<第146回> 令和7年6月定例勉強会 各地の暮らしと習慣 フェノロジーカレンダー5・6月茶話会② 講師:廣岡昌子氏(交野古文化同好会) 青年の家・学びの館 午前10時~12時 (会員31名)の参加 |
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2025.6.14(土)午前10時、6月定例勉強会に31名が参加されました。 盛岡企画部長の司会で始まり、巽会長の挨拶のあと、講演会は、講師の廣岡昌子氏が「各地の暮らしと習慣 =フェンロジーカレンダー5・6月=」の演題で 約1時間弱、「5月・6月の季節の行事の起源や由来・エピソードなど、あれこれ」について、交野の風俗や習慣を交えながらパワーポイントを映写しながら手際よく熱く語って頂きました。 この後は、後半の茶話会で各地区に分かれて、交野だけでなく他の地域の行事のことなども話し合いましょうと締めくくられました。 後半の部は11時過ぎ再開。昨年の6月・12月に続いて、3回目の「茶話会」に移った。女性部の皆さんのご努力で事前に、茶菓子やお茶を準備頂き、星田、私部、私市・森・寺、郡津、倉治の5つのテーブルに分れて楽しい話し会となりました。 ![]() 各テーブルには、事前にお願いしたリーダー役、女性部の皆さんにはテーブルごとに進行役・記録役を勤めて頂き、茶菓子を頂きながらにこやかに元気に話は弾んで行きました。 11時45分、各地区のリーダーによる纏めの発表会に移り、それぞれに盛り上がった内容等が披露され、短時間ではありましたが、有効な時間をお過ごしいただけたようで大好評でした。 参加の皆さんの元気な笑い声やにこやかな話し合いが出来たこと、大変良かったです。女性部の皆さんのお力とご協力に心から感謝申し上げます。 皆様お疲れ様でした! 「 5つのテーブルそれぞれで、5月・6月の行事の話が盛り上がって、いろんな方と知り合えて、大変興味深い話など非常に良かったと思います」「これからが益々楽しみです。みんなで素敵な同好会に育てていきましょう~」と感想を頂戴し大好評でした。 <講演概要> 各地の暮らしと習慣 5・6月の行事について 1.5月1日、2日 八十八夜 2.端午の節句(5月5日) 1/2 3.端午の節句(5月5日) 2/2 4.磐船神社 春季大祭(5月5日) 5.花祭(灌仏会)5月8日 6.八日び(野崎観音参り)5/8 7.上人さん(御回在)5/14 7.稲荷講 住吉神社 8.母の日・父の日 9.星田・慈光寺 観音祭り5/25 10.蛍狩り 11.田植えの準備(川ざらえなど) 12.夏越の大祓 6/30 13.半夏生 住吉神社 ※今回、講師の廣岡昌子先生のご厚意により当日配布された「レジメ」を 頂戴しましたこと、記して感謝申し上げます。 |
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![]() 講師:廣岡昌子氏(交野古文化同好会) |
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![]() 巽会長の挨拶 |
![]() 司会は、盛岡部長 |
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各地の暮らしと習慣 レジメ フェノロジーカレンダー5・6月茶話会 講師 : 廣岡 昌子氏 |
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立春から数えて88日目で今年は5月1日。「八十八夜の別れ霜」と言われ、立夏(5日)が近く「蛙鳴き始む」と言われ、気候が落ち着き農家が田植の用意をする目安。お茶の新芽摘みに最適な時期。八は末広がりで八十八は重ねて書くと米で米寿となり八十八夜のお茶は縁起が良く不老長寿の願いが込められた。 ~星田地区は農家が多かったので、各家庭で飲む分はお茶の木を栽培されており、子供も「茶摘み」にかりだされ、摘んだ新芽は『中井製茶場』で1、2番茶まで製茶され、その後は各家庭で茎葉を大きな窯で蒸し天日にさらし”番茶“とされていた。~ |
