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平成25年6月定例勉強会

紀州侯の参勤交代と枚方宿

  講師:堀家 啓男氏 (宿場町枚方を考える会代表)

青年の家・学びの館 午前10時~12時
 33名の参加
 2013.6.22(土)午前10時、6月定例勉強会に33名(会員26名)の方々が参加されました。

 高尾副部長の司会で始まり、村田広報部長の挨拶の後、講師の堀家啓男氏から「紀州侯の参勤交代と枚方宿」をテーマに、枚方宿と参勤交代、特に紀州侯の参勤交代の様子を大変詳しくご説明いただきました。

 枚方宿は東海道五十六番(次)目の宿場町で、東海道五十七次は岩波書店の「日本史辞典」でも五十三次と併記されている。江戸日本橋と大坂高麗橋の間に五十七の継馬、人足の取次所が設けられ、枚方宿は品川宿から数えて五十六次目ということで、五十七番目は守口宿である。最近盛況の枚方のまちおこし「五六市」は五十六次に因むものである。
 紀州侯をはじめ、多くの大名家が参勤交代の途中、枚方宿に休、宿泊した。また大坂城に勤務する幕府城代、大番衆なども休、宿泊した。特に御三家のひとつ紀州徳川家五十五万石の行列は、侍や人足を合わせると3千人を超えるものとなり、江戸との行き帰りに枚方宿を利用した。
 参勤交代の様子は、映画やTVで観るような行列ではなく行軍であったこと、本陣での宿泊は軍旅であり利用料は払わず心づけ程度であったこと、通行当日の枚方本陣の出口村松ヶ鼻から本陣へ泊り、翌朝出発するまでの細かいやり取りなどを手に取るように説明された。
 最後に、枚方宿を出た行列は伏見を経て、次の宿に向かうが、町楠葉で小休するのが「紀州家小休本陣米谷家」である。米谷家には寛政11年(1799)参府の途次、治宝が小休した時の留書が残されている。「紀州中納言御身内」「御本陣」などと記載された古文書もある。枚方には本陣がふたつあった。
 また、7月の歴史健康ウォークでは、枚方観光ボランティアの案内で「京街道・枚方宿」を歩くにあたっての見所なども併せてご紹介いただきました。

 ※今回の勉強会の報告に当たって、当日配布された資料関係を掲載させていただきました。
 記して感謝申し上げます。
 
司会は高尾秀司氏
 
講師:堀家 啓男氏
 
講師:堀家 啓男氏
 
 
 講演のレジメ集
紀州侯の参勤交代と枚方宿
講師  :  堀家 啓男氏
1.枚方宿の概要
 枚方宿は東海道五十六番(次)目の宿場町である。東海道五十七次は岩波書店の「日本史辞典」でも五十三次と併記されている。江戸日本橋と大坂高麗橋の間に五十七の継馬、人足の取次所が設けられ、枚方宿は品川宿から数えて五十六次目ということで、五十七番目は守口宿である。最近盛況の枚方のまちおこし「五六市」は五十六次に因むものである。
 東海道は関が原の戦いの翌慶長6年(1601)に設置されたが、枚方宿はすこし遅れ、大坂夏の陣で豊臣氏が滅ぶと、翌元和2年(1616)に設置されたと思われる。守口宿で元和2年の人馬役設置の証文写しが見つかったことから推測できる。
 東海道の各宿は百人(人足)、百疋(馬)の人馬を常備(守日宿のみ人足百人に限る。)し、伝馬役を勤めることになっており、枚方宿も同様であつた。
 枚方宿の文書例で「東海道牧方宿」「東海道牧方宿問屋役人」等と自記している。
 枚方宿は、東見付(京都側、天の川たもと、出入口)から西見付(大坂側、伊加賀川近く)まで、797間(約1500メートル)あり、宿高642石であった。天明年間(1781~8)の記録では東西の見付に合わせて7軒の見付茶屋があり、宿の家数は341軒、本陣1、旅籠屋32軒、医師1軒、商人、職人47軒あったとされる。また淀宿、守口宿との間に人馬の休憩所たる登り立場(上嶋村)と下り立場(出口村松ヶ鼻)を有し、茶屋があった。立場とは杖を立てかけ休憩するという意味である。
 枚方宿は岡新町、岡、三矢、泥町の村で構成され、幕初の淀藩領、幕末の高槻藩預所を除き、約200年間、幕府の代官支配を受けた。
 本陣の江戸屋池尻善兵衛家は、三矢村にあり、間口14間4尺3寸(約34メートル)、奥行24間1尺 (49メートル)、屋敷地477坪 (1574平方メートル)、 建坪215坪 (710平方メートル)であった。明治以降、跡地に郡役所が設置されたことがある。
 脇本陣はなく、臨時に設けられた。
 問屋場は三矢村にあり、人足役、伝馬役をになった。
 枚方宿は陸路のほか船を利用した淀川舟運の中継地で栄えたが、大坂への旅人は伏見から三十石船を利用し、直行するため、下りの宿泊客が少ない「片宿」となり、宿経営に影響を及ぼした。宿繁栄のため、飯盛女の数が旅籠1軒に規制の2人を超えていても事実上黙認される状況で、近郷から規制の要望が出されるぐらいであった。台鏡寺の夜歩き地蔵の伝承もうまれた。


