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「今日の話はなんでっか?」を連載中です。
平田さん
平田さん(執筆者)

  *月・水・金曜日に発行いたします。

世の中に山とあるような話・知ってるつもりでも人に聞かれたら説明できないようなことありまへんか。
お話しさせてもらいまっさ。

2002.12.18(No60)

暮しの中の神さん仏さん
 
いまの世の中、まさに高度情報化時代。
どちらを向いても超近代化と歩んでいて、一見、神や仏が暮しの中に深く静かに生き、その重みを加えて生きているようである。しかし、科学的現代社会の最先端をゆく空港のターミナルビルに赤い鳥居の稲荷さんがまつられているし、高層ビルが建ったかとおもうと、その屋上や敷地内にいつのまにやら祠が建っている。新しい団地のなかに、地蔵さんがまつろうという話しが出るし、地蔵盆もまた盛大になり、レンタル地蔵が繁盛している?という。合格祈願の絵馬
 近代設備をもった産院で、無痛分娩をしょうかという婦人が子安観音、子安地蔵に詣でて、安産祈祷をした腹帯をいただいてくる。医者に科学療法をしてもらいながら、一方で、ご利益があるとする神仏に詣でて「お百度」を踏む。早く良縁を得たいと、若い女性がひそかに縁結びの願いをかける。受験戦争に勝つために、天神さんや、学業上達にご利益があるとする神仏に、合格祈願の絵馬をどっとあげる。
 
 こうして、神仏に詣でるのは老人ばかりではなく、近頃は若者も多い。我々の身辺を見ると、近代生活をしながらも?、神仏と人間のコミュニケーションが、あらゆる機会、あらゆる場所で生かされているのだなあと思います。


2002.12.16(No59)
 
仏教の「慈悲」
 
仏教の「慈悲」は「無縁の大悲」にきわまるといわれるが、無縁とはひっかかりがないということ、「私が、誰に、何を」という三つのひっかかりがまったくない慈悲心のことである。そういう大悲の人は風のごとくに飄々と行く。
この世に生きて行く力を失った人、輝きをなくしてしまった人たちの心を吹きそよがし、ふたたび輝きをとり戻させ、強く生いきさせようとする。
そのひとのまわりにはいちめんの輝きがある。
そのひとがそこにいるだけで、そのまわりが明るくなる。
しかしそのひとは、人々を照り輝かしたことなど忘れてしまって、また風のように行ってしまう。
ほんとうに泣いたことのある者でなければ、こんなさわやかに吹きすぎて行くことはできないのである。
今日から、「私が、誰に、何を」という三つのひっかかりにこだわらずに事を進めていきましょう。


2002.12.6(No58)
陽気に誘われて
                   妙見から奈良までウォーク
 
  12/4、朝の散歩が何と遠くへ来たもんだ。
本当に小春日和を思わさせる陽気に、ついつい。
星田・妙見から星田園地に入り、磐船神社に、四社明神・不動明王に日の差し具合を確認する。午前9時過ぎ。163号線を歩くが車が多く、途中で精華町に抜ける。学術研究都市で国立国会図書館を横目に祝園へでる。まだまだ元気。西木津から歌姫街道をとおり平城京へ、午後1時の到着。朱雀門でガードマンのオッちゃんと話しにふける。中々、歴史的に的を得た説明を受ける。東院が出来たがいったことがなかったので見学。法華寺の礎石
その足で法華寺まで足をのばす。
中宮寺、円照寺とともに大和三門寺院の一つに数えられ、氷室御所とも呼ばれる。
ここに来た目的は国宝・十一面観音立像にお会いするためだ。光明皇后の姿を写したと伝えられ、頭髪・眉目・唇に彩色があるほか、素木の一木彫で律動感にあふれるもので、仏の前に膝まづくと平安の空気が漂ってきたように感じたのは何故だろう。最近の石仏調査で観音さんを行っておる関係でじっくり見たかったのである。
光背も特徴ありで、ハスの蕾と咲いているのが交互に配置されていた。また、庭に置かれている礎石に「くぼみ石」を見つけることができました。法華寺本堂(紫色矢印が礎石)帰り道で極楽寺が、我が交野市郡津にもあるで、そんな思いから門前のお堂には大きな地蔵立像(約2b以上はあろうか)他、多数の石仏がところ狭しと寄りそっておられた。ついよだれ掛けに手が行き確認する。(石仏調査隊ですもの)
その後は西の京・唐招提寺に、ただ今金堂修復工事中であったが、3時を過ぎていたので人はまばらで新宝蔵展もゆっくり見ることができました。特に今回は石製八角形容器(台座)・鎌倉時代を興味深く見た。なるほどなぁ〜。山門を出たときは4時前、もう薬師寺は時間がない。次回にしよう、次ぎも歩いてくるんですか?と問われたら勿論。交野からも奈良の都に仕事に行っていたとしたら、日帰りは可能であったか?答えは可能である。
交野は京へも五里・大坂へも五里・奈良へも五里といわれ文化の中心地です。
人間の身体で言えば「ヘソ」の部分が交野です。
次回、希望者あればお申し出下さい。


