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気ままに歩く関西歴史ハイキング
歌枕と今昔物語の里山背古道を歩く 
京都府綴喜郡井手町、相楽郡山城町 徒歩 約7km

JR玉水駅10:50→蛙塚→井堤寺跡→小町塚→地蔵院→玉津岡神社→
宮本水車跡→橘諸兄公旧跡→蟹満寺→不動川→JR棚倉駅15:30


山背古道(やましろこどう)それは一度は歩いてみたい道
山背古道ホームページ及び井手町のホームページ
参照させて頂きました。深く御礼申し上げます。

「山背古道」は北は城陽市から南は木津町に至る全長25kmの古道で山吹の花・井手町の「町の花」になっている
南山城の山際に沿い京都と奈良を結ぶ旧道である。

  今回歩いた町・井手町について、次のように紹介されている。
東は優しい里山に、西は豊かな木津川に包まれたまち。この自然の恵みの中、永きにわたって人々が育み続けてきた、何気ない、だけど誰もがほっとする風景が息づいている。
 緑の空気を吸いたいとき、歴史が刻んだ風景に会いたいとき、人々の、やんちゃで暖かい笑顔に触れたいとき、井出を歩いてみませんか。(井手町観光ガイドブック)

井手町は古くから歌枕の里として知られた町。天井川・不動川の下をJRが走っている、子供たちが川に入って水遊びに戯れていた井手は古来、歌枕の里で知られる名所で、井手町を東西に走る「玉川」(日本六玉川の一)、その土手に咲く山吹は奈良時代に橘諸兄(たちばなのもろえ)が植えたのが始まりと言われている。
また、山城町には、「今昔物語」や「古今著聞集」にゆかりのある古刹や「平家物語」や「源平盛衰記」に登場する歴史的人物を祀る神社などが残っている。

《天井川》
 玉水駅から少し南に下がると木津川の支流・玉川が流れている。山背古道をJR棚倉駅まで歩き通す間に、玉川、渋川、天神川、不動川の4本の川を越えた。それらの川は全て、川床が地面より高い位置にある天井川だ。
奈良の都に近かったこの地域では、当時、寺院の建設や燃料のため木々が伐採された。山は風化しやすい花崗岩で出来ており、土砂が川伝いにどんどん流れ出し、川底は高くなっていった。その都度、洪水を防ぐため堤防を高くし、遂には川の下にトンネルや道路が通ることになったそうだ。
まことに、不思議な風景だった。JR奈良線が玉川、天神川、不動川の下を走っている。

道しるべ陶板の道しるべ、子供たちの名前が書かれている
 路上に埋められた陶板は、山背古道のマークの「山」を子供たちがデ山背古道探検地図ザインしたオリジナルの作品だそうで、子供たちの名前が書かれている。このかわいらしい道しるべに誘われながら歩くことになる。
井手町はタイル張りの道しるべがしっかりしていて分かりやすかったが、山城町に入ったとたん、埋め込み式のマークだけになり、川上に登るべき道を下ってしまい、道に迷ったりした。この小さなプレート(道しるべ)を頼りに歩くことは難しい。「まちかど案内所」で事前に「山背古道探検ゲーム」など地図を入手した方が無難である。
 

      歩いてみれば誰もがほっとする
           そんな風景に出会える里 
南山城

 
井手町・玉川沿いをゆっくりと歩く、土手には黄色い山吹の花が満開だった

 2003.4.22(火)午前10時50分、老壮年グループ歩こう会6人は、玉水駅に集合。今回の歩こう会は実に1年と5ヶ月ぶりの開催となった。あちこちを歩きたいなぁと皆で言いながら、いつの間にやら日が経ってしまったが、久しぶりの歩こう会を天候も祝福してくれた。予報では寒いとのことだったが暖かい太陽が照りつけ、午後は汗ばむくらいの絶好のハイキング日和となった。

