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枚方宿から万年寺山古墳を廻り、
周辺の文化財を訪ねる
大阪府枚方市

枚方市の全般、枚方観光、枚方宿など詳細は枚方市公式HPをご参照ください

枚方市東海道五十六次枚方宿塩熊商店の店先
 市内に六大学を持つ枚方市は、古くから淀川沿いの交通の要衝として栄え、今や京阪神の中核都市に発展した。特に、古代、百済との国際交流の舞台となった歴史とロマン、そして近世の東海道五十六次枚方宿の伝統はこの町の「光」です。
 今回、郷土の文化財を見学する会より、枚方宿と周辺の文化財を訪ねた。

 ☆☆船宿「鍵屋」☆☆
が平成13年7月に、
「市立枚方宿鍵屋資料館」
に生まれ変わり、
オープンしました


歴史ウォーキング行程

京阪電車・枚方駅→枚方宿遺跡新町・岡本町→淀川資料館→
万年寺山遺跡→意賀美神社→鷹塚山遺跡→願生寺→台鏡寺→
枚方宿遺跡三矢→浄念寺枚方宿遺跡堤町・鍵屋→
京阪・枚方公園駅
 
全行程6km

枚方宿、周辺文化財を訪ねるMAP

 12/10(日)、枚方宿とその周辺の遺跡を廻った。天候、曇りで時々雨が降る肌寒い一日だった。
 午前9:30、京阪・枚方市駅1階コンコースに集合。参加者は50人位。駅を出て直ぐ旧京街道を北へ、天野川の堤防のところで、枚方宿のことなど詳しく説明を受ける。宗左の辻に立つ道標、 右 大坂みち
 江戸時代の様相を伝える、小野邸。表通りに面して揚見世(あげみせ)と半蔀(はじとみ)の組合せが残っている。京街道は、大型の車が1台通れば余裕がない、そんな道を参勤交代のお殿様の行列が行き来した。
 講師の先生から、この街道は堤の上に造られたものだと説明があり、道より東へ下っていることを確認。
 南に歩いてゆくと、昔の枚方橋の石碑があり、さらに進むと、京街道と磐船街道の追分を示す道標が立っている。現在は、沢山の店の看板に占領されて見つけにくい。
 この辺りを宗左の辻」と呼ばれ、「送りましようか、送られましょうか、せめて宗左の辻までも」と俗謡に残るように、かつて遊郭から客が帰るときに遊女がこの辻まで見送ったという話が残されている。
 宗左の辻を南に、信号を渡ると右手に再開発ビル、ビオルネの前に出る。ここで、元禄堤が検出した。幅約5m、高さ1.8〜1.9m盛り土されていたという。
 ビオルネの壁面に枚方宿の案内板が見え、少し行くと街道筋の両側には、旧い面影を残す町並みが続く。菊人形みその暖簾の下がる北村味噌店、和菓子の田中呼人堂、塩熊建材店など。
 岡村と三矢村の境に常夜灯があり、三矢村は枚方宿の中心地で高札場跡、脇本陣、問屋場跡などがあり、うだつの上がった民家も見られる。
 本陣跡の公園横の道を淀川方向へ行くと、淀川資料館があり、ここで淀川に関する詳しいお話を伺い、30石船やくらわんか船の絵が展示されていて、往時の賑わいを味わうことができる。
 京街道を横切り、意賀美神社へと石段を登る。境内に、万年寺山古墳がある。神社の参集殿で昼食。
 午後は、雨が降る中を出発。神社を東に出たところに森繁久弥の元生家があり、立派な屋敷に驚く。住宅街をどんどん南に行き、ひらかたパークの東側に鷹塚山遺跡がある。
 ここから、弥生時代の土器や竪穴住居が見つかった。ここは、淀川、枚方が一望され見晴らしのいい場所だ。枚方の古い時代がここにあった。
 京街道に戻り、浄念寺、木南邸、船宿「鍵屋」などを廻って、枚方公園駅で解散。
生憎、天候が悪く歩きづらかったが、枚方宿のこと、古代の遺跡など得るものは多かった。
雨の中、講師の先生、本当にお疲れ様でした。ありがとうございました。
 
枚方宿から万年寺山古墳を廻り、
周辺の文化財を訪ねる
写真集

東海道五十六次枚方宿

 万年寺山古墳
 枚方市上之町に所在する前方後円墳と思われるものです。墳丘長約100m、後円部径約68m、前方部長約34m、高さ約6mを測ります。埴輪、葺石は碓認されていません。前方後円墳の可能性が高いですが、既に全壊しています。万年寺の石造13重の塔、現在は上部が欠損九重
 主体部は割竹形木棺で、長さ3m以上、幅0.3m以上の棺の断片が採取されています。
この古墳から中国製 三角縁吾作銘四神四獣鏡、三角縁君宜官獣文帯三神三獣鏡など多数出土している。
 築造年代は4世紀中頃と推定され、標高37.7mの丘陵の突端部、眼下に淀川を望む河川交通の要衝の地に築造されていることは、被葬者の生前における性格を表していると思われる。

 万年寺山遺跡
 意賀美神社の参集殿新設に伴う建設予定地を調査し、横穴式小石室が2基発見されました。石室の主軸方位は概ね南北方向を向いています。2号石室は完存して、角礫を3段に積んで床面は長方形を示して、長さ1.2m、幅0.3〜0.4m、高さ0.5mを測ります。両石室とも斜面に築造されて墳丘や外部施設は判明しませんでした。
 

 意賀美(おかみ)神社
 前期古墳があった箇所に神社があります。延喜式にある古社で、本殿、拝殿、幣殿は昭和10年に再建されています。三矢村字東裏にあった村社須賀神社は明治年間に伊加賀村字宮山の式内社意賀美神社に合祀されています。その後意賀美神社は須賀神社の所在した箇所に遷座しています。意賀美神社
 祭神は高竃神(タカオカミ)、素戔鳴尊、大山咋神(オオヤマクヒ)、大国主神となっています。創建は不明で、この地の産土神としてあり、淀川航行の船人の安全と水害除去祈順を祈っています.境内には琴平神社があり、この社殿は旧須賀神社の本殿と言われ室町期の建築です。

 萬年寺は貞観十四年(872)疫病が流行したとき、清和天皇が神璽を授けられてその終息を祈られた事を起源として建立されています。牛頭天王としてまた祇園社としてありましたが、明治にいたって廃絶しています。萬年寺の本尊であった十一面観音などは浄念寺に安置されて、石造十三重塔だけが残っています。石塔は上部が欠損して現在は九重になつています.

 浄念寺
  明応四年(1495)蓮如上人の弟子、岩見入道浄念の開基で元文四年(1739)に西本願寺の門跡御坊となった。寺院は通常は平入りであるが、この御坊は妻入りとなっている。

 鷹塚山遺跡 
  この遺跡は淀川左岸に突出した枚方丘陵上に立地して、標高50〜60mを測ります。
第1次調査で竪穴住居が4棟検出した。また多量の弥生時代後期と庄内式期の間の弥生時代末期の土器が発見されている。
 鷹塚山古墳
 
枚方市高塚町にあり、標高67m、淀川を一望できる丘陵の高地にあります。
 前方後円墳かどうか明確ではありませんが、墳丘長約60m、墳丘高約7m、直径約10mを測ります。

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