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野々上西遺跡発掘調査現地説明会

野々上西(ののうえにし)遺跡周辺MAP


 7/16(日)、近鉄藤井寺駅で下車、駅前から藤井寺南住宅前までバスに乗車、案内板に沿って野々上西遺跡に20分足らずで到着。受付で説明資料を頂く。もう十数名の見学者が見えていた。午後2時からの説明会には、1時間ばかり時間があったので、先ず「野中寺(やちゅうじ)」を見学した。歩いて5分。塔や金堂跡など、野中寺と野々上西遺跡との関係など考えながら、デジカメに納める。
 野中寺を出たところで、「野々上西遺跡へはどう行くのかわかりますか?」と年配の方に声をかけられ再び説明会場へとご一緒する。「遺跡発見の新聞記事を見れば必ず顔を出す」と熱心におっしゃる。
 炎天下の中、沢山の考古ファンの方々の一群に加わり、発掘に関わった職員の方から、詳しく説明を聞くのは何か自分も何かを成し遂げたように嬉しい。
 6月には、「上ノ太子」の叡福寺を、また今月は「中の太子」と呼ばれる「野中寺」を訪れることが出来、何か因縁めいた感じがする。(聖徳太子がお呼びになっている・・・)
 帰りは、仲哀天皇陵を回って、葛井寺(ふじいでら)、辛国神社(からくにじんじゃ)にお参りした。

朝日新聞、7/13朝刊より
 大阪府教委は十二日、羽曳野市野々上五丁目の府営住宅の建て替えに伴う発掘調査で、飛鳥から奈良時代にかけた七、八世紀ごろの建物や溝などの跡が見つかった、と発表した。建物跡の南約200mには、飛鳥時代に建てられた古代寺院の野中寺塔や金堂など主要な建物があり、府教委「溝や塀は野中寺の敷地の北端を示す可能性が高く、古代寺院の広さを考える上で貴重な調査結果だ」としている。
見つかったのは、太さ約20cmの掘っ立て柱の建物跡で、東西約4m、南北約8m。近くで写経などに使われたと見られるすずりの破片が見つかっており、僧らが寝起きをしていた僧坊か、物置などに便われた建物と見られる。建物の北には溝や板塀の跡もみつかり、これらが野中寺の北端とすれば、寺の敷地は南北約300m、東西約200mと推定される。奈良県の飛鳥寺と同等の広さで、かなり大規模な寺院だったことが分かるという。



野々上西遺跡見学など現地写真

野々上西遺跡調査区図面

野々上西(ののうえにし)遺跡発掘調査現地説明会資料
一府営羽曳野野々上第2期住宅建て替えに伴う調査一
2000年7月16日
大阪府教育委員会文化財保護課
[はじめに]
野々上西遺跡は羽曳野市野々上西5丁目に所在します。
羽曳野市は、西に羽曳野丘陵、東に生駒山地がそびえ、その間を石川が北に流れており、古市古墳群をはじめとする多くの遺跡が存在することで有名です。本遺跡は、羽曳野市の中央やや西側、標高約46mの羽曳野丘陵に位置します。
今回の調査は、府営羽曳野野々上住宅の建て替えに伴うもので、5月から7月までの予定で約l,400uを発掘しています。

「周辺の遺跡」
 @野中寺(やちゅうじ) ・・・調査区から南へ約200m 境内地が『野中寺旧伽藍跡』として国の史跡にも指定されている古代寺院の跡で、寺伝によれぱ、聖徳太子の命により蘇我馬子が建立したとされていますが、渡来系氏族である船氏の氏寺という説もあります。寺に伝わる重要文化財の「弥勒菩薩半跏思惟像」には、丙寅四(666)年の台座銘があります。
太子ゆかりの寺のうち、太子町の叡福寺が「上の太子」、八尾市の将軍寺が「下の大子」この野中寺が「中の太子」と呼ぱれています。
 昭和59年に中門跡、昭和60年に塔跡の発掘調査が行われました。伽藍配置は中門の北に、東に塔が西に金堂が向かい合って存在しています。
 軒瓦の中には野中寺の東350mの所にある「下田池瓦窯」で焼かれたものもあります。また、塔跡西方から「康(庚)戊年正月」と記された平瓦が出た。この年号は650年と考えられ、先の弥勒菩薩半勘思惟像の台座銘と合わせて寺が建てられた年代を考える上での貴重な資料といえます。


