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初冬の摂津峡・萩谷コースを歩く
2001.12.15(土) 大阪府高槻市

 
 夜来から日本列島に寒波が到来し日本海側は積雪のニュースが流れ、ハイキングとしては最悪の天候が予想されたが、当日はまずまずの日和に恵まれた。
 JR高槻駅改札口で10時半集合予定であったが、10時過ぎには参加予定者の5人が集まり、15分には全員集合(参加者は70歳を最年長にほかは60代)。(みつわ会・歩こう会)
 駅北口より高槻市バス「上ノ口行き」に乗車、住宅街を通り抜け約15分で「上ノ口」に到着。武士自然歩道を落ち葉を踏みしめ階段を登る
 素晴らしい渓谷の摂津峡を通り、桜公園で休憩。公園を後に車道を20分ほど歩くと、関西大学の高槻キャンパス前に出た。立派な施設に驚く。 暫く進むと、右手に広大な敷地と設備の関電北大阪変電所が見え、阿武山口を左にやり過ごし、車道から外れて左手の武士(もののふ)自然歩道に入り、鉄塔の下で昼食を摂る。粉雪が舞い始め急に冷え込み、早々に出発。
 気持ちのいい武士自然歩道を落ち葉を踏みしめ進む。雑木林の明るいいい道だ。1時間ほど歩くと、道標に出会う。
 右は萩谷へ、左は車作り(ここは昔、京の都の牛車の車を作っていたことから地名がついたと地元のI氏から説明を受ける)。
 ここで右折、東海自然歩道を萩谷に向け進む。バス道に出て萩谷分校を下に見て、舗装されている林道をひたすら上ノ口へ向って歩いた。
 メンバーの皆さんには久しぶりにお会いした事もあって、歩きながらいろんな話が出て1時間ばかりのだらだら道もあっという間に下ってしまった。
 老中年パワー?は、凄い。案内書の所要時間を上回る速さで走破。
 高槻の天ぷら屋で打上げ。それぞれ人生を如何に生きるかと怪気炎。最若年の当方は頷くばかりで、本当にお世話になりました。勉強になりました。
 次回は是非とも桜の咲く頃、阿武山へ登り古墳を見学したいと思う。
《ハイキングコース》 約13km 4時間
 JR高槻よりバスで上ノ口→摂津峡→攝津峡公園・桜公園→
阿武山口(停)→関西電力変電所(停)→武士自然歩道
→東海自然歩道→萩谷→上ノ口よりバス
でJR高槻へ
【コース案内】
 高槻市バス上ノロ停留所から摂津峡へ向かう。のどかな田園風景の広がる道を芥川に沿って摂津峡を目指す。摂津峡は春の桜、秋の紅葉などが美しい景勝地である武士自然歩道を歩く渓谷の遊歩道を桜公園へと向かう。途中、白滝への分岐点に出るが直進すること。桜公園の車道を西へ向かうと、高槻市パス西の口停留所に出る。ここを右に折れ、車道を月見台住宅、関電北大阪変電所へと向かう。この道は大型トトラックが道幅いっばいに通るため、注意が必要である。変電所前のパス停をすぎ、左手の武士自然歩道への細い通を入る。しばらくすると、東海自然歩道と交差するが、正面の急な階段を竜仙の滝方面へ道をとる。
 急な坂道を登りつめると、なだらかな高原のハイキング道となる。この道は明智光秀が軍用路として設けた明智街道でもあり、起伏に富む気持ちの良い山歩きが楽しめる。竜仙の滝へ続く東海自然歩道との出合いを萩谷方面へと右折する。
 落ち着いたただずまいを見せる萩谷の村にでて、左折して萩谷分校を下に見て、道標に従って右折、舗装された林道を上ノ口に向ってひたすら下って行く。芥川に架かった下条橋をわたるともう、上ノ口も近い。


 
摂津峡 桜公園に向けて摂津峡を歩く
摂津峡・桜公園
案内板の前でパチリ
武士(もののふ)自然歩道を
竜泉の滝に
向って階段を上がる
東海自然歩道の
杉林を歩く(萩谷へ)
萩谷から上ノ口へ
舗装された林道へ右折する

 周辺ミニガイド

【明智街道】
 明智光秀は心に期するところがあって早くから畿内作戦の必要上、明智街道と呼ばれる軍用路を設けていた。これは江州坂本から京都愛宕山の南麗を経て亀岡に至り、更に摂丹の屋根筋を南下する約50km、道幅1.5〜2.0mの軍用路である。
今回歩いた武士自然歩道(もののふしぜんほどう)はその一部分。

