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瓦版よもやま便り
2007.12-2008.12
よもやま瓦版
(2004年)
今日の話は
なんでっか?
バックナンバー
平田語録100号
今日の一言
平田さん
  発行者
  平田政信さん
  よもやまセミナー Q&A
      交野市私市4-39-2   平田 政信

☆「瓦版:よもやま便り」、昨年の暮れNo280号(2008.12.31)をもって終え少しの休みを頂ただいておりました。
 新しい年度、新しい月、新しいタイトルで装い新たに「よもやまセミナーQ&A」を始めたいと思います。前回同様、愛読いただけますようよろしくお願いいたします。
                
バックナンバー 4月号
よもやまセミナー Q&A 2009年5月号 
27 5/29 太安萬侶は実在の人物?
26 5/27 『古事記』作成における稗田阿礼の役割は?
25 5/25 わが国最古の石仏は?
24 5/22 衣がえの習慣はいつ生まれたのか
23 5/19 「市場橋」と「百々川」の由来は?
22 5/18 倉治と私部の境に免除川が流れている(JA交野支店)。そこに架かる橋に「私部橋」のプレートがかかっていたが。
21 5/15 庚申信仰とは?
20 5/13 交野市内の多くの遺跡はどのようにして守られているのですか?
19 5/11 この木、何の木、何の形?
18 5/8 機物神社の中軸線に交野山の巨石を仰ぎ見ることができるのか?
17 5/6 倉治の籠池(かごいけ)について
16 5/4 GWの前半の過ごし方
15 5/1 今日から5月、GW、皆さんはどのようにお過ごしですか

No27(2009.5.29)
Q:太安萬侶は実在の人物?

A:『古事記』の少し後に出された『日本書紀』や『続日本書記』には『古事記』の記述がないのである。ただし、『続日本書記』には太安萬侶の没年について「養老七年七月七日に死んだ」と記されていたが、墓誌の出現!により実在の人物だったことがわかった。昭和54年1月20日、日本古代史を揺るがす一大ニュースが日本中を沸かせた。
  奈良市の南東、此瀬(こせ)という農村で茶畑を掘り起こしていた人が地表から30aの所で木炭の破片を見つけたのである。さらに、掘ったところ、30a四方の穴があき、穴の中から人骨と木片に張りつけた銅板の墓誌が出てきた。
         
Q:墓誌には?
A:「左京四條四坊従四位下勲五等太朝臣安万侶以癸亥七月六日卒之 
養老七年十二月十五日乙巳」との記述。
Q:記述の内容は?
A:左京四條四坊(さきょうしじょうよんぼう)に住む従四位下、勲五等の位を持つ太朝臣安万侶が、癸亥の年の七月六日に、養老七年十二月十五日に埋葬された」と書いてある。これは『続日本書記』に記載された「養老七年七月七日」の没年月日とたった一日違い。文献と考古学的発掘とが一致し、太安万侶の実在が証明されたのである。
Q:考古学のこたえられない面白さは?
A:一言でいえば、出土遺物と古典の記録、モノと史実とが、凍結された長い時間の中から、ふいに浮き上がってきて出会い、見事なほど一致、照合したその一瞬にあると言える。『古事記』の筆録者で、『日本書紀』の編者の一人といわれるわが国古代史上、著名人太朝臣安万侶(おおのあそんやすまろ)の墓誌の発見は、典型例であるかもしれない。墓は国指定の史跡となり、銅版で出来た墓誌は国の重要文化財に指定されている。
                            太安万侶墓誌⇒

=編集後記=
 興福寺官務牒疎に、倉治の開元寺は天平時代の僧宣教の開基だとしるしている。神宮寺村落の東南から、天平時代の特徴をもった礎石をだしたが、依然、遺構の跡は確認出来ていない。いつの日か、偶然に出会えるかもしれません。


No26(2009.5.27)
Q:『古事記』作成における稗田阿礼の役割は?

