交野市私市9丁目19−1 TEL:072−891−2125
|
磐船神社案内図 |
磐船神社の御神体は高さ12メートルの巨石である。 大昔の人はこの船の舳先(へさき)のようにみえる巨石にどれだけの神秘を感じたことだろう。
この巨石の下の岩組みや、底深く流れる天の川の清流を眺めた人たちは、どんな夢を描いたことだろう。 神の座(いま)す岩、仏の宿ります岩と信じたに違いありません。 ご祭神は、饒速日命(にぎはやひのみこと) 大昔、饒速日命が磐樟船(いわくすぶね)に乗って哮が峰(たけるがみね)に天降ったという神話がある。
その哮が峰は磐船神社から磐船街道を隔てた西側、かっての石切り場のあった海抜180メートルの峰(府民の森ほしだ園地のクライミングウォールの北側の切だった峰)だと言い伝えられている。 肩野物部氏の祖とされている神である。 しかし、その後、肩野物部氏が没落し、平安朝時代になり、 山城京都の宮廷人が遊猟のためこの地方に来ることが多くなった。 住吉明神とは、底筒男命(そこつつおのみこと)、中筒命(なかつつおのみこと)、表筒命(うわつつおのみこと)、息長帯姫命(おきながたらしひめのみこと)の四神である。
幅2メートル20センチ、高さ1メートル5センチの彫り込み内に線刻の光背を背にして四神が並んでいる。 磐船神社の舟形大石の上面に「加藤肥後守」の5文字とその紋所が彫られている。
豊臣秀吉が大阪城築城の際、諸侯に命じて巨石を運ばせたが、その時、磐船の巨石もそのうちに入れられた。 |
||||||||
|
「先代旧事紀(せんだいくじき)」に
「天祖、天璽(てんじ)瑞宝十種を以て、饒速日尊に授く、即ちこの尊、天祖御祖(てんそおや)の詔をうけ、天の磐船に乗って、天降り、河内の国河上の哮が峰に座(いま)す。」とある。
訳せば、「饒速日命は、天祖の命により、よほど文化程度の高い国から、がん丈な樟で造った船にのって、海を渡り、河内の国の川上の哮が峰に来た。」というお話。
古文化同好会の勉強会
先代旧事本紀の天孫降臨神話に迫る
「甦る饒速日命」 高尾 秀司氏
古文化同好会バスツアーで
「蘇る饒速日命」の史跡を訪ねる
当日の史跡探訪の為に参考にしたホームページを記して感謝申し上げます。
「先代旧事紀 饒速日命 大和入りの足跡を追う」 井戸桂二氏の概説 |
|
日本の古代史書として「古事記(こじき)」「日本書紀」がありますが、その後に古代の有力氏族の物部氏(もののべし)が祖先より伝承されてきたという古代伝承を書いた「先代旧事紀」が出された。それには日本の古代の夜明けと思われる異文化を伝える使者が来たことが記されている。 「天祖、天璽(てんじ)、瑞宝十種を以って、饒速日尊に授く、則ち、この尊 天祖御祖(てんそみおや)の詔(みことのり)をうけ、天の磐船(いわふね)に乗り天降り、河内国河上の哮峰(いかるがだけ)に座(いま)す。則ち遷(うつ)りて大倭国鳥見(やまとのくにとみ)の白庭山に座す」 この始まりの地は、河内国河上の哮峰(いかるがだけ)で、そこより大倭国鳥見(やまとのくにとみ)の白庭山(しらにわさん)に移ったとあります。 ここに来るのに天空から舞い降りたと思わせるような記述であるが、実際は丈夫な樟の木で造った船で文化の発達した国から海を渡り河をのぼって来られた。 当時は地図を添えての記述はなく、川の名前もなかったが船を進める程の河で大倭に通じる川と言うことをうまく大きな河とあらわしその上流の哮峰のところに着いた。今の天野川を言い当てている。 当時は気温が上昇して海水面が上がっていた時代で、現在の天野川筋に当る平野部で標高25m以下は海面下で、船が通れる入江になっていて私市の小山との谷合に河口を発見、船を進めることが出来た。谷合いを1.5km程上ると右側に兜状をした岩山が聳えている。この山は標高100m程と低いが全部が岩山で凛とした風貌で当時より哮峰(いかるがだけ)と呼ばれていたようです。(現在は哮が峰(たけるがみね)と呼んでいる) 天野川の流れはここから上流は岩石が重なる急流になっていて船は進めない。哮峰の岩の根が流れを整え船留りが出来るようになっていて、この川岸に舟を寄せ一行が無事哮峰の麓に上陸することが出来た。 哮峰から大倭国へは僅か数百m程だが標高差が80m位と急峻になっている。川沿いを上り切り少し行くと視界が開け、平らな丘陵が伸び、右に生駒山の東側が見え大倭に来たとわかる。それより約2km程天野川沿いに南へ進むと川が右に曲がっているところがある。そこより左を見ると小高い丘があり現在の地図に「白谷」とある。しかし、白庭も白庭山も見当たらない。 そこで生駒市史を見ると「白谷なる地名は白庭の遺称にして当初饒速日命が哮峰よりここに遷(うつ)りて長髓彦(ながすねひこ)に擁立されし土地」とあり。 参考図「鵄山(とびやま)より白庭、日窪山を望む図」 参考図「鵄山より白庭、饒速日命墳墓地案内図」 により白庭の場所を知ることが出来た。 @鳥見白庭山の碑は饒速日命の住居跡にある生駒郡北倭村大字白谷2838番地に あって、地元では「ひろしばこ」と称する数畝の畑地とある。 A長髓彦本拠地の碑は「おばたけ」と称する2000歩ばかりの田で台地になって いる。北倭村白谷2700番地にある。 B饒速日命の墳墓と伝えられているところは、日(ひ)の窪山(くぼやま)(桧の窪山)と いわれ、北倭村大字平井1882番地にある。 C御炊屋姫(みかぐやひめ)の墳墓は夫婦塚と呼ばれている。 |
|
鮎返しの滝の景観は、沢山の大岩が1ヶ所に集まったとてもめずらしいもの。
流水の豊富な夏が特にすばらしく、元禄2年(1689)の「南遊紀行」(貝原益軒著)にも紹介されている。