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<第112回>  令和2年2月定例勉強会
 「交野の古墳時代」 
  
塩山 則之氏(大東市教育委員会)

青年の家・学びの館 午前10時~12時
 33名(会員27名)の参加
2020.2.22(土)午前10時、2月定例勉強会に33名が参加されました。

 高尾部長の司会で始まり、村田事務局長より古文化同好会の直近の行事予定の紹介と協力要請のお話(新型コロナウィルスによるイベントの中止状況、私部城を活かし守る会主催の私部城を学び遊ぼうの現況・DVDの上映、3月のウォーク「住吉大社を訪ねる」、勉強会「物部氏と饒速日命と交野」討論会など)の後、講師の塩山則之氏より「交野の古墳時代」をテーマで詳しくご講演下さいました。

 今回の講演は、旧交野郡の地域の古墳、特に天野川流域に所在する古墳について、前期・中期・後期に区分され、それらに伴う集落の動き、古墳の被葬者など大変分かりやすく詳しく解説頂きました。特に、肩野物部氏や息長氏、秦氏など興味深いお話でした。

 (講演会の概要)

    1.はじめに
    2.交野の古墳 天野川流域の前期・中期・後期古墳
    3.交野の古墳時代集落 
       ・第二京阪道路建設に伴う発掘調査により集落の実態が明らかに
         森遺跡、上私部遺跡、私部南遺跡などの集落
       ・天野川流域の古墳群の被葬者について
         肩野物部氏や息長氏、秦氏など
    4.まとめにかえて
    
 ※ 今回、HPに掲載するにあたり、講師の先生のご厚意により当日配布された
   「レジメ」をHPに掲載させていただきました。記して感謝申し上げます。
  ※ 交野町史、市史、各種報告書、WEB記事などを参照させていただきました。

  吉田知史氏の「交野の古墳時代集落動態」PDF
これらの研究成果等をふまえ吉田知史氏が「交野の古墳時代集落動態」にまとめられています。興味のある方は是非ともご参照ください!
 
塩山 則之氏(大東市教育委員会)
 
 
         「交野の古墳時代」           

  塩山 則之氏(大東市教育委員会) 
1)はじめに

 「交野」というと、現在の行政区分としては、大阪府北東部の北河内地域の一画の「交野市」を示しますが、今回の勉強会では交野市を中心にするのはもちろんのこと、もう少し広い範囲すなわち「旧交野郡」の地域で時代を考えていきたいと思います。交野地域は、交野郡6郷(葛葉・岡本・園田・山田・田宮・三宅)と茨田郡1郷(伊香)の7郷からなります。旧交野郡の所在する北河内地域の地勢を大きく概観しますと、天野川以東を交野台地(枚方台地)、以西を枚方丘陵(香里丘陵)に区別されています。
 2)交野の古墳

 交野の古墳については、昭和26年(1951)倉治にある関西電力枚方変電所建設に先立つ調査で横穴式石室8基からなる倉治古墳群の調査に始まります。
 その後片山長三先生が『交野町史』で整理し、また多くの研究者や郷土史家の先達によって研究がなされてきました。中でも、昭和55年(1980)当時の岩船小学校の児童が発見した二重口縁の壺形土器の破片は、日本最古の古墳と考えられている奈良県桜井市の箸墓古墳のものと同時期のものであり、森古墳群の発見へとつながり、交野市はもとより北河内地域における最古の前期古墳群とみられ、古墳研究に大いなる貢献をはたすものとなり、その重要性から新聞にも大きく取り上げられ話題となりました。

 森古墳群の調査等の成果を受けて水野正好先生が『交野市史』において一定のまとめをおこなわれました。その後、財団法人交野市文化財事業団の事業活動の講演会やシンポジュウムなどのなかでさらに成果を積み重ねてこられ、発掘調査等が実施されていないためまだまだ不明な点はありますが、かなりの部分が明らかになってきました。

 交野を中心に古墳の分布をみてみますと、天野川流域には、森古墳群、妙見山古墳、郡津丸山古墳、藤田山古墳、禁野車塚古墳、万年寺山古墳などの前期古墳が分布し、中期には、交野車塚古墳群があり、後期には、天野川流域ではないけれども、清水谷古墳、寺古墳群、倉治古墳群、下流において禁野上野古墳、白雉塚が所在している。これらの研究成果等をふまえ吉田知史氏が「交野の古墳時代集落動態」にまとめられています。
 吉田知史氏の「交野の古墳時代集落動態」PDF
これらの研究成果等をふまえ吉田知史氏が
「交野の古墳時代集落動態」にまとめられています。
興味のある方は是非ともご参照ください!
 3)交野の古墳時代集落