A:日本がまだ文字をもたなかった頃、後世に伝えねばならない出来事を口承による文化の相伝が日本において広範に存在し、それが政治的にも重要な意味を一面でもっていたことと無縁でない。阿礼が出た稗田氏は、朝廷での鎮魂の儀礼に楽舞を奉仕する女性の猿女(さるめ)を貢上した氏族である猿女君(公)氏の一序文によれば「人と為り聡明くて、目に度り口に誦み、耳に払(ふ)るれば心に勒(しる)す」と記される才能をもっており、天武天皇の抜擢によって『古事記』作成に加わったものとみられる。ところが『日本書紀』天武10年(681)三月丙戌(17日)条は、川嶋皇子・忍壁皇子らの十二人に「帝記及上古諸事を記し定めしめたまふ。(中臣連)大嶋・(平群首)子首、親(みずから)筆を執りて以て録す」とあり、稗田阿礼の名が見えない。
  阿礼の身分が低かったからとも解釈されているが、その果たした役割は大きいものがあった。


            奈良県大和郡山市:稗田環濠

  

      環濠と集落                 集落内:売太神社の「かたりべの碑」

Q:そのことが、どうしてわかるのか?
A:『古事記』作成の経緯を記した序文によってみると明瞭である。すなわち、天武10年
  前後頃、天武天皇は諸家のもっている「帝記及び本辞」が真実と異なり虚偽を加えているものが多く、このままでは何年もしないうちにその主旨が滅んでしまうと考えて、それらを比較検討し、正しい「帝皇日継及先代旧辞」を当時28歳の「舎人(とねり)」であった稗田阿礼に「誦習(よみならわ)」せたが、天武天皇が死去したため、この事業は中途で終わった。
Q:その後は?
A:元明天皇が事業を引き継ぎ、和銅四年(711)九月十八日に太安萬呂(おおのやすまろ)に詔して稗田阿礼が「所詔(よめ)る」「勅語旧辞」を撰録し、和銅五年(712)正月二十八日に完成させたのである。阿礼58歳のときであった。
Q:阿礼の「誦習」の意義とは?
A:ここにいう「誦」は単なる読解や暗誦でなく、節をつけて読誦するものであろうと考えられている。どのようにして覚えたのかという方法に限定すれば、この辺に解答が見出せそうであるが、その背後に重要な意義があることを見落としてはならない。
  すなわち、天武天皇が阿礼に「誦習」させた「帝皇日継及先代旧辞」は、太安萬呂による苦難の記録化とは別に独自の意義を含んでいたと考えられるのである。
 
                       100問100答「日本の歴史」より
=編集後記=
5/26新聞切り抜き
@ 朝鮮核実験、安保理緊急会合へ(朝刊)→安保理新決議へ、強く非難 議長談話、日本追加制裁案を準備(夕刊)
A 郵便不正厚労職員関与か(朝)→厚労省係長逮捕へ(夕)。
B (財)日本漢字能力検定協会を巡る背任、大筋認める。

No25(2009.5.25)
Q:わが国最古の石仏は?

A: 仏教初期の飛鳥時代には残念ながら石仏の遺品はない。わずかに飛鳥石人や飛鳥寺本尊の台座が花崗岩で造られており、これらは恐らく古代朝鮮からの工人の手により制作された。
 わが国の最も古い石仏は、奈良・石位寺の三尊石仏と兵庫・古法華の石龕仏(せきがんぶつ)である。いずれも白鳳時代、すなわち七世紀後半の制作で、両像とも、中尊は当時流行した倚像(いぞう)の姿で、左右に脇待菩薩像(わきじぼさつ)を配している。中でも、石位寺三尊像の童顔形の面相や薄物の納衣を通して、体躯の抑揚が感じられる表現は、白鳳時代の明るい様式を伝えている。
     
     
         石位寺三尊石仏(重文) 白鳳時代 奈良県桜井市
       

    
        古法華三尊石龕仏(重文) 白鳳時代 兵庫県加西市

Q:それじゃ交野市内で一番古い石仏は?
A:私市の共同墓地内にある弘安地蔵さんが一番古い。
Q:なぜ、ふるいとわかるのですか?
A:石仏に向かって右側に「右為浄林浄雲石作三郎」、左側に「弘安四年四月十五日立之」
  の文字が彫られています。
  弘安四年(1281)の石仏は、大阪府下で最も古い年号をもつ石仏です。

  
    
