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「今日の話はなんでっか?」を連載中です。
平田さん
平田さん(執筆者)

  *月・水・金曜日に発行いたします。

世の中に山とあるような話・知ってるつもりでも人に聞かれたら説明できないようなことありまへんか。
お話しさせてもらいまっさ。

2002.8.26(No30)

             謎を解くキーポイント
場所は・・・邪馬台国は帯方郡(今日のソウル市近郊)から約1万2000里の彼方にある。
さらに奴国(現在の福岡県)から1400里にある。倭国は島が連なり、その周囲は5000里。ただし、1里は現在のものではなく魏の時代の距離で測らなければならない。
人口は・・・約7万戸、1戸4人としても約30万人の巨大都市である。
気候は・・・・邪馬台国は温暖で冬でも生野菜が食べられる。
動物は・・・・サルや雉はいるが牛馬、豹、羊はいない。
牧畜をしていないということだろう。
食物は・・・・樟、杉、樫、かえで、竹、橡(とち)、やまくわなど、温帯性の植物が繁茂している。
衣服は・・・・気候温暖なのか男は上半身裸、木綿の腰巻のようなものをつけている。女はワンピース姿だ。履物はなく、ほとんど裸足だ。
食事は・・・・米食、酒も好きだったようだ。
住居は・・・・竪穴式住居、高床式も見られる。
仕事は・・・・農業は稲作や野菜つくり、養蚕もおこなう、漁業は潜水漁法、海産物も獲った。
特産品・・・・絹織物、真珠、翡翠。
風俗・・・・・・男子はイレズミをしている。占いが好き。
卑弥呼の館・・・・城柵に囲まれ、物見櫓もあり、税を貯めた蔵もある。宮廷には女王が1人住む。奴隷もいたよううだ。
鏡・・・・・・・・鏡が好きで、中国から銅鏡100枚をもらっている。
国宝・・・・・・鏡の他、中国からは刀や金、朱、黄色の旗などもらっている。
卑弥呼の墓・・・・直径100歩の高塚。奴隷も埋められている。
周りの国・・・・伊都国、末廬国、奴国、不弥国、狗奴国、投馬国、斯馬国など40くらいの国がある。
金印・・・・・・・中国の王から「親魏倭王」の金印をもらっている。
時代・・・・・・弥生時代後期末期から古墳時代早期だといわれる。具体的には紀元180年ころから約1世紀は存在しただろう。
これだけの資料がある。それほど難しい話しではないように思える。しかし、そこには難所がある。
九州説か?畿内説か?
@邪馬台国への道のり
A邪馬台国が愛した鏡
B卑弥呼の墓
この三つをクリアすれば、邪馬台国は見えてくる。
我が交野にも、いくつかのキイポイントが隠されているのではないか?
森古墳群(雷塚古墳)・鍋塚古墳 (弥生・寺南山遺跡に隣接)などから何かが見えてくるのではないか?
今後の調査いかんでは、なんらかの関連性が生まれてくるのではないかと私は期待している。
 

2002.8.21(No29)