2002.11.29(No57)

日本への仏教伝来
 日本には六世紀に朝鮮半島から仏教が伝えられた。
当初は古くから信仰されていた神道とのあいだで対立
があったが、しだいに神道とも習合しながら定着していった。そして、聖徳太子がはじめた遣隋使、それに続く遣唐使によって中国から仏教が直接伝えられるようになった。奈良時代には南都六宗と学問的な宗派が栄え、平安時代になると最澄・空海によって天台と真言宗が創始され、後の日本仏教の基礎が確立された。重文・阿弥陀如来立像(傍示・蓮華寺)快慶作
 この時代には天皇や貴族などが熱心に仏教を信仰し、聖武天皇の国分寺の建立など国家的な規模で仏教が進展していった。
さらに鎌倉時代になると、浄土宗や日蓮宗、禅宗などいわゆる鎌倉新仏教と呼ばれる、新しい宗派が多く誕生した。これらの宗派は日本独自の仏教を展開したため、仏教として日本全国に普及した。
江戸時代には幕府によって檀家制度が制定されて、仏教は個人の宗教ではなく家に属するようになった。
これによってすべての日本人は仏教徒になったのであるが、仏教は幕府によって厳しく管理されて、宗教としての本来の生命力を失ってしまった。
日本の仏教は、はじめ朝鮮半島から来た渡来人の止利仏師によって作られていた。
初期の仏像は八等身の百済観音のようなものが中心だった。奈良時代になると日本人も仏像を作るようになり、奈良の大仏のような大規模な造像も行われた。
さらに平安時代の後期には定朝という人があらわれて大仏師の祖として仰がれ、日本の仏像制作の基礎を確立した。鎌倉時代に入ると運慶・快慶の名匠があらわれ、多くの名作を残した。この時代までに日本の主要な仏像の大半がつくられた。
当市にも国宝・薬師如来座像(獅子窟寺)、重文・阿弥陀如来立像(傍示・蓮華寺)快慶作の立派な仏像が残されております。


2002.11.27(No56)

初期の瓦

 わが国に仏教がもたらされ、寺を建てるにあたって瓦作りも伝わった。「日本書紀」の崇峻天皇元年(588年)の条に、仏師らとともに「瓦博士」が百済から来日したとある。屋根の頂きに乗せる鴟尾(しび)や鬼瓦などの特殊なものを除き屋根を広く覆うのは、円筒形の「丸瓦」と、板状でやや反った「平瓦」に大別できる。丸瓦は型に粘土を巻いて形作り、平瓦は大きな円筒形にしたものを何等分かに切りわけた。専用の窯を築いて高温で焼いた。軒先に乗せる軒丸瓦と軒平瓦には、ハスの花や唐草などをモチーフにした文様を飾った。文様は寺や宮殿などの建物ごとに異なり、時代とともに変化する。
建物が建てられた年代を決める手がかりにもなる。
 国宝に指定されている元興寺(がんごうじ・奈良市)の本堂と禅室の屋根では、あの瓦博士が指導し前身の飛鳥寺のために焼かれた日本最古の瓦が今も「現役」で頑張っている。
 当市内の郡津からも単弁八葉蓮華文、蓮弁と蓮弁の間に、くさび形(界弁)と珠文が交互に配せられており中央に線がある。この様式は高句麗から百済、飛鳥と伝わり、飛鳥から交野に跡を残したものである。
又、奈良時代の郡役所である郡衛(ぐんが)調査中白鳳時代の軒丸瓦が出土した。
交野郡司の建立した白鳳期の寺院長宝寺があったことを物語っている。

