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ホケノ山古墳

詳しくは、下記にアクセスください
桜井市職員自主研究グループ「桜井インターネット研究会」
http://www2.begin.or.jp/sakura/maho3.htm

2000.4/9(日)、ホケノ山古墳(奈良県桜井市)の説明会に行ってきました。
JR桜井線も臨時列車を出し、巻向駅では多くの乗客で混雑。
午前9時10分頃に着いたときには、もう沢山の見学者で埋め尽くされ、
予定を繰り上げて説明会が行われていました。
まず、受付で現地説明資料を受け取り、
テント張りの出土品コーナーで
中国製の画文帯神獣鏡、二重口縁壺、銅鏃、鉄鏃などの実物を、
続いて発掘された古墳を説明を聞きながら見学しました。



ホケノ山古墳(第4次調査) 現地説明会資料

1.はじめに
 三輪山の麓に存在する墳丘長約280mの箸墓古墳は、最古の巨大前方後円墳として広く知られています。箸墓古墳の周辺にはホケノ山古墳のほか、纒向石塚、矢塚、勝山、東田大塚など、箸墓古墳と同時期、あるいはそれに先行すると考えられる前方後円墳があり、また一帯には纒向遺跡がひろがっています。この地域が、大和政権の誕生と深いかかわりをもつことは、疑いありません。
 ホケノ山古墳は、桜井市大字箸中に所在します。これまでの3次にわたる墳丘や周濠の調査によって、箸墓古墳よりも古い時期のものである可能性が指摘されていました。昨年9月から、より具体的に古墳の実体を明らかにするための発掘調査を進めてきましたが、その主要な成果をここにご紹介いたします。
2.墳丘
 全長約80m、後円部径約60m、後円部高約8.5m、前方部長約20m、前方部高約3.5mの、前方部を南東に向けてつくられた前方後円墳てす。墳丘の表面には茸石を設け、周囲には周濠を巡らしています。前方部裾付近では、葺石を一部破壊して設けられた埋葬施設が検出されています。
3.中心主体部
 古墳の主人を葬った中心主体部は、後円部中央に設けられた「石囲い木槨」です。「石囲い本槨」はわが国で初めて確認された特殊な構造の埋葬施設で、木材でつくった「木槨」の周囲に、河原石を積み上けて「石囲い」をつくるという、二重構造をもっています。「石囲い」の上部は木材で天井とし、その上に大規模な積石を行います。「石囲い」部分は、内法で長さ約7m、幅約2.7mで、高さは現状で約1.1m、本来の高さは1.5m程度と考えられます。「石囲い木槨」の内部には、長さ約5mのコウヤマキ製の長大な刳抜式木棺をおさめていました。この古墳の主人の遺骸は、木の棺、木の部屋、石の部屋によって幾重にも厳重に包み込まれていたのです。埋葬施設の上部には石を積んだ長方形の壇があったと推定され、このまわりにはさまざまな文様で飾つた二重口縁壺を、ほぼ一定の間隔で長方形に並べていました。
4.出土遺物
 現在までに、中国製の画文帯神獣鏡1面のほか、内行花文鏡、半肉彫表現の鏡の破片若干、素環頭太刀1口を含む鉄製刀剣類10口前後、銅鏃60本以上、鉄鏃60本以上、鉄製農工具など数多くの副葬品が出土しています。また、棺内には多量の水銀が見られます。
5.横穴式石室
 中心主体部西側に6世紀末頃の横穴式石室が墳丘を再利用してつくられています。石室全長14m以上で、玄室に組合式家形石棺を安置しています。若干の土器、鉄釘などが出土しました。
6.まとめ
 出土した二重口縁壺は土器の編年上、庄内式と呼ばれるものてす。画文帯神獣鏡は後漢末の製作とみられます。埋葬施設に使用された石材には、箸墓古墳をはじめ、周辺の前期古墳に普遍的に使用されている二上山周辺産の板石がまだ含まれていません。木槨を採用した特殊な埋葬施設の構造など総合して考えると、この古墳の築造年代は箸墓古墳よりさらに古く、3世紀中葉と判断されます。内容的には、典型的な古墳時代前期の前方後円墳とまったく共通する点、あるいはつながっていく点が多い反面、弥生時代の大型墳墓に類例が求められる要素もみられることが注目されます。ホケノ山古墳は、同時期の他のどの地域の墳丘よりも大きな墳丘、大規模で複雑な構造の埋葬施設をもち、副葬品も質・量ともに豊富です今回の調査で得られた成果は古墳時代の開始にかかわるさまざまな問題を考える上できわめて重要な意味をもつものといえるでしょう。

