<第145回>  令和7年5月定例勉強会
京(みやこ)の魔界・怨霊伝説

講師:吉岡 一秋氏
(交野古文化同好会)
青年の家・学びの館 午前10時~12時
 40名(会員36名)の参加
 2025.5.24(土)午前10時、5月定例勉強会に40名が参加されました。
 巽会長の挨拶で始まり、講演会は、講師の吉岡一秋氏が「京(みやこ)の魔界・怨霊伝説」の演題で「平安京の葬送の地・鳥辺野のことから始まり、化野など風葬や刑場(仕置き場)、冤罪のこと、怨霊伝説・上御霊神社の祟道天皇、白峯神社の大魔王・崇徳上皇について」 約2時間弱、白板に登場人物などを手書きされ、京の都のオドロオドロしいお話を熱く語って頂きました。

  参加された方から、
①「これまで、京都の怨霊伝説は聞いたことがありましたが、知らないことも多く、参考になり大変楽しかったです。」
②「大学の先生のお話を聞いているようで、少し難しかったですが、特に、崇徳院の魔王のことは、当時の院政のことなどや、出自に関わる人間の憎悪など凄みを感じました。」
③「沢山の資料を読みこなされ、分かりやすく、当時の天皇などの登場人物を白板に流れるように書かれて、臨場感あふれるお話しぶりに聞き入りました。本当にありがとうございました。」とご好評を頂戴しました。

  <講演概要>
   
京(みやこ)の魔界・怨霊伝説

1.はじめに  京の魔界とは?
2.葬送の地 鳥辺野・蓮台野・化野ほか
3.刑場(仕置き場) 粟田口刑場・西土手刑場

4.怨霊 
  ①上御霊神社の祟道天皇など
  ②白峯神社の
大魔王・崇徳上皇

 ※今回、講師の吉岡一秋先生のご厚意により当日配布された「レジメ」を
頂戴しましたこと、記して感謝申し上げます。
  

 ホームページの掲載するにあたり、当日配布されたレジメは、格式ばった
もので少しわかり難い処もあり、当日、お話しされた内容に沿って、時系列に
改めて作成していただきました。
感謝申し上げます。

講師 : 吉岡 一秋氏
 
 

 京(みやこ)の魔界・怨霊伝説
講師 : 吉岡 一秋氏
 (交野古文化同好会)
京(みやこ)の魔界・怨霊伝説 (PDF)
〇はじめに

 今から千年以上昔、幾つもの京(みやこ:天子が・・・)が存在していた頃、現在のように科学や医学が発展していない中で、人々は天変地異や疫病の流行などの自然災害の脅威に対し、神の怒りか悪魔のせいだ、はたまた非業の死をとげた人たちの怨霊のせいだと噂され、いつしか信じられるようになった。
 千年の京、平安京。794年桓武天皇は、平安な都であってほしい、いつまでも平安な時代が続くようにと、「平安京」と命名。



 果たしてそうであったか、歴史を振り返ると、権力争いの戦いの繰り返し。
 天皇の皇位継承をめぐる争い、源平の戦い、応仁の乱、幕末にも鳥羽伏見の戦いなどいろんな戦いが繰り広げられた。
 それらに敗れて非業の死を遂げていった人たちは、どのような思いで死んでいったか。また関係のない多くの庶民が戦火に巻き込まれ、家を焼かれ、命まで落とし、無念の死を遂げた人々。

 そのほかにも、天変地異や飢饉、疫病などでどれほど多くの人たちが亡くなっていったか。京の都では今なお、それら多くの魂が成仏できずに彷徨っているかもしれない。いつの世も都には人が押し寄せるもので、平安京でも造成と同時に人が爆発的に増えたと言われた。記録によると当時10万人とも。
 その多くは庶民で、皇族や貴族らの特権階級はほんの一握りとのことである。
 命あるものは、時を経れば何れは終焉を迎える。
 そんな都では、大きな問題があった。それは、天災、飢饉、疫病が都を襲い、屍が都のそこかしこに氾濫していたという。それらの遺体をどのように処理するかである。
 かつての日本では、土葬が主流であった。死後に火葬する習慣が一般的になったのは、江戸後期から明治初期と言われている。
 土葬にできたのは皇族や貴族など身分の高い人々のみ。
 都を清浄な空間として保つためには、貧しい庶民は遺体を野ざらしの状態で放置する風葬が一般的であった。
 自然に葬送の地は、都内で遺体を埋葬することが難しかったことから、都の外へと広がっていくが、あまり遠隔地では用をなさず、都からそう遠くない場所が選ばれた。   

