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京都府京田辺市
京田辺市の遺跡を訪ねる

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 京田辺市は古くから京都と奈良の交通の要所で、数多くの遺跡や文化財が残っている。南山城でも有数の古墳群である飯岡古墳群や、継体天皇の皇居の跡があったとされる筒城宮伝承地、佐牙神社などを尋ねた。

京田辺市の遺跡を訪ねる写真集

飯岡古墳群の地図と詳細説明

 11/16(木)、天気予報が外れて朝からいい天気に恵まれた。
 JR学研都市線・三山木駅で下車、集合場所の近鉄・三山木駅へと急ぐ。駅前は、本日の60名の参加者で一杯。10時30分、京田辺市文化財担当の職員さんの先導でスタートする。
 落ち着いた住宅街「山本」の集落をゆっくりと南下して、近鉄線、JR線を渡り、三山木小学校の南を西へ入ると佐牙神社(さがじんや)に到着。鳥居の前のイチョウが黄金色に輝き見事だった。
 本殿の前で説明を受け、春日造りの南殿、北殿を拝む。例年10月には、佐牙神社から寿宝寺まで練り歩く、「神輿行事」が盛大におこなわれるそうである。
 同じ道を、三山木駅方面に向かって帰る。途中、JR線と近鉄線に囲まれた場所では、現在京田辺市区画整理事業として、JR線の高架工事が行われており、JRと近鉄線の駅を繋ぐ予定だと説明を受ける。同志社大学のチャペル(女子大学構内に建っている)
 駅前付近で、東へ方向を変え右手に風情のある民家が建ち並ぶ小川沿いを進み、左折し幹線道路を渡ると寿宝寺。寺の右手に、「奈良時代の山本の駅跡」の石碑が建っている。
 寺の本尊・十一面千手千眼観世音菩薩をゆっくりと説明を受けながら拝観する。静かに眼を伏せ、すべての人々の苦しみをお救いになるありがたい菩薩様にお会いし、気持ちが洗われるようであった。
 木津川の堤防に立って、西の方向に見えるのは、同志社大学の近代的な建物、その向こうには頂上に甘南備神社が祀られている甘南備山(217.5m)。すぐ右手の高台一帯の丘陵は飯岡古墳群。
 木津川を行き来した船を模った休憩所のある公園で、少し遅めの昼食を摂る。太陽が隠れ、曇り空となり少し寒さを覚える。
 木津川・飯岡の渡し場跡の石碑、水田の用水路を作った豊田翁の碑の前で、豊田翁の苦労話を聞く。
 飯岡古墳群の一つ、薬師山古墳に登る。頂上には石仏が祀られ、高台からは京都の比叡山がはるか遠くに見える。
 また、すぐ隣にはゴロゴロ山古墳、弥陀山古墳、トヅカ古墳が見える。東車塚古墳の大きさを歩いてみて実感する。すぐ目の前の墓地の中に、穴山梅雪の五輪の塔の墓。
 最後の訪問予定地、田辺天神山遺跡・筒城宮跡伝承地がある、西の高台に見える同志社大学を目指す。黙々と約2km、田んぼの畦道、普賢寺川の堤防の道を歩く。同志社大学構内の見事に紅葉したけやき通り
 同志社大学へと続く道路は、両側のケヤキの木が綺麗に紅葉して疲れを癒してくれた。
 大学構内の田辺天神山遺跡・筒城宮跡伝承地を巡り、最後は同志社大学歴史資料館に寄り、沢山の遺物を見学した。
 同志社大学構内には、このほか下司(げし)古墳群、大御堂(おおみどう)裏山古墳、中世居館跡群、南山義塾跡など沢山の遺跡・遺物が大切に展示保存されていることをはじめて知った。
 近代的な建物と広いキャンパスに恵まれた学校の素晴らしさに驚くと共に、遺跡が学内にありそれを教材として生かされ、また広く公開されていることを知り感激した。
 南山城の古代から営々と育まれてきた歴史を考える、素晴らしい一日であった。
 

歴史ウォーキング行程

近鉄京都線・三山木駅(10:30)→佐牙神社→寿宝寺
木津川・玉水橋付近→飯岡古墳群→田辺天神山遺跡(同志社大学構内)→
筒城宮跡伝承地(同志社大学構内)
JR学研都市線・同志社前駅(16:00)