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これは奈良時代に中国から入った陰陽道の五節句の一つ。何故5月5日かと言うと端午の午は旧暦の5月。端午の端は「はし」=「始め」の意味で5日。又一説には中国の紀元前4Cの春秋戦国時代の楚の政治家で詩人の屈原が、彼が仕える楚の懐王が秦の策略で殺され、屈原は左遷された。彼は「楚辞」に「世を挙げて皆濁れるに吾独り清めり衆人皆酔えるに吾独り醒めたり是を以て放たる」と詠い、国の将来に絶望して5月5日(端午)べきら江に入水自殺した。 これが端午の節句の由来と言う説もある。(「漁夫の辞」もある)。皆は彼を救おうとすぐに船を出し探索した。これが現代のドラゴンボート(龍船競艇)の起源。又人々は彼の死を惜しみ命日には川に供養にお餅を流したが、屈原の霊が供養の餅は魔除けに棟樹(レンジュ=せんだん・白檀)の葉で包み、五色の糸で結んで流してほしいと言い、そうしたのが粽の始まりと言う。日本では茅(ちがや)で巻いた ので「ちがや巻き」→「ちがまき」→「ちまき」となった。 ★鯉のぼりの起源 将軍にお世継ぎができると城中に幟を立て槍や武具を飾って祝った。これが武家家庭にも広まり、男児の健やかな成長を願った。幟が鯉のぼりとなる。何故鯉かと言うと、中国の故事の「鯉竜門を登りて龍となる」にちなんでいる。鯉が紙で作られるようになり、急に庶民にも広がった。武家は家の中で兜や鎧も飾った。(虫干しの為でもあったという)鯉のぼりに関しては主に関東に広まった。(「東都歳時記」) |
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★平安時代には薬玉 薬草で香りのよい蓬や菖蒲などを切って錦の布で包み、五色の糸で飾ったものを作り人に贈ったり魔除けとして部屋に飾ったりした。(源氏物語や枕草子)。(折り紙) ★「軒菖蒲」 魔除け、無病息災祈願として、菖蒲と蓬をくくり屋根に置いたり、軒や玄関に吊した。~星田でも最近まで行われていた。 ★「菖蒲湯」 菖蒲湯も奈良時代に中国から伝来した端午の節句の風習の一つ。雨季の始まりで疫病が流行りやすいので、邪気払いと無病息災を願い菖蒲湯につかる。血行促進作用があると言われ、今に受け継がれている。又、早乙女は5月のお田植をする時に菖蒲で身を清めたという。 ★鎌倉~江戸時代 この時代になると屈原の忠君愛国の情が武士社会に受け、菖蒲は尚武、勝風、勝負と掛けられ、葉が剱の形に似ていることもあり、縁起が良いとされ、菖蒲湯に浸かり心身を清め、武運を祈願した。これは町人たちにも広まり、家族全員で菖蒲湯に浸かり無病息災、厄除けを祈願したらしい。 ★日本の「こどもの日」と「世界こどもの日」(Universal Children’s Day) 日本では世界でも早く、昭和23年、戦後すぐに「国民の祝日に関する法律」で「子供の人格を重んじ、子供の幸福を計ると共に、母に感謝する」日として5月5日を当て、切手が発行され。「世界こどもの日」は1954年(昭和28年)国際連合が「子供たちの相互理解と福祉を増進させる事」を目的として制定した記念日。毎年11月20日。 |
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磐船神社は「河内国河上哮ケ峯」(先代旧事本紀)と呼ばれている。 御祭神の饒速日命が天照大御神の詔により天孫降臨された大切な記念の地である。巨石奇岩の岩屋は古来より神道家や修験者の行場で、護摩焚きも神官と行者で行われており、長く社僧が居られたが、明治時代の神仏分離により、神官のみにて行うようになった。 社殿が災害で流され、長く寂びれていたが、今の西角宮司様の祖父様が田原の住吉神社の宮司様の協力のもと復興され、親子三代にわたり守っておられる。 護摩焚きは今も神官のみで行われる。子供の無事な成長を願い、家族安寧子孫繁栄を願い、護摩木を炎に入れて燃やしながら、人々の穢れを炎で清め、そこに書かれた人々の祈願成就を炎で天に届ける行事である。 |
