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「今日の話はなんでっか?」を連載中です。
平田さん
平田さん(執筆者)

  *月・水・金曜日に発行いたします。

世の中に山とあるような話・知ってるつもりでも人に聞かれたら説明できないようなことありまへんか。
お話しさせてもらいまっさ。

2002.10.3(No40)

蓮華(れんげ) 
レンゲというと春の畑に咲くちいさな赤い花を想像する人もいるでしようが、仏教の蓮華は字のとおり、蓮(はす)の花。いくつかある浄土の代表・極楽も蓮華の咲き乱れる苦労も災いもない場所です。私市共同墓地の蓮華石・かって葬送のとき使っていた
人間界を離れて、そんなすばらしい世界にみんなで生まれ変りたい・・・・・という願いが「一蓮托生」の言葉になりました。
蓮が仏教のシンボルとされたのは、泥の中に生まれても汚れず、美しい花を咲かせるからで、煩悩(ぼんのう)と汚れに満ちた現世で悟りを求める姿をたとえたのでしょう。蓮には数種あり、いちばん重んじられるのは白です。
 
「一蓮托生」とは、結果のよしあし、物事の善悪を問わず、行動で運命をともにすることは、俗に言えば、死なばもろとも、こうなるから、日常会話などに一蓮托生を使う時は、どうもいい意味ではなく芳しからぬ時に使うようだ。仏教の言葉では、死後、極楽浄土で同じ蓮華の花の上に生まれ変るというありがたい教えなのだが。
あなたなら、どんな意味に、どんな時につかいますか?


2002.10.2(No39)

古代人の服装について
 
古代人のファッションはどんなものだったのか?
 
多分、毛皮の腰みの、毛皮のチョッキと相場は決まっていたが、当時も寒い日もあれば、暑さでうだる日もあっただろうし、日本人の祖先ならば、ただ単に体をおおうだけでなく、野性美あふれるファッションを楽しんでいたのではないだろうか。残念なことに、古代人の衣服を知るてがかりは少ない。衣服の中で、被服に用いる材料は、古く原始時代には獣や魚の皮や樹皮などを用い、のちには織物類を主として用いるようになる。いずれも腐りやすい材料であるため、現在その実物は見ることが出来ない。弥生時代の麻布製の貫頭衣
弥生時代の衣服も実際を知ることができないが、麻布が織られたことがはっきりしている。
魏志倭人伝の記録から
男の衣は「横幅に、結束して相連ね、縫うことなし」とか
、婦人は「衣を作ること単被(たんぴ)の如く、其の中央を穿(うが)ち、頭を貫きて之をきる」とあって当時の衣服の実際を知るてがかりとなっている。
ついで古墳時代になると、古墳から出土される布類、装身具類とともに五世紀以後に古墳の外装に行われた人物埴輪がきわめて豊富な衣服の資料となる。
日本では、糸を紡(つむ)いで織物を織りはじめたのは弥生時代からであるが、縄文人も植物の繊維から布状のものを作り、衣類として着用していたと今日では考えられています。刈り取った麻などを、石でたたいて日に干し、そうしてできた繊維を、もじって編んで布を作ったのだろう。
完成した布は、筵(むしろ)に似たものであろうが、縫い合わせてさらにたたけば、柔らかくなって体にフィットしたことだろう。    
                             参考:日本庶民生活史

古代人が作る衣服こそブランド品であった。何からなにまで手作りで、世界に一つしかない衣服を身につけていたのであろう。現代人はブランドマークを着て満足しているらしい。いや、欲しいものを手にいれて満腹はしていても
肝心の満足感を得ていないのでは。


2002.9.30(No38)