 交野市域における集落は、あまり明らかになっていませんでした。しかし、第二京阪道路建設に伴う発掘調査で多くの新しい事例が発見され徐々にではありますが集落の実態がわかってきました。
 交野市域で有名な集落としては、JR片町線(学研都市線)の河内磐船駅周辺に広がる森遺跡があります。森遺跡は、昭和61年(1986)から交野市教育委員会の手により数次の調査が実施されてきました。これまでの発掘調査の成果から、弥生時代終末・古墳時代前期から始まることが明らかになつています。さらに、5世紀後半頃からは鉄器生産に伴う鍛冶炉の検出や大量の鉄滓が出土しており、鍛冶生産が行われていたことが明らかになりました。

 また、森遺跡に拠点をもった集団が森古墳群の造営主体と考えられます。その他、倉治の有池遺跡からは、竪穴住居や谷底から5世紀から6世紀の遺物が出上しています。青山の上私部遺跡は、5世紀初頭から7世紀前半に及ぶ遺跡で、竪穴住居、掘立柱建物(大型も含む、)鍛冶関係の遺物が出土しており、開発拠点となる大規模集落であったようです。
 私部南遺跡からは、竪穴住居、掘立柱建物、鍛冶関係の遺物(鍛冶炉・鉄滓・羽口・鉄延)のほか、水田遺構も検出されています。上の山遺跡(枚方市茄子作遺跡)では、 初期須恵器が多量に出土し、須恵器生産の集落とみられます。

 交野市域における古墳集落は、前期の集落としては先述の森遺跡があり、この集落は後期まで延々と営まれます。森遺跡は弥生時代終末期から続く集落であり、このように前期集落が弥生時代終末期から続く傾向は交野台地上でも多く認められます。中期になると、上私部遺跡や私部南遺跡などが出現し、後期までと続いて営まれるようになります。

 交野市域の古墳や集落に関連して古代の氏族についてみていきたいと思います。片山長三先生は、北河内地域、特に交野地域を中心とした古代氏族についての考察を行った最初の人物です。

 片山先生は、天野川流域における森古墳群の被葬者について、古代豪族の「肩野物部氏」との関係に注目されました。天野川上流には、物部氏の始祖とされる饒速日命が降臨したと伝えられる「哮ヶ峰」や、そのすぐ上流には饒速日命が一群を率いて降臨したときの「天磐樟船」と伝えられている巨石が磐船神社にあります。『住吉大社神代記』には、私市の哮ヶ峰のことを「饒速日山」と記し、交野市私市と考えていたようです。

 また、天野川が淀川に流れ込むやや下流に所在した万年寺山古墳(現在意賀美神社が鎮座)が所在する伊加賀は、肩野物部氏の祖とされる伊加賀色男命(いかがしこおのみこと)の居住地であった伝承があり、物部氏との関係が注目されます。

 また、倉治にある清水谷古墳の被葬者について、清水谷古墳は、横穴式石室のなかでも「竪穴系横穴石室」と呼ばれ、渡来系氏族の「秦氏」にゆかりの氏族と考えられました。倉治には七夕で有名な「機物神社」も所在しています。秦氏は、機織りものの技術に優れた氏族ともいわれ、この地域に残る伝承と絡めて、秦氏の居住は十分に考えることができます。
 4)まとめにかえて

 以上、交野の古墳時代の社会状況について概観してきましたが、この交野の地域は、遺跡あるいは伝承からみても中央政権との結びつきが堅固なものであったことがうかがえます。
 それぞれの遺跡や古墳についても、発掘調査がなされていない現状において、北河内はもちろんのこと、他地域との関係を十分に検討することができませんでした。また、集落や生産についても十分に言及することができずに、不十分な点は多々ありますが、今後の調査研究に待ちたいと思います。



 交野地域は、交野郡6郷(葛葉・岡本・園田・山田・田宮・三宅)と茨田郡1郷(伊香)の7郷からなります。旧交野郡の所在する北河内地域の地勢を大きく概観しますと、天野川以東を交野台地(枚方台地)、以西を枚方丘陵(香里丘陵)に区別されています。
  交野を中心に古墳の分布をみてみますと、天野川流域には、森古墳群、妙見山古墳、郡津丸山古墳、藤田山古墳、禁野車塚古墳、万年寺山古墳などの前期古墳が分布し、中期には、交野車塚古墳群があり、後期には、天野川流域ではないけれども、清水谷古墳、寺古墳群、倉治古墳群、下流において禁野上野古墳、白雉塚が所在している。
 
 
 
 倉治古墳群
  交野の古墳については、昭和26年(1951)倉治にある関西電力枚方変電所建設に先立つ調査で横穴式石室8基からなる倉治古墳群の調査に始まります。その後片山長三先生が『交野町史』で整理し、また多くの研究者や郷土史家の先達によって研究がなされてきました。
 関西電力㈱が交野市東倉治3丁目(字東浦)の丘陵に枚方変電所の建設を計画、昭和26年初め、片山長三氏から用地内の「丸山」が古墳ではないかという、連絡があり、調査確認された。「丸山」からは遺構、遺物の発見はなかったが、その後「丸山」の南側、中山路を越した付近で横穴式石室(第8号墳)を発見され、次々と全部で8基の古墳が発見された。
 