武士自然歩道は桑原橋を起点として、高槻市との市境を安威川沿いにのぼっていくもので、途中、一名「美人山」と呼ばれる阿武山を越え、明智街道を通り、竜仙の滝へ抜け車作大橋までの全長約8km、所要時間3時間の健脚向コースです

阿武山(相場の旗振り場)】
 阿武山は一名美人山と呼ばれ、海抜281.1m。かつては全山樹木なく、つつじのみが生えて景色がよく大阪の街からも見ることができた。この阿武山の南西に「休場」という所がある。ここから手旗信号で大阪方面の情報を得ていたようである。

阿武山古墳は標高約200mの所、京都大学阿武山地震観測所にほぼ隣接した場所にある。 阿武山古墳石柱
 出土した土器から見て古墳が造られたのは、7世紀前半〜後半と考えられており、飛鳥時代の数少ない貴重な墓として、国史跡に指定されている。

墓室、棺などはかなり凝った造りになっていたようで、棺内には男性の人骨一体、最高位者の冠などがあり、これらの出土品その他から、当時「貴人の墓」として話題になったようである。調査後、出土品は埋め戻されたという。
 発掘の際、遺体・副葬品などを撮影していたX線写真が、昭和62(1987)になって発見された。
 これを解析した結果、大織冠と思われる冠等、それに、鎌足が亡くなる原因となった落馬を推測させる骨格が写っていたようで、これにより、被葬者は藤原鎌足であることがほぼ確実になったとされている。

さらに詳しい阿武山古墳発掘の事実関係

藤原鎌足、下右は長男定恵、左は藤原不比等

 1934年(昭和9年)には、大阪府高槻市と茨木市にまたがる阿武山(214m)山頂付近で、鎌足と思われる人物が眠り続けてきた七世紀の古墳が発見され、たいへんな話題を呼んだ。
 大化改新
(たいかのかいしん)以後の鎌足と中大兄(なかのおおえ)は、中国三国時代の魏の武帝の例にならった「薄葬令(はくそうれい)」を公布した。それを裏づけるように、鎌足の墓も前時代の古墳とは比較にならない小規模なものだった。
 この墓は、付近の京大地震研究所の観測機材設置工事の最中に見つかり、内部に安置された漆塗(うるしぬり)の棺(ひつぎ)は未盗掘のまま残され、保存状態の良好な遣体が横たわつていた。
 
その遣体の枕元には大小500個もの青と緑のガラス玉を銀糸で組み合わせた「玉枕(たままくら)」が置かれ、光り輝く多量の金糸(きんし)も見つかった。当時の新聞は「金糸をまとう貴人」と大々的に報じたが、皇族の可能性もあるため、科学的調査は非礼にあたると内務省が介入し、4ヶ月後には棺と遣体は元通りに埋めもどされてしまった。
 
 ところが、
ほぼ半世紀後の1982年(昭和57年)に、京大地震研の一室から、古びた数十枚の写真が出てきたそれは、発掘直後に京大の研究者たちが密かに撮影した、阿武山古墳被葬者のレントゲン写真原板を含む調査写真だった。阿武山古墳から発掘された鎌足の遺骨
 さらに、遣体から採取した頭髪も見つかり、奈良国立文化財研究所と東海大学医学部整形学科による数年がかりの分析調査が行なわれた。
 鎌足の生涯は『大織冠伝(たいしょくかんでん)』などに記されているが、この伝記の表題によって、阿武山古墳被葬者が鎌足本人であるという衝撃の事実が明らかになった。
 鎌足は、落馬が原因で床に伏し、669年に56歳で病死したという。そのいまわの際に、天智天皇から授けられたのが、藤原姓と最高冠位の「大織冠」だった。冠位十二階(かんいじゆうにかい)より上位の、金糸をふんだんに使った刺繍入りの豪華な冠。7世紀当時にただひとり授かった大織冠とともに、鎌足は1300年間の永き眠りについていたのである。
 
遣体のレントゲン写真をコンピュータ解析した結果、落馬したことは間違いなく、下半身不随になって、数カ月の療養後に内臓疾患を併発して死亡したことがわかった。身長は飛鳥時代の男子平均値を大きく上まわる、164.6cm。弓の達人と伝えられるように、上半身の筋肉がひじょうに発達し、下半身も骨太で頑強だった。50歳半ばで、なおもA・シュワルッェネッガーを小型にしたような堂々たる体格を維持していたようである。

  ( 「世界遺産 飛鳥・法隆寺の謎」 テレビ東京編を参照 )

   
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