地名を歩く
 歴史健康ウォークも回を重ねること37回を数えました。
ふるさと交野の町を毎月2回「いきいきらんど」を出発点として約2時間程度、健康を兼ねた歴史ウォークを行っております。同じコースでも春夏秋冬歩くことによって違う見方、感じ方も出来ますし、思わぬところに発見もあります。古い町並みをあるいたり、石仏を訪ねたり、池シリーズで灌漑用の小さな池を訪ねたり、森地区などでは歩いた後で池はいくつあった???29ヶ所に参加者も驚く。そして今は「地名シリーズ」ということで森・寺地区を歩いております。「あなたの足下に地名がある」地名は、人間とのかかわりが出来たから出来たのです。
この「出来たから出来た」を調べていけば人間の感情も知恵もよくわかる。寺共同墓地内、昔懐かしい地蔵さん(9/28)
 私のちいさい頃「ちょうぐるま」「ちょうぐるま」と呼んでいた所があった。屋号かと思っていたら、そこに水車があり米付きをしたり洗濯をするのに水車があったという。
その辺りの町の人たちが使用した町(ちょう)の水車、車(くるま)であるから町車(ちょうぐるま)と呼ばれていた。
その話を母(80歳)にすると、確かにあった。1ヶ所だけじゃなしに私市の村には3ヶ所はあったと教えてもらった。
このような話もだんだん聞く人がなくなってきます。
いくら「町名地図」があっても、中々現地にたどりつくことさえも出来なくなってきています。それに地形も大きく移り変ってしまっています。今、この季節に探訪した地名。
スポーツの秋、これからの紅葉の季節、ふるさと交野の地をこの足で確かめて行きたい。教えて下さいあなたの住んでおられる地域の地名を。
 
*また、磐船街道筋には一の車から四の車まで四基の水車も最近まで回っていた。
磐船渓谷などの高低差のあるところとか、村中でも段差のあるところに水車が回るのです。何れも該当する所にありました。


2002.9.20(No37)

交野石造物全数調査報告書(石仏編)・完成しました。
何とか今朝、コピーし終えました。
途中でコピーが故障し、コンビニを渡り歩く。笑・笑・笑。
「はじめに」の言葉を紹介します。
 
交野は歴史的に古い所なんですなぁ。
地蔵さんもたくさん、いやはると聞いてますが。
いったい何体位いやはりまんねん?
そうでんなぁ、よおけいやはりまんねん
何体くらい、数百体、それとも・・・・・。
 
こんなやり取りがきっかけとなり「石仏調査隊」を結成し全数調査に踏み切った。
私達の生まれ育ったところに、素朴な生活を営んでいた人がいた。遠い祖先たちが石仏に託した祈りや、想いを、いま石仏に向かう私たち自身の姿を見つめ直す良い機会でもあり、出会いでもありました。
調査対象を石造物すべて(神社等の一部を除き)行いましたが、今回の報告書に記載されているとおり、石造物のなかでも石仏のみを取上げ「交野石造物全数調査報告書: 石仏編」としてとりまとめ報告するに至りました。石仏の作者を知るよりも、石仏の歴史を知るよりも一番大切なのは石仏に感動することをこの調査を通じて教えてもらいました。
名もない石仏、風雪にうずもれ、歳月に苔むしてはいたが何かを訴えているようだ。それは戦乱のなかでの平和を祈り、苦難の旅路、襲う病に息災を念じ、切々と子を思ったわたしたちの祖先の「心」であろうか。
交野市史(民俗編)「野ざらしの仏」の章で「交野は何の故郷か」と聞かれたなら、生駒山脈の西側にある「地蔵の故郷だ」と言いたいとある。
この故郷の石仏を、これからも大切に見守っていきたい。
今後、同「石は語る」を刊行する予定ですので引き続きご協力を賜りますようお願い申し上げます。
最後になりましたが、石仏に関心を寄せていただきました市民の皆様、古文化同好会の人たち、調査にあたり助言資料提供、案内いただきました和久田氏をはじめ
調査隊として活躍いただきました中角・村田・大野各氏そして多くの方々に厚くお礼を申しあげます。
 
                                    交野古文化同好会
                                        「石仏調査隊」平田政信


2002.9.18(No36)
 
神々の世界その4
 
 ヤマタノオロチについてのお話し
天の岩戸騒動の張本人となったスサノウノミコトは下界に追放されてしまう。
あてもなく歩いていると、出雲の国で泣いている里人と出会う。聞けば頭が八つもある恐ろしい大蛇が村を襲いそれをしずめるために美しい娘、クシナダヒメを差し出すのだという。
オロチ退治を買ってでたスサノウノミコトは、まず酒を瓶にたっぷり入れてオロチに飲ませて、酔ったすきに
持っていた剣でずたずたに切り殺してしまった。
大蛇のなかから神々しい剣が出、これは後に岩戸騒動の折りの鏡、勾玉と合わせて三種の神器になる。


2002.9.16(No35)
 