郡津の「くらやま」は、
明遍時から郡津神社にかけて一段高くなった台地を形成しており、この台地に郡司(ぐんじ)が住み、蔵が建ち、郡司の一族の力で郡衙(ぐんが)の東隣の今の郡津神社の場所に
長宝寺が建てられていたことが確認されている。 長宝(ちょうほう)寺址(じあと)遺跡(いせき)の中央には郡津神社の社殿が建てられているが、その周辺から、多くの白鳳(はくほう)時代(じだい)の瓦片が出土している。

単弁八葉蓮華文(たんべんはちようれんげもん)、下の瓦より古い
昭和51年、明遍寺の南へ二本目の道から西で見つかった蓮弁と蓮弁の間に、くさび形(界弁)と珠文が交互に配せられており中央に線がある。この様式は高句麗から百済、飛鳥と伝わり、飛鳥から交野に跡を残したものである
忍冬唐草文(にんどうからくさもん) 外側にある鋸歯文(きょしもん)(のこぎりの歯状の文)白鳳(はくほう)時代(じだい)(645710)の特色、昭和51年、郡津神社の発掘で神殿の東から出土した軒丸瓦(のきまるがわら)



2002.11.25(No55)
  
鉄器の出現
 鉄器が日本で使われるようになったのは紀元前後の弥生時代中期からで、石器に取って代わるかたちで、大木の伐採や武器、農具などに威力を発揮した。
 鉄を精錬すの「製鉄」はまだ行われず、朝鮮半島から板状の鉄製品を地金として輸入し、形を変えたり、整えたりする「小鍛冶」で作っていたらしい。
 吉野ヶ里遺跡(佐賀県神埼郡)などで使えなくなった鉄斧(てつぷ)を研ぎ直してノミなどに再利用した鉄製品が出土している。古代のたたらの様子(推定)製鉄が日本で行われるのは古墳時代の五世紀と考えられ、六世紀になると中国地方を中心に大規模な「製鉄総合工場」が作られるようになる。
 「丹後王国」を支えたかもしれない遠所遺跡(京都府弥栄町)では、製鉄炉のほかに原料の砂鉄、炭焼き窯、鍛冶炉などもあり、一貫した生産が可能だった。
 近年は、弥生時代に銅鐸を造る技術があったのだから製鉄もできたはずと考える研究者もいる。            (2002.2.27よみうり新聞より)

 大鍛冶工房古墳時代、交野にあった!
 六世紀の前半(古墳時代後期)、JR河内磐船駅の南側は、鉄器を作る鍛冶の技術集団の住居と作業場がならぶ団地で、竪穴式住居跡から原料の鉄塊が見つかりました。古代、鉄の原料の大部分は、精錬地で「延べ棒」にして各地に送られていたと考えられていただけに、通説を覆す貴重な発見であった。
*鍛冶には大鍛冶と小鍛冶があります。
大鍛冶とは、原料を炉で溶かして不純物を除き、延べ板にする作業です。
小鍛冶とは延べ板を鉄器に加工するところで、四條畷、寝屋川でも遺跡が見つかっています。
            原料の小鉄塊が出土「森遺跡」 広報かたのより


2002.11.22(NO54)
 
 千手観音さん

 千本の手を持つ千手観音は、正式には千手千眼観自在菩薩(せんじゅせんげんかんじざいぼさつ)というように千の手に千の目をつけているという、きわめてオカルト的な仏さまだ(平安時代以降は目のない千手観音像も多いという)。千手観音像
 この千の手と千の目を駆使して、あらゆるケースに応じて、災いにあう人々、悩み苦しむ人々を救うという仏の無限の慈悲を象徴する観音である。日本では十一面観音に次いで広く信仰され、蓮華王(観音の中の王)ともいわれたほどだ。聖(正)観音から変化した、さまざまの観音さは、変化観音と総称される。
 観音像としては、文字どおり千本の手を作った像もある。四十手を大きくし、他の九百六十本は細い手として後方に光背のように扇形に広げている。しかし平安時代以降には千本の像はほとんど作られず、四十手(中央の二手を除く)だけだという。
 これは左右二十手ずつ四十手の一手一手が、二十五有の世界(衆生が輪廻する三世・前世、現世、来世を二十五種に分けた世界)の衆生を救うという計算で、即ち千手となるわけです。
 今日「夫婦の日」11月22日、石仏調査隊どんないい仏さまに出会えることでしょうか?星田地区を調べます。 

