<第138回>  令和6年7月定例勉強会
「片町線ができる ~
     京阪電車が開業」

講師 : 堀家 啓男氏 (交野古文化同好会)
青年の家・学びの館 午前10時~12時
 43名(会員34名)の参加
 2024.7.13(土)午前10時、7月定例勉強会に43名の沢山の方々が参加されました。村田会長の挨拶で始まり、講演会は、堀家啓男氏が「片町線ができる ~ 京阪電車が開業」」の演題で2時間弱、交野ヶ原の鉄道の歴史について詳しく解説頂きました。

 今回は、大変身近な「片町線」「交野線」のお話で、参加された皆さんから次から次へと、意見や質問が相次ぎ大変和やかな講演会となりました。

 1.参加されていた高崎さんより、昭和25年に片町線が電化された時に歌われた
  「片町線電化記念歌」(楠 勝三)を披露して頂きました。
 ①.25年12月25日の空晴れて  朝日の輝く星田駅  旗で迎える花電車
 ②.長尾片町40分河内平野を後にして  田んぼ過り町を過ぎ 走る電車の心地よさ
 ③.大きな都大阪と緑の丘の星田村  結ぶ文化の花電車 今日開通だいざ祝え 
 2.京阪バスの運行が減ったりして身近に不便を感じている、みんなで「京阪バス・電車」
   を、もっともっと利用しましょうとの提案。
 3.「東の豊田、西の原田」のこと。勉強会の会場の「青年の家」一帯が
   原田式自動織機工場があったこと。
 4.京阪沿線の淀川を渡る電車がどうして架けられなかったのか?
   ご存知の方は居られませんか?疑問です?などご意見を頂戴し大好評でした。

<講演概要> 「片町線ができる ~ 京阪電車が開業」   
 1.北摂が先行 
 2.片町線が誕生 なぜ四條畷だったか?
 3.淀川蒸気船の活躍  大阪や京都へは蒸気船が
   利用されたが、明治36年を頂点に下降
 4.渋沢栄一が委員長  京阪電鉄(株)が創設
 5.京阪電鉄が開業  大阪天満橋~京都五条間
 6.信貴生駒電鉄が開業  私市と生駒を結ぶ計画は中止
 7.乗客は伸び悩む  菊人形、学校誘致・成田山大阪別院建立
 8.軍需工場への引き込み線 星田~香里

 ※ 講師:堀家啓男氏の略歴のご紹介
       ・枚方市役所の副市長を経て
       ・宿場町枚方を考える会の会長を12年間勤められた
      これまで、古文化同好会の勉強会で2回ご講演をお願いしました   
        ・2013年 「紀州侯の参勤交代と枚方宿」
        ・2019年 「東海道五十七次にまつわるお話」
  今回は、片町線誕生 ~ 京阪電車の開業 に引き続き 
  次回は、「大正天皇が統監 交野ヶ原で大演習」をお願いしています。                 
 ※今回、講師の先生のご厚意により当日配布された「レジメ」を
   頂戴しましたこと、記して感謝申し上げます。
  

講師 : 堀家 啓男氏
 
村田会長の挨拶
 
 
 
 

当日、参加されていた高崎さんより
、昭和25年に片町線が電化された時に歌われた
「片町線 電化記念歌」を披露して頂きました。
1.25年12月25日の空晴れて  朝日の輝く星田駅  旗で迎える花電車
2.長尾片町40分河内平野を後にして  田んぼ過り町を過ぎ  走る電車の心地よさ
3.大きな都大阪と緑の丘の星田村  結ぶ文化の花電車  今日開通だいざ祝え 
 

 レジメ : 一部画像追加編集
  「片町線ができる ~
       京阪電車が開業」

  講師 : 講師 : 堀家 啓男氏
北摂が先行

 京阪間の鉄道は、明治9年(1876)9月、京都、大阪間で初めて淀川右岸、北摂に開通する。後の東海道線である。大阪、神戸間が同7年5月に開業しており、同10年2月、明治天皇の臨幸を得て、三停車場で盛大な開業式が挙行された。鉄道敷設は淀川右岸が先行したのだ。左岸が遅れたのは、敷設されるエリアの交野ケ原が微高地であり、淀川低地は地盤軟弱、狭隘で工事の難航が予想されたからだろう。


片町線の誕生

 明治28年(1895)、片町(東野田3丁目)-四条畷間に民営の浪速鉄道が開通する。生駒山地の山根、東高野街道沿いであった。なぜ四條畷だったのか。
 教育勅語(明治23年)が出され、国民の道徳として忠義が第一とされ、南朝のため四條畷で戦死(墓所が四條畷にあり)した忠臣楠木正行(まさつら 小楠公)を祀る四條畷神社が同23年(1890)、四條畷(甲可村に創建された。大阪の人々が鉄道でこの神社に参拝することを見込んだという。

