<第154回> 令和8年5月 定例勉強会
北河内の古墳総めぐり
~5世紀の古墳を中心に~
講師 : 野島 稔氏(四條畷市立歴史民俗資料館長)
青年の家・学びの館 午前10時~12時
 44名(会員35名)の参加
 2026年5月23日(土)午前10時、5月定例勉強会に44名(内会員35名)の沢山の方々が参加されました。
 盛岡事業部長の司会で始まり、巽会長より「本日は、野島 稔館長をお迎えしての北河内の古墳総めぐり関連の勉強会を楽しみにしていました、また、先生には9年前、平成29年度古文化同好会の総会の後、特別講演会にお招きし「継体天皇と河内の馬飼首荒籠」をテーマでご講演を頂戴し参加された多くの皆さんから盛大な拍手が送られ大好評でした」などと挨拶の後、盛岡部長より野島講師の経歴の紹介があり講演会は始まりました。
 
「北河内の古墳総めぐりー5世紀の古墳を中心に」講演会概要
  1,はじめに    2,北河内の首長墓系譜  3,鍛冶専業のムラ 森遺跡
  4,埴輪のムラ 忍ケ丘駅前遺跡・南山下遺跡 子馬形埴輪 
  5,初期須恵器生産窯跡群   6,天野川上流右岸 交野車塚古墳群
  7,讃良地域北部・中部 墓の堂古墳  8,大上古墳群3号墳 
  9,讃良川右岸 更良岡山古墳群 10,寝屋川左岸 太秦高塚古墳
  10,鍋田川右岸 堂山古墳群
 
  後半は、パワーポイントで資料・写真などを上映しながら、更に古墳のことなどを
  広範囲にわたり詳細に解説頂きました。

 講師:野島 稔氏のプロフィール・経歴
   四條畷市立歴史民俗資料館(大阪府四條畷市)の野島稔館長は、長年、市の文化財担当職員として飯盛城跡などの発掘調査や『四條畷市史』の編纂に携わってきた考古学・郷土史の専門家です。専門は考古学で、古墳時代の「河内馬飼い(かわちのうまかい)」や古代の渡来人文化についての研究・発信を行っています。
 資料館での「特別展」の企画や、市民向けの「歩いて学ぶ考古学講座」などを通じて、地域の歴史や文化の啓蒙活動を積極的に行っておられます。

 ※ 9年前、平成29年度古文化同好会の総会の後、野島先生を特別講演会にお招きし「継体天皇と河内の馬飼首荒籠」をテーマでご講演を頂戴しました。
 
 <参加された方のお話>
 「今回の古墳の話、お話が上手で大変興味深いお話、メチャメチャ参考に
 なりました」などと大好評でした。
 
 ※今回、講師の先生のご厚意により当日配布された「レジメ」及び
  パワーポイント資料を頂戴しましたこと、記して感謝申し上げます。

 ※ 当日の写真は、竹澤さん、毛利さんより投稿いただきました。
 
講師 : 野島 稔氏
(四條畷市立歴史民俗資料館長)
 
巽 会長
 
盛岡部長
 
講演会の途中、休憩時間に子馬型埴輪を紹介いただきました! 
   
 
 
 
 
 「北河内の古墳総めぐり」
ー5世紀の古墳を中心にー


野島 稔氏(四條畷市立歴史民俗資料館長)
レジメ 北河内の古墳総めぐり(PDF) 
ー5世紀の古墳を中心にー
   交野古文化同好会勉強会 交野市青年の家 学びの館
       令和8年5月23日(土)
    「北河内の古墳総めぐりー5世紀の古墳を中心に」
              四條畷市立歴史民俗資料館 野島 稔


