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奈良・平城(なら)遷都祭、平城京跡史跡


詳しい情報は、奈良国立文化財研究所のホームページにどうぞアクセス願います。
http://www.nabunken.go.jp

平城京跡史跡
(奈良国立文化財研究所発行のパンフを参照)
特別史跡 平城宮跡案内MAPはこちらをクリック下さい

奈良国立文化財研究所 施設案内
特別史跡 平城宮跡
〒630-8577 奈良市二条町2-9-1
TEL 0742-34-3931 : FAX 0742-35-7077
平城宮跡資料館 近鉄大和西大寺駅から徒歩10分
朱雀門 近鉄大和西大寺駅から徒歩20分
JR奈良駅、近鉄奈良駅方面から「二条大路南四丁目」バス停下車、徒歩3分
各施設とも入場無料、月曜日(月曜日が祝日の祭はその翌日)、年末年始休館
開館時間:9:00〜16:30(入場は16:00まで)



 4月21、22日は、平城遷都祭があり、平城宮跡史跡へ2日続けて行って来ました。案内役のボランティアの方の概要説明が素晴らしく、いろんな事を分りやすく親切に教えて頂きました。
 120haの広大な(甲子園球場が33個分の広さ)遺跡を全部案内サービスをして頂き、しかも全施設無料でした。
特別史跡・平城宮跡全景  先ず、平城宮跡資料館に入りますと、「平城宮跡散策MAP」を頂けます。そのあと平城宮跡の概要説明を案内役のボランティアの方から詳しく受けることができます。

この平城宮へ1万人という役人が毎日夜明けと共に出勤したという。また、現在以上に勤務評定も厳しく立ち働いていたとか。
 平城「京」の朝は早かった、という。
 夜明けの太鼓とともに、、平城「宮」の七つの門がいっせいに開き「グリーン族」「ブルー族」が次々に門内に消えていく。
 大多数を占める下級「官人」の朝服(制服)は、緑系、あい系の色に決められていた。六位の役人は深緑、七位は浅緑、八位は深い縹色(はなだいろ)(あい)、初位は浅縹だった。
 ちなみに位が上にあがると、四位は深い緋色、二位,三位の参議、大臣クラスは赤紫の朝服が許されていた。その上の最高の色は黒紫である。これは皇族と一位の位を賜った官人しか着られなかった。

『天の原 ふりさけ見れば春日なる 三笠の山にいでし月かも』という阿倍仲麻呂の歌をご存知でしょう。仲麻呂が遣唐使に従って中国に行き、折からの満月を異国の空から眺めて、望郷の想いに浸かって詠んだ歌です。
 旧い奈良の市街地に住んでいる人々は、月は高円山から上がるから仲麻呂の歌はおかしいと言っていますが、あれは本当なのです。中秋の名月の夜、ここの平城宮大極殿の跡に立つと、満月は三笠山の真上に上がるのです。私は日本一の眺めだと思います。(坪井清足氏)
(「よみがえる平城京--天平の生活白書」日本放送出版協会を参照)

復元された朱雀門・高さ20m、幅25m 建築費用40億円といわれる 1300年前、平城京に住む人々が眺めた月を、同じ場所に立ってながめてみたい。
 満月の夜、荒涼とした大極殿跡に立って、冷たくさえわたる月の光を浴びてみたい。 そんな感動を覚える話だった。

また、8年後の平成20年(平城京1300年)には、大極殿が復元されるようです。
よくもこれだけの広大な土地が遺跡として保存出来たと本当に感動しました。

都が長岡京に移った跡は、時が流れて土の中に埋もれていき、江戸時代の末になって、北浦定正による平城京の復元研究がおこなわれて、明治の終わり頃、関野貞、喜田貞吉などの優れた研究の結果、奈良時代の都の姿が次第にわかってきた。
 それとともに、明治から対象にかけての棚田嘉十郎や溝部文四郎をはじめとして、現在も続く地元の人々の協力、さらに戦後の国民的な運動にも支えられて、平城宮は保存されてきた。
 現在は国の特別史跡に指定され、奈良国立文化財研究所が継続的な調査・研究をおこなっている。
(奈良国立文化財研究所発行のパンフを参照)。

また、機会がありましたら是非、ご家族連れで歴史を学びながら、広々とした芝生で1300年前の人々の暮らしなどに思いを馳せながら、のんびりとされるのも良いのではないでしょうか?


平城(なら)遷都祭 奈良新聞より抜粋参照
奈良新聞 http://www.nara-shimbun.com/index.html

天平衣装記念撮影会や手作り工作教室風景 「平城(なら)遷都祭」(同実行委主催)が22日、奈良市の朱雀大路を中心とした平城宮跡一帯で始まった。
 一昨年末、「古都奈良の文化財」が世界遺産に登録されたのを機に、歴史と文化を再認識し、活力と魅力あふれる国際文化観光都市づくりに寄与することを目指し、昨年から開かれている。

