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広報 かたの 特集シリーズ

広報かたの 平成20年8月1日号

今月のテーマ:星田北地区の歴史を訪ねて

ボランティア解説員 平田 政信
 7月7日、市内各所では盛大に七夕祭りが催されました。みなさんは短冊にどのような願いごとを書かれたでしょうか。今回は、星にまつわる伝承地である、星田北地区を訪ねます。
 この地区は交野市の西端にあり、枚方・寝屋川両市と接しています。古い民家も多く残っていて、昔ながらの風景が見られます。
星田駅の今昔
 それではまず、星田駅の今昔を振り返りたいと思います。
 星田駅は明治31年4月に、片町線(学研都市線)の終点が四条畷駅から長尾駅まで延長されたことに伴い、同年7月に開業されました。
 右の写真は昭和10年に建てられた木造平屋建の3代目駅舎です。当時はこの駅舎の前で盆踊りなど地域の行事も行われていました。
 昭和55年には線路の高架化に伴い、鉄筋コンクリート製の4代目駅舎に建て替えられて今に至ります。
現在の星田駅
昭和40年代の星田駅
星田の一里塚
 星田駅から枚方市高田に続く道を100メートルほど進むと、車1台がやっと通行できる小道が右手に見えます。その小道はかつて京都の東寺と和歌山県の高野山を結んでいた東高野街道です。その道沿いに「一里塚」と書かれた石碑があります。
 一里塚とは、旅行者の目印として一里(約3・9キロメートル)毎に道路の両脇に設置した塚(盛り土)のことで、場所によって木が植えられたり標識が立てられたりしました。
 一里塚は江戸時代に全国の諸街道に設置されるようになり、当時の旅人にとっては、道のりの目安以外に、かごの乗り賃支払いの目安や、木陰で一息つける休憩所として欠かせない存在でした。
 星田の一里塚は、現在は塚がなくなり、街道の東端に一里塚跡の石碑が建ってるだけです。また、この付近には「芝塚」の当て字の四馬塚という地名が残っており、江戸時代に星田の一里塚がこの名前で呼ばれていたのだと想像されます。
現在の一里塚跡
 
陸軍専用鉄道跡
 星田駅から枚方の香里団地へ向かって一本の道路が弧を描いて延びています。この道路の一部と歩道は、星田駅から現在の香里団地付近にあった陸軍造兵廠香里製造所までの、約4キロの陸軍専用鉄道跡です。
 香里製造所は、陸軍が砲弾などに使用する火薬を製造していた日本有数の製造所で、列車は星田駅から工場への軍需品の輸送や工員の輸送に利用されていました。
 線路は戦争終結と同時に役割を終え、昭和23年、廃線となりました。
 この線路用地脇には民有地との境界を示す「陸軍用地」の石柱が立てられていました、現在では星田北6丁目の1本が残るのみです。
陸軍専用鉄道跡(右)
陸軍用地の石柱(下)
中村中尉鎮魂碑
 中村純一中尉という鹿児島県出身の青年パイロットの鎮魂碑です。昭和20年7月、星田上空で、中村中尉が乗る戦闘機が米軍戦闘機によって撃墜されました。中尉は脱出を試みましたが、落下傘で降下中に敵機に落下傘のひもを切られ、地面に激突し、弱冠23歳という若さで亡くなられました。
 当時、その様子を見ていた人は、戦闘機が、すさまじい爆音とともに黒煙を吐きながら落下していった、と語っており、激しい戦闘だったことが目に浮かびます。
 中尉が乗っていた戦闘機「飛燕」は、17年3月、第二京阪国道の建設用地から発見されました。現在は、機関砲やエンジンなどが、いきいきランド交野に展示されています。
中村中尉の鎮魂碑
飛燕の機関砲
今回は、星田駅からスタートして星田北地区を巡りました。普段何気なく暮らしているところでも、このような戦争のつめ跡がいまだに残っているのです。
 今年も8月15日、終戦の日が近づいてきました。みなさんも近くに訪れる機会がありましたら、今回紹介した陸軍専用鉄道跡地にある中村中尉の鎮魂碑に立ち寄ってみてください。そして平和の大切さについて考えてみてください。

シリーズで学ぶ交野の歴史
特別企画!!

今回は特別企画として、「交野の戦跡を訪ねて」を開催します。戦後60余年、交野の戦争のつめ跡を戦時中の写真も交えてご紹介します。
と き 8月29日(金)午前10時〜
ところ 倉治図書館2階 視聴覚室
講 師 歴史民俗史料展示室解説ボランティア
定 員 30人
参考資料 「銃後の記録」交野市民の 戦争体験をつづった一冊(400円)
申し込み・問い合わせ 歴史民俗資 料展示室(TEL810・6667) 
※月・火曜日は休室です。

 

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