ホケノ山古墳(第4次調査)現地説明会資料 2000年4月8・9日
本資料の作成は、河上邦彦、萩原儀征、岡林孝作、水野敏典がおこなった。


ホケノ山古墳第4次研査 報道発表資料
2000年3月27日、大和古墳群調査委員会
1.所在地 奈良県桜井市大字箸中字ホケノ山
2.調査期間 1999.9.10〜(継続中)
3.墳丘
 纒向遺跡の東南部に位置し、東から西へ向かってのびる段丘の残丘上に立地する前
方後円墳である。前方部を南東に向ける。現状での墳丘規模は全長約80m、後円部
計約60m、後円部高約8.5m、前方部長約20m、前方部高約3.5mである。同濠
を巡らし、茸石を有する。
4.中心主体部
 中心主体部は、後円部中央に南北主軸で設けられた「石囲い木槨」である。「石囲
い木槨」はわが国で初めて確認された構造の埋葬施設で、木材で構成した木槨部分
と、その周囲に石を積み上げて構築した石囲部分からなる二重溝造をもつ。上部を削
平され、南側約1/3を後世の攪乱により大きく破壊されていたが、それ以外の部分は
未攪乱の状態で遺存していた。
 石囲い部分は河原石を積み上げた幅広の石室状をなし、内法で長さ約7m、幅約
2.7mを測り、現状で1.1m、本来の高さは1.5m程度と考えられる。石囲いの
上端部に木材で架構築し、その上部に大規模な積石を行ったと考えられる。
 木槨部分は石囲い部分の内部に木材を組んだものと思われるが、構造などの詳細は
現在調査中である。なお、木槨の内面には水銀朱を塗布していた可能性が高い。
 木槨内部には、長さ約5m、幅1m内外のコウヤマキ製の長大な刳抜式木棺をおさめ
る。バラスとやや大ぶりの河原石を混用した棺床施設を有する。木棺の表面は一部焼
けている。
 なお、使用された石材はハンレイ岩、黒ウンモ花崗岩を主体とし、すべて近在の纒
向川から採取できるものである。
5.出土遺物
 現在までに、画文帯同向式神獣鏡1面、内行花文鏡片・半肉彫表現の鏡片若干、素
環頭大刀1口を含む鉄製刀剣類10口前後、銅鏃60本以上、鉄鏃60本以上、農工
具などの鉄製品多数、二重口縁壺20体以上が出土している。
 このうち、確実に棺内遺物と考えられるのは、棺中央南寄りに置かれていた画文帯
同向式神獣鏡1面、鉄剣もしくは槍5口である。棺中央部から北寄りにかけては多量
の水銀朱がみられる。
 土器を除く出土遺物のうち、上記の棺内遺物と判断されるもの、およぴ攪乱中から
出土したもの以外は、棺・槨上に置かれていた可能性が高い。
 二重口縁壺のうちの多くは槨室内に落ち込んでいたが、ほんらいは「石囲い木槨」
の上部にほぼ一定の間隔で長方形に配列されていたものと考えられる。
6.横穴式石室
 中心主体部西側に、横穴式石室1基が存在する。両袖式で、玄室長約5m、石室全
長14m以上を測る。玄室には組合式家形石棺を内蔵する。内部は徹底的に盗掘され
ており、須恵器、土師器、鉄釘などが出土したにとどまる。6世紀末頃の築造と考え
られる。
7.築造年代
 出土した二重口縁壺は、庄内式の範疇で捉えられる。画文帯同向式神獣鏡は、後漢
末の製作とみられ、その入手から墓に入れられるまでの年月を考慮し、また、今回
「石囲い木槨」と仮称した特殊な埋葬施設の構造は、定型的な竪穴式石室の出現に先
行する可能性が高い。同時に、箸基古墳を含む大和古墳群の主要な前期古墳の竪穴式
石室で多用される二上山周辺の安山岩、玄武岩をまったく使用しない点は、この埋葬
施設がそうした石材採取地の開発以前の築造である可能性をつよく示唆する。これら
の点から、ホケノ山古墳の築造年代は、
箸基古墳よりさらに古く、3世紀中葉

