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佐藤さんを囲んで
  

2003.10.17
 今年は阪神タイガースが優勝して関西経済が大いに潤った。
明日から始まる日本シリーズの行方が気になるところだが、阪神ファンにとっては願ってもない18年ぶりに迎えた祝勝の年となった。

 前回の1985年の阪神優勝の余韻が覚めやらない翌年、佐藤さんは大阪へ赴任され、2年間という短い期間ではあったが大きな足跡を残された。あの頃の我々は若くて元気だった。大阪の伝統の営業部を預かる若手新任の部長を盛り立てるべく日夜を惜しんで働いたものだ。契約を採るのは得意だが、断る術は未熟で苦労の連続だった。愉しい思い出よりも苦労した、涙を流したことの方が多かった。でも、会社生活の中で一番思い出が多く、印象深かった時代だったように思う。

 10月10日夕べ、15年ぶりに当時の営業部の猛者連が集まり、佐藤さんを囲んだ。OBが9人、現役6人総勢15名が顔をそろえた。最初は皆さん、いささか緊張気味だったが、滝本さんの乾杯の音頭と同時に笑いと話で盛り上がり、苦労した当時の話など笑い飛ばしながら、わいわいと楽しい夕べを過した。苦労の多かった時代だからこそ皆が集まり、懐かしく思い出されるのだろうが、これも佐藤さんの人徳だと納得した次第である。

 佐藤さんは、退職後3年ぶりに大阪の地を踏まれたが、髪はシルバーで真っ黒に日焼けされ元気そのものだった。生れ故郷の大分に帰られ、日頃は好きなゴルフと野菜作りに励まれているそうだ。

 また、退職して1年目には、生まれ育ったふるさとの歴史を紐解き、「歴史資料・石城川村」を、また3年目の今年は「石城川の地名」を著された。現在、大分県地方史研究会会員として活躍中であり、歴史資料・石城川の地名を書き上げられた今は、「石城川の神々」に取り組んでおられるそうだ。
 幕末・維新期に31あった鎮守社・産土社が明治維新政府の宗教政策によって強引に合併させられ9社に統合され現在に至っているそうで、それぞれの祭神を解析し、神社と地域住民の関係を明らかにしたいと奮闘されている。とにかく佐藤さんは、現役当時から歴史には造詣が深かったことを記憶している。

 デジカメの腕が未熟で、出来の悪い写真を披露する結果となりましたが、集まった皆さんの記念としてホームページに掲載させて戴いた無礼をお詫びするとともに、皆々様の益々のご活躍を祈念申し上げます。




  佐藤さんを囲む会のご案内   平成15年9月吉日

 初秋の候 皆様にはご健勝にてご活躍のことと存じます。
先にご案内しておりました佐藤末喜さんを囲む会の日程等
決まりましたので下記の通り連絡します。
当日は直接、会場までよろしくお願いします。

日時:10月10日(金)午後6時
場所:ホテルアンピエントの14階 
中華料理店 瑞兆 北区堂島浜2-1-31


 最後に、
 佐藤末喜著 歴史資料 石城川村 「石城川の地名」のあとがきを紹介して、佐藤さんのふるさとの歴史学究の一端を披露したいと思います。

            
 明治15年の政府調査による石城川の地名数は51、小名232計283であった。筆者の分類によれば、このうち地形に基づく地名が262、その他が21となり、所謂自然地名は92.6%を占めている。
 これは全国的な傾向であって、諸外国の例で見ても地名は普通にはまず地形によって付けられ、それが間に合わなくなってくると追々他の材料が加味されていくのである。旧石城川村の区域に住んでいた我々の祖先の大部分は、田を作り畑を耕してきた農民であって彼らにとって土地こそが生産の場であり、生活のすべての基盤であった。土地の高低、水の有無、谷や迫の深さ、傾斜地・崩壊地の具合などは彼ら農民の片時も忘れることのできない関心事であったに違いない。従ってこれらの土地条件を表す地形用語、地方方言が農村生活においてもっとも基本的な地名用語と成ったことはしごく当然の姿であると言えよう。
 地名は、このように住民の日常生活に深く密着してできたものである以上、必ず一つの意味を持っている。最初は誰かが言い始めたものにせよ、ほかの多数者が同意してくれなければ地名にはならないからである。
 長い歴史の風雪に耐えて今日まで伝えられてきた石城川の地名の、その一つ一つの意味・語源を解明することによって、わが郷土・石城川の古代・中世の景観を再現しようとするこの大いなる企ては、浅学非才の筆者にとってはまさに生涯の課題と言うべき難事業である。
           (私の独断で掲載したことをご了承願います)
会報6号

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