はじめに
 3世紀のはじめ頃、大和に原初的な国家としてのまとまりが見えはじめ、古墳時代の始まりとなりました。そして今までみたことのない小山のような大きな墓(古墳)が出現しました。古墳には多くのハニワが立ち並び斜面には石を貼り付けていました。多くの人手と労力をかけて築いた古墳に眠るのは、たったの1人か2人で、大王や豪族と呼ばれる人達でした。大きな墓と豪華な副葬品は、権力をみせつけるためには充分でした。
 古墳時代中期になると朝鮮半島から最新の技術がもたらされ、交野市で鉄生産が行われた森遺跡、四條畷市域で馬牧場が開かれました。昨年の11月には枚方市の茄子作遺跡から須恵器と呼ばれる土器を焼いた窯がみつかりました。
 本日は、朝鮮半島から工人によってもたらされた鉄・馬・須恵器を含み古墳時代中期の古墳を皆さんと一緒に勉強いたしましょう。
北河内の首長墓系譜

 北河内地域は大阪府の北東部にあり、枚方市、交野市、寝屋川市、門真市、守口市、大東市、四條畷市から成ります。この地域は淀川と古代河内湖による水運や、大和盆地へ至る陸上交通などの要衝の地にあたり、古代から発展してきました。
 日本列島に広域な王権が誕生するヤマト王権の時代、ここ北河内でも権力者の存在がその墓(首長墓)から想定されます。大抵は自分の権力地盤の地に墓も築くことから、墓の場所を調べることで権力者の勢力の移り変わりがみえてきます。
 北河内地域では、讃良地域と淀川の支流である天野川流域、穂谷川流域で首長墓が築かれました。その推移を支えた集落と共にみていきます。
 
【鍛冶専業のムラ】 古墳時代中期:森遺跡:交野市森北1丁目~森南1丁目

 JR河内磐船駅周辺に所在する森遺跡は5世紀から鍛冶工房(鉄器製造工場)で柏原市大県遺跡に先行する鍛冶専業集落として知られています。
 昭和61年から現在にわたって交野市教育委員会によって発掘調査が進められ、弥生時代から古墳時代後期にかけての遺構が集中されていることが調査によって分かってきました。
 森遺跡から大規模な鍛冶工房であったことは、真鍋さん・吉田さんの研究で明らかにされています。
 特に森遺跡から様々な土器とともに鍛冶関連の炉の跡、鉄滓、ふいごの羽口、鉄塊、鋳造鉄斧が出土しました。
 
 
【埴輪のムラ】 古墳時代中期:
  忍ヶ丘駅前遺跡・南山下遺跡:四條畷市岡山2丁目

讃良の馬飼い集団


 四條畷市はかつて讃良(さらら)という地名でした。馬をつれた渡来人は朝鮮半島から命がけで玄界灘の荒波をこえて讃良にたどりつきました。渡来人は讃良で馬の牧を築き、馬飼い集団の地となりました。市内の発掘調査ではいたる所で馬頭骨や歯などがたくさん出土します。
 馬を忠実に表現した馬形埴輪や子馬形埴輪は馬の牧にふさわしい優品です。

■子馬形埴輪
 かわいい子どもの動物埴輪もみつかっています。出土したのは昭和63年(1988)、忍ヶ丘駅の西側広場予定の調査地からです。古墳時代の中期の掘立柱建物跡や溝がみつかる集落跡からの出土で、全長41㎝、高さ27㎝の子犬のような埴輪です。   可愛い顔をして子どもらしいずんぐりとした体つきで。馬飼いの地らしく作者の愛情が感じられる作品です。下腹部に男性
器の表現まであります。出土した時点で子犬形埴輪と断定しました。やや横向きに出土した様子はなんとも愛らしく、感動したこの日に撮影した一枚です。
 天理市荒蒔古墳の裸馬。福岡県田川市猫迫一号墳から出土した馬など男性器を表現した例は10数例報告されています。これらの例から四條畷出土の犬形埴輪としていたものはヒズメを表現していることも含めて子馬形埴輪と訂正しました。子馬なら鞍をつけないのは当然です。この子馬は牧の存在を示す証明の一つです。


