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天下分け目の戦い天王山に登る
大山崎町の史跡を訪ねて
京都府乙訓郡大山崎町

大山崎町の観光その他詳しくは
大山崎商工会のHP
をご参照ください

天王山 :大坂、京都、丹波路の交通の要であった天王山は中世よりたびたび戦場となった。旗立松より京都盆地と三川合流地点が一望される
 壮絶な歴史とは対照的に、
山頂(旗立松・7合目)からは桂川、宇治川、木津川の三川の合流地点と京都盆地が一望できる。美しい光景は多くの武将の心を和ませたことだろう。この眺望を楽しみに山頂を目指したい。
また、奈良時代に、僧行基により、淀川に山崎橋が架けられ、交通の要衝として栄えた場所である。
(山頂は、2段の広場になっていて、休憩場所には絶好だが、残念ながら眺望はきかない。)

 11/7(火)、絶好の秋空に恵まれる。
 JR高槻駅より一駅京都寄りの山崎駅で下車。
 すぐ駅前の離宮八幡宮にまずお参りする。境内に入りと左手に「扇石」があり、奈良時代の山崎院の塔の礎石である。また当地では、平安時代末頃より荏胡麻油(灯明油)の生産がはじまり、八幡宮を本所として油の生産をしていた神人(じにん)たちは油座を組織して全国の油専売権を握り販売を独占したという。鎌倉・室町時代には荏胡麻油の生産により、大いにうるおい商業都市として繁栄し富を蓄えたが、山崎合戦を境にして急速に減少し、江戸時代には生産にピリオドを打った。「本邦製油発祥地」の碑がある。また足利幕府より自治権を与えられ、神人たちが八幡宮の領地を示すために建てられた「従是西、八幡宮御神領守護不入之所」の碑が残っている。
 妙喜庵に行くが、内部は見学できず(要予約)。国宝茶室「待庵」の原寸大に復元されたものが大山崎町歴史資料館にあると案内板にあり、早速資料館を尋ねる。
 「待庵」は、利休の作として唯一の遺構で最古のものだという。わずか二畳の間に侘びの美学を追求したもの。館内には、そのほか天下分け目の山崎合戦の模様を映像に再現したものや大山崎町の遺跡・遺物、発掘された油貯蔵甕、山崎渡しの記録など珍しい文書、遺物が展示されており、一見の価値あり。
 東海道線の踏切を渡り、いよいよ天王山へと向かう。
 すぐ左手に、山崎宗鑑の句碑がある。登りかけると、沢山の幼稚園児が元気に下山してくるのに出会う。石段を登ると大念寺。さらに急坂をゆっくり行くと、宝積寺の仁大門と金剛力士像が迎えてくれた。境内は、幼稚園の子供たちの元気な声で一杯だった。
右手に、秀吉が一夜で造らせたという三重塔。本堂横に、小槌宮。幸福が授かるという大黒天、小槌を拝観する。宝積寺の十一面観音立像(重文)
 宝積寺を過ぎ、10分ばかりで、秀吉が陣を取ったと言う合図の千成瓢箪の旗を立てたという、旗立松(7合目)に到着。展望台からは、素晴らしい眺めに歓声を上げる。
このハイキングコースには、「秀吉の道」陶板画が6枚頂上まで設置されており、山崎合戦の模様が生き生きと描かれている。
 十七士の墓にお参りし、板倉式倉庫としては日本最古のものと言われる、酒解神社の神輿庫(みこしぐら)をじっくりと見学する。
 うっそうと茂る、樹木や藪を越し、陶板画を観賞しながらゆっくりと登ると、天王山山頂に到着。三角点で記念写真を撮り、山崎城跡の井戸跡、土塁などを確認する。山頂は、2段の広場になっていて休憩場所としては絶好だが、回りの樹木に遮られて展望がきかない。暫くここで、談笑。
 帰りは、観音寺に立ち寄り、山崎駅へと急ぐ。ゆっくり回って約3時間の行程。

 京阪電車で男山八幡宮のある八幡市に近づくと、淀川の向こうにサントリー工場が見えその上の天王山にいつかは登ってみたいと、かねがね思っていた。今日、その希望が叶えられ、大変嬉しい。同行のI氏に感謝。 

 

天王山を登る天下取り決戦の地をたどる写真集

天下分け目の山崎合戦は?、合戦陣形図など

歴史ウォーキング行程

JR山崎駅(12:00)→(すぐ)→離宮八幡宮→妙喜庵(みょうきあん)
大山崎町歴史資料館→山崎宗鑑句碑…(10分)→大念寺…(5分)→
宝積寺
(ほうしゃくじ)…(10分)→旗立松(はたてまつ)…(2分)→
十七烈士墓所…(5分)→酒解神社
(さかとけじんじゃ)…(15分)→
天王山山頂(山崎城跡)(30分)→観音寺…(20分)→JR山崎駅(15:10)


天下分け目の戦い天王山に登るMAP

妙喜庵(みょうきあん)
 臨済宗、東福寺派。江戸時代末期までは地蔵寺と呼ぶ禅宗の浄域内でその塔頭の一つだったと言う。室町時代の連歌師山崎宗鑑が草庵を営み,東福寺の僧、春岳が寺に改めたものを秀吉の命により利休が茶室「待庵(たいあん)に仕立てたもの。確証はないが利休作と信じられる唯一の遺構。茶室としては最古のものである。大徳寺の「蜜庵」、犬山市の「如庵」と共に国宝三茶室に数えられる。大きさは隅炉を切った僅か二畳の広さで、枚方の漁夫の家の入り口に倣って初めて試みたにじりぐち口など上品な侘びの美学を追求した利休の造りの佇まいを見せる。以後、造られた数々の茶室の原形であり、茶人の聖地でもある。(内部見学はlカ月前に要予約。)付属書院は<重文>。

