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京都・木屋町通り(きやまちどおり)
クローバーOB、高瀬川源流庭苑に集う!
380年前の慶長16年、高瀬川運河を開通させた豪商角倉了以の別邸跡  

2003.7.4
 青雲の志高く京に学び遊んだ木屋町で、久しぶりのOB会が開催された。
思えば、22歳で入社した当時、何も分からない若造のために一番に歓迎会を開いてくれたのが、同窓の先輩たちだった。本当にありがたかった。忘れられない青春の一ページだった。高瀬川源流庭苑

 その後、十数年後同窓会の幹事を引き受け、気のあった仲間と世話役をしながら、毎年、懇親会にゴルフや旅行を企画して大いに和気藹々と楽しんだ。3年前に目出度く退職、早速OB会を立ち上げて、1回目は今回と同じ木屋町の鴨川の床で開催し、大いに盛り上がったが、その後ぷっつりと途絶えてしまった。
 その後、退職者も増えて今年で21名を数えるまでになり、今年こそはと京都在住のお二人に、ここぞという良い場所を設営願い、賑やかに開催できた。

 同志社に学び、同じ職場で共に労苦を味わったOBの仲間が相集い、日頃の疎遠を一挙に解消。元気なゴルフ組みは、集合時間より1時間も早く到着。お互いの健康とささやかなれど幸せな日々を過ごしていることを喜び合い、もう、20年も前、現役時代に全国クローバー会を京都五条の旅館で開いたことなど・・・わいわいと懇談。

 最後に何と、何年振りだろうか、同志社カレッジソングを輪になって大声で歌った。そして、誰が言うでもなく、続いて、18年振りの優勝に向かって快進撃を続ける、阪神タイガースの六甲おろしを、これまた、大合唱。大いに若返り、青春の意気を取り戻した会合だった。いつも、顔を逢わせれば「元気かぁ!」と暖かく声を掛けてくれる、そんな有難い先輩たちとの会合を今後も続けられればと願いつつ、木屋町を後にした。

Doshisha College Song
One purpose, Doshisha, thy name
Doth signify one lofty aim;
To train thy sons in heart and hand
To live for God and Native Land.
Dear Alma Mater, sons of thine
Shall be as branches to the vine;
Tho' through the world we wander far and wide,
Still in our hearts thy precepts shall abide!




  日新京阪神クローバーOB会のご案内   平成15年5月吉日

 晩春の候 皆様にはご健勝にてご活躍のことと存じます。
1回OB会を「藤吉」にて開催して、もう3年が経とうとしております。
会員の皆様より毎年のように今年の会合はいつ開くのかなど苦情を頂きながら、
徒に日々のみ重ねて参りましたことを深くお詫び申し上げます。

 この度やっと重い腰を上げ、第2回OB会を下記の要領にて開催する運びに
なりました。万障お繰り合わせの上ご出席いただきますようご案内申し上げます。
今回の開催に当たりましては、細川・津田両氏に大変お世話をおかけ致しました。

 日時 平成15年7月4日(金)18時30分より
 場所   がんこ 高瀬川二条苑(075-223-3456
京都市中京区木屋町通二条下る



がんこ 高瀬川源流庭苑
 京の人々に古くから親しまれ、愛されたきた、高瀬川の流れは、豪商角倉了以の別邸跡、がんこ高瀬川二条苑を通り、木屋町通りをくぐって、再び姿を現します。
 おおよそ380年前の慶長16年、了以によってつくられた当庭苑は、角倉了以の後、明治の元勲山縣有朋の別荘・第二無隣庵となり、その後、第三代日本銀行総裁川田小太郎の別邸、阿部信行首相別邸などをへて、現在は大岩邸として伝わり、がんこ二条苑高瀬川源流庭苑となっております。  
                              (がんこ 二条苑のパンフより)
 高瀬川の流れは、豪商角倉了以の別邸跡、がんこ高瀬川二条苑を通り、木屋町通りをくぐって、再び姿を現します。高瀬川は素晴らしい庭苑の中を滔々と流れている。


木屋町・高瀬川界隈の見所

高瀬川が京都経済の大動脈となるにつれ、東畔に繁華街として発展した。
幕末に坂本龍馬など勤皇志士が潜居した所として有名。
高瀬川は森鴎外の名作「高瀬舟」の舞台となった。

