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藤ノ木古墳現地見学会
奈良県斑鳩町

斑鳩町の全般、斑鳩観光、法隆寺、藤ノ木古墳など詳細は
斑鳩町公式HPをご参照ください

 斑鳩町
 聖徳太子の面影がいたるところに残された斑鳩町。
法隆寺、法輪寺、発起寺、中宮寺・・・。斑鳩と言う地名も、太子の斑鳩宮から名付けられた。
太子は推古天皇13(605)年、飛鳥からこの斑鳩宮に移り住み、仏教の理念を政治に取り入れた国家統一に力を尽くした。

 斑鳩宮(いかるがのみや)
聖徳太子は、推古元年(693年)に推古天皇の摂政に任じられ、飛鳥の「小墾田宮(おわりだのみや)」で国政に参画していました。

推古9年(601年)、30歳であった聖徳太子は、斑鳩宮の造営に着手します。
斑鳩の地は、大和から河内へ向かう竜田道をおさえる交通の要衝であり、斑鳩宮は、有力な王位継承資格者として国勢に参与する王族にふさわしい住居・家政機関として造営されたものであったといわれています。

斑鳩宮は4年後の推古13年(605年)に完成し、太子はそれまで住んでいた「上宮(かみつみや)」から斑鳩宮に遷り住みました。
この後、太子は、愛馬・黒駒に乗って飛鳥の都へ通われたと言われています。
その道が後世、「太子道」と呼ばれるようになりました。

推古29年(622年)に聖徳太子がお亡くなりになった後、斑鳩宮には山背大兄王(やましろのおおえのおう)ら太子の一族が住んでいましたが、皇極2年(643年)、蘇我入鹿が山背大兄王らを襲ったとき、斑鳩宮は焼失しました。

斑鳩宮は、夢殿のある法隆寺東院伽藍の地下遺構がそれに当たるといわれています。

 2001.4/15(日)、藤ノ木古墳の現地見学会に行ってきました。昨日から大勢の見学者で賑わっていると新聞報道で知っていたが、古墳内を見られると言う良い機会なので出掛けた。

    昭和63年第3次調査時
藤ノ木古墳石棺内部出土状況


 JR斑鳩駅で法隆寺行きのバスに乗換え、法隆寺門前で下車。法隆寺の南大門前を西へ行きかけると見学者と思しき人々が次々と歩いて行くのを見て、もし待ち時間が掛かるといけないと思い、早速路上の自動販売機でお茶を買った。
 5分ばかり歩いて行くと、藤ノ木古墳の手前で見学コースは左へ行くように指示があり、住宅道と田圃道をぐるりと遠回りして、およそ15分ばかりかかってやっと見学コースの最後尾に着いた。沢山の見学者がずーと並んでいた。
藤ノ木古墳
 時計を見ると、10時40分。路上に待ち時間2時間と表示されていた。4月とは言え日差しの照り返しは凄い。暑い。少しずつ、前に進むが埒があかない。喉が渇く。自販機で買ったお茶を飲む。やっと右手の向こうに古墳が見えた。
 それから、ずーと時間が過ぎ、12時ごろになって、古墳の前に近づいた。三重にも四重にも列が作られ前の方でマイクで古墳の第4次調査の内容が説明されていた。12:10分頃、1598人目(午前8時より)ですと係りの人に教えてもらった。それから40分後やっと、順番が来た。15人ずつ、5分間の見学。石棺レプリカ(藤ノ木古墳の前に展示されている)

 古墳の中には、奥に全体にピンク色がかった立派な家形石棺が少し左に傾いて置かれていた。天井は大きな石で覆われていてよくもこんなものを載せたのもだとびっくりした。高さ4.41m、玄室の幅は2.67mと調査資料には書かれていたが、それよりもっと大きく感じた。足元は、こぶし大から20cm位の石がゴロゴロしていた。排水溝、敷石、閉塞石など直に見ることが出来感激した。
 被葬者は色々な説がありハッキリしないようだが、かなりの権力者であったことは間違いない。今後の研究が待たれるところだ。

