平成23年度  9月定例勉強会

徳川家康シリーズ 第二弾
大坂冬の陣・夏の陣
 
  講師: 高尾 秀司氏 (古文化同好会)

青年の家 学びの館 午前10時〜12時
 31名の参加
 2011.9.24(土)午前10時より爽やかな秋晴れの中、9月定例勉強会には歴史を愛する熱心な31名の方々が参加されました。参加された方の内訳は会員20名に加えて、「会報かたの」の催しページなどを見られて参加された方が11名と賑やかなことであった。11名のうち4名の方が早速会員登録をされた。今年度から力を入れている、会員増強に一段と拍車がかかったようで誠に嬉しい勉強会となりました。

 村田広報部長の司会で始まり、冒頭9月10日に開催された、お江の里・バス旅行が参加の皆さんの協力で楽しく開催されたことに謝意が述べられ、講演会の最後で「小谷城跡を登る」のDVDを披露する旨挨拶があった。続いて今回の講演に先立ち、講師の高尾秀司さんが半年をかけて大阪城周辺や天王寺・八尾・柏原の史跡に、また遠く関ヶ原まで足を延ばされ現地でレンタルサイクルを借り、史跡巡りをされたりして資料を収集されたことなどが紹介された。

 高尾秀司氏は、「大坂冬の陣・夏の陣」をテーマに現地で収集された沢山の資料と撮影された写真などをパワーポイントを駆使して大変分かり易くご講演をされました。講演後、磐船神社の巨岩にまつわる伝説のことや、家康が沢山の子孫を残し江戸時代250年の礎を作ったことなど、質問が相次ぎ、最後に平田副会長より古文化同好会の40周年事業への協力依頼と明快な解説で閉会となりました。

 HPの掲載に当たり、講師のご厚意で当日配布されたマニュアルやパワーポイントの資料などを提供頂きましたこと、記して感謝申し上げます。
研修 風景


講師:高尾秀司氏

古文化同好会 勉強会  徳川家康シリーズ 第二弾 
     大坂冬の陣・夏の陣
  
        平成23年9月24日  午前10時〜 12時
        於 青年の家・学びの館       講師 :  高尾 秀司氏
「文禄の役と関ヶ原の戦い」
 徳川家康は前回お話をした「伊賀越え逃走記・1582年」から33年後、1615年(慶長15)再び星田にやつてまいりました。大坂夏の陣であります。前年の大坂冬に陣の後であります。今回はこの冬の陣、夏の陣についてお話をしたいと思いますが、冬の陣・夏の陣を語るには秀吉の「朝鮮出兵」と「関ケ原の戦い」から話を進めねばならないと思います。

「朝鮮出兵」1592年(文禄1)
 秀吉唐津名護屋に陣し、15万の軍が朝鮮に攻め入る、これが「文禄の役」であります。この戦いで三成が清正を過小評価して秀吉に報告。強制帰国させられる。この為、加藤清正と石田三成が対立(武断派、加藤清正・福島正則対 文治派、石田三成・小西行長)
「慶長の役」1597〜 1598(慶長3年)二次派兵


「秀吉の死」1598年(慶長3年)
 秀吉の死亡によりこの戦いは終わりをつげる、五大老による決断、当時の五大老 前田利家 徳川家康、宇喜多秀家 小早川隆景 毛利輝元、五奉行(前田玄以、浅野長政、増田長盛、石田三成、長東正家)

「石田三成」
 近江佐和山城主、19万石。豊臣5奉行筆頭格、前田利家の死後、武断派に襲撃され、家康邸に逃げる。(武断派・清正、正則、池田輝政、黒田長政、細川忠興、浅野幸長、加藤嘉明の七将) 家康の裁断で佐和山城蟄居、奉行解任

「石田三成の挙兵」
 三成、家康に弾劾状を発し伏見城を攻め関ヶ原の前哨戦が始まる。

「小山評定」
 家康、上杉征伐の途中、1600年7月19日 大坂の増田長盛より江戸の家康の元に12日付けの書状が届く。内容は上杉征伐に従軍予定の大谷吉継が三成と共に挙兵するという風説である。家康は予定どうり21日江戸を出発24日小山に到着。秀忠はじめ全軍の諸将は小山に召集された。これがのちに「小山評定」と呼ばれる。参加したのが豊臣恩顧の福島正則、細川忠興、山内一豊らでこの「小山評定」で彼等が三成と戦う事に決す。