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お釈迦様の誕生日を祝う仏教行事で子供の健康と成長を願う。お釈迦様が誕生された時に天の神々が甘露の水を祝福として注がれたと言う伝説に由来して、甘茶を誕生仏にかける。 ~星田の光林寺は花の多い5月8日に行う。檀家の人々が花を持ち寄り、花の櫓を作り、お釈迦様の誕生仏に甘茶をかけ、参加者にも振舞われる。 |
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「野崎さんの八日(ようかび)」と親しみ、1日から8日まで、交野からも、特に星田からは多くの村人が参った。8世紀に行基が十一面観音像を刻み開山された。 参道の出店が賑やかで、高野街道の道筋は菜の花盛り。寝屋川を舟で行く人と土手を歩く人が悪口や駆け言葉で遊んだという。平安時代に江口の君が再興した記念の「江口の堂」もあり、婦人病にご利益があると今に至る。 浄瑠璃の「新版歌祭文」はお染久松の心中物で野崎村の段が有名。「野崎小唄」などでも親しまれ、各家は竿の先にだんごつつじの花と若松などを括り付け庭先に飾って祝った。寺や私市には野崎講があり講の人が「むねんぎょ」と書いた袋を持って回ってきて、村人はお米やお賽銭などを入れて寄進した。 星田薬師堂でも特に5月8日には「お薬師っさんの日」と言って、畑堂(ハタンド)と呼ぶ薬師堂前の広場で縁日が有り、多くの店がでた。薬師如来立像・千体仏は交野市で文化財保管されており、地蔵菩薩座像は薬師堂に安置。現在の薬師堂は老朽化で荒廃し、近隣に迷惑とのことで持ち主の知恩院と交野市間で折衝中。 以前は5月8月に法要されており、世話方も60名ほどおられた。畑堂の呼び名は妙見宮の灯籠の天保11年(1840)にも刻まれている。 |
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融通念仏宗は延暦寺の僧・良忍上人が1127年に鳥羽上皇の勅願で開創された。「回在」は1618年頃から始まり、今に至っている。 河内地区には5月に融通念仏宗の「ご回在」があり、「上人さん」の愛称で呼ばれている。 大阪市平野区にある本山「大念仏寺」より紫衣の唱導師、黄衣の目代、黒衣の僧中4名、鉦撞き,御本尊担ぎ、お札配布、奉仕員3名、地元世話人6名が檀信徒の家々を回り、先祖の供養と家内安全,除災与楽を願い、身体堅固を祈祷される。 倉治の光明院では、「お掛かり」はその家でご本尊(十一尊天得阿弥陀如来)の掛軸を御開帳し、唱導師、目代、僧中4名でお勤めし、奉仕員3名、地元6名もお供する。 「たてこう」はご本尊を御開帳せず、僧中2名でお勤めし、奉仕員3名、地元世話人で家々を回る。檀信徒は以前は200軒以上おられたが現在は153軒ほどになり、お掛かりは15軒程である。 檀家は各家の仏壇前にご回在のために位牌、御膳、過去帳、仏花、餅、等をしつらえ、ご一行が鉦(かね)を打ち鳴らされる音が響くと、それが「もうすぐ我が家に、、、、。」の合図となり、『十一尊天得阿弥陀如来』様がお越しになるのを今か今かと待たれると言う。 ~私市の「松宝寺」も同じく「ご回在」をしている。 |