■馬具を装着した馬形埴輪
 成馬の埴輪もみつかっています。それは、昭和61 年(1986)、 5世紀中頃(古墳時代中期)の大溝から出土しました。大溝は、長さ約25m、幅3.5m、深さ40㎝でした。ここから馬形埴輪の頭部が現れました。調査が進むにつれて尻繋・胸繋・障泥・鐙面繋・辻金具・引手・手綱などの馬具や、蹄を表現した足など全体がそろっていました。馬形埴輪は、約1m四方に押しつぶされた状態で出土しましたが、ほぼ全体が残っていました。後日、この馬の復元作業を行いました。すると高さ54㎝、全長86.5㎝の馬形埴輪が誕生しました。この馬は他府県で出土している埴輪馬より小さめです。胎土はきめ細かく淡い肌色をしていて白馬のような雰囲気をもっています。足が短く、ずんぐりとした蒙古系の馬です。馬の表情はあくまでも優しく癒されます。当時の四條畷は馬を飼う牧場でした。「きっと馬と暮らしている工人が愛情をこめて作ったのだ」と誰もが感じていました。先述の子馬形埴輪とはまるで親子のようにみえます。
 
 
 【初期須恵器生産窯跡群】 古墳時代中期:茄子作遺跡
  枚方市市茄子作3~5丁目ほか

 財団法人枚方市文化財研究調査会で、茄子作遺跡第2次調査の第6号竪穴住居から一括して出土した韓式系土器群が発見されました。
 この調査によって、渡来人の存在を示す遺物としてされていましたが、枚方市と交野市にまたがる上の山遺跡からも初期須恵器とともに窯体の一部などが出土したことから、窯本体未検出だが、茄子作遺跡内に初期須恵器を生産した窯の存在が充分に想定されていた中、令和7年11月8日に枚方市と公益財団法人大阪府文化財センターが発掘調査を実施していた茄子作地区土地区画整理事業に伴い約20ha の事業用地から3基の窯跡を公表されました。
 
 
 天野川上流右岸 【交野車塚古墳群】

 大阪府教育委員会は、第83番目の府立高等学校として、交野市寺南野に交野高等学校建設を計画しました。同地は、水田でした。北の前川、西の府道交野久御山線、東のJR学研都市線で囲まれた約4万㎡の土地でした。用地買収も終わり、さあ工事という時、用地北端に車塚という地名をもつ丘の存在を確認した交野市は、大阪府に試掘調査を依頼しました。大阪府教育委員会は、関係者と協議の上、翌月の昭和47(1972)年12月から交野市の協力を得て、試掘調査を実施することにしました。すると、何ということでしょう。試掘調査の初日に、木棺の痕跡が発見され、筒形銅器・巴形銅器・短甲など、古墳時代の極めて珍しい副葬品が出土し、貴重な古墳であることがわかりました。
 この古墳は交野東車塚古墳と名付けられ、関係者の努力によって、交野高等学校の敷地内で現状保存されることになりま
した。また、引き続き行われた用地内の試掘調査で、埴輪が出土する場所が2箇所発見され、その部分は全面発掘調査が必要と判断されました。このため、翌年2月から交野車塚古墳群第1次発掘調査が実施されることになりました。
 昭和47(1972)年から48(1973)年の調査では、5基の古墳が発見され、第1号古墳(東車塚古墳)、第2号古墳(西車塚古墳)、第3号古墳(東車塚南古墳)、第4号古墳(西車塚南古墳)、第5号古墳と名付けられました。

 第3号古墳:径22mの円墳でありながら、方形の周濠をもつ、全国的にも例を見ない極めて特異な古墳です。墳丘は、後世に削られ、残っていませんでしたが、最下段の葺石がよく残り、周濠からは多数の埴輪が出土しました。円筒埴輪の他、家・盾・短甲)・蓋などの形象埴輪も豊富です。幸いなことに、関係者の努力もあって、第3号古墳も盛り土がなされ、校舎の位置を変更し、保存されることになりました。
 第4号古墳:径16.5mの円墳です。周囲に幅2mほどの周濠をもちます。周濠から、円筒埴輪や朝顔形埴輪や家形の埴輪などが出土しました。
 第5号古墳:径17mの円墳です。周囲に幅3mほどの周濠をもちます。周濠から、円筒埴輪や朝顔形埴輪などが出土しました。 (大阪府HP引用)
 