「関ヶ原の戦い1600年(慶長5年)9月15日

 「西軍」  石田三成、小西行長、島津義弘、宇喜多秀家、大谷吉継、小早川秀秋(最後東軍に)等 総勢約8万4千人

 「東軍」  徳川家康、福島正則、藤堂高虎、井伊直政、黒田長政、本田忠勝等総勢 約7万4千人
☆譜代の直臣で構成する秀忠軍参戦出来ず。(榊原康政ら)


「合戦の内容」
 天下分け目の合戦で有名な関ヶ原合戦は、豊臣と徳川がその運命をかけた一大決戦であった。この朝8時頃井伊、松平軍が先ず進出して宇喜多隊に向つて戦端を開いた。これを見た福島隊はこれも宇喜多を攻撃した。かくて戦機を得た東方に陣取る諸隊は石田、小西の隊を攻撃、左翼の藤堂・京極隊も大谷隊と交戦し戦いはたけなわとなった。ここにきて家康の激に反応して小早川秀秋が反旗をひるがえして大谷隊を攻めた。この為大谷隊が壊滅し形勢が一気に逆転し西軍の敗北となった。
三成は田中吉政配下に捕えられる。

 この戦いは名目上は豊臣政権内に於ける「内戦」であり、実際家康は合戦後の9月27日大坂城で秀頼とその母淀殿に対面し勝利を報告し、秀頼への忠誠を誓っている。


「家康」1603年、征夷大将軍になる(徳川幕府成立)

「秀吉側の有力武将の死による弱体化」
 前田利家 秀頼の後見人でもあつたが1599年死亡、加藤清正 豊臣家の忠臣清正だが、関ヶ原の戦いでは家康に味方する。これは石田三成との不仲が原因といわれる。
 慶長11年(1611)清正の仲介で秀頼と家康の面会を実現させている。この時家康は秀頼の成人ぶりに驚き恐怖を覚えたといわれる。このあと熊本へ帰る船中で発病し熊本に帰つてから死亡している。清正は生涯豊臣家には忠節を尽くす。



「方広寺鐘銘事件」 慶長19年17月(1614年)
 家康は豊臣家の膨大な遺産を分散させるため、秀吉の供養の名目で京・大坂に寺社の建立や再建を勧めた。その一つである京都、方広寺の梵鐘に刻まれた銘文「国家安康・君臣豊楽」を家康の名を分断することで、豊臣家の繁栄を願つたものとして、異議を唱え大坂の陣の原因となった。

冬の陣と片桐且元
 徳川方との交渉で不信を招く。襲撃の危険を察して茨木城へ帰る。これを期に豊臣方が茨木城を攻める。徳川はこれを口実にして、冬の陣が始まる。慶長19(1614)年11月 大坂城の堅牢さ、真田幸村等の活躍(真田丸)等で徳川方は大坂城を攻めきれず。外堀の埋立、二の丸、三の丸の破却を条件に和解(同年12月)

「大野治長」
 片桐且元が城を出たあと豊臣家を主導する立場になる。治長は淀君の乳母である大蔵卿局の子にあたる。秀吉の死後秀頼の側近として仕えた。大坂の陣の戦いを主導。

「交野の獅子窟寺焼かれる」
 交野では夏の陣の始まる前、大野治長が私市の獅子窟寺に要員供出協力の要請があつたが、寺側は大坂方が負けるのが分かつていたので、この申し出を拒否する。そのため全山焼き討ちにされ、寺も焼けてしまいました。