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私部の住吉神社境内にある稲荷社の稲荷講は古くからある講だが、今迄5月に行われたが、最近4月と10月の第4週目の日曜日に行うと決まった。稲荷社に赤飯、油揚げ等を供え、五穀豊穣と家内安全の祈願を行う。春には参加者にお札と神饌が授与され、秋は絵馬と神饌授与及び抽選会もある。講中は5年前までは180軒はあったが、年々少なくなってきている。私部の稲荷社の御祭神は保食神(ウケモチノカミ)で食物の神様。宇迦之御魂神(ウカノミタマノカミ)と同一神とされる。 稲荷神社は全国に約3万社あるとされている。総本社は伏見稲荷大社。宇迦之御魂神を祀る。宇迦は「ウケ」(食物)の古語で穀物と農業の神様。「稲が生る」→「いなり」の神と呼ばれたが、菅原道真が「稲荷」の字を当てられそれが定着して「稲荷神社」となった。その神使眷属がお狐である。何故狐かと言うと狐は稲を荒らすネズミを退治してくれ又、尻尾が稲と似ているかららしい。 そのうちに賢い狐が勢力を持ち、人々は「稲荷神」=「きつね」と考え、次第に商業の守り神にもなる。農業から商業へ、農民だけでなく商人にも信仰され今に至る。 ~星田の高岡山の高岡稲荷の講は今、消滅しかけている。高齢化で後継者がいないためである。 ~狐に騙された話は交野にも日本国中にも多くある。つい最近はこっくりさんも子供間に流行っていた。 |
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~~母のアンは牧師の娘で、夫ジャービスとの間に13人の子供がいたが育ったのは4人だけ。この1800年代は麻疹、腸チフスなどで多くの子供が死んでた。彼女は劣悪な保健衛生状態を改善し、病気や乳児死亡率を減らすために「母の日労働クラブ」(Mother’s
Day Work Club)を立ち上げ、医薬品を配り貧しい家族を支援し教育し、生活改善に尽くす。日曜学校の教師を続け、南北戦争(1861-65)では南軍であったが敵味方なく負傷兵の看護を続けた。アメリカの女性と母親の地位向上の先駈けになる。アンは花が枯れても散らさずに茎が何時までも抱いているのが母の愛の姿だと、カーネーションが好きだったらしい~~。 アンナは自分が提案した「母の日」が花や贈り物で商業化していく事を非常に嫌い、商業化反対運動をして、生涯清貧に甘んじ、1948年施設で84才の生涯を閉じる。 古代ギリシャから母の日はある。神々の母リーアに感謝する春祭り。 1600年頃の英国では「Mothering Sunday]があり、イースターの3週間前の日曜日に出稼ぎに来ている人を母と過ごさせるために里帰りさせる。家族で母に感謝しラッパ水仙を贈りシムネルケーキを食べて祝う。 |
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慈母観世音菩薩前にて祈願法要を行う。観世音菩薩とは世の中の音を観られる、即ち私達の苦しみや悲しみの声(音)を全て聞い(観)て手を差し伸べて救って下さる菩薩様。 法要の後はコーラスや尺八の演奏もあり、楽しくみんなで歌い親睦を深める。 |
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一昔前までは蛍は6月には交野の何処にでもいた。 夕方になると幻想的なほのかな光を点滅させて頼りなげに飛んでいた。子供たちは枯れた菜種の枝と虫籠を持って、浴衣姿の親と「ほ、ほ、蛍来い~」と歌いながら、あの畔この畔と蛍を追った。家に帰れば蚊帳の中に蛍を放し共に寝て、自分も蛍になった夢を見た。田の消滅とともに蛍が消えて久しい。農薬の使用で減り、田の減少で減り、ヤゴから育てないと見られなくなった。日本独特の風物詩がまた一つ消えた。 ~☆星田地区では南星台の方が奉仕で傍示川を清掃しヤゴを育て蛍を育んでこられた。渓谷に飛び交う蛍はなんとも幻想的であります。一度大水ですべてが流されましたが、又復興して下さっています。 「もの思へば 澤の蛍もわが身より あくがれ出づる 魂かとぞ見る」 和泉式部 「思あれば 袖に蛍をつつみても いはばやものを とふ人はなし」 寂蓮法師 |
