映画「つづり方兄妹」物語

No42(2009.11.14)     平田政信さんのよもやま話より
   

Q:映画「つづり方兄妹」物語について 

A:戦後台湾から引き揚げて校区東香里に住む野上丹治・洋子・房雄兄妹の作文は、昭和26年から32年頃までの学校や周囲のできごとなど、のびのびと書いた作文で、新聞・雑誌などに当選、なかでも房雄が2年生のとき作った『ぼくらの学校』はモスクワ国際児童つづり方コンクール1等賞を得た。そうしてこれらの文集が理論社から昭和33年4月に刊行。すぐれた作品集だったので、話題が呼び多くの学校や家庭で読まれ、映画にもなった。
交野でも、交野小学校の近くで映画ロケがあり、大勢の人々が見学した。
  

【ロケ見学の感想】
 野上家の墓地は私部共同墓地内にある。
ふうちゃんの野辺の送りのシーンでは先生役の津島恵子・香川京子さん、そしてふうちゃんの女友達の二木てるみさんを身近でみることが出来ました。

女優、津島・香川さんの美しさに小5だった私はその時、思った。お嫁さんにするならこのような美しい女優さんと、そして私の嫁は、この二人をたして2で割ったような人である。
(笑・笑・大笑い)
ちょいちょい「ふうちゃん」のお墓にお参りさせていただいております。





(製作会社)東宝スコープ  監督:久松静司  脚本:八住利雄
(配役)房雄:頭師孝雄 まち子先生:津島恵子       
    房雄の女友達:二木てるみ

    
   平田政信さんのよもやま話
    http://murata35.chicappa.jp/yomoyamaqa/index0907.html#42



  2001.7.11 東高野街道を歩くB より
     http://murata35.chicappa.jp/shuhenkaido/higasikoya04/index.htm


  
 旧陸軍造兵廠・香里製造所跡

   〜現公団香里団地内〜

 枚方には明治中期から陸軍の禁野火薬庫が置かれ、昭和12年(1937)7月に日中戦争が始まると、陸軍造兵廠の枚方製造所が昭和12年から開設のための工事がはじまり、更に昭和14年から香里製造所の工事が始まった。
 枚方製造所は、100万uを超える広大な敷地に9つの工場が建ち、1万人の工員が砲弾の製造をしていた。香里製造所は日本有数の火薬製造所で枚方製造所で造った砲弾に火薬がつめられ戦争地へ向かった。その輸送には、片町線の星田駅からの引込み線が使用された。
 敗戦後、工場は閉鎖されたが、昭和27年朝鮮戦争の特需ブームにのって、火薬製造会社が旧香里製造所の払い下げを申請した。
 驚いた地元住民はいち早く火薬製造反対の運動を展開した。粘り強い地区の反対運動が実り、昭和28年3月、政府は遂に再開を断念した。そして昭和31年、土地の平和利用の一環として日本住宅公団香里団地の造成が始まった。 
 旧製造所の建物、施設は一掃されて近代的ニュータウンに一変したしたが、ここ香里ヶ丘8、妙見山の一角は団地造成から外れたため、昭和37年枚方市水道局用地となり、旧製造所時代の煙突だけは残った。枚方市は、この煙突を不戦と平和の記念碑とした。

 大阪陸軍造兵廠第5枚方製造所(香里製造所)を昭和20年の終戦前に交野市の私市に洞窟を掘り移転する計画があった。
 面積は、652u、長さ138m、洞窟5ヵ所、坑木による簡単なもの。立木は終戦時に撤去して現在は3ヵ所の洞窟が残っている。
 つい先日、私は交野古文化同好会のサタディーウォークに参加して3号隋道(奥行き45.3m、総延長73.5m、床面積約147u)を確認した。
その時の様子は、こちらです。


 つづり方兄妹」ものがたり
 敗戦の翌年に開設した香里小学校は、陸軍の施設、病院と事務所を転用した不便なもので、タイル張りや広さがまちまちの部屋を教室に使った。
 運動場は山が迫って狭く、10学級の小さな学校だった。
 昭和27年、火薬製造反対運動の頃、この香里小学校に、野上丹治、洋子、房雄の三兄妹が通っていた。野上一家は、戦後台湾から引揚げてきて旧香里製造所跡の雨漏りの激しい小屋で一家5人が暮らしていた。
 貧しい生活だったが、兄妹仲良く、協力し合って向学心に燃え、社会のこと暮らしの事にも、子どもらしい正義感でみつめ作文(つづり方)を綴った。
 3人の作品は、国内外のつづり方コンクールで一等をしばしば受賞した。そして、1958年3人の作品をまとめて、理論社から「つづり方兄妹」が出版された。
 すぐれた作品集だったので、話題を呼び多くの学校や家庭で読まれ、映画にもなった。
 交野でも、交野小学校の近くで映画ロケがあり、大勢の人々が見学したそうである。