=編集後記=
 錫杖を持つ一般的な地蔵は、鎌倉時代以降多くみられるようなりますが、この地蔵菩薩は、錫杖のかわりに左手に宝珠を持ち、右手は与願印を結んだ「古式地蔵」と呼ばれる古い様式を残しています。市内での「古式地蔵」は、この石仏を含め三体が確認されています。(星田:薬師寺境内・通称:鎌倉墓)
村の人々からは「弘安地蔵さん」、または「杖あづけの地蔵さん」と呼ばれ親しまれています。弘安地蔵は造立年代の弘安をとって、また杖あずけの地蔵さんは、生前に身につけていた物(杖・ぞうり・帽子など)をこの地蔵さん預け身軽になってお墓に入るということから呼ばれている・・・最近、向に新らしく「旅立ち地蔵」がつくられ、そこに置かれているようだ・・・?。

No24(2009.5.22)
Q:衣がえの習慣はいつ生まれたのか

A:季節に応じて衣服を改めることを「衣がえ」という。現在、制服のある職場や学校で 
  は、6月1日に夏服にかえ、10月1日に冬服にかえることが多い。
Q:この習慣は?
A:明治時代に洋服が普及するなかからうまれた。もっとも、冷房が発達したので、いま
では夏でも上衣を着用する職場も多い。
  平安時代の朝廷で、衣がえの制度が整えられた。そのころは旧暦が用いられていたの 
  で、4月1日から夏装束をとり、10月1日から冬装束をとった。
  つまり、夏服も冬服も6か月間ずつ着られたのである。宮廷では、衣がえのときに、宮中の調度の夏物と冬物の入れ替えをおこなっていた。
Q:夏物と冬物の入れ替えをおこなっていたということが分かる文献はあるのか?
A:後醍醐天皇(南北朝時代)がまとめた『建武年中行事』に、つぎのようにある。
 「衣がえなので、宮中のあちこちの調度をとりかえる。几帳は夏むきの絵のものにかえ、風をふせぐ壁代(かべしろ)は、すべて取りはらう」旧暦の4月1日に、庶民も綿入れをぬいで袷を着た。そのため、つぎのような川柳が残っている。
 「四月一日腸(わた)をぬかせる面白さ」
Q:どういう意味ですか?
A:四月一日の衣がえは、魚屋の行商が手早く魚のはらわたを取るありさまのような川柳がすがすがしく楽しいというのである。また、江戸幕府は、衣がえについての取り決めも出している。
Q:江戸幕府はどのような取り決めをだしたのか?
A:五月五日から八月末までは、夏服の帷子(かたびら)を用いる。九月九日から三月末までは、冬服の綿入れをつかう。そして、その間にあたる四月一日から五月五日までと、九月一日から九月八日までは袷を着るというのだ。これによれば、幕府は一年に四回、衣がえを行っていたことになる。
Q:当時の庶民は?
A:庶民も、幕府の衣替えに合わせておこなっていた。
  松尾芭蕉に、つぎの俳句がある。
  「一つぬいで後に負いぬ衣がえ」
Q:どういう意味ですか?
A:旅先の衣がえで厚い服をぬいで、体は軽くなったが、それを背負わねばならないので荷は重くなってしまったというのだ。

=編集後記=
 四季を感じさせてくれる自然も、温暖化とともに失われていくことは寂しものですね。
 もうすぐ、衣がえの季節がやって来ます。  

No23(2009.5.19)
Q:山根街道の道すがら市場橋と百々川(どどかわ)の石標があるが、「市場橋」と「百々川」の由来は?


         
A:「市場橋」は山根街道を倉治から私部に入るところにある。市場は、私部のお寺(無量光寺・想善寺・光通寺)に集まる人々の門前町としての性格を持ち、また、他村からの買い物客を吸収する商業的色彩も色濃く持っていようであるところから付いた地名(人が集まるところに市が立つ、その場を市場)。
  その下を流れる川が百々川と呼ばれている。
Q:なぜ「百々川」と呼ばれ、名付けられたのか?
A:「どど」とは、とどろく、響き渡るといった意味で、急流のため水音が高い音を発することから付けられたものである。川の南が市場の集落であることから、大水の時など川が濁流となって流れる時、音をなしているのがよく聞こえたことから付けられた名前と思われる。
  また、@日本地名語源辞典には、百々(ドウドウ:動々)の約化した地名で、川音の高い場所をいう地名とある。
  どどという言葉は、たびたびという意味でもある。
  Aひろい話から、京都堀川の寺の内に、人形寺で知られる宝鏡寺という寺がある。
この寺は尼寺であるが、ここをいつの頃から「百々の御所」と呼ばれており、これは堀川の水がどどと音をたてて流れていたものからと伺える。
B百百に当てる。トドメキ、ドオメキ(百目木・道目木)ともいう。沢や谷のとどろく水音からくる。トドロキ(轟、等々力)なども同じ。百の字は十(とう)の十倍という意味でトドにこじつけたもの。
  