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写真左は森の新川 ★川ざらえ・溝さらえ 各地で日は異なるが5月に男衆が出て、川や溝の雑草を抜き、溜まった泥やごみをさらえ、土手の草を刈り、雨季と田植に備えた。今も続いている。 ~星田ではこれに参加しないと罰金を払わされた。 ★農繁期の「田植休み」 農家の忙しい6月に数日間、子供も田植や家事を手伝えるように学校が休校になった。秋には「稲刈り休み」があった。昭和30年中頃まではあったように思うが、農業の機械化が進み、やがてこの休校はなくなった ★田植の用意 (4月中に稲の種籾を撒いて苗を箱で育てる)。 ①田起し:トラクターなどで田を掘り起しよく混ぜる作業。 ②基肥(もとひ):田起しの時に、肥料をまいて土と混ぜ合わせる作業。 ③水入れ:田に水を入れて水田にする作業。 ④畔塗り:水が漏れないように畔に泥を上げて鍬で塗り固める作業。 ⑤代搔き:水が入った田圃を耕して土を細かく砕き、水深を一定にする。 (昔は牛に長い板を引かせて行っていた。) ⑥植え付け:育苗箱で育てた苗を田んぼに植え付ける作業。(女性が中心の 植子さんがモンペ、カスリ姿で田植を手伝い、お昼は畔でおにぎり等を食べ るのが風物詩であった。) ⑦その後は植え付け休み:ご馳走を食べ、休息し、温泉旅行などに行かれた。 |
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一年の半分が過ぎた6月30日に行われる祓いの神事。 日本人の伝統的な考え方である「自らの心身の穢れや災厄の原因となる諸々の罪・過ちを祓い清める」為に、心を和やかにして平和を祈りつつ茅の輪をくぐる。 ~~茅の輪の由来は旅をしていた素戔嗚尊が一夜の宿を裕福な巨旦将来に頼むが断られ、貧乏な兄の蘇民将来が快く泊めてもてなしてくれた。尊はそのお礼に「これを腰につけておれば疫病から免れる」と茅の輪を授けた。その後疫病が流行し蘇民将来の家族は茅の輪を付けていて助かり、巨旦将来の一族は滅んだという。 この故事から魔除けに茅の輪を腰に付けるようになり、それが茅の輪くぐりに発展していった。奈良時代から宮中行事として行われていたが、応仁の乱(1467~77)から中断し、明治から復活した。神歌を「水無月の夏越の祓えする人はちとせの命延ぶといふなり」と唱えながら左回り、右回り、左回りの順に八の字を描くように3回くぐり、正面で一礼して神前に進み参拝する。人の穢れを吸い取った茅の輪から茅を抜いて持ち帰ってはいけない。~~ ~お菓子の水無月:夏6月には貴族が楽しむように氷室から氷を宮中に届けていた。庶民は手が届かないので、白い外郎(ういろう)を氷に似た三角に作り、邪気払いの小豆を乗せて食べた。 ~私部では住吉神社にも又お宮への道筋の決まった場所にも提灯があがる。 ~磐船神社では29日が「宵宮」で私市の氏子総代、区長、村人等が詣り茅の輪をくぐり祈祷を受ける。30日は一般の参詣者が茅の輪をくぐり祈祷の神事を受ける日である。 |
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夏至(今年は6月21日)から数えて11日目頃、今年は7月1日頃から七夕までの間の事をさす。「半夏生以後は半作」と言われ、この日までに田植えを終わっていれば豊作だが、残っていれば半作だと言う。ドクダミ科の烏柄杓=半夏が生える次期なので「半夏生」と呼ぶ。 このころの雨、「半夏雨」は大雨になりやすく、農家は田植休みを取り、関西では蛸を食べてねぎらう。何故蛸なのか? ~私部:住吉神社では半夏生祭を行う。五穀豊穣を祈願して湯立て神事を行う。植え付け休みで、村内を鉦を打ち鳴らして歩き、ふれ回されていた。この日は蛸を食べた。 |
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