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晩秋の琵琶湖一周・湖国の歴史を尋ねる


行  程  11/16(金) JR草津駅→琵琶湖博物館→信長の館(昼食)→
                安土城址→彦根・長浜・姉川の合戦跡→須賀谷温泉
           11/17(土)  須賀谷温泉→渡岸寺→己高閣・世代閣→石道寺→
               奥琵琶湖パークウェイ(昼食)→湖周道路→白髭神社→京都駅

 晩秋の琵琶湖一周・湖国の歴史を尋ねるMAPは 
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 11/16〜17、歴史街道倶楽部より、晩秋の琵琶湖を草津から出発して東回りの一周バス旅行に行き、秘湯「須賀谷温泉」で一泊、湖北の観音さん、古戦場、素晴らしい紅葉などを堪能してきました。

 先ず、草津の県立琵琶湖博物館で琵琶湖の歴史と人とのかかりあいを勉強し、珍しい淡水魚の展示を見た。琵琶湖博物館の前庭
琵琶湖は今から約500万年前、三重県上野市付近に誕生し、その後、鈴鹿山脈の隆起によって形を変え、消長をくり返し、年間1〜3cm北へ移動しながら、120万年前頃に現在の位置に到達したという。
このまま移動しつづけると100万年後には、日本海へ出てしまうとか・・・。
100万年後に、また訪れてどうぞご確認下さい。(バスガイドより)


 昼食後、信長の館で蘇った幻の名城・安土城天守を見学した後、信長の安土城址に登り、琵琶湖を眺めながら日本で始めて天主閣を備えた絢爛豪華な城を築いた、信長を偲んだ。
(ここは昨年訪れ、HPでも紹介した)
 http://village.infoweb.ne.jp/~murata35/kansaitanboki/2000.09/adutijyo/

 彦根城を車窓から眺め、米原、長浜を通り、姉川の古戦場を見て戦国のロマンを味わい、お市の方が愛用したと伝えられる秘湯「須賀谷(すがたに)温泉」で身体を温め疲れを癒した。
温泉の裏山が小谷城址お市の方が子供の茶々(淀君)、お初、お江を連れて逃れたお城跡である。渡岸寺の十一面観音

 翌日は、湖北の観音の里を訪れ、伊香郡高月町の渡岸寺(どうがんじ)で国宝「十一面観音立像」を、伊香郡木之本町の石道寺(しゃくどうじ)で重文「十一面観音立像」など湖国の数多くの観音さんを拝観した。
渡岸寺の観音像は 
 ふくよかな顔立ちに頭上の仏様は厳しいお顔をされ、右手を長く伸ばし、苦しむ衆生のもろもろを救おうとして腰を少しひねり、右足を前に踏み出そうとしている姿に圧倒される。」
石道寺の観音像は
「村の娘さんをモデルにしたという観音さんで唇が薄く紅色をしていて、親しみを覚えた

滋賀県には国宝・重文の十一面観音が40体あり、日本一数が多くてそれが湖北に集中しているそうである。
渡岸寺
 戦国時代、数多くの寺院は織田信長・浅井長政などの戦いで焼かれたが、信仰心の厚い村人が戦火の中から十一面観音を救い出し土中に埋めたりして守り伝えたそうである。
よくぞ、このような場所にこれだけの観音さんがおられると感慨深いものがあった。


 午後は、生憎の小粒の雨が降る中を、リフトで柴田勝家と秀吉の合戦の場・賤ヶ岳(400m)に登り、琵琶湖と余呉湖の素晴らしい眺めに酔った。白髭神社
 湖北の真っ盛りの紅葉と霧雨に煙る琵琶湖の湖面と竹生島を奥琵琶湖パークウェイの車窓から堪能し、琵琶湖を湖周道路を南下して高島町の近江の厳島とも言われる、白髭神社(しらひげじんじゃ)に参拝、大津、京都へと帰ってきました。
 2日間のバス旅行で琵琶湖はとてつもなく広いと実感した。奥琵琶湖パークウェイから眺める琵琶湖と紅葉の景色に酔い、湖北の素朴な寺に凄い観音さんが沢山安置されていることに感激した素晴らしい歴史の旅でした。



高月町
己高閣(ここうかく)・
世代閣(よしろかく)の参道
高月町
石道寺(しゃくどうじ)の紅葉
奥琵琶湖パークウェイから
琵琶湖と紅葉の
素晴らしい景色に感激する
菅浦の漁港
奥琵琶湖パークウェイを散策
通過する車に気をつけながら
記念撮影を楽しむ

関連ホームページを載せておきますので、時間がございましたらアクセスしてお楽しみください。

琵琶湖博物館
 http://www.lbm.go.jp/
蘇る安土城 http://www.biwa.ne.jp/~minoura/
安土城跡ガイド http://www.biwa.ne.jp/~minoura/html%20doq/azuchi%20guide/Azuchi_guide.html
須賀谷の秘湯「ようこそ須賀谷温泉へ」
 http://www.biwa.ne.jp/~sugatani/
高月町渡岸寺・向源寺(渡岸寺観音堂安置) http://www.biwa.ne.jp/~kannon-m/douganji-1-1.htm  
高月町立観音の里資料館へようこそ
 http://www.biwa.ne.jp/~kannon-m/index.htm
姉川・賤ヶ岳の合戦など合戦の現風景
 http://homepage1.nifty.com/saizou/kassen.htm