 

=編集後記=
 市内には沢山の川・橋名が残っています。
そこには地名が大なり、小なり関わっています。これからもその名の由来を探ります。

No22(2009.5.18)
Q:5/9(土)古文化同好会歴史散歩「古道シリーズ」山根街道を歩く途中で、倉治と私部の境に免除川が流れている(JA交野支店)。そこに架かる橋に「私部橋」のプレートがかかっていた。


 
    左:JA支店 右:支店倉庫

  この橋の名前は「私部橋」と違うでぃ。「行殿橋」やでぃ!。誰が付けたんやという話になった。
A:うん〜「私部橋」、「行殿橋」?
  どちらでもいい、いや「私部橋」なら私部にある橋がすべて私部橋と言っても間違いない。でも、橋も地名として扱うなら「行殿橋」と呼んだ方がいい。
Q:それなら、「行殿」の由来はこの辺りにあるのか?
A:ありまっせ。免除川に沿って東に行くと、久御山線に出る手前に免除池がある。
その池の南側一帯を行殿という。中心は行殿団地あたりになる。

 
   ガスコントロールタワーが久御山線、堤が免除池、中央が交野山

行殿については二つの言い伝えがある。
  この池は元、水溜まりであったという。(免除川の湧水であろう)この池で行者が水浴をして修行をつんだと言われている。また、修業のために籠る小さな堂が建っていた。
  この湧水の出る水たまりの水を、後に田の用水として利用するようになった。
  そのころからこの水溜まりを「行堂の池」と呼ぶようになり、それが地名となって
  「行殿」になったというのである。
もうひとつは「経田(きょうでん)」からきた言葉という。すなわち、読経料として寺へ寄進された荘園だという。寄進を受けた寺は私部にある光通寺だと言われている。

=編集後記=
 歴史散歩でいろいろの発見(疑問点)がある。
次号では「私部橋」・「行殿橋」から市場に入る手前に「市場橋」が架かっている。
その下を流れている川の名前が「百々川(どどかわ)」と呼ばれている。なぜこのように呼ばれるのかについて。

No21(2009.5.15)
Q:庚申信仰とは?

A:中国の道教に端を発した信仰行事です。
道教においては、人間の体内に三匹の虫(三尸・さんしちゆう)が棲んでいると考えられていました。
この三尸虫が庚申の夜、人が眠るのを見すまして天に昇り、天帝にその人が犯した罪を報告します。すると天帝は、その報告にもとづいて、罪を犯した人を早死にさせるのです。
庚申の夜というのは、十干十二支の「かのえさる」の日の夜です。
60日に1回めぐってきます。三尸虫は、60日ごとに天帝に報告に行くわけです。
では、三尸虫に、報告に行かせなければよいのです。
Q:それには、どうすればよいか?
A:眠らせなければよいのです。三尸虫は、人が眠るのを見すまして、天帝のところに行きます。人が眠らなければ、三尸虫は人体を離れるわけにはいきません。
だから庚申の夜は、人びとは眠らずに身を慎んだのです。
それを守庚申といいます。日本では、平安時代のころから、貴族社会において守庚申が行われるようになりました。そして、室町時代になると、これが仏教的な色彩をおびてくると同時に、民間にもひろまりました。
村落社会において、仲間たちとともに徹夜で庚申の行事をする「庚申待」と呼ばれる習俗ができあがったのです。
また、庚申信仰を象徴したものに、三猿像があります。
Q:三猿像とは?
A:悪を……見ざる・聞かざる・言わざる と訴えているわけです。
本当は三猿像でなくて、四猿像であるべきなのです。
Q:四猿像とは?
A:四猿目の猿は、自分のセックスを両手でおさえています。(せざる)
江戸川柳に、おもしろい句があります。
庚申は、せざるを入れて四猿なり
江戸の庶民は、見ざる・聞かざる・言わざる……の三猿のほかに、せざる(やらざる)入れていた。

=編集後記=
交野市内にも庚申信仰は残っている。
倉治(がらと川→歴史民俗資料館敷地内)と星田(星田神社)に石標が物語っている。





No20(2009.5.13)
Q:交野市内の多くの遺跡はどのようにして守られているのですか?