と判断される。
8.まとめ
 今回の発掘調査で明らかになった諸点のうち、重要と思われる点を列挙する。
(1)茸石を備えた前方後円墳としては箸基古墳よりもさらに古く、現時点では最古
に位置づけられる。
(2)長大なコウヤマキ製の刳抜式木棺をすでに採用している。3世紀中葉以前の木
棺としては、現在までに知られている最も長い木棺である。
(3)銅鏡、銅鏃、鉄製刀剣類、鉄鏃、鉄製農工具類からなる豊富な副葬品を有す
る。中国鏡や素環頭大刀は大陸との交渉をうかがわせる遺物である。
(4)埋葬施設上に二重口縁壺を方形に配列することは、前期古墳の墳頂部における
方形壇、方形区画や壺・埴輪の方形配列につながる可能性がある。
(5)木槨は弥生時代の大型墳墓では類例が知られているが、前方後円墳で確認され
たのは初めてである。また、石囲をともなう点は特徴的であり、規模的にも現在知ら
れるわが国の木槨としては最大である。
(6)ホケノ山古墳は多埋葬である。
 以上の諸点のうち、(1)〜(4)は定型的な前期前方後円墳の様相とまったく共通
する要素であり、いっぽう、(5)、(6)は弥生時代の墳墓に類例が求められる要
素である。すなわち、ホケノ山古墳は、弥生時代の墳墓と、古墳時代前期の前方後円
墳との中間的な様相をもつものといえる。
 3世紀中葉の段階で、同時期の他地域の墳墓をしのぐ墳丘規模をもつこのような前
方後円墳が奈良盆地東南部の纒向遺跡の一角に存在することが確認されたことは、古
墳時代の開始にかかわるさまざまな問題を考える上で、多くの示唆を与えるものであ
る。その学術的意義はきわめて大きい。

北まくら?南まくら?(奈良新聞)

ホケノ山古墳の被葬者
 最古の前方後円墳の被葬者は北まくらか、それとも南まくら?−。桜井市箸中のホ
ケノ山古墳(3世紀中ごろ)の被葬者の頭の向きをめぐって研究者の間で議論が高
まっている。
 黒塚古墳(天理市)など3世紀後半以降の前期古墳では、埋葬施設は南北向きにつ
くられ、鏡などの主要な副葬品は木棺内の北側に集中。前方後円墳が成立した初期の
段階から中国思想の影響とされる「北まくら」の埋葬習慣が定着していたらしい。と
ころが、ホケノ山の場合、南北は向いているが、画文帯神獣鏡一面や鉄剣などの副葬
品が棺の南側に集中していた。
 河上邦彦・県立橿原考古学研究所調査研究部長は、副葬品が集中していることに加
え、南の床面が少し高くなっていることを重視して「南まくらの可能性が高い」と推
測する。
 さらに、ホケノ山は木槨(もっかく)や多葬埋葬など弥生的な要素が色濃く残るこ
とから、河上部長は「北まくらという方向性はまだ決まっていなかったのだろう」と
考える。
 一方、棺の北寄りでは内行花文鏡の小さな破片が見つかっているほか、遺体などに
かけて魔除けにしたとされる水銀朱が厚くたい積していた。
 当初から前方後円墳は「北まくら」を意識していたとみる辰巳和弘・同志社大歴史
資料館学芸員は
「木槨を除けば、ホケノ山は前期古墳の要素を備えている。
まずは北まくらと考えていいだろう」
としている。
 大和(おおやまと)古墳群学術調査委員会は現在、床下部分の発掘を進めており、
被葬者の頭の向きも近く解明されるかもしれない。

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