木屋町通り
 
(北は二条通から南は七条通に至る高瀬川東畔の通り。全長約2.2km。)

 京阪電車の三条駅で下車。久しぶりに木屋町通りを歩いた。
三条小橋の傍に、佐久間象山・大村益次郎遭難之地、明治の兵制の近代化に努めた大村益次郎(ますじろう)遭難の地、映画『月形半平太』のモデルにもなった土佐勤皇党の武市瑞山(たけちずいざん)の寓居跡や、天誅組を結成した土佐の吉村寅太郎の寓居跡、越後出身の急進派・本間精一郎遭難の地、などなど、木屋町通り周辺にはたくさんの史跡があり、石標・石碑を探しながら歩くと結構楽しい

 道行く人の大半は何もないようにさっさと歩いているが、注意して歩いていると、石碑や石標をあちこちで目にすることができる。実はこのあたり、今から130年ほど遡る幕末の頃には、20代や30代の青年たちがまったく違った思いをもって駆け回っていたところなのです。
 高瀬川は、豊臣秀吉が東山の方広寺の大仏殿と大仏建立のさい、建築に必要な資材を運ぶために角倉了以(すみのくらりょうい)につくらせた運河で、京都・伏見間の物資の輸送に利用されていた。高瀬川の名は、そのとき使われた高瀬舟という舟に由来しているそうだ。
 その後、この高瀬川の水運によって川岸一帯は発展することになり、炭や薪、材木などが運ばれ、周辺には材木、柴、薪、炭などを扱う商家が多く建ち並んでいた。いわゆる「木へん」の町である。ことから、東岸の道が「木屋町通り」と呼ばれるようになったという。



島津創業記念資料館
田中耕一さんのノーベル賞受賞ですっかり京都の観光ルートに
島津創業記念資料館は、つい先月、10万人来場を達成した!
島津創業記念資料館は、島津製作所が昭和50年(1975)創業100年を契機に、創業者初代島津源蔵を偲び、開設したものです。ここ高瀬川の北端・木屋町二条は、島津製作所の創業の地であるとともに、京都府が明治の初め欧米の最新技術を導入した実験所や工場など多くの諸施設を設立した近代科学発祥の地でもあります。
 当館は、初代源蔵が居住し、店舗としていた創業当時のままの姿を残しています。館内には、創業以来、製造してきた理化学器械や医用エックス線装置、それらに関連する文献・資料を展示、我が国の近代科学技術の発達過程を見ることができます。ぜひ、お楽しみ下さい。(島津創業記念資料館・HPを参照)
高瀬川一之船入(いちのふないり)跡(木屋町二条下ル)
高瀬川の途中には、舟の積荷下ろしをするための「舟入」(ふないり)という船溜まり所が何箇所か設けられていました。この舟入は、やがて高瀬舟の消滅とともに埋めたてられてしまい、京都の起点となった二条の「一之舟入」(いちのふないり)が唯一、史跡として残されています。
この舟入が大いに利用されていた幕末の頃、四条から二条にかけての木屋町通り周辺には、長州藩、土佐藩、加賀藩、彦根藩など各藩の京都屋敷があり、また多くの維新の志士が隠れ住んでいました。そのため、この界隈は全国から集まった志士たちの活動拠点となり、さまざまな事件の舞台ともなっていたのです。
桂小五郎幾松寓居跡
桂小五郎の恋人・幾松(いくまつ)が住んだ長州藩控屋敷跡
長州の桂小五郎(木戸孝允と改名)と幾松(松子と改名)のカップルです。のちに木戸夫人となる幾松は福井の小浜出身の女性で、京都へ来て三本木(さんぼんぎ)の芸妓となり、桂小五郎と出会います。その小五郎と幾松のロマンスがしのばれる場所がこの木屋町界隈にあります。
桂小五郎幾松寓居跡
木屋町御池を北へ行くと、「幾松」という料理旅館の路地入口に「長州藩控屋敷跡」「桂小五郎・幾松寓居跡」と刻まれた石標が建っています。ここはかつて長州藩の控屋敷があったところ。控屋敷とはいっても、主に志士たちが密かに会合を行なう場所で、桂小五郎もたびたびここへ足を運び、幾松を呼んだりもしたようです。


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