ー飛鳥・奈良時代の交野ー |
中角さんは、「飛鳥奈良時代の交野」をご講演され、最後に片山長三先生が描かれた、奈良時代の交野地方の想像復元図が交野市の別館ロビーに掲げられているが、早い日に教育文化会館に移転したい、今の私の一番の願いだと締めくくられたことが印象的でした。 |
今回は白鳳・天平文化が花開いた、飛鳥・奈良時代の交野を紹介したいと思います。
奈良時代とは、今からおよそ1400年前〜1200年前のことです。この時代を、展示室に入って右奥のケースにある、当時の瓦やせん仏(土製の仏像)と、当時の様子を描いた大きな絵画から紹介します。
飛鳥・奈良時代の瓦
■素弁八葉蓮華文軒丸瓦(写真左)と忍冬唐草文軒丸瓦(写真右)
素弁八葉蓮華文軒丸瓦は、郡津1丁目の明遍寺付近から水道工事の際に採取されました。市内で一番古い瓦で、飛鳥時代のものです。
奈良の豊浦寺から出土した瓦に似たもので、朝鮮半島の高句麗に系譜を持つのではと考えられています。
忍冬唐草文軒丸瓦は、同じく郡津1丁目の郡津神社から出土したもので、奈良時代に作られたものです。
忍冬唐草文軒丸瓦と同じ文様をもつ瓦は日本では見つかっておらず、朝鮮半島の新羅に系譜を持つのではと考えられています。
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■複弁十葉蓮華文軒丸瓦(写真上)と均整唐草文軒平瓦(写真下)
森3丁目の須弥寺の境内から出土した、奈良時代の瓦です。
この瓦も同じ文様の瓦は見つかっていません。
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■火頭形三尊槫仏
私市の月の輪滝周辺から発見されました。奈良時代に作られたもので、寺院内部の壁や、大型の仏像の光背を飾ったものだと思われます。奈良市の阿弥陀山寺から出土のものと同型です。
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当時の交野の様子 奈良時代を描いた絵画から
市役所別館を入ってすぐ、1階のロビー右手の壁面いっぱいに、交野山を望んで、奈良時代の交野市の寺院や郡衙(当時の役所)、倉庫や集落が描かれた絵画が飾ってあります。
この絵は、昭和46年に、交野郷土史の先駆者である故・片山長三さんが描いたものです。余談ですが、片山さんは私の中学校(旧制中学校、現在の四條畷高校)時代の恩師でもあります。
奈良時代の交野を描いた絵画(市役所別館1階ロビー) |
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長宝寺と交野郡衙
絵画の手前には長宝寺と交野郡衙が描かれています。
長宝寺は薬師寺式の伽藍配置で描かれています。郡津から出土した素弁八葉蓮華文軒丸瓦や忍冬唐草文軒丸瓦は、これらの塔やお堂の屋根に使われていたと想像してください。
長宝寺の右手には、交野郡衙があります。この場所は現在の郡津小学校にあたり、この付近の調査では、多数の柱の跡や土器が見つかりました。また、この地は「くらやま」という小字名が残っており、交野郡内から集められた米などを保管する高床式倉庫群が描かれています。
平城京の発掘調査で見つかった木簡には、肩野津(郡津付近にあったと思われる港)から米を運んだことが書いてあり、当時の郡津は寺院と役所だけでなく、物流センターもあった交野の中心地でした。 |
長宝寺 |
交野郡衙 |
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須弥寺・開元寺
絵画の奥の山裾には森の集落があります。この集落には当時から現在まで存在する、須弥寺という寺があります。
このお寺は、もとは古墳時代に森遺跡で鉄器制作をしていた鍛冶造という氏族の氏寺として建てられたようです。
彼らは平安時代に姓を守部に変え、交野郡衙の役人として記録に記されています。
森地区の左側の山すそには、寺地区に徳泉寺、神宮寺地区に開元寺、枚方の津田地区には津田寺の3つの寺の塔が見えます。このうち開元寺の推定地からは、塔に使われたであろう大きな礎石が見つかっています。現在、この礎石は資料室の入り口横に運び込まれています。
いずれの寺も室町時代に書かれた「興福寺官務牒疎」という記録の中に、天平時代の僧、宣教大師が建てたと書かれています。
絵を描いた片山さんは、交野忌寸という漢人庄員(渡来系氏族)の子孫が寺に深く関わったのではないかと考えていたようです。
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開元寺の塔 |
開元寺の礎石 |
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今回は、歴史民俗資料展示室を飛び出して市役所別館の絵も紹介しました。
この時代を物語る史料として、どちらも見ていただき飛鳥・奈良時代の繁栄に思いをめぐらせていただければと思います。
歴史民俗資料展示室 ボランティア解説員 中角甫
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