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番外編其之二 |
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交野郷土史かるたを地区別に紹介する「かるた郷土史めくり」の第8回は、山や川など、自然にまつわる話を集めた番外編です。 今回紹介するかるたの「かた野」は、交野市内に限らず、天野川沿いから枚方市の禁野付近の、昔でいう交野が原を意味します。平安京から近く、自然豊かな交野が原は、皇族や平安貴族にとって人気の観光地となっていました。
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交野東部の山々は、大阪府と奈良県の境界である生駒山地に属します。 この生駒山地の山すその集落間を人々が行きかう道は、山の根元にある道という意味で、山根街道や山の根の道などと呼ばれるようになりました。 そのため、交野市内を通る道には同様の名前がいくつかあります。 明治27年の『大阪府茨田・交野・讃良郡役所統計書』に見られる「山根街道」は、私部西4丁目交差点付近から、私部・倉治の集落を抜けて、枚方市に入り、津田・藤阪・長尾の各集落を通り八幡市との境までの道のことです。 山根街道には、別ルートの「南山根街道」もあります。 明治36年の『大阪府史』にある、寝屋川市寝屋から、星田・私市・森の集落を抜け、山道を通って、傍示地区にある奈良県との県境までの道が南山根街道です。 また、江戸時代の学者である貝原益軒が書いた『南遊紀行』には「山の根道」「山根の大道」「山の根すじの大道」などの名前の道が登場します。 これらの道は京都から紀州高野山に通じる「高野街道」のことだと考えられ、交野では郡津集落から星田集落の北を通る東高野街道がこれにあたります。 これらの道のほかに、枚方市津田から東倉治・神宮寺・寺・森の各地の古社寺や遺跡を結ぶ道を、地元で「山の根の道」と呼んでいた道があります。 |
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「あまのがわ」と聞いて、みなさんが最初に思い浮かべるのは、七夕伝説に登場する天の川でしょうか。織姫と牽牛が、年に一度七月七日に天の川に架けられたカササギの橋を渡って出会うという話は、中国伝来の天上界の話です。 しかし、交野では天野川を挟んで、倉治にある機物神社の織姫の神と、枚方の中山廃寺の牽牛石の牽牛が、七夕の日に出会うという地上の話にになっています。 天野川には七夕伝説のほかに、中国から伝わったとされる羽衣伝説や、平安時代のプレイボーイ、交野少将と娘の悲恋話などが残っています。 天野川はこのような恋の物語が生まれるのにふさわしい、美しい川であったようです。
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平安時代の歌人である清少納言は、著名な『枕草子』で、風情ある野について、「野は嵯峨野さらなり(言うまでもない)、印南野、交野、駒野、飛火野、しめし野、春日野、そうけ野こそすずろにをかしけれ(なんとなく風情を感じる)」と記しています。 「野」とは、人の手がかけられていない広い土地のことを意味します。 このころは、自然が手つかずで残された土地も多い中で、清少納言が風情のある野として挙げるほど、交野はすばらしい景色だったのでしょう。
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歌や随筆で紹介されていた、交野が原は自然が多く、平安時代の貴族にとって良い狩り場でした。 枚方市の「禁野」という地明の由来は、ここが貴族たちが狩りをする場だったため、一般の人の「(狩りを)禁止する野」という意味です。 また、交野が原を流れる天野川の名称から、七夕伝説と結びつけて、貴族たちの遊び心をくすぐる歌の題材となり、多くの歌人や貴族が歌を残しました。 「またや見ん交野の御野の桜がり花の雪ちる春の曙(交野の桜の散るさまは雪の降るようで、ぜひ、また見たい)」という藤原俊成の歌が、『新古今和歌集』に残されています。
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『太平記』巻2に、「落花の雪にふみ迷う片野の春のさくら狩り、紅葉の錦きて帰る、嵐の山の秋の夕暮れ」と始まる文があります。 これは、後醍醐天皇の側近だった日野俊基が、鎌倉幕府転覆を企てたとして捕えられ、京都から鎌倉へ護送される段の冒頭部分です。 俊基は倒幕の急先鋒であり、護送される途中でいつ殺されても不思議ではなく、道中は悲惨なものであったといいます。 太平記では、その道行をきらびやかな名文で飾っています。 交野の春と嵐山の秋、京都の南の交野と北にある嵐山との対比は、その鮮やかな情景が浮かびます。 この文は、先ほど紹介した藤原俊成の歌を元にしており、当時から交野の桜は、嵐山の紅葉と匹敵するほどでした。 |
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