 歴史健康ウォーク「地名を歩く」より  
 
地名を歩いてみました。地名地図を見ながら現地を訪れは゛背景が良く分かる。地名は、人間とかかわりが出来たから出来た。この「出来たから出来た」ことを調べていったら、いろいろなことがわかる。
まず、私達の住んでいる地域の地名から調べ歩いて行くことにしました。
森地区の大量権(だいりょうごん)は小字地図には
「大量橋」となっているが、村人は「大量権」と言っている。今回のウォークでどちらが本当なのかを確認することが出来ました。
現在「大量権」の一部が駐車場となっており、そこには「大量権駐車場」の看板が掲げられていました。 「大量権駐車場」の看板
やっぱり歩いてみなければわかりまへんなぁ! 
 「大量権」(だいりょうごん)が正しい地名でしょう。
「権田」と同様、開墾地のことである。しかも大規模に開かれたものであろう。
南側(天田の宮北側)を流れる小久保川の水を利用したり、森新池の水を利用したりして、扇状地の扇夾部の砂質の所の開墾が行われたところと思われる。
また、この辺りを城戸(きど)という。
森の西の出入り口の所を城戸、東の出入口を北城戸と言っている。「城戸」は「木戸」であろう。
森を通過して山麓沿いに走る山根街道がある。この道路の東西の出入口に木戸を設け、村に出入りする人々を見張ったり、村への乱入者を取締ったりしたところであろう。夜間は木戸を閉めて村を防備したのか?。
城戸のすぐ南に天田の宮が、北城戸を出た所に須弥寺があって、どちらも村人の信仰の場所である。
その場所に立って当時を偲べば、昔の人々の生活が手に取るように分かるのも「地名」歩いてこそ
           「あなたの足下に地名がある」
     2002.09.14「第36回歴史健康ウォーク」より


2002.9.13(No34)
      神々の世界その3
 
☆スサノウノミコト
母であるイザナミが恋しいスサノウノミコトは、母に会うため黄泉の国に行きたいと駄々をこね、父であるイザナギを困らせていたが、とうとう父の怒りをかって国から追い出されてしまう。そこでまず姉神にいとまを告げようと、高天が原に立ち寄るが、このときスサノウノミコトがかんだ勾玉から男の神が5人生まれ、そのうち1人、もっともすぐれた男の神、アマノオシホミミノミコトを女神の世継ぎに決める
 
乱暴者のスサノウノミコトは、姉神の高天が原で、乱暴の限りをつくした。堪忍袋の緒をきらした姉神が天の岩屋にこもり戸を閉じたので、世界は真っ暗になってしまった。そこで神々は鏡と勾玉をつくり岩戸の前に置いて、たくさんのかがり火をたいて明るくした。
アマノウズメノミコトという女神が琴や笛に合わせてあらわな姿で踊りだし(後のストリップ?)、岩戸の前は高天が原が始まって以来の騒ぎになった。この騒ぎを不審に思った女神が岩戸をそっと開けてみると、鏡に自分の姿が写り世界がぱっと明るくなった。このすきまに力自慢の神様が岩戸をこじあけ岩を下界に落としてしまった。この話しが天の岩戸です。
もう一つの天の岩戸開き
弟のスサノウの数々の蛮行を怒ったアマテラスが、天の岩戸に隠れこもってしまう。
このため天地は暗闇の世界となる。ここまでは同じ。
困った八百万の神々は相談して、まず岩戸の前に長鳴鳥(ニワトリ)を集めて鳴かせた。つまり夜明けを告げさせた。ニワトリは、この神話から神鶏(しんけい)とされ、神前にニワトリの止まり木が造られ、鳥居となった。
鳥居はニワトリの止まり木だった。
 
*スサノウノミコト
  男神。もっとも乱暴者で知られる神様、天の岩戸騒ぎの張本人。ヤマタノオロチ退治、出雲の国引きで知られる。ヤマタノオロチ退治後、クシナダヒメと結婚する。
 

2002.9.11(No33)