「夏の陣」
 徳川方は大坂方の堀を埋め戻すなど、約定違反を口実に城を攻めにかかりました。夏の陣の始りであります。
 徳川家康、1615年(慶長20)5月5日、朝9時京都二条城出発、午後3時星田の里生、平井三郎衛門清貞家到着。宿泊、翌6日新宮山の松に旗を掛け(家康旗掛け松の碑)出陣、四条畷に陣をしく。(忍が丘神社に陣の説明有)(古墳の上)
 6日若江で木村重成軍は藤堂高虎、井伊直孝軍と戦い戦死。(東大坂若江に重成の墓がある。八尾では長宗我部盛親軍が藤堂高虎軍と戦い敗走。(八尾常光寺に藤堂方戦死者の墓と首実検したという廊下がある)。道明寺の戦いで後藤又兵衛軍は伊達政宗軍と戦い戦死。(柏原、玉手山公園に又兵衛の墓がある)。真田幸村は道明寺に進むも大野治長の要請で大阪城に引き上げる。家康はこの夜、枚岡、豊浦の中村家に宿陣(冬の陣・秀忠宿陣)。
 7日早朝、家康ら徳川軍は平野から天王寺、大阪城を目指す。秀忠は岡山口、家康は天王寺口から(幸村、茶臼山に布陣、安居神社で真田幸村、戦死) 大坂城を攻め炎上、大野治長、千姫を逃がして助命嘆願の使者をだす。秀忠受け入れず。
 翌8日、山里丸の唐物倉で淀殿・秀頼自刃。つき従っていた大野治長はじめ全員これに殉じた。ここに大坂城と共に豊臣家も滅びる。現地に自刃の碑有、又淀殿の墓は北区の太融寺境内にある。


「その後の家康と大阪城」
「家康の死」

 この年7月(1615)に年号を「慶長20年から元和元年」に年号を替えている。「元和偃武」・武器を用いないで、平和になったことをさす。家康は暫く二条城に滞在。8月京をたち、駿府に向かう。翌元和2年1月21日、鷹狩に出かけ夜中に突然腹痛を起す。この時の発病は京都から来た茶屋四郎次郎にすすめられ,カヤの油であげた鯛のてんぶらをおいしくて、食べ過ぎたのが原因と言われる。
秀忠、諸大名も見舞う。4月に入り死期の近いことを悟つた家康は遺言をする。
  @遺体は久能山に葬ること
  A葬礼は江戸増上寺でおこなうこと
  B位牌は三河大樹寺におくこと
  C一周忌の後、下野日光山に小堂を建てて勧請すべきこと、であった。
4月17日午前10時、波乱に満ちた75歳の生涯を閉じた。


大坂城
 秀吉の大阪城は夏の陣で焼失した。しかし2代将軍秀忠は大坂が幕府の西国支配の重要地であると認識したことから幕府の直轄地とし、大規模な大阪城再築の工をおこすことにした。(大阪城代、大番頭、東西町奉行所の設置)  現在の石垣は江戸時代初期の元和6年(1620)から寛永6年(1629)に徳川の命令で東国の外様大名が中心になって築いたものである。

 現在残っている大石垣はこの時代のものである。本丸は寛永元年(1624)から同3年までに築かれている。この天守は竣工39年後、寛文5年(1665)に落雷により焼失してしまい、その後は市民による昭和6年の天守復興まで、本丸に天守はなかった。旧大坂城は9m地下に遺構が残っているという。近年の発掘調査でいろいろと判明してきております。
            終り

当日、高尾 秀司氏が講演されたパワーポイント画像を
紹介いたしますので、参考にご覧ください
大坂冬の陣・夏の陣
大坂冬の陣・夏の陣  概略
大阪冬の陣・夏の陣 概説

慶長20年(1615)5月7日、大阪夏の陣の最終決戦が大阪城南方の茶臼山・岡山付近で行われました。豊臣方の主兵力がこの戦いで壊滅。勝負はほぼ決しました。

1600年関ヶ原の戦いで石田三成らの勢力が徳川家康を中心とする勢力に破れ、天下は豊臣家から徳川家に移ります。1603年には家康が征夷大将軍に任じられ、名実ともに家康は日本の支配者となりました。豊臣家は事実上、大阪を領地とする一大名の地位に落ちます。

しかし、豊臣方では大阪城の事実上の主である淀君(茶々)らは、家康はまだ秀吉の子の秀頼が幼いからいったんは家康が将軍になっただけで、次はまた豊臣である、などという甘い考えを持っていました。そしてまだこの時点では家康側も豊臣がこの後大きな反抗をするとは考えておらず、融和策の一つとして、孫娘の千姫(当時7歳)を秀頼(同11歳)に嫁がせるなどの策を取ります。