廻ってきた史跡ミニガイド

1.滋賀県立 琵琶湖博物館丸子舟の復元模型
 琵琶湖の歴史をたどると、遠く400万年まで遡る事ができる。琵琶湖にしかいない進化のドラマも、そんな長い時間の中で行われてきた。そして人間が琵琶湖のまわりに住み着いたのが1〜2万年前。
それからずーっと琵琶湖の自然と共存してその恵みを受けながら今日まで独自の文化を発展させてきた。
 琵琶湖と人間とのよりより共存関係を目指ざすための入り口が琵琶湖博物館です。どうぞ、是非ともお確かめ下さい。
 かって、湖上輸送の主役だった百石積みの丸子舟が復元展示されている。

【琵琶湖】
 面積670.49Ku(滋賀県の約1/6、日本一)。水深平均41m(一番深い所は104mで竹生島から安曇川河口付近)、周囲235km(因みに日本橋から京三条まで東海道五十三次は492km、湖で最も狭い所は琵琶湖大橋附近で1.35km、最も広い所は長浜市下浜坂と新旭町饗庭の間の22.8km。水量は約275億t、水位1aが近畿圏1400万人の2日分の飲料水にあたる。
琵琶湖に注ぐ川は127本、逆に流出する川は瀬田川と琵琶湖疎水の2本のみ。

2.須賀谷の秘湯須賀谷温泉
「ようこそ
須賀谷温泉へ」

 奥琵琶湖に映る湖北の山々。
戦国の悲話が今も涙を誘う浅井長政・お市の方の 小谷城趾。
歴史と景勝に彩られた小谷城の麓。
聞こえるのは湖面をわたる風の音、山鳥の声、 そして湯の音。
しみじみと旅のひと夜を過ごせる山里の宿です。


3.高月町・渡岸寺の十一面観音像
 頭体幹部より天衣遊離部・台座蓮肉までを含めてヒノキの一材から彫出する。
菩薩面を二面とすること、頂上に五智宝冠をつけた菩薩相をあらわすこと、本面の左右に各一面を植え付けることなど、頭上面の表現と配置に特徴がある。
また鼓胴形の大きな耳飾りをつけることも類例が少ない。 渡岸寺の十一面観音

 秀麗な面貌には異国的な面影が漂い、肉感的な姿態と合わせて平安初期密教美術の傑作。
9世紀半ば頃の作とみられる。

 このお堂に安置される十一面観音は、日本全国に7体ある国宝十一面観音の中でも最も美しいとされる日本彫刻史上の最高傑作です。
 先に亡くなられた作家井上靖氏も、そのすばらしさに感動し、「どうしてこのような場所にこのような立派な観音さまがおられるのか」とその著書『星と祭』の中に書いておられる。
 肉付き豊かで官能的なプロポーション、大きくつくられた頭上面とその配置、「じとう」と呼ばれるイヤリングをつけるなど、数々の特徴をそなえている。
 いずれにしても、いのりの仏にふさわしい、慈愛に満ちたお姿の観音さまです。
その他、重要文化財胎蔵界大日如来坐像・滋賀県指定文化財阿弥陀如来坐像・十一面観音立像・金剛力士像など、多くのすぐれた文化財を伝えている。

注)国宝指定の十一面観音…7体
(奈良3…室生寺・法華寺・聖林寺、大阪1…道明寺、京都2…観音寺・六波羅蜜寺、滋賀1…渡岸寺)

4.己高山石道寺(こだかみやま・しゃくどうじ)十一面観音像石道寺の十一面観音
 (伊香郡木ノ本町石道)
己高山麓にある真言宗豊山派の寺。
 基は現在地の東約1`、三谷川沿いの山間にあり、平安から鎌倉時代にかけて、己高山七大寺の一つとして栄えた。
 その後、徐々に荒廃し、明治29年(1896)ついに無住の寺となった。
 大正3年(1914)本堂を現在地に移築、その翌年、石道観音堂(旧高尾寺)と合併し、新石道寺が誕生した。
 
本堂厨子の中に3躰の十一面観世音像が安置されている。
中央の本尊は、欅材一木彫極彩色、像高173.2cm、平安中期の作と伝えられている。
 かたく結ばれた唇にほのかに残る紅の色、衆生救済の慈愛に溢れ、腰を僅かに左にひねるかのようににして右足の親指をあげられたお姿は、誠に印象的である

5.賤ヶ岳
 賤ヶ岳は北陸自動車道の木之本インターに近い。インターを降りてすぐに交差点を左折、塩津方面に向かうと正面に見えてくるのが賤ヶ岳だ。後ろに見えるのが賤ヶ岳

 賤ヶ岳の北側に小さな余呉湖、西側に巨大な琵琶湖が広がる。山腹にトンネルがあり、そこを抜けると琵琶湖が現れ、道は塩津に向かう。 

トンネルの手前を右折して山際の細い道を走ると、賤ヶ岳のリフト乗り場に出る。高さ約400b。近江鉄道がリフトを運営している。リフトで約5分。そこから山頂まで歩いて300b。
 山頂からは東は木之本の街並みから遠くに小谷城のあった山まで見える。西側は琵琶湖が広がる。北には真下に余呉湖が見え、奥に柴田勢が陣取った県境に近い山並みが続く。

霧雨に煙る余呉湖
【賤ヶ岳七本槍】
天正11年(1583)、秀吉旗下の福島正則を隊長として、加藤清正、脇坂安治、片桐且元、平野長泰、糠屋竹則の七人衆が一番槍の武功をたてたところから「賤ヶ岳七本槍」の武勇談として世に語られている。
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