 同30年(1897)には、浪速鉄道を買収した関西鉄道は四条畷―木津間の工事に着手し、同31年4月、長尾まで、6月には木津間を開通させた。奈良、京都からの集客増を図り、大阪と結ぼうとしたのだ。津田村と菅原村が停留場用地を寄付することを条件に線路を山寄り(山根街道沿い)に変更したそうだ。同40年(1907)、国有化、津田、長尾を走る片町線の誕生である。昭和25年12月、電化。

 片町線は四條畷神社や野崎観音への参拝客や源氏の滝への観光客で賑わった。郡内最初の旧制中学校、「四条畷中学校(現在の府立四條畷高校)」が創立(明治36年 1903)されたのが、郡役所のある枚方ではなく、四條畷神社のある甲可村となったのは、忠君愛国の世情や片町線の便が考慮されたのだろう。
淀川蒸気船の活躍

 淀川左岸、枚方近辺からは、東海道線や、片町線の停留所は遠く、大阪や京都へは相変わらず淀川蒸気船が利用された。

 蒸気船は、慶応4年(1868)にはじめて淀川に登場した。新政府は、明治元年(1868)、人力の三十石船は、偉業に副わず、蒸気船をぜひとも淀川に就航させよと命じた。伏見、大阪間を運行する蒸気船が現れ、はじめは17トン船2隻であった。同9年、蒸気船の着岸地は、伏見、八軒屋間に30か所もあり、枚方付近では三矢村、泥町村の浜2か所であった。上り6時間、下り3時間かかった。同20年頃には、淀川に蒸気船13隻が運航し、同21年、汽船会社が合同、淀川汽船会社を発足させた。
 20年代以降、枚方付近の着岸地は枚方浜だけとなる。鍵屋旅館(現在、「市立枚方宿鍵屋資料館」)も「汽船乗客貨物取扱所」として業務を行った。1隻あたり150人程が定員であった。明治36年(1903)を頂点に蒸気船の運航は下降線をたどり、貨物輸送の曳船業に移行していく。
渋沢栄一が委員長

 明治35年頃、関東、関西の経済人から、京都、大阪間の新しい民鉄の計画が持ち上がる。明治39年(1906)8月、東京市で発起人総会が開催され、男爵渋沢栄一を委員長に準備が進む。
 11月19日には、渋沢を議長として総会を開催、京阪電鉄株式会社が創立され、淀川左岸の鉄道建設計画が動きだす。
京阪電鉄が開業

 新線は、当初、旧京街道筋や、鳥羽街道沿いに敷かれる計画で、実施段階で設計変更のため急カーブが特徴となった。
 当初、大阪、高麗橋東詰めから京都、五条間を予定したが、大阪市が、ビジネスの地、北浜に「市電」を通すことにこだわり、譲歩して京阪電鉄は天満橋を起点とすることにした。計画では「市電」の線路に京阪電車が乗り入れ、梅田まで運行できることとしていた。そのため京阪電鉄は市電型の電車を予定していた。しかし、車両の大きさの違いで乗り入れは実現せず、現在も京阪電車は自社線で梅田にはいけない。
 53年後、昭和38年(1963)、京阪電鉄は大阪ビジネス街の中心、北浜を経て淀屋橋(現在は中之島まで)へ路線延長を行い念願を果たす。一方、大阪市電は自動車交通の混雑緩和のため、昭和43年(1969)に全廃された。

 明治43年(1910)4月15日、予定より半月遅れで京阪電鉄が開業する。大阪、天満橋―京都、五条間、複線46.57キロメートル、30駅、所要時間100分であった。
 枚方地域では枚方(現、枚方公園=昭和24年に改称)、枚方東口(現、枚方市=同)、牧野、樟葉の4駅があった。その後、光善寺駅が参拝者増に合わせ、同年12月に設置された。御殿山駅は昭和4年(1929)矢野橋村の大阪美術学校の開設に合わせ通学生の便のため設置された。
信貴生駒電鉄の開業

 枚方、交野にわたる交野ケ原の南部を東西に横切る鉄道と言えば、京阪交野線であろう。
 大正11年(1922)、信貴生駒電鉄(信貴電)が生まれる。生駒山地を縦断する生駒と私市を結ぶ線も計画された。大阪、京都方面から枚方東口経由で信貴山朝護孫子寺等の沿線の寺社への参拝客を計画であった。しかし、工事の難しさと経費難のため私市、生駒間は実現しなかった。
 (写真①、私市駅前にある生駒へ向けての用地跡)