しかし豊臣方が一向に徳川家を天下人として認めないことにいらだった家康は、はっきりしたデモンストレーションとして、1905年将軍職を自分の息子の秀忠に譲るという行為に出ました。今後の将軍職は徳川家が代々継いで行くのだということを全国に宣言した訳です。これに対して淀君は驚くとともに態度を硬化させ、両者の緊張は高まります。

しかし1611年、17歳になった豊臣秀頼は京都の二条城に家康を訪問。両者の会談によって豊臣側は一大名としての地位を確認、いったん緊張は表面的には緩和されます。しかし母親の淀君にはそれは我慢のならないことでした。そして家康側も、決戦は近いという感触を持ちます。

この年、豊臣は秀吉の建てたお寺・方広寺に大仏殿を完成させますが、ここに梵鐘を作ることになります。この梵鐘には、国家安康・君臣豊楽の文字が刻まれました。それを聞いた家康は、豊臣を攻める口実ができたと考えます。

「国家安康」は「家康」の文字を2つに切って徳川家を呪うものであり「君臣豊楽」で豊臣家が再び君主になろうという意図を秘めたものだ、という訳です。こんな文字を刻む方もアホですが、古来戦争の始まりには、相手の何気ない言葉が利用されてきました。かつて崇峻天皇は献上された猪を見て「この猪の首を落とすように、あいつの首も落としてやりたいものだ」などとつぶやいて、その「あいつ」こと蘇我馬子の兵力に正当防衛として殺害されてしまいました。

かくして1614年11月、大阪冬の陣が起きます。戦況は真田幸村らの軍が一人気を吐いた他は徳川側の優勢のまま和議へ。和議の内容は書面で交わした分には非常に豊臣側に有利なものでした。淀君も満足だったのですが、その時に口約束で、大阪城の外堀を埋めることを豊臣側は同意しました。しかしこの口約束というものがくせ者でした。

工事が始まると豊臣側はびっくりします。徳川側が外堀だけでなく内堀まで埋め始めたからです。当然抗議しますが、きちんと書面で交わしたものではなく口約束であったために、豊臣方の主張を徳川方はのらりくらりとかわし、かわしている間に、きれいに工事は終わってしまいました。かくして大阪城は完全に裸城になってしまいます。

そして、春4月。その裸城になった大阪城に対して、家康は諸大名に攻撃を命令。4月26日、大阪夏の陣が開戦しました。

二重の堀に守られて徳川方が攻めあぐねた冬の陣と違って、夏の陣では豊臣方も籠城している訳にはいきません。たびたび外に打って出ますが、戦況は厳しく、5月6日頃にはだいたいの勝敗が見えてきました。ここで徳川方は7日に家康の孫娘・千姫を厳しい淀君の監視下から城外に脱出させることに成功。そしてこの日、最後の決戦も行われました。

この戦いで、散々徳川を苦しませた真田幸村も戦死。豊臣方の主戦力も壊滅して、完全に勝負は付きました。

そして翌日の昼頃、淀君と秀頼の母子も自決。豊臣家は滅亡してしまいます(秀頼の遺児国松は捉えられて23日に処刑)。1582年の本能寺の変の後秀吉が天下を取ってからわずか33年のことでした。
大坂冬の陣〜夏の陣へ

以下は、玉手山の歴史館ホームページを参照させて頂きました。
記して、感謝申し上げます。
大坂冬の陣への序曲

慶長3年(1598)、太閤・豊臣秀吉、没。
慶長5年(1600)、関ヶ原の戦いに勝利した徳川家康は、慶長8年(1603)に征夷大将軍の宣下を受け、天下の実権をほぼ手中におさめた。他方、秀吉の遺児、豊臣秀頼は、関ヶ原の戦いの後、摂河泉(現在の大阪府の全域と兵庫県の一部)65万7千石の一大名に転落した。
しかし、天下の名城・大坂城にあって莫大な金銀を貯える秀頼は、家康にとって、依然、あなどりがたい存在であった。そこで、家康は、豊臣家の財力を失わせるため、故太閤秀吉の菩提をとむらうためなどと称し、秀頼に対して、さかんに寺社の造営・修復を勧めた。その中の一つが京都東山・方広寺大仏殿の再建工事である。