 A野々上遺跡・・・野中寺の東例一帯。
建物跡、井戸、清などが発見されています。7世紀前半から8世紀の後半まで続く集落で、その中に野中寺と同じ方位を持つ建物がまとまってあり、7世紀中頃の土器が見つかっていることから、野中寺の造営・維持に関わったであろうと考えられています。
B古市大溝
 南河内を10kmにもわたって縦断する大水路跡で、10m以上の幅を持っています。運河もしくは灌漑用水路と考えられており、掘られた時期は6世紀中頃と7世紀初め頃という2説が有力ですが、運河であるなら、水運に関係が深く、野中寺の建立氏族という説もある船氏との関係が興味深いところです。
調査区から北へ約200m、現在も地形が東西方向に大きく落ち込んでいる所が古市大溝の跡で、府教委が1996年に実施した府営羽曳野野々上第1期住宅建て替え工事に伴う発掘調査では大溝の南側の肩が検出されました。
 C高鷲中之島遺跡 野中寺の北西約500m
1993年に羽曳野市遺跡調査会が実施した府営中之島住宅建て替えに伴う調査で、南と東に門を持つ塀によって区画された南北の方位を持つ建物群が検出されました。7世紀中頃から後半に営まれたもので、古市大溝の支線が合流する地点に近く、古市大溝を管理する役所か関係の深い豪族の邸跡という性格が考えられています。

[調査緒果]

建物1.
 2間x4間以上の南北棟です。柱を据えるために一辺約80cmの方形の堀方を掘り、径約20cmの柱を立てています。柱間寸法は南北約160cm、東西約190cmです。建物の方向はほぼ南北です。
溝2.
 延長約40m、幅2m〜3.5m、深さは0.6mあります。ほぼ東西方向で、流れは東に向かっていたと思われます。
溝3.
 延長15m、幅1.5m〜2m、深さは0.3mあります。ほぼ南北方向で、溝2に合流する部分でやや東へ曲がるようです。
溝4・5
 延長17m、幅0.6m〜1.2m、深さは0.2mあります。ほぼ南北方向で、二つの溝が合流して一本の溝になり、これも溝2に合流します。
溝6
 溝2の北側で検出された東西方向の掘立柱列です。一辺50〜70cmの方形の堀方で、柱径は15〜20cmあり、溝2とほぼ乎行です。柱間寸法は約210cmの等間隔で、東から6間分、7本検出しています。
落ち込み
 深さは約20cmあります。旧地形が下がっているところに土が堆積したものと思われます。
掘立柱穴
 調査区の北西隅近くで検出されました。堀方は一辺60cm、柱径約15cmあり、建物としてのまとまりは不明ですが、建物1のような施設がさらに西側に広がっていた可能性があります。

〔まとめ]


@遺構の時期について
 詳しい時期は調査途中なのでよくわかりませんが、遣構の上には、調査区の西側に自然堆積と考えられる褐灰色土が、東側には整地土と考えられる褐色土が堆積していました。これらの土の中からは、7世紀初めから奈良時代までの土器や野中寺所用の瓦などが見つかりましたので、発見された建物や溝などは少なくとも奈良時代以前のものであると考えられます。
 A掘立柱建物について
 この建物は規模が大きいこと、建物の方向が南北方向に建てられていること、ある程度の群をなしていると見られることなどから考えると、野中寺との関係が考えられます。生活域であれぱ食器などの土器類が多く見つかるものですが、今回はあまり発見されなかったことや、近くに井戸がないことなどを考えると僧房や雑舎である可能性があります。
B溝について
 溝2の性格として考えられるのは、野中寺の北限の区画です。中門からこの溝までの距離は約285mもあり、南北3町弱という寺地は広すぎるとも思われますが、先の建物群の存在から可能性はあると考えられます。
 溝2より後に掘られて溝2に合流する南北溝3・4・5は建物群の排水か区画のための溝であろうと考えられます。
C塀について
 堀方のひとつから奈良時代の土師器の甕が出土しており、建物1や溝2とほぼ同時期であると思われます。建物lの北側まで延ぴていないのが不思議ですが、理由はわかりません。
D遺物について
 遺物包合屑や整地土、あるいは溝からは、土師器、須恵器の甕、杯、蓋などが出土しました。時期的には野中寺の創建から奈良時代にかけてのものが多く見られます。前年度の調査では須恵器の硯も出土していますが、これなどはお寺での写経に使用されたものでしょう。
 また、今回の調査では5世末頃の埴輪が見つかりました。近くに古墳がある可能性が高いと思われます。


 今回の調査で見つかった遺構、遣物はけっして豊富であるとはいえませんが、周辺の遣跡との関係を抜きにしては語れない内容をもっているといえます。古代国家形成期から確立期の南河内地域の重要性はいまさら言うまでもありませんが野々上遺跡、野中寺と高鷲中之島遺跡の間が空白地帯ではないことがはっきりしたことから、古市大溝を媒介として有機的に移り変わっていくこの地域の7〜8世紀の歴史を、いきいきと描き出す手がかりがまた増えたのではないでしょうか。
 今回の調査にあたっては、周辺の皆様の暖かいご理解を得ることができました。今後とも埋蔵文化財の保護にご理解とご協力をお願いします。


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