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広報 かたの 特集シリーズ

歴史民俗資料展示室へようこそ かたの歴史探訪

 今回は「大昔の交野」をテーマに、歴史民俗資料展示室にある石器の中から、神宮寺遺跡と布懸遺跡から出土した石器を紹介したいと思います。
 石器は人類が初めて作って使った道具です。1万数千年前の旧石器時代、交野市の暮らしはどうなっていたのでしょうか。

神宮寺遺跡の石器
 昭和30年ごろ、神宮寺で約1万数千年前の石器が見つかりました。見つかったのは、「握斧状石器」「ナイフ形石器」「有舌尖頭器」(槍の先につけるもの)「石核」(石器の材料になるもの)の4点です。
 この石器は、サヌカイトという石でできています。サヌカイトとは「讃岐石」という命名の由来を持ち、もとは香川県高松市の五色台というところで初めてとりだしたものです。神宮寺遺跡のものは、奈良県と大阪府の境にある二上山から持ってきた同質の石で、讃岐産ではないのですが、やはりサヌカイトと呼ばれています。



握斧状石器

ナイフ形石器

有舌尖頭器

石核

布懸遺跡の石器
 昭和53年に、星田4丁目で電電公社(現在のNTT)の社宅を建てるために発掘調査をしたところ、約1万2,000年前のものと思われる遺跡が見つかりました。ここからはたくさんの石器のかけらが見つかり、このことからこの遺跡は、石器を作る工房の跡であった可能性が高いと言われています。
 ここで作られた石器は近くに住む人たちに供給されていたのでしょう。

布懸遺跡から見つかった石器のかけら


石器の種類 交野は大阪で最初に人が住み始めた土地?
 石器にはいろいろな種類があります。石器も時代とともに変化しているのです。
 神宮寺で見つかった石器も、それぞれ使用されていた時代が違います。
 まず、握斧状石器ですが、これは人類が初めて作って使用した石器のひとつです。
 石器を直接握り、斧のように振り下ろして使います。何万年もの間使用されていたようです。
 この石器は主に動物をしとめるときに使い、たまに人同士で争うときにも使われていたようです。
 次に、使い始めたのがナイフ形石器で、この石器は動物の皮をはいで肉を取り出したりするのに使われました。
 最後にかなり遅れて使われだした有舌尖頭器は、槍の先につけて飛び道具として使用したもので、この石器を使うことで、さらに動物を狩りやすくなりました。
 これらの石器のうち、最も古い石器である握斧状石器は、大阪では、交野市以外の地域からの出土がほとんど見られません。このことから、最も古い石器が出土した交野市が、大阪で最初に人が住み始めた土地なのではないかと思われるのです。

大昔の交野に象が?
 遺跡で発掘された石器を使っていた時代は、今から約1万〜2万年前になります。
 このころは、ちょうど氷河期になったころで、気温は今より約8度低く、海面は約130〜140メートルも低くなりました。そのため、大阪湾や瀬戸内海は水がなくなり、日本列島は北海道とシベリア、九州と朝鮮半島が陸続きになっていました。
 交野でも陸続きになった大陸から渡って来たマンモス象・ナウマン象・オオツノジカなどを追う人たちの姿が見られたであろうと交野市史に書かれています。
 残念ながら交野からそれらの骨は出てきていませんが、大阪の深日からはナウマン象の骨が、近隣では枚方市の宮之下町からトウヨウゾウの頭の骨が出てきています。

旧石器時代の様子の想像図
(小学館「日本の歴史」より)
※歴史民俗資料展示室に飾られています。

 


大昔の食生活
 石器時代の人たちはどんなものを食べていたのでしょうか。
 まず、石器があることから、動物を狩ってその肉を食べていたことが伺えます。また、近くの川や沼から魚も獲っていたと思われます。
 やがて、土器が作りだされるようになり、人々は土器を作り、食べ物を長期保存したり、煮炊きして柔らかくしたりすることができるようになり、食生活が一段と豊かになります。
 それは、野や山にあるドングリなどの硬い木の実を食べられるようになったからです。ドングリは味はともかく、ほとんどのものが食べられたようです。
 この時代を縄文時代といいます。この縄文時代の解説は後にゆずるとして、今回はこのあたりで解説を終わりにいたします。

歴史民俗資料展示室 ボランティア解説員 高尾 秀司

住 所 交野市倉治6−9−21(教育文化会館内)
▽JR津田駅から徒歩10分
▽交野市駅から、京阪バス「津田駅」行き、「南倉治」下車、徒歩1分
▽ゆうゆうバス、倉治コース、「南倉治バス停」下車、徒歩1分
開館時間 午前10時〜午後5時(入館は4時30分まで)
休館日 月曜日・火曜日・祝日・年末年始
問い合わせ 文化財事業団(TEL893・8111)か、同展示室(TEL810・6667)

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