当時、秀頼が造営・修復した寺社など,
方広寺大仏殿、誉田八幡宮、四天王寺、東寺金堂、石清水八幡宮、生国魂神社、勝尾寺、中山寺、叡福寺太子堂、観心寺金堂、常光寺庫裏、宇治橋、鞍馬寺など。

方広寺大仏殿は、慶長17年(1612)に完成。同19年には大仏の鐘も完成したが、家康は、このとき鋳造された鐘銘の中に「国家安康、君臣豊楽」とあるのに、いいがかりをつけ、豊臣氏を挑発した。すなわち、「家康」の名を「国安」で切って家康を呪っている、
「君臣豊楽」とは、豊臣を主君として楽しむの意味だ、というわけである。
この一件の弁明のため、片桐且元が家康のもとに向かったが、この且元が豊臣氏から裏切り者の汚名をかぶせられ大坂城から退けられるに至って、ついに両者の戦いは避けられない情勢となった。
かくして、勃発したのが、大坂冬の陣である。


大坂冬の陣の戦闘経過

冬の陣は、主として、篭城戦で戦われた。豊臣方の兵力は約10万、徳川方の兵力は約20万(一説には約30万)といわれる。

慶長19年(1614)10月23日、徳川家康、軍勢を率いて京に入る。
10月26日、藤堂高虎、家康の命を受け、河内国府に本陣をおく。
11月3日、高虎、枚方方面から南下した松平忠明らと呼応、平野口から住吉に進撃。
11月5日、豊臣方の薄田兼相、平野口に出撃。徳川方の来襲をきき、急ぎ大坂城に入る。
11月6日、高虎、浅野長晟、住吉に布陣。松平忠継、有馬豊氏、中島に布陣。加藤明成、神崎から北中島に進撃。
11月15日、家康、二条城を進発、奈良に至る。徳川秀忠(将軍、家康の嫡男)、伏見から枚方に到着。
11月17日、家康、住吉に布陣。秀忠、平野口に至る。
11月19日、秀忠、住吉の家康本陣に到着。軍議の後、攻城の準備を終える。
11月25日、家康、大坂城の堀の水をからすため、淀川に春日井堤を築くべく、伊奈忠政に工事の監督を命じる。
佐竹義宣、上杉景勝、豊臣方の鴫野、今福の砦を占領。
野田、福島も徳川方の手に落ちる。家康、このころから和議交渉を始める。
11月29日、徳川方の蜂須賀至鎮、石川忠総ら、阿波座、土佐座を攻略。
12月2日、家康、茶臼山に本陣を進める。以後、大坂城の攻防が続く。
12月16日〜19日、家康、約300門の大砲で大坂城を砲撃させる。
12月22日、和議成立。
大坂夏の陣の勃発

和議の条件として、徳川家康、秀忠から豊臣氏に、次の5カ条の誓紙が出された。
1大坂城に篭城した浪人達の罪は問わない。
2秀頼の知行は、以前のとおりとする。
3淀君(秀頼の母)は、江戸に下る必要はない。
4秀頼が大坂を立ち退くというなら、どこへ行こうと望みしだいである。
5家康、秀忠は、秀頼に対して、いささかも不信行為はしない。

そして、和議の条件として、大坂城の外堀と内堀は埋め立てられ、二の丸と三の丸も破壊されて、大坂城は本丸だけの「はだか城」とされた。しかし、和議は、豊臣氏に味方した、立身出世や仕官を望む浪人達にとっては失業を意味した。このため、大坂城内では、しだいに再戦を望む声が高まって行き、埋め立てられた堀の復旧工事などが開始された。
これを知った家康は、先の誓紙をひるがえし、豊臣氏に対して、「城中の浪人をすべて追放するか、豊臣氏は大坂城を出て伊勢か大和へ移れ」との要求をつきつけた。
ここに至って豊臣氏の怒りは爆発、ついに再戦が決せられた。夏の陣の勃発である。しかし、本丸だけの「はだか城」では、冬の陣のときのように篭城戦法に頼るわけにはいかない。そこで、豊臣氏は、徳川氏に野戦を挑むこととした。