               (星田・門の木地蔵
 盆のお供えを川や海に流して、祖先の霊や無縁仏を送るのが精霊流しの行事。
精霊を迎えるために盆棚をつくる。星田・門の木地蔵の精霊送り(8/16撮影)
盆棚とは精霊盆棚、魂棚、祖先棚などと呼ばれている、盆の期間にしつらえる棚のこと。
盆棚には季節の野菜やホオヅキ、ダンゴもちを供える地方が多く、帰ってきている先祖の霊たちに、家でゆっくりと落ち着いて食べて欲しいという気持ちを表している。
13日には迎えダンゴとともにキュウリを馬に見立てるのは早くお越しいただけるように、16日の送り団子とともにナスを牛に見立てるのはゆっくりお帰りいただくようにとの願いが込められています。ところが「余り長く滞在されても大変だから、送りは馬」と解釈する土地もあります。
当星田地区も早くお精霊さまを送る
早くお精霊さんを送らないと、1年間ほかの仏の荷物を持たされるといわれているからである。
だから16日の午前0時になればお精霊さんを門の木地蔵のあるところまで我先にと送るのである。精霊送りのお供え物
また、極楽浄土に帰るまで道中、山あり谷ありなのでお箸ではしごを作り、お腹が空いてはとダンゴを持たせ、道に迷っては可哀想だといって奈良県との県境まで行かれる方もある。
亡くなった祖先を地獄の苦しみから救う供養がお盆の行事、星田の在所から中川に沿って北に進む、JR学研都市線手前に「門の木地蔵」がある。
門の木地蔵は送り地蔵さんである。
そして、ガードをくぐり久御山線を越えたとこに「新仏道しるべ地蔵」(現・星田墓地入り口)と葬列道が続き、墓地の「迎え地蔵」へと続いていたのでしょう。
門の木付近は住宅が建て込み、塔婆やその他のものもここで焼いていたが、それも最近ではままならぬ。
焼いた煙を手に当て、その手で体の悪いところを撫でると病気が全治するといったことも、だんだんと失われつつある。お盆の行事を通じて親やご先祖を大切にする、敬うことは人間にとって最も大切なことだと言うことを、考えるいい機会だと思う。
                  参考:「お盆」についてはNO27を参照


2002.8.19(No28)

三角縁神獣鏡が意味するもの

三角縁神獣鏡とは
古代の日本の銅鏡のなかでもっとも贅沢な一群に属する。国産なのか、それとも中国産なのか、いまだにはっきりとした答えはでていない。
特徴としては三角縁神獣鏡
縁にあたる部分の断面が正三角形をしており、鏡を吊るす紐(ひもを通す穴)に、神像や神獣が描かれている。
このような鏡をまとめて、三角縁神獣鏡という。
この鏡はいずれも、直径20aを超す大型のものであり、
同じ鋳型でつくられた同笵鏡を多くもつという共通点がある。
三角縁神獣鏡は別名「卑弥呼の鏡」といわれているのは?
「魏志倭人伝」によれば、魏の皇帝が卑弥呼に銅鏡を100枚下賜したとある。その鏡こそ、三角縁神獣鏡ではないかといわれている。
近年の発掘から
奈良県の黒塚古墳から三十数枚の三角縁神獣鏡が出土した。このことをもって「邪馬台国大和説」が、かなり有力視されるようになった。
三角縁神獣鏡の分布は
黒塚古墳だけではなく、近畿地方全般で出土している。しかし、まとまって多数発掘されている。椿井大塚山古墳から出土した画文帯環状乳神獣鏡
日本のあちこちでも同じ鋳型からつくられたと思われる鏡が出ている。
これは、大和の勢力が魏の国からもらった鏡を、自分に従った地方の首長に与えたことが想定される。
交野からも鏡が出土しているのか
交野東車塚古墳(府立交野高校敷地内)から三枚の鏡が出土している。
四乳四獣鏡・盤龍鏡、四獣鏡の三枚が出土しています。
それじゃ三角縁神獣鏡の出土の可能性は?
地方の首長に与えられたとしたら可能性はあると思う。
森古墳群(雷塚)など、夢が膨らんできます。
邪馬台国に関係した人物が交野地方をおさめていた
首長かも。・・・・お盆に見た


2002.8.9(No27)
お盆の知識
 お盆の由来について
お盆の語源は、「盂蘭盆(うらぼん)」に由来すると言われている。
「盂蘭盆」とは梵語(古代インドの文章語であるサンスクリット)「ウラバナ」の音写。「倒懸」と訳され、あの世で逆さ吊りの苦しみにあっている死者を救うために供養をするのが盂蘭盆会、つまりお盆という訳です。
 