 森古墳群
 昭和55年(1980)当時の岩船小学校の児童が発見した二重口縁の壺形土器の破片は、日本最古の古墳と考えられている奈良県桜井市の箸墓古墳のものと同時期のものであり、森古墳群の発見へとつながり、交野市はもとより北河内地域における最古の前期古墳群とみられ、古墳研究に大いなる貢献をはたすものとなり、その重要性から新聞にも大きく取り上げられ話題となりました。 
 
 
 
 森古墳群の調査等の成果を受けて水野正好先生が『交野市史』において一定のまとめをおこなわれました。その後、財団法人交野市文化財事業団の事業活動の講演会やシンポジュウムなどのなかでさらに成果を積み重ねてこられ、発掘調査等が実施されていないためまだまだ不明な点はありますが、かなりの部分が明らかになってきました。
 
 
  片山先生は、天野川流域における森古墳群の被葬者について、古代豪族の「肩野物部氏」との関係に注目されました。天野川上流には、物部氏の始祖とされる饒速日命が降臨したと伝えられる「哮ヶ峰」や、そのすぐ上流には饒速日命が一群を率いて降臨したときの「天磐樟船」と伝えられている巨石が磐船神社にあります。『住吉大社神代記』には、私市の哮ヶ峰のことを「饒速日山」と記し、交野市私市と考えていたようです。
 鍋塚古墳
 交野市寺の山中で標高210mの高所に南山弥生遺跡がある。当遺跡は昭和34年の大雨の際、崩れ出た土砂の中から多数の弥生式土器が出土したことにより偶然発見された。河内を一望できる立地場所や出土遺物から当遺跡は監視やのろしをあげる目的を持った通信基地と位置付けられている。
 この遺跡の西側の尾根に位置した所に、交野市最古の古墳と言われる「鍋塚古墳」がある。前方後方墳で4世紀初めの築造と考えられている。 南山弥生遺跡は古くから遺跡として知られていたが、ここに防災施設の無線基地を建設することになり、その為の事前発掘調査 を平成7年にその後平成10年に発掘を行った所、それまで南山遺跡の西に位置する古墳時代後期の群集墳の一つと考えられていた鍋塚古墳が、実は全長65m、後円部経34.2m、前方部幅28m(推定)、くびれ部幅16mの前方後円墳であることが判明した。しかも墳丘の埴輪も見あたらず、主体部と思われる位置に露出している板状の割石から、竪穴式石室を持った古墳ではないかと推定され、同じ森古墳群 のなかで最大長を持つ雷塚古墳よりも古いのではないかと考えられている
 
 
 交野車塚古墳群
 交野高校建設時に発見された前方後方墳1基、方墳1基、円墳3基で構成される中期古墳群。1号墳(交野東車塚古墳)出土品は府指定文化財となっている。交野の山麓にはこのほかにも倉治古墳群、寺古墳群や清水谷古墳などがある。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 森遺跡
 交野市域で有名な集落としては、JR片町線(学研都市線)の河内磐船駅周辺に広がる森遺跡があります。森遺跡は、昭和61年(1986)から交野市教育委員会の手により数次の調査が実施されてきました。これまでの発掘調査の成果から、弥生時代終末・古墳時代前期から始まることが明らかになつています。さらに、5世紀後半頃からは鉄器生産に伴う鍛冶炉の検出や大量の鉄滓が出土しており、鍛冶生産が行われていたことが明らかになりました。
 
 
 
 
太秦高塚古墳
 [所在地] 太秦高塚町358番地他    <寝屋川市ホームページを参照>

太秦高塚古墳は、秦・太秦の丘陵上に所在する太秦古墳群で、唯一現存する古墳です。
2001年(平成13年)の発掘調査によって、古墳の形状や保存状況がわかりました。
古墳は、全長39メートル、円丘部の直径37メートル、高さ7メートルで、2段に築かれているこどがわかりました。
1段目の平坦部(テラス)には、円筒埴輪列が巡っていることが確認されました。
また、古墳の周りには、幅約7.5メートル、深さ2メートルの濠が残っていました。

北西側には、「造り出し」と呼ばれるまつりを行ったと考えられている区画が墳丘に付いていることがわかり、 ここから人物・水鳥・鶏・家・盾・衣蓋などの形をした埴輪や土器が集中して見つかりました。

古墳の頂上は盛土が大きく流出して大きく変化していましたが、東側で主体部の一部が残っており、 南側より短甲(よろい) ・鉄鏃(やじり)・鉄斧(おの)・鐙(あぶみ:馬具で足をかける道具)などの副葬品の鉄器がまとまって出土しました。
墳頂部の大きさから西側にも主体部があったと思われます。

出土した埴輪や土器などから、太秦高塚古墳は5世紀の後半に築かれたと考えられます。
 
 
 

最後までご覧いただきまして有難うございます。

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