 
神々の世界その2
☆アマテラスオオミカミの誕生
 イザナギ、イザナミの二人の神様はまだ固まっていないこの世界をつくるため、風の神様、穀物の神様、河の神様海の神様などを次々に産み、そして世界の王なる神として、日の神様であるアマテラスオオミカミを産んだ。
弟に月の神であるツキヨミノカミ、スサノウノミコト、最後に火の神、カグツチを産んだが、出産のときの火傷がもとでイザナミの神がなくなってしまう。神宮寺の塞ノ神
☆黄泉の国
  イザナミが忘れられないイザナギは、イザナミが行ったとされる黄泉の国を訪れ、再会を果たすが、イザナミが
「決して見るな」と言った部屋を覗いてしまう。そこにはウジがわきどろどろになった女神の姿があった。
驚いて逃げ出すイザナギをイザナミはののしり、後を追いかけてきたので、この世との境目である黄泉の平坂に大きな千引の石を置いて道をふさいでしまう。死者の世界はこうしてできあがった。
 
神宮寺の村の四隅に石仏がある。これらは「塞の神」といい、この村に悪霊や悪病などを入れないように守っていただく神様だといわれている。黄泉の平坂の話しが
「塞の神」の始まりだという。


2002.9.9(No32)

神話の世界
「記紀」に登場する神々の世界も古代史の重要なポイントになってきます。
なかには歴代の天皇が伝承されていく過程で、神話にすりかわっている場合も十分に考えられるからです。
神話とは・・・古代人が人間界や自然界の理解しにくい現象や事象に対して、超人的・自然的なもの(神々)を想定して解釈した民間伝承。
信仰や宗教儀礼と深くかかわる。
これから、神話に登場するおもな神々を紹介していこう。
世界の初め
まだ、世界は暗闇で、天も地もできていないなか、ようやく神アマノトコダチノカミが1人生まれた。
神の子孫は次々に生まれ、やがて地上にクニをつくるため、神の住む高天が原から男神のイザナギ、女神イザナミを下界に遣わすことになった。
地上はまだ固まっておらずどろどろした地上に矛を立てて
引き揚げたところしずくがたれ、島ができあがった。
(参考)
イザナギ・・・男神。天地創造にあたった神。亡き妻(イザナミ)に会うため、黄泉の国を訪ねるが、イザナミとの約束を破り、黄泉の国での妻の姿を見て逃げだしてしまう。イザナミの怒りをかい、以後イザナギのつくる人間は毎日1000人ずつイザナミに絞め殺されることになる。
イザナミ・・・・女神。天地創造にあたった神、アマテラスオオミカミ、スサノウノミコト、ツキヨミノカミなどたくさんの神様を産むが、火神を産んだときの火傷がもとで、黄泉の国へと旅立ってしまう。
    次回はアマテラスオオミカミノ誕生
   参考文献:「日本の古墳・古代遺跡」より


2002.9.6(No31)

     かいがけ(峡崖)の伏拝

「かいがけ道」とは、谷を切り開いてつくった道のこと。
交野市・寺地区の住吉神社から傍示へ抜ける約1`の道です。
交野でもっとも古い道です。
その昔、大和に大仏さまが建立されるとき仏師たちが行交ったと伝えられています。
道筋には地蔵様や伏拝が沢山あります。
「柳谷」さんは眼病が治りますように。
「愛宕大権現」さんは火伏せを願う。
「野崎観音」さんは安産、子授け、縁結びに。愛宕山大権現・伏拝
「金毘羅大権現」さんは仏教の神で竜王の意。蛇体は水神とされている。航海の安全を守る神として知られ、漁民の間では豊漁祈願の神ともなっている。
それなのに何故、山中にあるのか?
農村では農神、水神として信仰された土地もある。
なるほど、近くには竜王山(318b)があります。頂上には竜王を祭った社があって、古くから村人が雨乞いをする習慣がありました。
郷土史カルタ「竜王山は雨の神」と詠まれております。
最後は「二月堂」さん、切羽詰まった時にお願いするとか。切羽詰まるの、「切羽」は「切刃」とも書く。
日本刀の鍔(つば)の上下、柄とさやに当たる部分に付ける薄い金具を指す。刀身が切羽の穴に詰まってしまって、抜き差しできなくなるのが「切羽詰まる」状態で、物事が差し迫ってどうにもならなくなる意味で使われるようになった。誰でもこのような状態を経験されたことがあると思います。そんな時には「二月堂」さんまで。
それに「石清水八幡宮」「能勢妙見大菩薩」は開運を願う。
今と違って交通の便がない時代、この辻から伏して願った所だったのでしょう。
これからの季節、落ち葉を踏みしめ、木漏れ日を浴びながらか散策してみては。かいがけの道には当時の信仰の深さをよみがえさせてくれる。


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