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10.天田神社川東神社

天田の宮は田の神まつる 「交野郷土史かるた」より

天田の宮神社 天田の宮神社 天田の宮神社の鳥居


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天田神社由緒

天田神社は私市、森の氏神社で住吉四神を祀る。
古代この地方は土地が良く肥えて、作物が豊かな野であったので、甘野といわれ、川は甘野川、田は甘田であった。
amadamiya この甘田に田の神を祀って建てた甘田宮が当天田神社の起源と言われている。

交野地方は、肩野物部氏(かたのもののべし)の所領でその先祖・饒速日命(にぎはやひのみこと)が天の磐船に乗って河内の哮が峰(たけるがみね)に天降ったと「先代旧事紀(せんだいくじき)」に記され、長く交野の祭神となっていた。
その肩野物部氏が西暦577年敏達天皇の皇后豊御食炊屋姫(とよみけかしやひめ)(後に推古天皇)にこの地を献じて、ここが私部(きさいべ)、私市部(きさいちべ)となったのである。「きさい」は皇后、「べ」はその部民のことである。

 平安時代に入り、京都の宮廷貴族が遊猟に来ては盛んに和歌を詠み、七夕伝説に因んで甘野川は天の川、甘田は天田と書くようになった。
その頃、住吉信仰が流行し一方、磐船の神も海に関係があると考えられ、さらに物部氏の衰退もあって、交野の神社の祭神は、饒速日命(にぎはやひのみこと)から、海神であり和歌の神である住吉神に替わって、今日に至っている。
大木が繁る天田神社 境内から祭祀に用いられたと思われる土師器が出土し、又物部氏のものと推定される巨大な古墳群が発見されるなど、当地の歴史の古さを偲ばせるものがあります。

祭神 本社
表筒命(うわつつおのみこと)、中筒命(なかつつおのみこと)、
底筒男命(そこつつおのみこと)、息長帯姫命(おきながたらしひめのみこと)


 《川東神社》

 森の氏神川東神社は、西に天田の宮と隣合って 三ツ又川の東側に祀られている。江戸後期ごろか? 天田神社が私市・森の氏神さんだった。
 祭神は品陀和気命(ほんだわらけのみこと)、森林を後ろにして 砂白く清楚な社である。その由緒は伝わっていない。

   

 当社の前に円柱状の灯篭の変形のようなものが一対立っている。
 それには壽永寺元皓と僧名が刻まれている。この人はもと森向井家の出で、須弥寺本隆和尚に導かれて佐太来迎寺に入り、後江戸浅草の 幡隨院で修業し、遂に宗学の奥を研めたので、芝増上寺走誉によって 江戸寿永寺住職にせられた人。寛永年間父母の墓参のため森に帰り当村領主大久保家のために大いに尽くすところがあったので、同家よりその宗家向井五衛門に扶持、馬、槍を許した。
 よって、向井家では当社の前に長い広場を設けて、そこを調馬場 とした。(現在)
又この人は氏宮へ石鳥居を寄進したが、後それが倒壊したので その材を用いて立てたのが、現在社前にある一対の立石である。
 
     

 当社の創建年代は詳らかではないが森地区は古来岩清水八幡宮の所領であった事が知られ、平成十二年には区域内の 河内磐船駅北側より平安時代の三宅山荘園の遺構が発掘され、鎌倉時代まで荘園が続く事が確認された。また森地区の氏子は石清水八幡宮の勅祭岩清水祭に御先払神人として毎年奉仕しており未だに強いつながりを持っている。このような事から氏神として八幡大神である御祭神をお祭りしたものと思われる。

    交野町史より参照
 
かたの広報・交野市史・天田神社の由緒 を参照

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