お盆の起源について私市・若宮神社境内の盆踊り風景(2002.8.10)
釈迦の十大弟子の一人、目蓮は神通力に優れた人だった。自分を大切に育ててくれた母親の死後、極楽での母親の様子をうかがってみたところ、なんと極楽ではなく地獄の餓鬼道で逆さ吊りにされ、苦しんでいる母親の姿を目撃してしまう。
思い悩む目蓮に釈迦は言った。「安吾(雨季)の明ける7/15に僧侶たちに百味の飲食(おんじき)を供えて供養しなさい」と。釈迦の教示通りに目蓮が供養を営むと母親が餓鬼道から救われたことから、それ以来、毎年7/15盂蘭盆会を行うようになった。時期はいろいろで、旧暦により7/15に行う地方や月遅れの8月に行う地方、7/1に行う地方など様々。
 
また、喜んだ目蓮が我を忘れて踊り回ったことから盆踊りが始まったともいわれている。
当地方においても神社の境内・公園などから盆踊りの音頭が聞こえてきます。


2002.8.7(No26)
 
地蔵菩薩・・・・その4
  六道とは
六道すなわち、地獄・餓鬼・畜生・阿修羅・人間・天上の六つの領域において苦しむものたちを地蔵尊は、あの世からこの世へ「如来使」として戻ってきて、人々の心の渇きをいやすのである。
 如来使はいずれも、さわやかであり、さっぱりとしており、この世の美しさや、人の美しさに烈しく感動することによて、この世の鈍感な、たいていのことは驚かなくなってしまった人間の感情を揺り動かし、呼びさまし、人間らしい情感に満ちた人間に変えていってくれるのである。
人は、そういう如来に出会うことによってはじめて、この世に人として生かされていることの意味がよくわかるようになるのです。私市墓地の弘安地蔵(大阪府最古の年号のある弘安四年(1281))
 「地獄」とは、怒りや憎しみにとらわれて、そこから出られない人間の行くところ。人間は人を愛することによって甘美なよろこびを与えられるが、同時にそれによって、嫉妬や怒りや、憎しみのとりこになる。
 「餓鬼」とは、欲求不満のことで、それも、欲しいものが与えられないからではなく、与えても、与えられても、さらにいいもの、さらにすぐれたものをと、際限なく求めつづけ、与えられないので欲求不満に陥る。
 「畜生」とは、現代風にいえば、なんのためにこの世に人間に生まれてきたかということがまるっきしわかってない人間のことである。また、「念の深きは畜生」といわれるように、執念の深すぎる人間の行くところ。
 「阿修羅」とは、略して修羅といわれるが、原語が「ア・シュラ」(天でないもの、悪魔の意)なのだから、阿修羅といわなくてはならない。これは、いいことをしようと思っているのに、ついつい悪いことをしてしまうとか、やさしい言葉をかけようと思っているのにつっけんどんになってしまうとか、自分の考えとは逆の行動をとってしまう人間の行くところ
 「人間」とは、「念のうすきは人間」といわれるように、何事にも無関心で、自分のことしか考えない人間の行くところ。
 「天上」とは、天人のことで、天人は喜悦を食とするというが、世の中には苦しんでいる人間がいっぱいいるというのに、自分だけはいつでも喜んでいるという人間の行くところである。
 人は、人を愛するがために六道に墜ちる。


2002.8.5(No25)
 地蔵菩薩・・・その3
  浄土に導くのも地蔵の力
 地蔵のもう一つのご利益とは、すでに亡くなってしまった人の苦しみを救い、おだやかな浄土へと導くことです。
 これは、とくに自分の子をなくした母親にアッピールしました。地蔵によだれかけをかけたり、水子地蔵があったりするのはこのためです。
 三途の川の賽の河原で迷っている子どもたちを救ってくれるのは地蔵なのです。
 現在でも水子地蔵の信仰は盛んに行われていますし、交通事故の現場などに供養のために建立される仏像もほとんどが地蔵像です。
私部西墓地の六体地蔵
 亡くなった人を救う地蔵の能力を、より具体的に表現しているのが、墓地の入口などにまつられている六体地蔵です。輪廻(りねん)する六つの世界、地獄・修羅・人・餓鬼・天・畜生の六道のすべてに分身して、その世界の衆生を救うのが六地蔵です。

