<第137回>  令和6年6月定例勉強会
『交野よもやま話』と茶話会

「天野川から開けた文化」

講師 : 平田 政信氏
 (交野古文化同好会)
青年の家・学びの館 午前10時~12時
 64名(会員43名)の参加
 2024.6.22(土)午前10時、6月定例勉強会に64名の沢山の方々が参加されました。村田会長の挨拶で始まり、講演会は、平田政信氏が「天野川から開けた文化」」の演題で「交野の魅力 あれこれ」についてプロジェクターを上映しながら約1時間余り、交野生れ・交野育ちの交野を愛して止まない情熱をそのままに熱く語って頂きました。

 前半は、講師の平田政信氏より、先ず「倉治かご池」と「石つき唄」の話から始まりました。「石つき唄」は、昔倉治の「若い衆」が晩、津田の女性の宅に遊びに行く事が楽しみやった。時間も遅くなって帰って、ここの堤に来たら交野山の頂に朝日が上りかけていたという歌詞でお嫁入りとか、新築祝には必ず出る祝歌である。

 〽 わしの若いときや 津田までかよた 倉治かご池で夜があけた 
        面白のひょうたんや  おおあげおおあげ  〽

 次いで、交野の地名のお話に始まり、いよいよ本題に移られて、「天野川から開けた文化」
  甘の原  振りかえみれば
          交野山 片野の野に 歴史あり   (読み人知らず)より
 天野川周辺文化財からあれこれ解説されているうちに、当初予定の1時間が越えて来たところで・・・まだまだお話は尽きませんが、残りは、次回の講演をお楽しみにお待ち願うこととなりました。

 後半の部は11時30分再開。今回初めての試みである「茶話会」に移った。女性部の皆さんのご努力で事前に、茶菓子や冷えたお茶を準備頂き、6つのテーブルに分れて楽しい話会となりました。女性部の皆さんがテーブルごとにリーダー役を勤めて頂き、先ずは初めてお会いする方も有り、自己紹介から始まってお顔とお名前を確認し合い、茶菓子を頂きながらにこやかに元気に話は弾んで行きました。僅か30分ばかりの時間でありましたが、大変有効な時間をお過ごしいただき大好評でした。
 
 当日の参加者は 会員の方が43名そして会員外の方が21名の合計64名でした。 茶話会には40名程度の方の参加で大盛況でした。参加の皆さんの元気な笑い声が たくさん聞けて大変良かったです。女性部の皆さんのお力とご協力に心から感謝申し上げます。

 参加された皆さんより、「平田さんと久しぶりにお会いできて本当に良かったです。また大変興味深いお話でした」、「交野には沢山の歴史があることを再確認できました」「茶話会、ふだんお話できない方々と話す機会を設けてくださり、楽しい時間を過ごすことができました。ありがとうございました😊 」と感想を頂き大好評でした。
 また、女性部の皆さんより、「手探りの第一回茶話会、笑顔笑顔で楽しかったですね😊☺️🤭🤩😄😃(笑顔)」「あちこちのテーブルから笑い声や元気な声が聞こえて、皆様が楽しんで過ごされていることを感じました」。「初めての経験でしたが喜んでいただけて嬉しいです。また、一段とみんなの輪がまとまっていったらいいですね。」「準備チームの周到なお仕事と皆様の臨機応変な対応でハプニングも乗り切りグループ会の方も楽しく盛り上がりました!皆様お疲れ様でした😊 」「 6つのテーブルそれぞれでお話が盛り上がって、いろんな方と知り合えて非常に良かったと思います」「女性チームの皆様、各々が洗練された魅力的で実行力のある女性軍団(女性)だと再認識しました🥳🌹 はい これからが楽しみです みんなで素敵なチームに育てていきましょう~」と感想を頂戴し大好評でした。

<講演概要> 「交野のよもやま話」 
              「天野川から開けた文化」
   甘の原  振りかえみれば
          交野山 片野の野に 歴史あり   (読み人知らず)
 
 1.「饒速日の尊は、天神のご命令で、天の磐船に乗り、河内の国の
   河上の哮峰に天下った。さらに大倭の国の鳥見の白庭山にうつった」 
 2.神話では、人は神によって作られる・・・
 3.交野のいわれ
   この地方は、昔から「かたの」と言われていました・・・
 4.交野の地名 長渕・長砂・船戸
 5.交野市の指定・登録文化財
 6.交野市内の古墳一覧表 古墳からのメッセージ
 7.私が選んだ「ふるさと交野ベストⅢ」  