 親切な駅員さんから貰った「井出を歩こう」のパンフレットと「山背古道探検ゲーム」の地図を片手にいざ出発。 駅から南に出ると直ぐに、天井川の玉川が東西に流れていて、その下をJR奈良線が走っており、井手町の大きな案内板が目に付いた。
 玉川の堤に上がってみると、もう桜の花は既に散ってしまっていたが、綺麗な桜並木が続いていた。4月のはじめには、満開の桜を求めてさぞかし沢山の方々がそぞろ歩きをされたことだろう。
 玉川の土手には、鮮やかな黄色い山吹の花が咲いていて、如何にも「山吹の里」に来たのだと実感した。ユニークなタイル張りの道しるべに案内されながら、先ず立ち寄ったのは、「蛙塚」。町の職員さんが溜まった泥を綺麗に掃除をされているところにお邪魔したが、気軽に話しかけられ全員で記念写真を撮ってもらった。G・Wのお客さんのために掃除をしているとのことだった。
 もと来た道に戻り、北に向かって坂道を上り広い大通りを東に行くと、小さなお堂が整備された井堤寺跡があり、暫しお寺の由来や橘諸兄についての解説板を拝見。奈良時代の左大臣・橘諸兄により建立された当寺は、七堂伽藍を備えた壮麗な寺院であったようで、井出の高台に建った幻の大寺院を思い描いた。また、平安の女流歌人、小野小町が晩年をこの井堤寺で過ごしたという。
 山吹ハイキングコースへと続く道を東へと歩き、ふと来た道を振り返ると、木津川へと続く大地とその向こうに見える山並の風景がパノラマ写真のようで、心休まりほっとする。新緑が萌えるように美しい東の山、西の雄大な木津川に包まれたこの大地に奈良時代から営々と続いてきた人々の息づかいを感じながらゆっくりと歩いた。
 左に小野小町塚、地蔵禅院、玉津岡神社の案内板があり、細い住宅地の道を上がっていくと、大きな石積みの小町塚 があった。
“色も香も 懐かしきかな かわず鳴く 井手のわたりの 山吹の花”と、小町が詠った。
塚を背に壮年組み、美女組みと分かれて記念写真。無造作に積まれた四つの石が井堤寺の礎石だと聞き、ビックリする。何だか絶世の美人のイメージとは似つかわしくないなぁと思うが、井堤寺で晩年を過ごした小町には、ピッタリなのだろう。木立のなかに小さな里に響き渡るような鶯の鳴き声に姿を追ったが見失う。卒寿を迎えられる伊東さんも元気に上られた
 さらに上ってゆくと、木立のなかに小さな里に響き渡るような鶯の鳴き声に姿を追ったが見失う。参道をゆっくりと上ってゆくと、左手に柳の大木と見間違えた枝垂桜の大木が二本。
 地蔵禅院の境内に入ると、京都円山公園の枝垂桜と兄弟木枝垂桜の雄姿に圧倒される。眼下に広がる井出の里と木津川が一望され、はるか向こうに見える、生駒山、金剛山に暫し言葉も無くうっとりと見惚れた。
 京都の有名な写真家のお墨付きで一躍有名になり、全国から沢山の写真マニアが訪れるという。満開時期には、細い参道も一目枝垂桜を見たいという人々で埋め尽くされるそうだ。桜の散ったこの季節に訪れたのは、少し残念な気持もするが正解だった。静かな里風景を心行くまで満喫出来たことは、歴史ハイキングを企画された出野氏の手腕に感謝あるのみ。参道でお会いした、大きなカメラを手にした中年の方が「誰にも邪魔されないので、今の季節が一番ですよ」と挨拶されたのが印象的だった。
 石段を登りつめると、木々に覆われ静かな中に厳かな感じの漂う、玉津岡神社に到着。天平3(731)年、諸兄が橘氏一族の氏神として創建した神社で、貞享4(1687)年本殿が再建された。
 地蔵禅院前で昼食。午後は、参道を下り山背古道の道しるべに従って、綺麗な棚田が続く小道をしばらく行くと玉川と出会い、橋本橋を渡ると左手に小さな滝の小川があり、右手に宮本水車跡の大きな石碑が立っていた。石碑を見たりしているところへ、80余歳だと名乗られた地元のかくしゃくとした凄いおじいさんが出てこられ、「井出の歴史」を涙を流さんばかりに一講釈された。ビックリするやら感心するやら、良い思い出となった。
 井出の浄水場の辺りから見える里の風景は絶景だった。西に見える山並みの向こうは、わが町交野である。山の上に関西電力の倉治の鉄柱が見えた。地蔵禅院の境内から、井手町、木津川から遠く金剛山まで一望される
 左手に竹林が見え、橘諸兄公旧跡の案内板が見えた。筍を掘っておられる地元の人に出会い、少し登れば石碑が建っていると教えられ、静かな竹林の中を登った。にょきにょきと竹の子が伸びているのがあちこちに見えた。石碑は意外にも大きなもので、今は竹林に囲まれた山の中だけれど、往時を偲ばせるに充分だった。

