[ホームページ] へ戻る

近江国庁跡とその周辺を訪ねる

歴史ウォーキングコース  約7km
  JR石山駅→西方寺→石山国分遺跡→御霊神社→唐橋遺跡→
堂の上遺跡→建部大社→近江国庁跡→惣山遺跡→青江遺跡→
瀬田廃寺→野畑遺跡→JR石山寺

近江国庁跡周辺を廻る写真集

 9/21(木)、朝日カルチャー歴史ウォーキング教室より、滋賀県大津市の近江国庁跡とその周辺を訪ねた。午前10時半、JR石山寺駅に集合。秋の青空に太陽が眩しく、午後はかなり温度も上がりそうだ。
 石山駅前を、南に商店街を抜け、東洋レーヨンの工場を右手に左折、北大路通りを南下、北大路2丁目の交差点を右折、西方寺に着く。鐘楼の石垣に積まれた国分寺・国昌寺の礎石を見学。
 晴嵐小学校校門前で、学校の校地(高台)が国昌寺跡とも考えられていると、説明を受ける。校庭を抜け、鳥居町の御霊神社神社に到着。晴嵐小学校校庭から御霊神社神社の裏山一帯がが石山国分遺跡
 また、この地域は続日本紀にある「保良宮(ほらのみや)」跡(天平3年造営)と推定されている。。
 僧最澄が、この地、古市郷(粟津の市)に生まれている。粟津の市を国庁の市に対して古市と呼んでいる。
古代には、この御霊神社神社の鳥居を真直ぐ西へ行く道があり、瀬田川を渡る「勢多(せた)橋」=瀬田唐橋が架かっていた。
 交通の激しい瀬田唐橋を渡り、土手沿いに南に下る。現在の「瀬田唐橋」より数百メートル南になる、これが瀬田遺跡である。この付近で俵藤太が大ムカデ退治をしたという伝説が残っている。
 気持ちのいい秋風に吹かれて、川の堤に座り昼食。
 瀬田唐橋を挟んで、「壬申の乱」の激しい戦闘があったという。政治的にも軍事的にも重要な位置付けの瀬田唐橋。今は、橋の下を琵琶湖の水が瀬田川を下り、宇治川へと静かに流れている。
 午後は、古代の唐橋付近から東へ(古代の官道と推定される道)進み、住宅地を左手に高台に上がると、堂の遺跡(馬を備えた道の駅)。更に、近江一の宮の「建部大社」にお参りする。
 新しく開発され住宅や福祉施設が建ち並ぶ、三大寺地区を通り抜け、近江国庁跡に着く。草が生い茂る平地である。今も発掘がなされ、将来は公園として整備されると言う。
 その後、近江国庁に関連付けられる遺跡、惣山遺跡、青江遺跡、瀬田廃寺遺跡、野畑遺跡を廻り、3時ごろ解散。この遺跡の中を、東海道新幹線と名神高速道路が走り、遺跡を分断している。
 奈良時代から平安時代の前半頃の近江国庁=国衙(こくが)に関連する遺跡を隈なく廻るという、貴重な歴史ウォーキングが出来、大満足の一日でした。国内で国庁に関して、これだけの貴重な遺跡が残された所は他に無い。
 

近江国庁跡とその周辺を訪ねるMAP
 

近江国庁跡
 国庁は、律令という中国の法律制度にならって、天皇を中心とする統一国家を作ろうとした頃に、全国68ヶ国にそれぞれ設置された役所で、近江国庁は、奈良時代前半(今から約1300年前)に置かれ、平安時代後半(約800年前)まで存続した。
 ここでは、都から派遣された国司(現在の知事のような役職)を中心として、徴税、裁判、軍事など今でいう県庁、警察署、裁判所、税務署として近江国の統治と都との連絡にあたっていた。
 国庁は、前殿、後殿と東西の脇殿を中心に、門や築地からなり、東西二町(約216m)南北三町(約324m)の区画をいう。
 また、その外側には、九町(約972m)四方の広がりを持つ規格化された街路が広がっている。
これを国府といい、役所の所在する市街地にあたるものである。
 近江国庁は、日本で初めて古代の地方政治の中心地である国庁の全容が明らかになった遺跡である。


当日頂いた資料を参照にして作成しました

戻る