2002.11.20(No53)

 交野の神社
 
 古代磐船神社は船形をした石神、すなわちニギハヒノミコトが渡海に使う船の象徴という意味は、平安時代では当時やはり遣唐使の渡海の困難から、海上の安全をいのる神、すなわち当時流行の住吉神と同じではないかとなって、ほんらいの磐船神社のご神体の巨石祭神ニギハャヒノミコトがこの神におきかえられてしまった。
住吉社は四神であるが、そのはじめの三神
底筒男命(そこつつお)
中筒男命(なかつつお)
表筒男命(うわつつお)は、かってイザナギの諸尊が黄泉国へいって、汚れた身体を海で洗ったとき、その海の底、なかほど、および表面で洗ったときのそれぞれ海中で生まれた神々であり、四神中でさいごの息長帯姫命(おきながたらしひめ)はすなわち神功皇后(じんぐう)であって、見事に三韓を討って帰った安全渡海の経験者、いずれも海に関する神々である。
こうして住吉四神を祀る村々は、南から私市・星田・森・寺・私部・郡津・村野等順次天野川に沿って拡大していったのである。


2002.11.18(No52)
 
稲作のルーツ
            <縄文イネ岡山県で出土>
稲のプラントオパール「稲作は弥生時代から」という長年の常識が履されたのは、二十年余り前だ。
1978年に福岡市の板付遺跡で見つかった縄文晩期後半(約2500年前)の水田跡は「弥生イネ」の先駆けだが、その後、さらに古い本格的な「縄文イネ」の存在がわかってきた。
まず93年に岡山県総社市の南溝手遺跡で縄文後期中頃(約3500年前)の土器片からイネ科植物の細胞化石「プラント・オパール」が見つかった。

 99年には岡山市・朝寝鼻貝塚の縄文前期初め(約6000年前)層から同様の細胞化石が発見され、佐藤洋一郎先生日本列島の稲作の歴史がさらにさかのぼる可能性が出てきた。

 この縄文イネについて、植物遺伝学の佐藤洋一郎・静岡大助教授は、焼畑栽培ができる「熱帯ジャポニカ」という種類だと想定。
 同種のイネを、中国・長江下流の河ぼ渡遺跡で出土した約7000年前の炭化米からも確認し、列島への渡来ルートを追跡しているとある

       2002.02.27読売新聞掲載より


2002.11.15(No51)

 
 玉の文化
             <神秘の光放つ魂の宝>
装身具としての勾玉(まがたま)や管玉は縄文時代以前から見つかるが、古墳時代中期(五世紀中ごろ)以降は出雲地方(島根県東部)が生産の中心となり、製品は北海道から九州まで各地に送られた。東車塚古墳の逆C形の勾玉、4点
玉湯町の花仙山で「出雲石」と呼ばれる緑色あざやかな碧玉(へきぎょく)や赤い半透明のメノウ、水晶などの原石が採れ、山麓の工房で製品化された。
町内の玉作り遺跡は、国史跡の出雲玉作跡など三十数ヶ所に上る。
作り方は石のハンマーや鉄クギ状の道具で石を大まかに割り、目の粗いものから順に砥石(といし)でみがく。
糸を通す穴開け作業が難しく、キリを回転させる「はずみ車」を使った。
神秘的な光を放つ玉は魂に通じる宝物とされ、権威の象徴として使われた。古墳の副葬品でよく見つかる逆C
字形の勾玉は、胎児をかたどったという説がある。
出雲風土記などにも、天皇の長寿を祝う儀式に持参する玉を作ったとある。平安後期(十一世紀)以降、玉作りは姿を消すが、玉湯町では江戸末期になってメノウ細工が復活した。
交野からは東車塚古墳から勾玉4点いずれも逆C形。
それと妙見山古墳からC形勾玉1点が出土している。


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