 亡くなった人が六道のどこにいようと、地蔵菩薩がそれぞれに合った姿で出現して救ってくれる、こんな願いが六地蔵にはこめられているのです。
また、六体地蔵は墓を見守ってくれている。
 参る前には「いつもお世話になっています」帰る時は「またお願いします」とお礼を言うのが作法です。
 
「おどんがうつ死んだら
             みちばたいける           
                  通る人ごち花いける」
これは貧しい乙女の歌う五木の子守唄、人の心をしぼる悲しい物語が秘められているのでしょう。
野の仏の多様性はその時々の人の心の多様性をあらわしているのでしょう。


2002.7.31(No24)

 地蔵菩薩・・その2
    地蔵さんがずっと人間を救って下さっている。
 とするとお釈迦が亡くなったあと、ずっと現在までも地蔵さんが人々を救ういちばん近い存在なのですから地蔵像の多さの理由もわかります。私部・光通寺の北に祀られている「またべ地蔵」
その能力は虚空蔵の蔵と同じで無限です。
 地蔵の地は大地。大地はすべての生命を育む源ですから、地蔵菩薩の巧徳もあらゆるものをカバーしてくれているのです。
 リリーフ役を示すものとして、釈迦如来(過去)・地蔵菩薩(現在)・弥勒菩薩(未来)で三尊を構成する例もあります。
 また、パワーの具体的な例として「地蔵の十益」を説く経典があり、菩薩の身で修業に励む地蔵の立てた誓いのことです。この中には土地豊穣とか現存益寿(長生きを保証すると言うような意味)など主として現世の利益があげられています。
 「お地蔵さんにお願いしたら何でも聞き入れてもらえる」という面では、現世利益のスーパースターである観音菩薩とかなり類似しています。
                                           (次号に続く)


2002.7.29(No23)

 地蔵菩薩とは・・・ 弥勒登場までの救世主
 無限の力で救いの手をさしのべて下さる地蔵さまは観音さまや阿弥陀さま以上。
また、その信仰が日常生活にぴったりと密着していることも大きなポイントで寺に足を運ばなくても地蔵像はいろいろな場所で目にします。
傍示の里のスマイル地蔵
 庶民感覚からすれば、地蔵は仏教の枠を超えた信仰の対象といってもいいようです。
 頭は宝冠も髪もなく丸坊主。着ているものは袈裟と衣。
 声聞形とか比丘形といいますが、座像も立像も現実の僧侶とほぼ同じスタイルをしているのが地蔵菩薩の特徴です。
 もちろん一面二手像。左手に宝珠、右手は掌を前に向けてささげた与願印を結ぶか、錫杖という杖を持つのが基本形です。

 地蔵菩薩は釈迦如来と弥勒菩薩との橋渡しをする仏と位置づけられています。
釈迦が亡くなってから、その生まれかわりとして弥勒菩薩がこの世に登場するまでの五十六億七千万年の間、リリーフとして人々を救うのが地蔵菩薩です。



2002.7.24(No22)

愛宕信仰とは 
 
京都市の西北にある愛宕山に祀られている神を中心とする信仰。

 愛宕山は山城国と丹波国との国境にあり、都を外部から守る「塞の神」の性格を持っている。
鎮火の符
「火迺要慎(ひのようじん)」と書かれている

 そこには勝軍地蔵がおかれ、唐の五台山にならって諸堂が設置されている。
それらを総称して愛宕大権現と呼んでいる。
 平安時代の中期には、日本七高山のひとつに数えられ、天台宗、真言宗の修験道場になるとともに、太郎坊という天狗の住む山としても有名になった。
 これが次第に各地に勧進され、特に関東、東北地方にその分布が著しい。
近畿地方一帯には代参の組織がつくられている。
祭神は火の神であり、鎮火の符を出すため火防ぎの神としても有名である。
交野市内の辻にも、かいがけ道
にもみつけることができる。
また、村々には愛宕講が存在しているところもある。