 
 
 讃良地域北部・中部
【墓ノ堂古墳】 古墳時代中期末:前方後円墳:四條畷市中野1丁目

 
 墓ノ堂古墳は、現在、中野共同墓地となり小高い高まりが残るのみですが、赤色立体地図などから検討を行い、造られた当時は墳丘長約70m、周堤まで含めると全長約98mで、この時期では北・中河内地域最大の古墳とわかりました。
 平成7年の公共下水道に伴う調査で東側周濠がみつかり、周濠内から円筒埴輪の破片のほか、人物・武人・馬・蓋(きぬがさ:貴人が使用した傘)・家・大刀などの形をした多彩なものであることが判明しました。このことから、墓ノ堂古墳では、高槻市の真の継体天皇陵ともいわれる今城塚古墳のように、周堤部分で多彩な形象埴輪を用いた“まつり”が執り行われていたのかもしれません。さらに特筆すべきことは、四條畷市では初めて明らかとなった大刀形埴輪の存在です。大刀形埴輪は、近畿地方では十数例のみで、大変珍しい埴輪です。
 
 
 
 【大上古墳群3号墳】 古墳時代後期:帆立貝式古墳:四條畷市清滝
 
 この古墳は2段築造の前方後円墳ですが、その復元図から判断すると後円部に比べて前方部が短く小さいことから、帆立貝式古墳と考えます。古墳の主軸は、南北方向から東側へ約25度振れています。復元した大きさは、全長約45m(周溝を含む)、後円部の直径は約28.6m、前方部の長さは約9m、周溝の幅は約5m、深さは約2mでした。2段目に当たる部分については後世の造成行為によって大きく削平を受けているため、埋葬施設についてはその痕跡を含めて確認できませんでした。古墳の盛土については、トレンチ調査の断面観察により、その一部を地山面から約40 ㎝の自然堆積層の上面で粘質土を数層に積み重ねた状況で確認しました。出土遺物から古墳時代後期(6世紀後半)のものと考えます。また、一部ではありましたが円筒埴輪が当時の状態で出土したことや葺石が残っていたことなど市内の多くの古墳のうち最も保存状態が良好なものであったとともに、市内で発見されている古墳時代後期の古墳では最大級のものです。そのようなことから、国土交通省浪速国道事務所のご理解をいただき、国道 163 号の橋脚工事で古墳を破壊する箇所については最小限にとどめていただくことができました。現在も、その多くの部分が地下に埋まった状態で保存されています。この周辺の地域では過去の発掘調査で朝鮮半島とのかかわりがある馬飼い集団の集落が営まれていたことやその集団の古墳が築造されていたことが分かっています。この古墳の周溝や周辺からも朝鮮半島とのかかわりがある陶質土器・韓式系土器などが数多く出土しています。大上古墳群四号墳から出土した陶質土器とこの3号墳から出土した陶質土器片が同一個体であることがわかりました。この古墳は渡来系馬飼い集団に関係するリーダー的な人物が埋葬されたのかも知れません。
 
 
 讃良川右岸【更良岡山古墳群】 古墳時代中期~後期:
 円墳・方墳:四條畷市岡山4丁目


 更良岡山古墳群は讃良川の両岸に分布します。昭和46年の調査で、滑石製の勾玉・紡錘車・将棋の形をした垂飾が出土し、古墳の存在が想定されていました。
 昭和55年の発掘調査で円墳が2基発見され、円筒埴輪をはじめ蓋形埴輪が出土しました。また、その近くから馬の歯が出土しています。
 平成10年には、マンション建設に先立って発掘調査されました。一辺9mの方墳の周濠内から円筒埴輪をはじめ盾形埴輪などが出土しました。どちらの古墳も後期に属します。
 更良岡山古墳群と寝屋川市三味頭遺跡の古墳は一連の古墳群です。この古墳群から南を臨むと忍岡古墳の森が見えます。また、河川両岸にある讃良川遺跡や更良岡山遺跡は縄文時代の遺跡としてよく知られています。更良岡山遺跡では、土偶や、北陸地方に分布する彫刻石棒が出土しています。
 寝屋川左岸【太秦高塚古墳】(寝屋川市史跡)
  古墳時代中期後半:円墳:寝屋川市太秦高塚町