離宮八幡宮
 貞観2(860)年、僧行教が宇佐八幡宮を嵯峨天皇の河陽離宮(かようりきゅう)の一郭に勧請したのが始まり。元治元(1864)年絢爛豪華を誇った社殿は焼失。平安末期〜室町期にかけて、当地が荏胡麻油(灯明油)の生産販売の中心地となり、大山崎の油神人と呼ばれ、業者が油座を組織、全国の油専売権を握ったことが古文書で知られる。
 幕末「元治の変」の時、山崎に屯した長州藩兵を攻める為、会津兵がここに焼き討ちを掛けたので社殿は焼失、現在の物は昭和4(1929)年の再建である。境内に
「扇石(おうぎいし)と呼ぱれる塔の心礎を残す。この心礎は奈良時代、天王山麓に在った山崎院(行基も修行した)の塔の礎石で平安朝に川べりの相応寺→民家の庭→離宮八幡官と転々とし、心柱の穴を扇型に彫り広げて手水鉢の代用にしたと言う。
 東門、南門には大きな榜示石柱が焼け残っている。表に「従是西、八幡宮御神領守護不入之所」、右側面に「殺生禁断之所」、左に「大山崎総荘」とある。他、境内に「本邦製油発祥地」碑、及び油祖神像がある。山城に生れ「山崎屋」とも名乗っていた油行商人が出世、岐草城主にまでなった斎藤道三(信長の義父)の話は有名である。
 毎年4月3目に「油座祭」が行われ、湯立て神事、雅楽奉納が催される。
 <重文>大山崎離宮八幡宮文書二十四巻一冊一鋪五十二通。

山崎宗鑑句碑
近江に生れ山崎に移り住んで「山崎」を姓にし「犬筑渡集」を撰集した室町時代の連歌師、佐々木(=山崎)宗鑑の句碑。宗鑑屋敷跡地と言われる。

大念寺
 浄土宗。16世紀半ば知恩院の徳誉光然が創建。然し「蛤御門の変」で焼失。現建物は明治13(1881)年の再建。木像阿弥陀如来立像<重文>の胎内から仁治4(1243)年銘の経巻が発見されている。

宝積寺(ほうしゃくじ)鬼くすべ(本堂に閉じ込められた鬼を草木を燃やした煙でいぶりざす行事)
 真言宗智山派。山号は銭原山。神亀元(724)年、聖武天皇の勅願で行基が建立、長徳年間(995〜999)寂昭和尚が中興したと肯う山崎随一の大寺。竜神が奉納したと伝える「打出の小槌」が寺宝として奉られていることから俗に「宝寺」と呼ぱれる。男は左手、女は右手を打って貰うと幸福が授かると言う。
 毎年4月18の追儺式は「鬼くすベ」(本堂に閉じ込められた鬼を草木を燃やした煙でいぶりざす行事)と称され多くの参詣者で賑わう。尚、本堂左横の「小槌宮」には大黒天が祭られている。

〔余談〕あの一寸法師もここで修行し見事鬼退治を果たしたと言う折紙付きのこ利益である。

●<重文>十一面観音立像…(鎌倉時代前期)。天福元(1233)年、院範・院雲という院派と称される仏師により造立された端麗な像。胎内文書によると延暦寺の僧侶数人により、それまでの山内の争いで亡くなった人達の菩提を弔う為作られた物と考えられる。像高182.2cm。

●<その他の重支>◎閻魔堂。◎同堂内の閻魔像・司命菩薩像・司緑菩薩像。(今は京都国立博物館に寄託。)◎三重塔(桃山時代秀吉が一夜で造らせたと言われる。)◎仁王門及び金剛力士像。

旗立松
 天王山への7合目付近にある。伝説によると秀吉が陣を取ったと言う合図の千成瓢箪の旗を立てた松で、現在の木は6代目。

十七烈士墓所
 元治元(1864)年7月の「蛤御門の変」で、松平容保率いる彦根・会津・薩摩連合軍に敗れた長州藩士の中には、真木和泉守保臣ら義を唱えて参加した浪士隊があり、「天王山に結集して再起を図ろう」と約したにも拘わらず、長州兵はよそ者の真木らを見捨てて西奔した為、重囲に陥った17士が自害した所。
 真木は筑紫久留米の人、隊士16名も肥後、宇都宮、筑前、土佐の出ばかりで長州人は一人もいなかった。明治に入って有志が建立した墓所。

酒解神社(さかとけじんじゃ)
 延喜式に「名神大社」として出ている乙訓地方最古の神社だが祭神はよく分からない。正しくはた自玉手祭来酒解神社(たまてよりまつりきたるさかとけのみやしろ)と言う。
 嵯峨天皇妃檀林皇后橘嘉智子の信仰も厚かった。酒解の字義から水、川、橋に関りのある神ではないかと言われ、またその名から大和の玉手から勧請された橘氏の祖神だろうと解釈されている。
 現社殿は19世紀初めのもの。本殿・拝殿・神輿庫(みこしぐら)が天王山への道に並んで建つ。この神輿庫<重文>は鎌倉時代の校倉造り建築であるが、三角材を組んだ正倉院式ではない。幅も厚みも見事な桧板をびっしり置き重ねた板倉式倉庫としては日本最古のもので、現存するたった一つの非常に珍しい建築物である。

観音寺
 山号は妙音山。通称「山崎聖天」。真言宗。開基は宇多天皇。
 本尊は十一面千手観音菩薩だが大聖歓喜天も祭り、豪商、富商が家運降盛を祈ったことで知られ、「山崎の聖天」としてのほうが通りが良い。「蛤御門の変」の余波で元の建物は焼失、現在のものは明治に再建されたもの。

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