勝軍地蔵について
 鎌倉後期に起こった地蔵信仰で、悪業煩悩の軍に勝つ地蔵という意である。
その名から戦勝をもたらすとして中世武士の信仰をえ、特に足利将軍家の尊崇をえた。
他方防火神としても民間に伝播した。
 京都嵯峨の愛宕神社は、古来愛宕権現しと称し火除けの神として信仰があつく、全国に散在する愛宕社の総本社とされるが、愛宕権現の本地仏は勝軍地蔵とされ、古くは信仰の中心が勝軍地蔵を安置した神域内の白雲寺であったという。



2002.7.22(No21)
金毘羅信仰・・・かいがけの道に何故。
  「ごみの木地蔵」を越えて傍示に向かうと右側に金毘羅大権現の石標が建てられている
古くは、大仏建立のためにこの「かいがけの道」を越えていったのかも知れない。
その後も、多くの人々がこの道を往きかい、中世には熊野詣、近世には伊勢参りの往還の道として利用されてきた。
郷土史カルタ
竜王山は雨の神
郷土史カルタ・竜王山は雨の神
 香川県仲多度郡琴平町にある金刀比羅宮(金毘羅大権現)に対する信仰。
金毘羅は仏教の神で竜王の意。
蛇体の水神とされている。
航海の安全を守る神として知られ、漁民の間では豊漁祈願の神ともなっている。
農村では農神、水神として信仰された土地もある。
標高318b、頂上には竜王を祭った社があって、古くから村人が雨乞いをする習慣がある。
「竜王山は雨の神」郷土史かるたにもうたわれている。
また、傍示の村外れの北浦に、「水神さん」も祭られております。
航海の安全を守る神と思っていたことが、山中にあっても納得である。
水神さんは、今は人目のつかない所にひっそりと祭られております。


2002.7.12(No20)
  人類最初の道具は
 人間の3条件とは、「言葉を話すこと」「火が使えること」そしてもう一つが「道具を利用すること」である。
 それほど道具というのは、人間にとって縁が深く、重要な存在であった。人間が最初に使用した道具は、石器と木器である。とくに石器は、万能の利器であった。
昭和44年、私部城遺跡から
出土した石包丁(弥生時代)
(稲穂を摘む石刀)
はじめは河原石を打ち砕いただけの簡単な打製石器であったが、次第に加工技術が進み、研磨して刃先を鋭くした磨製石器が登場してくる。
 石器は矢じりやモリなどの狩猟具に使われたほか、石斧は穴掘りに、石皿は調理具として重宝され、弥生時代には石包丁や石鏃など、農具にも利用された。
 
土器は縄文時代に登場したのか
 縄文時代に現れた土器は、人々の生活を大きく変えた。土器は、物を煮炊きし、保存することを容易にした。土器によって人間の生活は豊かなものとなり、定住化もいっそう進展したのである。土器はその携帯によって縄文式・弥生式に分類でき、年代測の目安となってくれる。
 
弥生時代には鉄器と青銅器が現れる
 だが、弥生時代の鉄器と青銅器の出現は、土器とは比較にならないほど大きな影響を社会全体に与えた。
 鉄器が耕作具に使われたことで、農耕は飛躍的な発展を見る。しかし、その用途の中心はなんといっても武器であった。鉄剣や鉄の矢尻は、強度といい威力といい、石器とは段違いの武具で、戦争の際の主役を演じ、日本の統一に多大な役割を果たした。
 一方、青銅器でも銅剣や銅戈、銅鉾などの武器が数多く制作されたが、青銅は柔弱なことから実用例は少なくむしろ権力や富の象徴、祭具として用いられたのではないかと考えられている。また、宝物や祭具として出土する鐸(鈴状の物体)や鏡の大半も青銅器である。
 でも、もっとも身近な道具といえばやはり木器だろう。材料も豊富だし加工もたやすい。そんなわけで原始時代にも頻繁に使われていたはずだが、残念ながら腐ってしまうので出土例はまれである。ときおり空気が遮断された粘土層や泥炭層から朽ちずに農具や篭、器や櫛などが発見されることがある。器や櫛は色鮮やかな漆が施され、一級の芸術品を見るようであり、原始の人々の美的センスをうかがい知ることができる。
          参考文献:「早わかり日本史」河合敦著より
          