※参考 
 理論社名作の愛蔵版
 つづり方兄妹  野上丹治・洋子・房雄作品集
 理論社 1981/05出版 236p
 [A5 判] NDC分類:K915 販売価:\940(税別)
 絶版のため入手不能ですが、図書館には蔵書があるようです。 


2005.3.12
 交野歴史健康ウォーク 69回 私部〜森・私市を歩く より
  http://murata35.chicappa.jp/rekisiuo-ku/kisaiti09/index.htm

つづり方兄妹の墓
 続いて私部墓地に案内され、「つづり方兄妹」の主人公・野上房雄さんの「ふうちゃんのお墓にお参りした。今年の正月の初歩きでも訪れたが、今回の参加者の中には、つづり方兄妹のお父さん(野上さん)をご存知の方も居られて、「屋根のトユを治してもらった事がある」と懐かしく語られていた。

 初歩きのホームページにも紹介していますが、少し触れたいと思います。
つづり方兄妹」ものがたり
 敗戦の翌年に開設した香里小学校は、陸軍の施設、病院と事務所を転用した不便なもので、タイル張りや広さがまちまちの部屋を教室に使った。
 運動場は山が迫って狭く、10学級の小さな学校だった。
 昭和27年、火薬製造反対運動の頃、この香里小学校に、野上丹治、洋子、房雄の三兄妹が通っていた。野上一家は、戦後台湾から引揚げてきて旧香里製造所跡の雨漏りの激しい小屋で一家5人が暮らしていた。
 貧しい生活だったが、兄妹仲良く、協力し合って向学心に燃え、社会のこと暮らしの事にも、子どもらしい正義感でみつめ作文(つづり方)を綴った。
 3人の作品は、国内外のつづり方コンクールで一等をしばしば受賞した。そして、1958年3人の作品をまとめて、理論社から「つづり方兄妹」が出版された。
 すぐれた作品集だったので、話題を呼び多くの学校や家庭で読まれ、映画にもなった。

 交野でも交野小学校の北川沿いの道路で、野上房雄(ふうちゅん)の野辺送りの映画ロケがあり、大勢の人々が見学したそうである。
 
 久松静児監督の手により映画化されたのは1958年(昭和33年)。出演者は望月優子・織田政雄・香川京子・津島恵子・森繁久彌・乙羽信子らに、京阪神の劇団関係子役から選抜された藤川昭雄・竹野マリ・頭師孝雄が三兄妹弟に扮している。
11月の古文化の勉強会でビデオを鑑賞し、房雄(ふうちゃん)の次の詩が特に印象的でした。

 「ぼくのところからみると  下の方は ずうっと かたのの のはらや 
    そのむこうに いこま山が むっと たっている 
       あのてっぺんに よう 白いくもがねている
    ぼく あのくもにのりたいねん 百円でけたら でんしゃにのっていく」


 戦後間もなくは、交野も生駒山も香里の地からいまよりもっと近く感じられただろう。その房雄は病気に倒れ、貧しさゆえに入院もできずに死んでいく。房雄の亡骸をリヤカーに乗せて運ぶ際、生駒山を指差した妹の洋子が「(ふうちゅんも)あのくものうえでねているかしら」とつぶやく場面が切ない。
 残念なことに「ふうはちゃん」は8歳で亡くなった

     (2004年11.01 産経新聞を参照しました)



下記は、2008年 日本の旅 関西を歩く 大阪・陸軍香里製造所跡と「つづり方兄妹」を
 参照しました。
  http://4travel.jp/traveler/sasuraiojisan/album/10272150/

 戦前、枚方(ひらかた)は禁野(きんや)火薬庫・枚方(ひらかた)製造所・香里(こうり)製造所という陸軍の火薬製造保管施設がある日本有数の爆弾製造拠点だった。戦後陸軍香里製造所跡はニュータウン香里団地に生まれ変わり、当時の遺産は水道局用地となった妙見山配水地(通称エントツ山)に旧製造所汽缶場の20mの煙突が残っているだけだ。当時香里製造所では13歳から17歳までの女学生数百人が1トン爆弾の火薬を作る労働を強いられていた。2008年8月15日の終戦記念日に火薬工場に学徒動員された当時の女学生有志らが非戦(戦争をしない)を誓って「在りし軍国少女非戦の誓い」の碑を旧陸軍香里製造所汽缶場前・末広公園内に建造した。香里製造所で働いていた女学生有志が戦争体験記「女学生の戦争体験」を自費出版し、本の売り上げや寄付金で石碑を建てたそうだ。後世に自分たちが強いられた苦しみを2度と体験させまいとの思いを個々人の負担で伝えようとする行動はすばらしいと思う。

