[ホームページ][名所案内]

11.住吉神社

住吉神社 へはJR学研都市線・河内磐船駅、または京阪電車・河内森駅より東へ森地区の住宅街をぬけ、寺地区を竜王山に向って右折、徒歩約20分。

住吉神社の右手を曲がり、「かいがけの道」(砂利道)を約25分で傍示の里に着く。
昔の人々が往来した道を、往時を思いながら歩くと、世俗を忘れ心が洗われる気持ちになります。

住吉神社 住吉神社の遠景
住吉神社
住吉神社の遠景

住吉神社のくぼみ石 住吉神社の東の石垣に、「くぼみ石」がある。
 昔の子供たちが、餅つき遊びをした石の跡だという。
 「この石にじーと耳をあててみ、ぺったんこ、ぺったんこ、ぺったんこ・・・・ぺったんこの音が聞こえてくるやろ」と故奥野平次さんは子供たちにいつも言っておられたという。

住吉神社の建つ寺村は、約1700〜1800年前の弥生時代から奈良時代まで村の名前は「てるは」と言って、今池の南の丘陵地帯を中心に農業をしていた。 この時代に傍示の山から恐ろしい大出水が襲い、下手にあった「てるは」村や、その耕地をなめつくした。

「てるは」の人々は、その村の位置が将来も不安だと知り、村中こぞって竜王山麓へ移った。
後に、「てるは」は、てら(寺)となった。


寺古墳群寺古墳第3号墳の入り口

寺の集落の東南、竜王山の山麓に群集する後期古墳群です。14基の古墳からなり、いくつかの屋根に2〜3基づつ点在し、広い範囲をこえて寺古墳群と呼ばれている。

そのひとつの寺中山古墳群は、住吉神社の前から「かいがけの道」の側に曲がり、右へ登らずに池に沿う小道から東へ回り創価学園の小公園を北に見ながら登ると池が続き、右へ曲がるとさらに池があり、しばらく平地を行くと第3古墳に出会います。
これは横穴式石室を完全に残す古墳です。

 寺古墳の内部東西南北、約10〜11mの円墳で入り口は西を向いている。周りは竹薮と雑木で薄暗い。

 大人一人がやっと這って入れる程の入り口から、懐中電灯を片手にした平田さんに続いておそるおそる入る。羨道は短く片袖式となっている。

 中は、意外と天井が高く、192cmあるという。
しっかりと石組みがされている。大きい岩石とそれを支える小さい石が左右にバラス良く組まれている。天井の岩石もしっかりと組まれすこぶる頑丈に出来ている。

 古墳は、昨日の「鳥取西部地震」で交野もかなり揺れたが何の支障もない。 (2001.10.7訪問)


須弥寺(しゅみじ)
須弥寺須弥寺の発掘

交野市森南3-32-3
古代の人々は、この地に村落一帯の田園を見下ろす丘陵の地に、「陽石」を祀って悪霊を払い五穀豊穣と子孫繁栄を祈る場所とした、村の発祥の地でもあった。
 浄土宗西山派のお寺で、天長3年(826)のころ弘法大師が草庵を創ったのが始まりとされています。
境内は1270平方メートル。享保16年に建立された本堂に庫裏。

本尊は阿弥陀仏。「石清水八幡宮警固・十一面観世音菩薩」
 男山八幡宮を国家鎮護のため、はるばる九州の宇佐八幡から分霊した時に、八幡宮警護観音として随伴したのをこの地に安置させたものです。
釣鐘堂前の丸い「陽石」は弥生時代以前のものと言われている。

97年4月の交野市文化財事業団が行った発掘調査の結果、遺構や遺物から、奈良時代の後期から寺院があったことが確認された。
また、創建後、千年を超える歳月のなかで、戦火や地震に見舞われ、栄枯盛衰、荒廃と建立を繰り返していたことも、瓦などの出土状況から分かりました。


かいがけの錦繍
かいがけの道 かいがけの道入口
「峡崖(かいがけ)道」
交野八景の一つ・かいがけの錦繍(きんしゅう)

奈良時代から平安時代以降、熊野参りの人々がこの道を利用した。平安時代から鎌倉時代にかけて、京都の天皇や貴族たちの熊野(和歌山県)参りがさかんになり、京都から鳥羽に出て淀川を船で下り、交野にあがって「峡崖(かいがけ)道」をのぼりつめると大和へ出る。

ここから王寺、五条を通って紀州へ行くのが一番近道だと、昔は随分通行人があったようです。
落ち葉が道一面に広がる秋が最も美しく、ロマンチックなムードが漂います。

いまは、ハイキングコースとして沢山の人に利用されている。

交野市史、交野市制25周年記念誌、交野市文化財事業団の資料を参考

交野の名所案内に戻る