 この日は、奈良時代の衣装に身を包んだ、市内の幼稚園児や保育園児を中心に約1000人が大極殿跡から朱雀門を目指し、行進。到着を待ち、オープニングセレモニーが始まった。遷都祭の幕開けにふさわしく厳かな雰囲気の中、宮跡から出土した木簡をもとに但馬、若狭、志摩、駿河、さらに大和の国からそれぞれの特産品を献上した様子を再現したほか、姉妹都市提携30周年を迎えた韓国、慶州市からも来賓を招いた。
産物献上に参加した4主市町の特産品などを販売する「東市・西市」遷都祭の当日、和同開珎(ちん)のレプリカで買い物ができた東市・西市 米や塩、海産物など献上品は *兵庫県八鹿町、小佐 *福井県小浜市、遠敷 *三重県鳥羽市、答志 *静岡県清水市、東海大付属−の各小学校と地元・都跡小学校の児童代表が藤原不比等に扮した大川靖則・奈良市長に手渡した。
 ナスとウリを献上した都跡小6年、仲村あゆみさんは「平城宮跡は私たちの第2運動場」などと話し、学校からは東大寺大仏殿や薬師寺など世界遺産群が見渡せることも紹介した。
 昨年のオープニングは雨だったが、今回は晴天に恵まれ、主催者によると2万5000人が詰め掛けた、という。天平衣装記念撮影会や手作り工作教室、産物献上に参加した4主市町の特産品などを販売する「東市・西市」や大道芸、韓国の伝統芸能なども披露された。


午前7時から早起き役人体験ツアー  奈良市の平城宮跡一帯で23日、「平城(なら)遷都祭」(同実行委主催)が2日目の最終日を迎え多くの入場者でにぎわった。

 この日はまず、午前7時から早起き役人体験ツアーが開催された。あらかじめ募集した50人の参加者が天平衣装をまとい解説者の案内で平城宮跡を散策。日の出と共に出勤したという当時の役人の生活を約2時間半にわたり体験した。
50人の参加者が天平衣装をまとい解説者の案内で平城宮跡を散策・東院庭 会場では、和太鼓パフォーマンス「平城遷都物語」や短歌・俳句・川柳大会のほかクイズ大会があった。また、和同開珎(ちん)のレプリカで買い物ができる東市・西市やミニ鉄道「まほろば鉄道」、大道芸や野点も。平城宮跡内に分散する史跡を散策しながらクイズに答える平城宮クイズラリーやビンゴ大会では、ゲーム機の商品を目標に会場が大いに盛り上がった。
 2日間の遷都祭をしめくくるイベント「天平朱雀コンサート」は朱雀門前特設舞台で開かれた。プロのジャズグループからシルバーコーラスグループまで奈良市内などから15団体が参加。最後には15グループが総出演で演奏した。
平城京

 和銅3年(710)、奈良盆地の北端に造られた平城京が新しい都と定められた。元明天皇が律令制に基づいた政治を行う中心地として、飛鳥に近い藤原京から都を移したのです。中国・唐の長安城などを模範とした都をつくることは、当時の東アジアの中で国の威厳を示す意味もありました。

第一次大極殿院・東楼の遺構展示 その後、聖武天皇は740年から745年まで、都を転々と移しますが、745年には再び平城京を都としました。
 そして、長岡京に都が移る784年までの間、奈良の地が都として栄えたのです。この時期を奈良時代といいます。

平城京のメインストリートは、京の南門である羅城門から北に真直ぐに伸びる幅74mの朱雀大路です
 南北4.8km、東西4.3km、朱雀大路の南端の郡山には羅城門があった。
 朱雀大路を挟んで西側を右京、東側を左京といいます。左京には北の方で東にさらに張り出しがありました。平城京は大小の直線道路によって、碁盤の目のように整然と区画された宅地に分けられています。
 平城京の住民は4〜5万人とも10万人ともいわれますが、天皇、皇族や貴族はごく少数の百数十人程度で、大多数は下級役人や一般庶民たちでした。

平城宮

第二次大極と内裏の整備  平城宮・朱雀大路の北端には朱雀門(すざくもん)がそびえていました。朱雀門をくぐると天皇の住居であり、政治や国家的儀式をおこなう平城宮(へいじょうぐう)です。
 平城宮の周囲には大垣が巡り、朱雀門をはじめ12の門がありました。

平城宮の内部にはいくつかの区画があります。政治・儀式の場である大極殿(だいごくでん)・朝堂院(ちょうどういん)、天皇の住まいである内裏(だいり)、役所の日常業務をおこなう曹司(そうし)、宴会をおこなう庭園などです。
奈良時代の庭園を発見・復元した東院庭園  その中でも政治・儀式の場は、都が一時離れた時期を境にして、奈良時代の前半と後半で大きな変化がありました。奈良時代前半に、朱雀門の真北にあった大極殿(通称、第一次大極殿)が、奈良時代後半になると東側の区画で新たに建てられたのです。(通称、第二次大極殿)。これに対して、内裏は、奈良時代を通じて同じ場所にありました。

これらの事実は、昭和34年ごろより40年以上に及ぶ発掘調査によってわかってきたことです。このうち、ほぼ正方形と考えられたきた平城宮が、じつは、東部に張り出し部分をもつことがわかったことや、その隅に奈良時代の庭園を発見した事などは、発掘調査による大きな成果のひとつといえるでしょう。


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