1.鳥辺野
 
 その中でも葬送地として一番規模の大きかったのが、東山の鳥辺野(とりべの)であった。今も鳥辺野の入口を示す「六道の辻」の石碑が立ち、歴史の一端をかい間見せてくれる。六道珍皇寺の前に一つ、そして松原通りを挟んで少し東南にもう一つ、石碑が立つ。この辻を境に南は「あの世」(鳥辺野)で、北は「この世」というわけである
 鎌倉時代末期の随筆家、吉田兼好は『徒然草』第七段で「あだし野の露きゆる時なく、鳥辺山の烟たちさらでのみ住みはつるならひならば、・・」
 鳥辺山とは鳥辺野のことで、兼好は人の命、死について論じているが、鳥辺野から火葬の煙が消え去らない、何とも儚い無情の眺めである。

 
    
◇六道珍皇寺 
 六道珍皇寺には冥界への入口が。生きながらにして冥界へ通じていた男。平安時代前期の官僚であり、頭脳明晰の学者・小野篁(おののたかむら)である。

 また、市内北部の船岡山西側の「蓮台野(紫野)」や、化野(あだしの)の二か所を合わせ、京都の三大葬送地と呼ばれている。



2.蓮台野  
 蓮台野も平安時代初めは風葬の地であり、無縁仏の遺骨が散在していたと言われている。
「蓮台に乗って極楽浄土に往生する野」との意味から、火葬地や墓地のことを指す。地名となっているところが多く、特に京都の船岡山西麓から紙屋川にいたる一帯は、平安時代より京都の野とともに墓葬地として知られた。
 京都の蓮台野の近くには、上品蓮台寺や、後冷泉天皇や近衛天皇を火葬した火葬塚などがある。墓葬地であったため、無常を感じさせる地として、古来、説話や歌などにも詠まれることが多い。

3.化野 
 京都の嵯峨の奥にある小倉山の麓の野である。京都市右京区嵯峨鳥居本化野町にその地名が残っているが、古くは山城国葛野(かどの)郡嵯峨といい,かつては風葬の地,近世は鳥辺山とともに火葬場として知られた。 化野の名は「無常の野」の意で、人の世のはかなさの象徴としても用いられた。その霊を弔う寺として化野念仏寺がある。 

    

4.その他
その他にも、華頂山、洛西の「西院河原(さいのかわら)」の2か所があった。
 ただし、洛南に葬場を定めなかったのは、風水の考え方として南は玄関の方位であり、そのような場所に遺体を置くことは嫌ったものと思われる。
 西院河原については、「さいん」「さい」と呼ばれ、かつてこの一帯には無数の川が流れ、そこに死者の亡骸を流したことから、「西院河原(さいのかわら)」と呼ばれた。

このように風葬は、この時代にとって実に合理的な方法ではある。
時の権力者(特権階級の人々)の身勝手な事で、自分たちは土葬で弔いもしてもらえるのに、多くの庶民たちは野ざらしという「人の尊厳」もない、なんと哀れなものではないだろうか。
なお、京の七野は、天皇や貴族の狩場、別荘地となっていたとあるが、風葬地の感もする。



◎ 刑場(仕置き場)
 人は罪を犯せば罰を受けなければならない。
 罪によっては死をもってつぐなわねばならない人もいる。
今と違って昔は、市中引き回しのうえ、磔、獄門のように、公開処刑であった。
悪いことをすれば、こうなると人々にみせしめる必要があったのである。
その為の刑場が全国的に作られたのが江戸時代であった。
 戦国乱世が終わり、世の中が天下泰平となってくると、江戸や大坂などの大都会には、職を求めいろんな多くの人々が押し寄せてくる。
 特に18世紀初期の江戸の人口は、100万人以上といわれ、無宿者、浪人達も多く、当然犯罪も増えてくる。   (ロンドン86万、パリ54万)

 その驚くべきは、刑場の露と消えた人の数である。
 江戸では、鈴ヶ森、小塚原、大和田の刑場が有名で、年間それぞれ数百人ともいわれ、江戸年間250年として、なんと40万人が処刑されたことになる。
 ここ大坂でも、当時40万人の大都会で、唯一の刑場、千日前では、毎年数百人が処刑されたと。その数十数万人。