 昭和4年(1029)7月10日、枚方東口(現、枚方市)-私市間が枚方線として開通する。設置駅は枚方東口、村野、郡津、交野(現、交野市)、私市であった。翌5年10月、河内森駅設置。同10年(1935)12月2日、信貴電磐船駅ができ、高架上にホームを設置する。高架下に片町線の河内磐船駅が同日設置され連絡可能となる。

 同13年4月、信貴電が京阪電鉄傘下の交野電気鉄道として分離、磐船駅が交電磐船駅となる。同年11月、星ケ丘駅設置。同14年3月、禁野火薬庫爆発の被害を受ける。昭和15年(1940)9月、陸軍禁野火薬庫、枚方製造所の従業員通勤の便宜のため、中宮駅(現、宮之阪駅)を設置。利用者が増える。昭和20年5月、戦争遂行の一環で京阪電車に吸収合併される。
 終戦後、同20年9月、輸送混乱防止等のため河内森、郡津駅休止。21年2月、星丘駅設置、郡津駅再開、同23年5月、河内森駅改築復活にともない、立体交差駅であった磐船駅を廃止。乗客の流れが京阪電車に不利だったことによるとのことであった。河内磐船駅近くの住人に聞いたところ、戦前、確かに立体交差上に交電(後に京阪神)磐船駅のホームがあり、枕木を活用した階段があったという。JR河内磐船駅の大阪側隣接地に空き地が残っているが、これが駅の改札があったところだろう。
 (写真②、信貴電磐船駅改札跡と思われる空地)



 現在の乗降客の大半は交電磐船駅があったことさえ知らない。駅が残っておれば、JRへの乗り換えが便利だったろう。交野線は昭和47年、複線化。
淀川の低平地から天野川の谷沿いをさかのぼり生駒山地の高台を目指す交野線について、鉄道ファンから「登山電車」の雰囲気があるといわれる。確かに夕ぐれの中を交野駅と河内森駅間の高所を上っていく電車の姿は美しい。(写真③、信貴電磐船駅跡へ向かう電車)


乗客は伸び悩み

 京阪電鉄開業の朝、野田橋付近で脱線、停電、一時運行不能、風評悪化、営業成績が最悪となる。旅客向上策として、「香里遊園」を寝屋川の友呂岐神社付近(旧聖母女学院付近)に開設、秋に向けて、岐阜で人気があった菊人形を導入する。同年秋に第1回菊人形を開催した。同遊園は大正元年(1912)、枚方、伊加賀(現、枚方市枚方公園町)に移転し、がり、「枚方といえば菊人形」と言われるほどであった。平成17年(2005)菊人形は廃止となったが、「枚方パーク」(通称、「ひらパー」)は若者や家族連れに好評で京阪電車の集客施設として活躍している。

 京阪電鉄は乗客増を図るため、沿線各地の土地開発を行い、住宅地を造成した。また多くの教育機関を沿線に誘致した。

学校誘致
昭和3年(1928)大阪歯科医学専門学校(大阪歯科大学)600人、牧野
土地3千坪寄付、建築費約20万円立替、13年年賦償還
同3年       大阪高等医女子医学専門学校(関西医科大学)600人、牧野
  土地1万5千坪寄付
         同付属病院30万円を限度に融資、土地1万5千坪、500人
同4年(1929)大阪美術学校、昭和19年、軍に接収される。500人、御殿山
土地4千800坪無償貸与、駅新設
成田山大阪別院建立 昭和5年11月完成、開眼供養
土地5千坪以内寄付、仮殿堂建立費5万円以内を寄付等
軍需工場への引き込み線

 昭和11年(1936)片町線の津田駅から専用引き込み線が禁野火薬庫、及び分岐の枚方製造所へ交野ケ原中部を横切る。専用鉄道と呼んだ。
 また昭和16年(19419月には、星田駅から香里製造所(東京第2陸軍造兵廠宇治製造所香里工場、後に独立し香里製造所)へ軍用の鉄道引き込み線ができ、香里側線と呼んだ。交野ケ原南西部を横切った。昭和23年全面撤去。軍需工場がある交野ケ原ならではの特徴である。
(写真④、星田駅近くに残る香里側線跡の道路)

(参考図書)
「枚方市史」第4巻 「朝日新聞記事集成」第4集 枚方市
 「鉄路五十年」京阪電鉄  「淀川百年史」建設省近畿地方建設局
「交野町史改訂増補二」交野町) 「京阪」天夢人、山と渓谷社

参考写真・資料



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