 寝屋川市や四條畷市あたりでは、韓式土器(朝鮮半島の土器)や韓式系の土器が多数出土し、渡来人の影響をうけた地域であることを示しています。太秦古墳群の所在する「秦」「太秦」は、渡来系氏族の秦氏に由来する地名といわれています。
 太秦古墳群は古墳時代中期から後期にかけて築造されました。古墳群のほとんどが削平されていますが、鹿形埴輪や甲冑形埴輪をはじめ、勾玉、三環鈴、金環など数多く出土しています。鹿形埴輪は頭部だけですが、優品でよく知られています。
 太秦高塚古墳は、古墳群のなかで現存する唯一の古墳です。長い間、個人の所有地にあり大切に保存されてきましたが、平成5年に市の所有となりました。平成13年に市の50周年記念事業として古墳の復元整備がおこなわれるのに先立ち発掘調査されました。
 調査の結果、直径 37m・高さ7mの二段築成の円墳で、幅 7.5mの周濠がめぐっていたことがわかりました。墳丘北西部分には造り出しと呼ばれている四角い突出部分が付いていました。この造り出しを含めると全長が39mになります。
 一段目のテラスには円筒埴輪が1mあたり4基の割合でめぐらされていました。造り出し部分にも円筒埴輪が立てられ、人物・巫女・家・盾・きぬがさ・水鳥・鶏などの形象埴輪も立てられていました。なかでも口元に手をよせている(酒を飲んでいるしぐさか?)人物埴輪はとても珍しいものです。
 葺き石は墳丘斜面には見られず、周濠底にも転落していた形跡が認められなかったので、最初から葺かれていなかったと考えられます。
 墳頂部東側で主体部が見つかりましたが、すでに盗掘されたり、破壊されたりしていました。墓坑は長さ4m・幅1.5mです。その痕跡から長さ3.6m、幅1mの組合式木棺が納められていたと推定されています。棺内の南側で鉄剣・30本以上の鉄鏃・鋲留短甲・小札・木心鉄張輪鐙・大型鋳造鉄斧など鉄器の副葬品がみつかりました。
 
 
 鍋田川右岸【堂山古墳群】(大東市史跡)
   古墳時代中期~後期:円墳:大東市寺川

 堂山古墳群は大東市東部の寺川にある。古くから「堂山」と呼ばれる地域に所在しています。堂山には「金の鶏がこの山に埋まっていて正月の朝に鳴く」という伝承が残されています。
 古墳群は生駒山地から派生する尾根上に築造された古墳7基で構成されており、中期の1号墳は標高78mの丘陵先端部に独立して築かれています。2号墳から7号墳は、1号墳から北東約100m離れた標高90mから100mの丘陵上に位置します。
 昭和44年(1969)、大阪府営水道の配水池の建設予定地において、埴輪・鉄刀等の遺物が発見されたことを契機に大阪府教育委員会によって発掘調査が実施され、さらに昭和47年に丘陵全体の発掘調査が行われて古墳群の全体像が明らかになりました。地元住民の要望を背景に関係者が協議し、平成24年に大東市が史跡として指定し、大阪府広域水道企業団に協力を得て、大東市立堂山古墳群史跡広場として整備し公開しています。
(大東市立歴史民俗資料館 資料解説シート引用)
 
   
 当日、上映されましたパワーポイントの資料です
講師の先生のご厚意で頂戴しました
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

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