さて、京都でも現在残っているのが、粟田口刑場跡。
1.粟田口刑場  
 京の七口の一つ、「粟田口」は東海道の山科から京都への入口にあたり,古くから街道の要所として発達したところ。京の七口においても交通量が多く軍事上、重要視されるところである。その重要視される場所ということで、治安維持の見せしめのために刑場が置かれた。刑場は言うならば一罰百戒の見せしめの場。
 粟田口刑場は江戸時代より前から存在し、江戸時代には毎年3回この地で処刑が公開され、明治維新までに約15,000人の人が処刑されたと言われている。なぜ15000人という数字が出てくるかというと、刑死者の供養として、京都の各宗派寺院が1000人ごとに供養碑を建てたのだが、その数が明治までに15基建ったとのこと。しかし、これらの供養塔は明治の廃仏毀釈によって撤去され、石材として転用され殆どが失われてしまっている。
 さて、「蹴上」の由来であるが、処刑を拒む受刑者を蹴り上げながら無理やり御仕置場(処刑場)まで連れて行ったことから、この「蹴上」という名前が付いたという言われである。

     

 

2.西土手刑場 
 JR嵯峨野線・円町駅がある、西ノ京円町(えんまち)あたりには、平安時代「右獄」という牢屋があった。丸太町通りの北側。
 「円」という字は、もともと「圓」という字で、口(かこい)+員(多くの人)から、人々を囲っておくところ、つまり「牢屋」を表したということ。だから「円町」って呼ばれるようになったのである。
 円町付近には江戸時代に京都の西の死刑場(御仕置場)として「西土手刑場」と呼ばれる処刑場があった。そのときの「牢屋」は千本六角近くにあり「六角獄舎」と呼ばれていた。

 問題は、冤罪者の数である。
今ほど犯罪捜査の手法が充実していない。江戸時代の犯罪捜査で重要なものは、犯人の自供であった。
 江戸時代の冤罪率を試算した数値がある。処刑された人のうち冤罪者は、40%だという。 100人のうち40人は無実であったことになる。
 なぜ冤罪者がこれほど多いのか。それは、犯罪捜査の「自供」を得るために、容疑者に拷問をしたことによるものが大きい。
 過酷な拷問にあった人たちは、その場を楽になりたいがために、やってもいない罪を認め刑に服したのである。そして、無実の罪で無念のうちに残忍な方法で殺されてしまったのである。
 陥れた者や拷問などで無理やり白状さされ、死に追いやった者に対する恨みは、決してこの世から消えるものではない。
必ずこの世に残り、何らかの形で仇をなしてきたのではないかと思う。それが怨霊という名の下ではなくとも。

◎怨霊
1.上御霊神社の祟りとされた人々 

 いつも人影はまばらであるが、京都では歴史的に貴重な社である。
 応仁元年(1467年)1月18日、畠山政長と畠山義就との跡目相続に端を発した応仁の乱はこの神社の森から始まったのである。
 この社に祭神として祀られているのは、崇道天皇、井上皇后、他戸親王と、いわゆる祟りとされた人々である。
 崇道天皇とは諡号(しごう)であって、早良親王のこと。
 長岡京遷都の翌年におこった、桓武天皇側近の藤原種継暗殺事件に実弟の早良親王が関与していると嫌疑をかけられ、無実潔白を訴えたものの長岡京の乙訓寺に幽閉されたのち、淡路島へ配流される途中に死亡。



 その後、桓武天皇の周辺に良からぬことが度重なり起った。これが早良親王の祟りとされた。洛北上高野には崇道神社があり、早良親王が祀られている。



○悲劇の井上内親王、他部親王
 しかし、注目すべきは井上(いかみ)皇后と他戸(おさべ)親王である。
 光仁天皇即位後、井上内親王を皇后に、他戸親王を皇太子に立てるが、藤原百川の策謀により天武系であった井上内親王が呪詛による大逆を図ったという密告のために皇后を廃され、続いて皇太子の他戸親王も皇太子を廃された。
 さらにその後再度の冤罪で、井上皇后と他戸皇太子は大和国宇智郡(現奈良県五條市)の邸に幽閉され、同じ日に共に亡くなった。
 山部親王(桓武天皇)が即位するさいに邪魔になり何者かに暗殺されている。
 桓武天皇の長岡京遷都は既に井上皇后と他戸親王の怨霊によって呪われていたのかも知れない。

2.白峯神宮の大魔王・崇徳上皇の怨霊  

 京都御所から、今出川通りを西に約700mいった所に鎮座する白峯神宮は、蹴鞠、和歌の宗家飛鳥井家の邸宅跡で、現在はサッカーをはじめとする球技全般とスポーツの守護神として有名なところ。
 ところが実は、祭神として崇徳天皇、淳仁天皇が祭られている。