大坂夏の陣の戦闘経過

夏の陣の主戦場は、河内であった。豊臣方約5万、徳川方約15万5千といわれる。
慶長20年(1615)4月28日、豊臣方の大野治房ら、泉南の樫井で徳川方の浅野長晟らと合戦。豊臣方の塙団右衛門、討ち死に。豊臣方は、治房の報告により、徳川方が、河内街道からだけでなく奈良街道からも進撃して来ることを知る。
5月1日、豊臣方の後藤基次、薄田兼相ら平野に出陣。真田幸村ら天王寺に布陣。
5月5日、家康、京を進発。秀忠、伏見を進発。徳川方の先陣・藤堂高虎、河内千塚に布陣。井伊直孝、楽音寺に布陣。水野勝成、河内国分に布陣。徳川方の本多忠政、松平忠明、伊達政宗らの諸隊も河内に到着。伊達隊の先鋒・片倉重綱、片山に布陣。
5月6日、後藤基次、小松山で徳川方の諸隊と激突して、討ち死に。小松山の戦い。薄田兼相、道明寺河原の戦いで討ち死に。豊臣方の残兵、藤井寺・誉田森へ退却。豊臣方の木村重成、佐久間忠頼らの諸将、八尾・若江で相次いで討ち死に。豊臣方の真田幸村、毛利勝久ら大坂城に退却。
5月7日、真田幸村、家康の本陣に突入して討ち死に。徳川方も本多忠朝、小笠原秀政ら討ち死に。
5月8日、大坂城落城。秀頼、淀君らは自害。豊臣氏、滅亡。一説によると、毛利勝永が秀頼の介錯をつとめ、その後に自害したという。
5月8日、天晴 巳刻に至り大坂城落つ、秀頼公、同御袋、そのほか女中20人ばかり自害の由也、打ち死にの衆2万ばかりの由也、(中略) その夜、もってのほか雨降る。(梵舜日記)


両軍の作戦

徳川方は、紀伊方面からの部隊のほか、本隊と別働隊の2隊に分かれて大坂城を目指した。家康、秀忠以下約12万の本隊は生駒山麓西側の高野街道を進む河内路を、伊達政宗ら約3万5千の別働隊は奈良・法隆寺方面から河内に入る大和路をとった。
道明寺方面で合流し、その後に平野、住吉方面から大坂城に攻め上ろうとの作戦である。
これを知った豊臣方では、徳川方が合流する前に機先を制して各個撃破する、との方針を立てた。木村長門守重成(約4千7百)と長宗我部宮内少輔盛親(約5千)が高野街道を南下する徳川方本隊を八尾・若江で側面から攻撃し、後藤又兵衛基次(約2千8百)、薄田隼人正兼相(約4百)、真田左衛門尉幸村(約3千)、毛利勝永(約3千)らは、国分の狭路を通って河内に入って来ようとする別働隊を迎え撃とうというのである。
大坂城に守備兵力のほか約1万の予備兵力を配置し、八尾、国分、紀伊の3方面で徳川方を迎え撃つ。勝機のつかめそうな方面に予備兵力を投入して徳川方に打撃を与え、兵力差をできるだけ縮めて後、全兵力を大坂城に戻して態勢を整え最終決戦にのぞむ、というのが、豊臣方の戦略であった。
しかし、豊臣方の動きは、忍者からの報告などにより徳川方に筒抜けであったのに対し、豊臣方では今ひとつ情報収集力に欠けるところがあった。そのうえ、諸隊の動きが統一性を欠くなど、いくつかの問題点をかかえていた。


小松山の戦い(国分・道明寺の戦い)

