開はほぼ平年並みの時期に。
開花から満開までが2週間前後と異例の長さになった。それでは交野の見所を。






=編集後記=
 今が見頃でっせ!まだまだ天気は続く         =了=

No3(2009.4.6)
Q:われわれの住んでいる交野の地名は、いったい、いつごろまでさかのぼることができるだろうか。
A: 10世紀前半の『倭名類聚抄』・加多乃が見える。
  交野は肩野・片野・潟野など、それぞれの由来がある。
  地名は、人間とかかわりが出来たから出来たのだ。この「出来たから出来た」ことを、どこまでも
  調べていったら、大変なことがわかる。
 人間の感情も知恵もよくわかる。
 まず、わたしたちの立っている地名から調べてみよう。
 地名は、私たちにとって身近なものである。
 手紙を出すときに、住所書きは欠かせない。
 戸籍や住民票にも、住居表示が出てくる。

現在、大字郡津・倉治・神宮寺・私部・寺・傍示・森・私市・星田など、新しく出来た青山・天野が原・幾野・南星田・藤が尾・松塚・妙見・向井田など多くの地名が使われている。
小字のなかには「神出来」「スタコ→砂子」「「有カジ」のように意味のつかみにくいものもある。

 
さら「大量権(だいりょうごん)」「金門(かなど)」「車司(くるもうじ)」のように
正確な読みを教わらねば読めない地名もある。誰が多様な地名をつくったのであろうか。地名の大部分は、名もない庶民・農民によってつくられ近くの住民のあいだで使われるようになった地名が、古代から現代まで受け継がれたのである。
地名のなかでそれがつくられた由来を正確につかめるものはきわめて少ない。
これは、地名の起こりをつたえる文献がほとんどないことによるものである。
そうであっても、歴史の流れを正確につかむことによって、かなりの数の地名の由来がみえてくる。

歴史で生活してきた多くの人の営みによって、多様な地名がつくられてきた。
甘い米が出来る田→甘田、田を祭る神→甘田神社(現:天田神社)人びとの居住地に「天田(あまだ)」の地名ができ、寺院が集まったところ(私部:無量光寺・想善寺・光通寺)に「市場(いちば)」「札之辻(ふだのつじ)」の名が生まれるといったことが、たえず行われてきたのである。



【編集後記】
 われわれの生活は百年たつと大きな変化がある。
明治から現在まで百年。中国では百年で革命がおこるといい、西洋でも百年を世紀のクギリとしている。人間の生命も百年が限度だ。ことばもかわり、風俗もかわり、社会制度や思想などもかわる。建築や宝物もほろび、自然も造成と破壊の中に滅ぶ。
ただ地名のみは、風雪に耐えて生き続ける。       =了=

2009.4.3

Q-2:No−1号で寺とは政府の役所の宿泊施設だとあったが、交野市の大字寺という
  地名の由来も、この様な施設があったからなのか?


A:寺とは、@中国の漢時代に、外国の使臣(ししん・王命、国名で外国へ派遣される人)を泊める役所あるいは官庁を指し、仏教僧がインドから来朝した時に鴻臚寺(こうろじ)という役所に泊まったことから、次第に僧侶の住居を寺というようになった。
A寺をテラと呼ぶのは、パーリ語(インド古語)のテーラ(長老)、韓国語のチョル(礼拝所)。Bそれから日本語の「照らす所」から転化したとの三説がある。
   寺は倉治と同じく村の位置を変えている。
最初の寺の集落は交野高校の北側、今池の南、田んぼの中であった。
小字名は「いまい」と言っている。それは弥生時代、稲作を中心とした集落で、村の名を「てるは」と呼んでいた。
竜王山(318b)から朝日が昇り、麓の「いまい」にあった集落の木々の葉っぱに日が照らされる情景からついた地名ではないか。
「照る葉」、「てるは」が時代が下がるにつれ、いつのまにか「てら」→「寺」となってしまったということである。
竜王山一帯は風化した花崗岩地帯である。一度、大雨、集中豪雨でもあれば、多くの土砂を下に流す。それによって崖崩れ、川の氾濫、土石流等によって、麓の「いまい」にいた「てるは」の人々は、こんな所に「いまい、いまい」と言ってかどうか(笑)山麓の尾根筋を中心とした場所、現在の所に移り住んだ。「いまい」と言う地名もここから来ている。
よって交野市の寺は「照らす所」から転化したものと考えられる。







2009.4.1 発行

 Q−1 寺とは何だろう

お寺、あるいは寺院の起源は古くお釈迦さまの時代にさかのぼる。
当時はお釈迦さまや修行者は遊行遍歴するのがきまりであった。しかしインドの雨期には遍歴が困難なので一定の場所にとどまらざるをえなかった。
お釈迦さまに帰依した王や富裕な商人が修行者のための宿泊施設を寄付した。
それを精舎(しょうじゃ)ともいう。有名な精舎は竹林精舎や祇園精舎があった。
お釈迦さまの滅後に、次第に修行者が定住する僧院が造られるようになった。仏教が全インドに拡がり、修業者の数も多くなると大きな規模の僧院が建造された。
 紀元前後のころに中国に仏教が伝わるとき、シルクロードの僧侶は外国の大切な客の宿泊所でもあった政府の役所に宿泊した。その施設を鴻盧寺(こうろうじ)といった。
このような経緯で僧侶が寝泊まりする場所を寺というようになった。このようにお寺は基本的には僧侶の寝泊まりするところであるが、そこでは修業が行なわれ、しかも食事などの生活も行われる。さらに信者が参詣するので、布教の場所でもある。
お寺は世俗生活とは切り離された聖なる空間であり、仏教の修行の眼目である心の浄化のための施設ともいえる。           =歴史読本2009.2月号より=

日本語の「てら」という語はパーリ語、または朝鮮語に由来するといわれるが不明。
「寺」は中国においては、もと役所のことであったが、仏教寺院を指す言葉として使われることとなり、寺観という場合、寺は仏教伽藍、観は道教のたてものを指していわれた。日本では「寺」は仏教伽藍を指す。仏舎を寺ということは、古代寺院が金堂中心となったことを反映する「日本書紀」編纂時の規定であると考えられ、すなわち寺は仏像を安置するところであると考えられていたのである。奈良時代後期から平安時代にかけて、寺は仏像の安置所であるというのではなく、僧侶の学問修行の場所と考えられることとなる。さらに民衆のための道場が寺とよばれるようにり、寺は仏像の安置所、僧侶の修行所であることよりも民衆の聞法の場所となる。日本の寺は私寺に始まり官寺があらわれ、民衆道場が寺といわれるに至る。国家仏教の立場から官大寺・定額寺・勅願寺などの呼称があらわれる。教学的には諸宗兼学の寺院からやがて宗別の寺院へと変化する。本寺末寺という関係が次第に制度化される。        =国史大辞典より=

=編集後記=
4ヶ月振りに「かたの良さを再発見」(管理人:村田義朗氏)に戻ってまいりました。
月・水・金の週3回を目途にボチボチ進めて行きますのでよろしくお願いいたします。

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