京田辺市の遺跡を訪ねるMAP

 佐牙神社(さがじんじゃ): 左右両殿よりなる各一間社春日造り、桧皮葺。安土桃山時代
  北殿、佐牙弥豆男神(さがみづをのかみ)十一面千手千眼観世音菩薩
  南殿、佐牙弥豆女神(さがみづめのかみ)を祀り、例年10/17〜19に寿宝寺まで神輿行列が行われる。神輿が寿宝寺に着いた夜、「百味と湯立」が行われ五穀豊穣を祈る。

 寿宝寺(じゅほうじ):高野山真言宗。 京田辺市三山木陶の島20。
  文武天皇慶雲元年(704)に創建されて、古くから「山本の大寺」といい、七堂伽藍を備えていましたが、度重なる木津川の洪水により、移転を繰り返した。
享保17年(1732)現在地に移転し、明治初めに近隣の寺々を合併した。
 本尊は、十一面千手千眼観世音菩薩、重要文化財、平安時代、高さ181cm。
   頭上に十一面をいただき、左右にはそれぞれ5百手をもち、持ち物のない手には墨で目が印されている。葛井寺(大阪)、唐招提寺(奈良)の千手観音とともに三大名作とされている。
すべての人々の苦しみを、その目で見、その手で救おうとするお姿である。

 飯岡古墳群: 飯岡古墳群は、飯岡丘陵に、前期の東車塚古墳をはじめ、中期の薬師山古墳、ゴロゴロ山古墳、弥陀山古墳、トヅカ古墳、後期の飯岡東原古墳、飯岡横穴と古墳時代を通じて多くの古墳が造られた。
 木津川の水運に関係する一族の墓と考えられる。

 穴山梅雪墓 : 飯岡古墳群の東車塚古墳の南側にある、墓地の一角に三つの五輪塔がある。
 天正10年(1582)に織田信長が明智光秀に殺された本能寺の変が起きたとき、泉州堺に滞在ししていた徳川家康は、京都を避けて急いで居城の三河の岡崎城に帰るため堺から飯盛山、枚方市尊延寺を経て、京田辺市に入り、普賢寺、興戸、草内のコースで木津川を渡り、宇治田原から朝宮、加太、白子、大浜に出て帰城した。穴山梅雪の墓
 一日遅れて家康の武将の穴山梅雪は、同じコースをたどり帰城したが、河内の土民に追い詰められて木津川を渡る前に主従12名と共に自刃したと古文書は伝えるが殺害されたとの説もある。。
梅雪は、甲斐(山梨県)武田家の武将で、母は武田信玄の姉の南松院、妻は武田信玄の三女見性院妙顕である。徳川家康の人生最大の事件であり、多くの作家が小説にしたため年間ここを訪れる人が多い。
   (穴山梅雪墓 案内文より)

 田辺天神山遺跡 :同志社大学構内、京田辺市多々羅字都谷
木津川流域に展開する南山城の平地を一望できる、40mの丘陵端部の平坦地に、弥生時代後期の集落が営まれた。 
 集落跡は20戸の竪穴住居が、広場を取り囲むように位置している。住居跡は中央に炉を持ち、4〜8本の柱により建てられ、その平面形は円形と方形が大半を占め、前者から後者へと変化している。 
 また、広場には高床倉庫をはじめとした集落居住者の共有施設が存在したとみられる。

 筒城宮跡(つつきのみや) :同志社大学構内、京田辺市多々羅字都谷
 越前より迎えられ樟葉宮で即位した継体天皇が、即位後5年から12年(511〜518)弟国宮(おとくにのみや)に移るまで7年間宮が置かれた所である。同志社大学歴史資料館
 現在、この地名が「都谷」であることから筒城宮の伝承地とされている。

 同志社大学・歴史資料館(考古学第1・2展示室)
  同志社大学文学部考古学研究室と、同志社大学校地学術調査委員会が長年にわたり今出川・新町・京田辺の各キャンパスの発掘調査などで収集したものなど、考古学、歴史学、民俗学、産業・技術史等の資料が展示公開されている。
 

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