 僅かな見学時間の為に長時間(約2時間10分)並んだが、真直に古墳の内部を目にすることが出来大満足であった。
 見学者の方々の目は皆輝いて見えた。

 
沢山の考古ファンで付近の道路が
長い列で埋め尽くされた(10時50分頃)
(待ち時間2時間の表示あり)
もう直ぐだ、古墳入り口まで目の前に
胸がワクワク (12時40分頃)
古墳入り口前で係りの方から
古墳の説明と注意事項を受ける
(写真撮影は禁止)
藤ノ木古墳内部の
 玄室と家形石棺
(藤ノ木古墳発掘調査写真図録より)

斑鳩 藤ノ木古墳 
現地説明会資料(2001年4月14・15日)はじめに

藤ノ木古墳は6世紀後半に造営された直径約48m、高さ約9mの円墳です。
これまでに昭和60年から昭和63年にかけて三回の発掘調査を実施し、平成3年には国史跡の指定を受けました。そして平成4年度より整備に向けた史跡指定地の公有化を進める一方、平成11年度からは石室保存修理事業としてこれまでに写真測量を導入した石室の現状記録調査を実施しています。
今回の調査については、藤ノ木古墳における保存と活用を目指した整備方針により、羨道側壁の状況を確認する必要性と、石室公開に伴う見学者用通路の確保という観点から、石室羨道閉塞部の発掘調査を第4次調査として実施いたしました。

調査の概要
  1. 閉塞石は基本的に石室の外側から運び込み、石室内側から外側へ向かって順次並べて置かれていました。築いていく手順としては、比較的大きな石を配置する→中規模の石で充填する→平たい石で凹凸の著しい部分に蓋をするように配置していくというものでした。ただし、垂直の壁面を意識して構築されていた石室内側のある段階までの閉塞石については、石の積み方は逆に石室外側から内側に向かって置いてありました。
  2. 閉塞石の外表面を観察した結果、しっかりとすえられた石が高さ40〜60cm間隔で見られ、1.の手順で積まれた石の高さがちょうど同じ高さになり平坦面を形成していたので、この面が何らかの作業単位を示すものと考えられます。今回の調査ではこの作業面を四面確認できました。
  3. 閉塞石南側西半部下方の作業面と作業面との間に見られた土については、既往の調査での縦断面図と照合すると、作業道もしくは墓道の一部である可能性があります。よってこの作業面までは、石室構築時に閉塞石として石を積んではその南側に土を入れて、石材や副葬品の搬入などに利用した作業道としたことが考えられます。そしてこの作業面より上部については、その作業道として利用したところを、最終の閉塞作業での基礎の壇として、石室内側から外側に向かってひかえながら、断面で見ると三角形になるように積み上げて閉塞作業を終了したものと考えられます。
  4. 閉塞部は、基本的に石を主体として構築されていること、それらの石に明瞭な不整合を見いだせなかったこと、構築時に混入したと思われる遺物以外は出土しなかったこと等から、閉塞石を取り除いた追葬はなかったと考えられます。
  5. 今回の調査で、構築された順番が整地→排水溝→敷石→閉塞石であることが明らかとなりました。
まとめ

大和の大型横穴式石室で閉塞石を調査した例は、市尾墓山古墳(高取町、6世紀前半)、平林古墳(当麻町、6世紀後半)、烏土塚古墳(平群町、6世紀後半)、牧野古墳(広陵町、6世紀後半)など数えるほどしかありません。しかも、これら古墳の閉塞石の遺存状況は悪く、藤ノ木古墳のような大型横穴式石室の閉塞石を良好な状態で調査できた例はほとんどありません。今回の調査は、6世紀後半の大型横穴式石室の構造を考える上で、重要な資料を提供することとなりました。
発掘調査及び本資料の作成にあたっては平田政彦(斑鳩町教育委員会)と青柳泰介(奈良県立橿原考古学研究所)が担当し、奈良県立橿原考古学研究所河上邦彦、寺澤薫、西藤清秀の指導を得た。
* この調査は、斑鳩町教育委員会が主体となり、橿原考古学研究所が協力して行ったものです。

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