 どんどんと里道を歩いていると、後ろから地元の人に呼び止められた。「山背古道はこちらですよ」と。埋め込みの案内サインを教えてもらい、渋川を渡ったところで左へ行くか、川上へ行くかと迷った。強引に川下へと進んだが結局、古道を間違えた。地図を頼りに畳屋さんの看板を見つけやっと古道と出会い、真っ直ぐ南に下り、天神橋を渡るともう、蟹満寺だった。拝観料300円を支払い、本堂に案内された。見上げるような素晴らしい国宝の「釈迦如来坐像」に圧倒され、「蟹の恩返し」の縁起を聞かせてもらう。白鳳時代の名作で金銅製、高さ2.7m、重さ7トンに驚き、往時の秦氏の旺盛ぶりの一端を垣間見た。
 一路、山背古道を南に進むと宅地の中の道は幅2mと狭く、昔に逆戻りしたような気分だった。JR奈良線を西に越し、少し登るようにして上がると不動川があり、川の下をJRが走っていた。川では元気な女の子たちが水遊びに夢中で、ついぞ見かけない風景に思わずシャッターを押した。
 不動中橋を渡り、狭い1mぐらいの住宅地の道を抜け、再びJR奈良線を渡り終着の棚倉駅に着いたら3時半だった。いつものメンバーに今回初めて、今年9月に卒寿(90歳)を迎えられる伊東さんが参加され、ぐっとムードも変わった。伊東さんの健脚振りには驚くばかりで、負けじと弱音も吐かず、皆さん元気に最後まで歩き通した。
春の一日、ほっとする風景に感動し、南山城の里の歴史を振り返る、
素晴らしい歴史ハイキングだった。


<メンバーからのメールを紹介>
(~o~) 昨日は好天に恵まれ、楽しい歴史散歩でした。
伊東さんの健脚振りには驚きました。
景色も好く、あれは日本の原風景ですね。
「何気ない、だけど誰もがほっとする風景が息づいている」と、
「井出を歩こう」のパンフレットの中に書かれていましたが、本当にそう思いました。 
井出町は奈良時代には発達した地方都市の役割を果たしていたのでしょうか。
当時漸く確立した天皇制とその行政官の権力と富の集中振りに
思いを馳せると同時に、一方ではNostalgiaを感じました。 
長閑な春の一日を満喫出来ましたことを感謝して・・・。

(^。^) 毎日歩いていても 纏まって歩くと結構疲れますので、伊東さんが 参加して下さり 
助かったのかもしれません。
それにしても あんなにお元気な方だったのかと感心しました
ずっと あちこちへいらっしゃってるから 歩けるのでしょうね
あやかりたいものです。又ご一緒出来るのを楽しみにしています。
                     

歌枕と今昔物語の里・山背古道を歩くマップ


歴史ハイキングミニガイド

山吹の古跡…玉川の堤防沿いに立つ石碑。平安時代の歌人、藤原俊成も“駒止めてなほ水かはむ山吹の花の露そふいでの玉川”と詠んでいる山吹の美しい所。

蛙塚(かわずづか)…池の辺に立つ記念碑と蛙の像。井手町の名所、蛙塚のカエル?
“井手”と“かわず’は歌枕として歌われ「古今和歌集」の中で三十六歌仙全員が“井手の蛙”を詠んでいる。
小野小町の歌“色も香も 懐かしきかな かわず鳴く 井手のわたりの 山吹の花”


井堤寺跡

井堤寺跡(いでじあと)…諸兄により奈良時代、母三千代の1周忌に宇治寺として建立したと伝える。正しくは園堤寺と唱え法名を光明寺と言う。今は僅かな礎石を残すのみ。
 嘗ては敷地1600uの敷地に七堂伽藍が並ぶ壮麗な大寺院だったが諸兄の息子橘奈良麻呂が起こした謀反により廃寺となった。
 諸兄は西方浄土を具現すべく境内や借景の玉川沿いに「黄金の花」山吹を植えた。
橘氏衰退後、寺の維持も難渋し万寿3(
1026)の記録に「破損夥しく雨漏りし仏像損傷す」とある。境内より銅銭、海獣葡萄鏡、軒瓦が出土。梅宮跡があるが寺の鎮守社で後に京都梅津へ移された。現在の梅宮神社がそれ。

小町塚の前で美女二人がにっこり 小町塚…地蔵院参道下にあり
小町の墓と伝える。
井堤寺の礎石を積んだもの。

 平安時代の女流歌人小野小町が井堤寺別当の妻として隠棲し、69歳で没したと言われる。(「冷泉家記」に“小町六十九歳井手に於いて死す”、又「百人一首抄に“小野小町のおはりけるところは山城の井手の里なり“の記事がある)
小町塚を背に美女二人















