総会に引き続き、特別講演会 「椿井文書と交野地域」について、馬部隆弘氏(長岡京市教育委員会)より、椿井文書とは何か、椿井の着眼点は、椿井のテクニック、椿井文書が受け入れられる理由、交野の地域史への影響など、沢山の資料と映像を交えながら詳しくお話しいただきました。 馬部先生、ご講演有難うございました。 |
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椿井文書と交野地域 はじめに ○由緒書・偽文書と歴史学 ‐ 一 椿井文書とは? ○山城国相楽郡椿井村(木津川市山城町椿井)在住の椿井政隆(1770〜 1837)が作成。 ○継体天皇の皇位継承に関する研究への影響〜政権交代を支えた「息長」一族(北近江→南山城) 『記紀』…・山代大筒木真若王―迦爾米雷王―息長宿祢王一神功皇后・息長一族 嘉吉元年(1441)「興福寺官務牒疏」…現大御堂観音寺がかつては「息長山普賢寺」 康元元年(1256)「朱智牛頭天王宮御流紀疏」…祭神「迦爾米雷王」を子孫の朱智氏・息長氏が祀る。 二 椿井の着眼点 ○素材選び一延喜式内社への着目― なびか 並河誠所(なびかせいしょ)(1668〜 1738)編纂の『五畿内志』・・・式内社の徹底的に特定。 後世の歴史家たちのバイブル 『五畿内志』のアラに着日し、不確定な歴史の確証を創り地元へ(固有名詞の確保) ○スポンサー探し 富農の系図を大量に作成。関連文書の売り込み 山争いに出没 … 津田村(津田城)→津田山←穂谷村(氷室) 社格争いに出没 … 近江蒲生郡中之郷村坂本林平の記録 三 椿井のテクニック ○連名帳の作成…系図の相互関係 ○史蹟への着目…氷室・王仁墓 ○絵図で集大成…連名帳⇔系図⇔史蹟⇔絵図。何度も筆写したことを強調。「原本」は椿井家・客には写 ○各地域で描いた歴史を『興福寺官務牒疏』で総合…広範囲の歴史が複雑に絡まる 四 「椿井文書」が受け入れられる理由 ○慎重な行動範囲とその広さ ○明治20年頃に、第二者によって「原本」が売却される。 「当地方ハー時各村共木津行大流行致し、本郡二も仝記録沢山有之」 ○研究者と自治体史による再生産 五 交野地域史への影響 ○津田村長三宅氏の記録 津田17家のほか、私部村の北田・安見など20家分の系譜を発見 ○「私部城主安見直政」の創出と定着 史実…安見美作守宗房(南山城から河内にかけて)・安見右近(私部周辺のみ) 17世紀「室町殿日記」・・・安見河内守直正(私部を中心に河内一帯) 並河誠所1735『五畿内志』・・・安見直政 椿井政隆「山城国諸侍木津川原着到状」・・・上奈良村 安見美作守則経 椿井政隆19世紀前半「保見氏系図譜」・・・安見美作守時重(藤井寺市小山城→私部城)・安見図書助直政 太田亮1934-36『姓氏家系大辞典』 片山長三1963『交野町史』 |
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椿井文書とは、江戸後期の相楽郡椿井村(今の山城町)に住んでいた椿井政隆(1770〜 1837)が依頼者の求めに応じて作成した偽文書のことで、山城・大和・河内・近江・伊賀の広範囲にわたつて大量に残されており、今現在も多くの自治体史や研究論文で中世史料として利用され続けています。 この文書は18世紀末期から19世紀初頭にかけて大量に作成されたもので、これは椿井政隆の活動期と重なり、その特徴は、例えば興福寺官務家などに伝わる中世に属する古い資料の「模写Jと云う体裁をとるところにあります。興福寺官務家などに伝わる資料を写したなどと称するのは、この文書が中世のものであると偽装する意図であり、中世そのものの文書を椿井政隆の生きた時代に作成するわけにはいかないから、後の時代に「模写」された文書とするわけであります。 それらは、椿井政隆本人によつて各地に残されたものもありますが、多くは明治20年代になつて椿井氏(後裔)によつて質入され、その質入された文書は、質入先である今井氏(山城木津在住)の手で売却されたため、地域各所で椿井氏によつて蒐集された中世文書が戻つてきたとして取り扱われ、その結果膨大な量の偽文書が中世文書として流出してしまつたことにより、偽文書という認識がないまま現在に至っています。 |
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※下記の論文を参考にさせて戴きましたこと、記して感謝申し上げます。 馬部 隆弘著 1.大阪府枚方市所在三之宮神社文書の分析 −由緒と山論の関係からー ヒストリア 2005年3月 2.城郭由緒の形成と山論 「津田城主津田氏」の虚像と北河内戦国史の実態 城郭史料学 2004年7月 3.椿井政隆による偽文書創作活動の展開 「忘れられた霊場をさぐる3 −近江における山寺の分析」抜刷 「栗東市教育委員会・(財)栗東市文化体育振興事業団 2008年3月 4.偽文書からみる畿内国境地域史」 −「椿井文書」の分析を通して 史敏 2005春号 5.牧・交野一揆の解体と織田政権 史敏 2009年春号 |