 
 1868年、明治天皇が孝明天皇の意思を受け継ぎ、讃岐の地から崇徳天皇をまた、6年後には淡路の地から淳仁天皇の神霊を皇室鎮護の神として創建された。
 なお白峯の名の由来は、崇徳天皇の御陵が、「白峯御陵」であったこと。
歌の世界でも有名で、百人一首のも詠まれており、古典落語にも登場する崇徳院。
 その崇徳院がなぜ大魔王と言われる怨霊伝説になったのか。

キーワードは二つ。  一つは院政、今一つは崇徳院の出自

 先ず院政とは、また誰がいつ何のために作ったものか。
 院政とは位を譲って上皇、法皇となってからも政治の実権を握って院庁で行った政治。1086年に白河上皇が行ったのが最初。鳥羽、後白河と三代続き、院政期ともいう。きっかけとなったのは、後冷泉天皇から腹違い弟、後三条天皇に皇位継承がなされたことによる。これにより、約100年間続いた、摂関政治を終わらせ、藤原氏を失脚させた。



 1086年、白河天皇は、天皇の位を幼い堀河天皇に譲り、上皇となり政治の表舞台には立たず、裏から天皇や政治全体を管理していた。「治天の君」
 堀河天皇は若くしての崩御に伴い、幼帝(鳥羽天皇 4歳)の再出現。
 引き続き院政を続ける
 白河上皇は、鳥羽天皇20歳の時、鳥羽の第一王子の崇徳院に譲位をさせ、4歳の崇徳天皇が誕生した。
 よって鳥羽は上皇となるが、実権は白河上皇にあり、実権のない上皇であった。
 1129年、白河法皇が崩御すると、鳥羽上皇は、念願の「治天の君」となり院政を開始する。
 1141年、崇徳天皇23歳の時、父(鳥羽上皇)のすすめで、上皇となる。新しい天皇には、息子の重仁親王が選ばれ、崇徳上皇の院政が始まるはずだった。
 ところが鳥羽はこれを許さず、そのまま権力の座に居座り続け、腹違いの弟、3歳の近衛を天皇として即位させた。
 その後も鳥羽上皇は、巨大な権力を離そうとはしなかったため、崇徳上皇は実権のない上皇として、チャンスを待った。
 事態が大きく動いたのが、14年後の1155年、近衛天皇17歳で崩御。
 そのため、後継者を選ぶ必要があった。ついに崇徳上皇にチャンスがやってきた。
 が、またしても鳥羽は権力を譲らず即位したのは、実の弟の後白河天皇であった。
 これによって、皇位は後白河天皇の子孫が継承していくのであって、崇徳上皇の子孫は皇位から外されてしまったのである。(後白河~二条~六条)
 ※崇徳上皇にとっては、この上ない侮辱であり、激しく憤ったと思われる。

 ではなぜこれまで鳥羽は崇徳をいじめぬいたのか。(嫌ったのか)
 当時宮廷で実しやかに囁かれたのが、崇徳上皇の実の父親は、白河法皇と。
それを信じた鳥羽は崇徳を嫌うようになったと言う。
 では、誰が噂をながしたのか。崇徳上皇の失脚を望む者。(後白河派の公家とも)
 1156年、27年間権力の座にあった鳥羽法皇崩御。53歳
 その時都に、崇徳上皇らが謀反の疑いありとの噂が流れる。後白河派の仕掛けた挑発だった。
 1156年7月9日、崇徳上皇はついに決断を下し、翌日兵を集め武力に。
しかし結果は、後白河軍の奇襲にあい、4時間ほどで降伏。崇徳上皇は讃岐の国に流罪となった。(保元の乱)
 失意の崇徳はそれでも謹慎、せめて写経だけでも京の都に納めたいと大乗経の写経を送ったものの、朝廷は受けず突き返してきた。
 あまりの冷たい仕打ちに崇徳は怒り震え自らの舌を噛み、流れた血で「我は日本国の大魔王となり、永久に皇室を呪詛するであろう」と書き誓い、爪も髪も切らず生きながら天狗のような恐ろしい姿となって憤死した。

 崇徳の死後、京の都では2度も大火が、また後白河の皇子、二条天皇は23歳で早世、平清盛が天皇をしのぐ権力を有したのも、崇徳の祟と恐れられた。

 保元の乱により武家社会か始まり、大政奉還により朝廷に返された。二度とこのようなことがないように、明治天皇は即位の礼をするにあたり、先帝の意思を受け継がれ、讃岐から崇徳天皇を祭神として白峯神宮に奉遷されたのである。
 皇室は700年後の明治まで、この祟りを真剣に恐れていたのではないか。


ただ崇徳院が「院政」にこだわらなければ、事件は起こらなかったかも知れない。
そこには、第一王子(長男)としての矜持があったのではないか。 (了)



最後までご覧いただき有難うございました

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