交野市内から出土した遺物、もう一度見つめ直したい。
そして、古代人はこれらの道具をどのようにして作り、使ってきたのかを考えてみたい。
 
2002.7.10(No19)
 
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ウルトラマラソンとは
 広義では42.195`(シニニイクコ)を越えるロードレースはすべてウルトラマラソンですが、国際陸連では100`ロードレースを「標準型ウルトラマラソン」と認めている。
 
今年も挑戦
 北海道サロマ湖ウルトラマラソンは今年で11回目の挑戦となりました。年々衰えて行く体力と練習不足を支える精神力も後退の一途たどっております。
 
戦績は
 90年の初挑戦から6年連続完走を果たし、100`ってこんなものか?と思って以来、調子が悪くなりここ数年完走出来ず四苦八苦。
 3年前に完走して以来、サロマでの完走はストップしたままです。11戦7勝4敗となりました。
サロマ以外には秋田内陸リゾートカップ大会・沖縄宮古島ワイドーマラソン、何れも100`に挑戦完走。
 通算13戦9勝4敗となっています。
 
100`ってどんな距離
 とてつもない、長い距離ですね。
フルマラソンを2回走って、まだ16`。長く、苦しい100`。しかし、100`先のゴールには感動が待っている。
 
どんなことを思って走っているのか
 「1`1歳・人生100歳・100`先に何がある」これが私のテーマであり、毎年自分の年齢を超えて行くところに生き方を感じている。しかし、今年は実年齢55歳(55`)まで到達できず涙のむ。
 テーマソングは都はるみさんの「夫婦坂」この坂を越えたなら、幸せがぁ待っている・・・・と歌いながら、泣きながら走っています。越えても、越えても、暑さ・苦しさ・痛みとの戦いである。もう来年はやめた!との口癖が続く今日この頃。
 
今後のウルトラマラソンについて
 6/30日に走ったところで、言い訳になるが練習不足とウェートオーバーだった。
「練習はウソをつかない」を肝に銘じて1年を通して練習に取り組めば、まだまだ走れると思います。
 体力低下と体型変化を無視せずトレーニングに励んで行きたい。感動とは「感じたら動く」と書くんですね。
来年こそは、再び感動のゴールテープを切りたい。

2002.7.5(No18)

    四つの七夕伝説
               小南一郎著「西王母と七夕伝承」より
第1の類型はとは
 勤勉さの放棄を戒める筋書で共通している。
牛を飼っていた牛郎(牽牛)と機織りに精をだす織女のけなげな生活ぶりを見て、天帝は二人を夫婦にした。天の川
幸せに酔う二人は仕事をちっともしなくなった。天帝は立腹し、カラスを遣わし「二人は川の両側に別れ、七日に一回会うのを許す」と命じる。ところがカラスは毎年七月七日に一度だけ会うよう間違えて伝えてしまった。
 
二番目は
愛し合いながら結ばれずに死んだ梁山泊と祝英台が、天に昇って牽牛星と織女星になったという伝説。
 
第三番目は
かなり複雑なストーリーになる。突然、人の言葉をしゃべりだした牛の言うのに従い牛郎は水浴びする天女(織女)の衣を隠して妻にし、子どもに恵まれる。
織女が天上から逃亡したことを知った王母は、織女を連れ戻す。牛郎はあと一歩まで追いかけるが、王母はかんざしで線を引き、それが天の川になった。
 
最後の類型は
牛郎と一緒になった織女が、やがて牛郎がいやになって天に帰ってしまう離婚話。
 
 伝承的な文化には時代の中で柔軟に変化してゆく部分と、動かない核になる部分とがあって、両者の相関の上に、それぞれの時代の中で見せる、その伝承の独自の相貌が決まるという。
 「星のまち交野」天の川を挟んで東の牽牛(枚方市・中山観音跡)西の織姫(交野市・機物神社)が年に一度の逢瀬を楽しまれるところに逢々橋が架かっています。
だれが名付けたか「逢々橋」で、7月7日のデート場所に選ぶ人はいるのでしょうか?


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