地蔵院の桜
地蔵院…曹洞宗総持寺派。白鳳期に諸兄が創建と言う。元東大寺旧跡地になる。
寛永5(
1628)、麟応和尚が開祖。本尊の地蔵菩薩は諸兄の持仏と言う。
井手町の高台に立つ古刹で、享保12(
1727)に植樹された樹齢276年の、
京都府指定天然記念物の枝垂桜が見事<京都円山公園の枝垂桜と兄弟木>
地蔵禅院の満開の枝垂桜
地蔵禅院の素晴らしい枝垂桜
 ここ山背古道にも桜の名所は数ある。玉川をはじめ、天井川の堤の桜と、霞のかかった南山城の風景は美しい。
  井手町上井手地蔵院のしだれ桜。これが南山城随一の桜だ。地蔵禅院の境内に入ると、京都円山公園の枝垂桜と兄弟木の枝垂桜の雄姿に圧倒される。眼下に広がる井出の里と木津川が一望され、はるか向こうに見える、生駒山、金剛山に暫し言葉も無くうっとりと見惚れた。
 京都の有名な写真家のお墨付きで一躍有名になり、全国から沢山の写真マニアが訪れるという。満開時には、細い参道も一目枝垂桜を見たいという人々で埋め尽くされるそうだ。
地蔵院地図

玉津岡神社

天平3(731)年、下照比売命(したてるひめみこと)を諸兄が勧請、橘氏一族の氏神として創建した神社。明治時代、井手に鎮座の氏神と統合され今は6神を合祀。本殿は貞亨4(1687)年再建(京都府登録文化財)。鎮守の森は文化財環境保全地区に指定。境内に諸兄を祭る橘神社あり。


駒岩…保延3(1137)水神として建立。巨大な花崗岩に半肉彫りされた「左馬」である。江戸期には女芸上達の印として信仰された。玉津岡神社の古記録によると保延3年5月6日の日が馬の後足の横にあったとあるが摩滅している。元は玉川の水分神社の傍らに祠と一緒にあったものが、昭和28年の「南山城大水害」で祠ごと流出、地元の人が現在地に上げたもの。左馬ふれあい公園として整備。

六角井戸…諸兄邸(玉井頓宮)にあったと伝えられる井戸。天平12(740)11月8日、聖武天皇が来られたとき諸兄が詠んだ歌碑が立つ。“葎(むぐら)はふ 賎しきやども大君の坐さとし知らば 玉敷かましを”(万葉集巻19-4270

高倉神社…社殿東隣に平家打倒の志半ばで戦死した以仁王(もちひとおう)=(後白河天皇の第2皇子)の墓。「平家物語」によると興福寺へ逃れる途中、光明山寺の鳥居前で矢に当たって落命したとあり、その光明山寺跡が高倉神社である。



井手の里を山吹の名所にした
奈良時代の文人・政治家

橘諸兄(たちばなのもろえ)
天武13年(684)〜天平宝字1(757)74歳。


橘諸兄の別業(別荘)の地であった井手の里。諸兄の存在なくしては井手町の歴史は語れません。そこで、橘諸兄の生涯と井手の里の関わりをご紹介します。

 橘諸兄は、もと葛城王といい、天武十三年(684)、父美努王・母橘(県犬養)三千代の長男として生まれました。母の死後、天平八年(736)に元明女帝から賜った「橘」を継ぐとともに、名を「諸兄」と改めました。諸兄は、様々な官歴を経て、天平十五年に国政の最高位左大臣に登りつめました。そして、聖武天皇のもとで天平政治を主宰すること十九年にもおよびました。また、諸兄は政治家だけではなく文人としても有名で、万葉集にも八首、詩歌を残しています。

竹やぶの道を10分ばかり登った所に、諸兄の旧跡があった

 一方、諸兄は別業の地を木津川を眼下に望む風光明媚な井手の地に定めました。また、自らも井手の里に住んだことから井手の左大臣と呼ばれ、後に源・平・藤・橘旧姓の一つ、橘氏の本拠地として語り継がれるようになりました。そして、諸兄が井手の里に造営した玉井頓宮には、元止女帝が行幸されましたが、その折に諸兄を讃えて