 ※今回、講師の先生のご厚意により当日配布された「レジメ」を
 頂戴しましたこと、記して感謝申し上げます。
  

講師 : 平田 政信氏
 
村田会長の挨拶

 
レジメ :   『交野よもやま話』
  講師 : 講師 : 平田 政信氏
 
甘の原  振りかえみれば
          交野山 片野の野に 歴史あり   (読み人知らず)

「饒速日の尊は、天神のご命令で、天の磐船に乗り、河内の国の河上の哮峰に天下った。さらに大倭の国の鳥見の白庭山にうつった」         (先代旧事本記)

神話では、人は神によって作られる
しかし事実は、人が神を作るのである。古代の人々の作った神々の物語が神話である
そうした物語には、作った古代人の生活が反映している
それゆえ、古代の社会を考えようとするならば、神話は大切な材料となる。
古代でも現代と少しも変わらぬ人間たちがあらわれてくるものであって、交野では饒速日命から発して、その後裔肩野物部―族によってまつられた磐船や、その外交野村々の神社、或いは彼などによって拓かれ営まれた天野川沃野の農耕は、現在まで続いて生きているのである。

<交野のいわれ>
 この地方は、昔から「かたの」と言われていました。
「かたの」の「の」とは、もちろん「野」、すなわち平坦な低地のことであり「かた」は「潟」で、水が差したり引いたりする所という意味です。
 「交野」の名称は、和名類聚抄に「加多乃」と読み、その名称の起源については、丘陵と平地が交迭(かたがた)に存すると言い、また、淀川流域の低地から見ると丘陵上の平地とも見えるので「肩野」と称されたとも言うが、いずれも明らかではない。
 当日、投影・説明された画像集
 
 
 
  〔高貴幸齢者雑記 NO.6 2024.水無月号〕

「この道より我を生かす道なし この道をゆく」 (武者小路実篤)

 という思いで今日までリハビリに励んで来ましたが、少し違った道をゆき、
 転倒しました。5月いっぱい休養となりました。★塩梅・・・あんばい

【くらじかご池】  石つき唄
  「わしの若いとき 津田までかよた 倉治かご池で 夜が明けた」
  ふるさと交野を歩く「ひろい話」 27p参照
  かご池は昭和51年宅地造成されて「フェスト」というレストランに変わった。(現・関西スーパー) それまでは昔から池には菱がいっぱいやった。この池がなぜ「かご池」という地名になったかと聞いてみると、近くで良質の粘土が採集できなかったので、はがね(粘土のフィルムで池の側面を覆うこと)が施されておらず、水位が増すと、かごに入れた水のように良く水が漏れたためにこの名がついたという。
 「石つき唄」は、昔倉治の「若い衆」が晩、津田の女性の宅に遊びに行く事が楽しみやった。時間も遅くなって帰って、ここの堤に来たら交野山の頂に朝日が上りかけていたという歌詞でお嫁入りとか、新築祝には必ず出る祝歌である。

 〽 わしの若いときや 津田までかよた 倉治かご池で夜があけた 
        面白のひょうたんや  おおあげおおあげ  〽

「お前おもえばてる日もくもる さえた月夜もやみとなる」
   柳並木のかご池めぐりゃ 私部、倉治の若い衆が・・・とある
      (交野草子・廣岡昌子著)

 私部→きしゃべ、うれかった、なつかしかった この頃の俺たち、「さしすせそ」の発音が得意でなかった。

「はやし唄」
  ① 今夜来るなら 高い塀を乗り越えて千両つばき お折らんよう
  ② さいたかさいたか西念寺 浮いたか浮いたか雲林寺 松の宝の松宝寺
  ③ いたら見てこい 北田の屋敷 四角四面の良い屋敷(1200坪)

{神社のしくみ}

 二礼二拍手 → 上を見上げる → 金玉 → 男と女のからみ → 賽銭箱(愛情) → 古宮(子宮) → 十月十日 → 参道(産道) → 鳥居(この世に) → 何も持たずに裸で出てくる
 
 持ってくるのは煩悩(108)のみ、四苦八苦しながら暮らしがはじまる

 煩悩(ぼんのう) 人間は百八つの煩悩を持っていると説かれています。
 中でも 特に罪悪を造らせ苦しませる煩悩が三つあると、「慾」「怒り」「愚痴」である。


 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

平田氏の講演会後
茶話会の様子
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

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