 陸軍香里製造所跡近くにはモスクワ国際つづり方コンクールで第一位を獲得するなど作文の上手な兄妹として出版、映画化もされた「つづり方兄妹」(野上丹治・洋子・房雄三兄妹)の家族(両親と6人の子供・8人家族)が貧しいながらも平和に暮らしていた。ところが1952年に朝鮮戦争の特需で火薬製造会社が旧香里製造所の払い下げを申請、驚いた香里園地区住民は反対運動を起こし国会・政府に陳情を重ねついに火薬製造所再開を断念させ、結果旧香里製造所は香里団地に再開発されたという経緯がある。
このときの反対運動や香里団地開発計画に困惑する子供心を小学校2年生の房雄(ふうちゃん1948−1957)が書いた作文がモスクワ国際児童つづり方コンクールで一等賞になった。 

(モスクワ国際児童つづり方コンクールで一等賞になった房雄の作文)
    ぼくらの学校
 大阪の野っぱらは、とても、ひろいひろっぱです。そのひろっぱに、おへそのように、ぽこりとふくれた小丘があります。この小さな丘のまん中が、また、おへそのまん中のように、ペコリとへっこんでいます。このへこんだところに、せのひくいほそながいかわらやねが四つと、せの高い、四かくい、そしてまっがにさびた、トタンやねが、一つとあります。
 ここは、もと、たくさんな、へいたいさんが、すんでいました。それが、せんそうもすんで、ぼくたちの学校になったのです。
 けれども、やっぱり、秋が、来たら、きいろいとらのおの花がいっぱいにさきます。その時は、ほんとうに、かやくのにおいがにおってくるような気がします。でも、ぼくたちは、その花をおって、おかの上のおじぞうさんに、そなえるのです。そして、「おじぞうさん、もう、せんそうがおこらないようにまもってね」といっていのります。
 その時、おじぞうさんは、とっても、かわいい顔をして、ニコニコ笑っていらっしゃいます。そして、「そうね、あなたたちみんないいこなんだもの、もうめったに、せんそうなんかおこらないわ。みんなあんしんして、いっしょうけんめい、べんきょうしてね。」といってらっしゃるようです。
 それなのに、ぼくたちは、げんしばくだんの、おっかないお話ばかり聴くようになって来ました。おまけに学校のとなりの森の中に、かやくを作る工場ができるというおはなしが、きまりました。みんな、ほんとうに、びっくりしました。そして、「かやくはんたい」と書いた紙のはたをふってあるきました。
 おかあさんや、先生方は、えんぜつかいをひらいたり、東京のだいじんさまに「そんなことやめてください」といっておねがいに行ったりしました。そして、とうとう、かやくこうじょうは、作らないことにしていただきました。そして、しばらくあん心してべんきょうしていました。
 ところが、また、このごろそうりだいじんから、「お家をたてるから、学校は、どっかへ、ひっこしてください」といって来ました。ぼくらは、このお話を兄ちゃんからきいて、ほんとうにびっくりしました。五百人も子供がいます。そんなたくさんの子どもらの行くところってあるでしょうか。この丘の町は、たいへんとちがせまくて、大かた、山のてっぺんか、坂になっています。小さなお家ならたちますけれども、大きな学校なんかたてるひろっぱは、どこにもありません。
 ほんとうにこまったことになりました。このごろ「おじぞうさん、どうかぼくたちの学校がひっこししないように、おたすけください」といって、いのっています。
(モスクワ国際児童つづり方コンクールで一等賞になった知らせと賞品がとどいたとき、房雄はすでに亡くなっていた。)

今読んでも見事な反戦の作文だ。1950年代は日本中が戦後の貧しさに苦しんだ時代で栄養失調の子供も多かった。モスクワ国際児童つづり方コンクールで一等賞になりながら結果を知る前に亡くなった幼い房雄の悲劇は1958年の映画「つづり方兄妹」で多くの人たちの涙を誘った。大阪府下の小中学校には「つづり方兄妹」の本が図書館に置かれ、この時代は授業の一環として講堂などで「映画鑑賞」の時間があり、多くの子供たちは「つづり方兄妹」の映画を見て泣き悲しんだ。日本中が貧しく苦しい時代だったが、他人を思いやる人情は現代よりも勝っていたように思う。
野上房雄君(ふうちゃん1948−1957)は交野市私部墓地(かたのしきさべぼち)に家族とともに眠っており、「つづり方兄妹」を知る世代の人たちが今もお参りしている。

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