5月1日、後藤又兵衛基次、薄田隼人正兼相ら平野に到着。真田幸村、毛利勝永ら天王寺に布陣。
5月5日、幸村らは、基次と会合、6日を期して道明寺で合流し、国分において徳川方を迎え撃つことを約した。
同日夜、基次は、約2千8百の軍勢を率いて平野を進発。奈良街道を東進し、6日未明、藤井寺に到着した。しかし、濃霧のため、他の諸隊は、予定どおり到着できなかった。しかも、基次ら豊臣方の動きは、すでに徳川方の知るところであったという。
このため、基次は単独で道明寺に進出したが、このときすでに徳川方は国分に入ってしまっていた。そこで、基次は、後続の諸隊を待つことなく、先鋒の山田外記、古沢満興に命じて、石川を渡り、当初の作戦どおり、小松山を占領させた。
山田外記の旗幟が山上に立ったのを見た基次は、急ぎ本隊を小松山に登らせた。
午前4時ごろ、後藤隊の先頭は、山を下って徳川方の諸隊と激突、攻め登って来る徳川方とのあいだで、小松山の争奪をめぐって激しい戦闘が繰り広げられた。しかし、徳川方は、水野勝成隊(約3千8百)、本多忠政隊(約5千)、松平忠明隊(約3千8百)、伊達政宗隊(約1万)の合計2万3千もの兵力。初めは優勢だった後藤隊も衆寡敵せず、しだいに圧倒されて三方から包囲された形になり、基次は討ち死に、後藤隊も壊滅してしまった。時に6日午前10時ごろ、激闘実に6時間であった。
基次の討ち死にの原因は、「矢きずを負って」とも「鉄砲に胸を撃たれて」ともいわれている。負傷した後に自害した。吉村武右衛門が介錯したという。
徳川方でも奥田三郎右衛門忠次、山田十郎兵衛らが討ち死にしている。
「軍兵大勢討死。大坂方は猶もって大勢打死。この三村(円明村、玉手村、片山村)の地、あき間もなきほど死体ありける」(河内鑑名所記、延宝7年・1679著者は柏原の人、三田浄久)薄田兼相、明石掃部、真田幸村、毛利勝永らの諸隊は、基次討ち死にの後、道明寺に到着。薄田隊は、総くずれとなって、兼相は討ち死に。明石隊は、徳川方の攻撃を防ぎつつ後退。毛利隊は、敗走して来た将兵を収容して撤退。真田隊は、味方諸隊の撤退援護のため誉田村に前進、伊達隊の攻撃を撃退し敗走させたものの、八尾・若江方面の戦いで木村隊が壊滅したとの報告を受け、大坂城へ撤退した。
八尾・若江方面の戦いでの木村重成の討ち死にと木村隊、長宗我部隊の壊滅は、6日昼すぎのことであった。濃霧の中での遭遇戦で、徳川方の藤堂高虎、井伊直孝らの隊も大きな損害を出した。

現在、玉手山公園内に「後藤又兵衛基次の碑」、「吉村武右衛門の碑」、「両軍戦死者供養塔」、「後藤又兵衛しだれ桜」(平成12年2月植樹)が、周辺には「大坂夏の陣古戦場碑」、「後藤又兵衛奮戦の地碑」、「奥田三郎右衛門の墓」、「山田十郎兵衛の墓」などがある。



後藤又兵衛基次 略伝

後藤又兵衛基次は、播磨の別所氏の家臣・後藤基国の次男として、永禄3年(1560)に生まれたといわれる。黒田長政に仕え、筑前大隈城主として1万6千石を領したが、謀反の疑いを受け、浪人となった。慶長19年(1614)の大坂冬の陣のとき、豊臣秀頼の招きで豊臣方に味方して大坂城に篭城。翌年の大坂夏の陣でも豊臣方に味方して、玉手山で討ち死にした。
大坂の陣の当時、基次は、真田幸村、長宗我部盛親、毛利勝久、明石掃部とともに豊臣方の5人衆と呼ばれた。
平成12年(2000)2月、又兵衛基次を記念して、基次が花と散った玉手山の地、市立玉手山公園内の基次の碑の横に「後藤又兵衛しだれ桜」が、市民からの寄付により植樹された。


備 考
「大阪」と表記されるようになったのは明治以降。それ以前は「大坂」と表記されていた。大坂夏の陣が終わった直後の7月13日に「元和」と改元(年号が変わる)された。

参考文献
「柏原市史」第3巻 (柏原市 1972年3月)
「かしわらの史跡」 (重田堅一、柏原市 1992年3月)
「図説再見大阪城」 (渡辺武、(財)大阪都市協会 1983年9月)
「歴史群像シリーズ40 大坂の陣」(学習研究社 1994年12月)
「歴史群像」No41所載「決戦!大坂の陣」(河合秀郎)(学習研究社 2000年2月)
最後までご覧頂き有難うございます!


交野古文化同好会のTOPへ

HPのTOPページへ戻る