橘の とのの橘 やつ代にも 吾は忘れじ この橘を

と詠まれました。また、玉川堤に黄金色の花山吹を植えたことが、「井手の山吹」のという言葉を日本の古典文学に登場させることとなりました。

父、美努王、母、県犬養三千代の長男として生まれる。母はのち藤原不比等に嫁ぎ光明皇后を生む。敏達天皇の5世孫。45代聖武天皇の義兄、光明皇后の異父兄。諸兄は元「葛城王」と呼ばれたが、母の死後元明女帝から「橘氏」の姓を賜る。天平1(729)、山背国班田司となり、井手町に別荘・寺院を建立。天平15年から14年間左大臣を勤める。恭仁京遷都(740744)、東大寺大仏造営事業を手がけ天平時代の国政を司った。

森田孝さんから頂いた「筍」の銅版画

天平9年流行の天然痘で藤原不比等の子4人が相次ぎ病死後政界で活躍するが、藤原仲麻呂の台頭で諸兄は官職を辞任。天平宝字1(757)諸兄の一人息子奈良麻呂(721757)が藤原氏に叛乱して「橘奈良麻呂の乱」を起こすも未遂に終わり勢力を失墜した。奈良麻呂の孫、嘉智子が弘仁6(815)、嵯峨天皇妃となり、仁明天皇を出産したことで復活。然し再度藤原氏との政争に敗れて没落する。橘氏は文人肌で「万葉集」に諸兄は8首、親族も4首が編纂されている。

 左手に竹林が見え、橘諸兄公旧跡の案内板が見えた。筍を掘っておられる地元の人に出会い、少し登れば石碑が建っていると教えられ、静かな竹林の中を登った。にょきにょきと竹の子が伸びているのが見えた。石碑は意外にも大きなもので、今は竹林に囲まれた山の中だけれど、往時を偲ばせるに充分だった。


 蟹満寺(かにまんじ)…真言宗智山派。山号は普門山。
白鳳時代末期(
690年代)、秦氏一族の秦河勝の弟の秦和賀が建立した「紙幡寺(かばたじ)」が前身で、後行基が再興したとも伝えるが、正徳1(1711)、京都智積院の亮範が青典したのが史実。
 平成2年の発掘調査で大規模な瓦積み基壇が出土し、これが創建時の本堂とすれば奈良薬師寺金堂と同形式の大伽藍があったことになる。「古今著聞集」等に出てくる「蟹の恩返し」縁起で有名<後述>な寺。本堂は宝暦9(1759)年建築で、堂内に安置の釈迦如来坐像(国宝。高さ2.7m、重量7トン)は白鳳期の作で金銅製。人間味を帯びた像にする為、螺髪と白毫が無く、衆生を漏らさず救済する為、指の間に水掻きのような曼網相(まんもうそう)を備えているのが特徴。脇侍の如来形坐像は高さ31.7cmの一木造で山城町指定文化財だが金箔は額に少し残るだけ。両手の指は欠損しており、頭部は平安〜鎌倉期の彫り直しである。拝観料300円。

蟹満寺の本堂 八重桜が綺麗でした

蟹の恩返し「今昔物語巻第16」・「元亨釈書巻第28

 昔、山城国、現山城町綺田(かばた)に観音様を厚く信じる農家の父娘がいた。村人のとる蟹を哀れと思った娘が買い取って逃がしてやった。父は田で蛇に飲まれんとしている蛙を助けるのに「娘を婿にやるから蛙を助けて欲しい」とうっかり言ってしまう。その夜立派な男姿の蛇が娘を貰いに来るが「三日待って呉れ」とその場は男を帰す。蟹満寺の額

 三日目、板を打ち付けた部屋に娘を隠し父娘で懸命に観音経普門品を唱え祈っていた。やってきた蛇は約束が違うと怒り、尻尾で部屋の板を叩きながら周囲を回りだした。

 突然音がやんだが父娘は観音経を唱えていた。夜が明けて出てみると部屋の周囲には一面蟹の屍が飛び散り、同時に蟹の鋏で切り裂かれた蛇の死体が転がっていた。観音様のお陰で娘は助けられたので死んだ蟹と蛇の屍を葬って塚を作りその上に観音堂を建てたのが蟹満寺と言う。

 この付近は帰化人が優れた染色技術を持込んだ地方でその織物がカムハタ(綺)だった。

カムハタ→カンハタ→カニマタ(カバタ)→カニマ→カニマンと転化。
紙幡寺→蟹満寺。
蟹…観音信仰。
       〈樋口清之・松本清張共著 光文社版「京都の旅」から〉


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