A:以前は、大阪府文化財愛護推進委員(旧北河内ブロック)メンバーが順次、各地域の
  遺跡、文化財をパトロールしていたがメンバーの変更や高齢化とともに中断していた。
Q:今回、パトロール隊を結成されたのは?
A:交野は遺跡・文化財そして石仏の宝庫といわれていますが、保存や管理が十分でないところがある。このような文化財を次世代に継承して行くために広報「かたの」でメンバーを応募し、その中から10名を選び、パトロール隊を結成した。
                    
            平成20年度「交野文化財パトロール隊」

 

=編集後記=
 平成21年度も、このメンバーであなたの街の文化財をパトロールします。

No19(2009.5.11)
Q:この木、何の木、何の形?

A:先日、古文化同好会の歴史ウォーク:山根街道を歩く途中で出会いました。
  以前から気づいていたが、皆が立ち止まり話題となった。
  交野百選にランク入り?。

  
          
=編集後記=
 市内にみられる、いろんな風景を集め、その年ごとの交野百選を選んで行きたい。2008年、私が選んだ交野ベスト21(平成21年)を発表します。
 
No18(2009.5.8)
Q:機物神社の中軸線に交野山の巨石を仰ぎ見ることができるのか?

A:以前は見ることが出来た。今は参道の両脇の木が生い茂り見えなくなった。

   
         
=編集後記=
 もともとは社殿もなく、交野山を御神体とする拝殿だけの神社であったのでしょう。
また、鳥居の延長線上、源氏の滝入口の東裾に「糸吉神社」がある。
今は拝殿だけでお稲荷さんがまつられているが、由来はほとんど分からない。
しかし、糸吉というからには「七夕姫」と関係があるのでは。機物神社と関係が・・・?


No17(2009.5.6)
Q:倉治の籠池(かごいけ)について

A:倉治から津田に出るバス道、がらと川を越して右側に少し高い堤防があり、面積
0. 74haの池があった。
  堤防の幅は広く、池の端には大きな柳の木などが生い茂り、雄大な池に見えていた。
Q:池があった・・・と言うことは今は無くなっているのですか?
A:昭和51年に池を埋め立て「焼肉レストラン:フェースト」となり、2〜3年前
  に更地となり、今は関西スーパーの建設が始まっています。

 

Q:なぜ、池の名前を「かご池」と呼ばれていたのですか?
A:水がよくもれる。ザルのような池だという意味で、水もちが悪かったのであろう。

=編集後記=
 ここに「石搗(いしつき)唄」が残っているので紹介しておきます。
   
わしの若いときや 津田までかよた 倉治かご池で夜があけた
                面白のひょうたんや おおあげおおあげ

 
今は、津田側の角に「石搗唄」石碑が建てられており当時をしのぶことが出来る。

No16(2009.5.4)
Q:GWの前半の過ごし方

A:家庭菜園で交野の写真展を開催しました。3日まで。


              
     
=編集後記=
 見学者はポツポツ、近所の菜園仲間のみ・・・でも、昔(30数年前)の風景の
移り変わりに驚きを!
No15(2009.5.1)
Q:今日から5月、GW、皆さんはどのようにお過ごしですか?

A:爽やかな季節、野山の緑はこれからが最高!森林浴を浴びながらの早朝ウォーキングなどで楽しみます。何分、毎日サンデー!なのに、そのうえGW気分も味わいます。
  家庭菜園、青空の下で読書?ビール片手に、のんびり過ごします。

  

=編集後記=
屋根より高いコイ登り、私市「百重ケ原」付近で大きなクスの木、中央建物が天田宮
保育所です。  

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