2.紀州侯の参勤交代(参府と御暇)と本陣での休宿泊

 ●紀州侯をはじめ、多くの大名家が参勤交代の途中、枚方宿に休、宿泊した。また大坂城に勤務する幕府城代、大番衆なども休、宿泊した。
 特に御三家のひとつ紀州徳川家五十五万石の行列は、侍や人足を合わせると3千人を超えるものとなり、江戸との行き帰りに枚方宿を利用した。天保12年(1841)1月12日の第11代斉順(なりゆき)の御参府のときの行列が最大規模だったようで、家臣1639人(上級家臣203人、足軽以下1436人)を従え、枚方宿に宿泊した。翌日の淀宿への人馬継立は、人足2337人、馬103疋であつた。人足は宿だけで用意できず、助郷28カ村から動員となり、馬も宿馬のほか、近在の大南馬、小南馬を徴発した。これに相前後して大規模な荷物や供女中の行列が通行し、これにも人馬が動員された。斉順は家斉の子で、将軍家の意向で紀州家を継いだ。このため藩政では先代の隠居した第10代治宝(はるとみ)に頭があがらず、せめて行列だけでも華やかにということもあつたのだろうか。宿中借りきりの状態で旅籠屋のほか民家や、宿外の村役人の家まで借り上げた。

●紀州侯の参勤交代の時期は、御参府が丑、卯、己、未、酉、亥の年、帰国の御暇が子、寅、辰、午、申、戌の年3月を原則とした。
 紀州侯は、はじめ自領内を経て松坂へで、江戸へ向かったが、第6代宗直の寛保元年(1741)から継馬制度の整った、上方街道、すなわち1泊目、貝塚から大坂経由、2泊目、枚方宿コースをとるようになった。3泊目、大津宿、又は草津宿をへて美濃路、中山道を利用することが多かった。 1日、約50キロを進むため午前4時起床、6時出発で江戸までの平均日数は、利用コースで美濃路15日、中山道14日、東海道16日程度を要した。殿様の初帰国は『御初入」と称して特に華美な行列となった。殿様や家来が全行程、威儀を正して歩いたわけではなく城下町や宿場などの人目のあるところだけ、殿様は駕籠を利用した。
 経費節減のため、人足も臨時雇いが多く、宿場で問題をおこすこともあった。文久3年(1863)3月の最後の藩主第14代茂承(もちつぐ)の御初入りは時代を映し、西洋式銃隊を編成していた。

●参勤交代は行軍のようなもので、本陣での宿泊は軍旅であり、利用料は払わず、心付け(御祝儀)を置く程度であった。このため本陣の経営は厳しく、転職や旅籠稼業も許されなかつた。その代わりか世襲制で、苗字、帯刀を許された。
 本陣宿泊等の日程は半年から1年前に予約され、通行の数日前に宿割りの役人が先着し、本陣当主や宿役人と打ち合わせ、旅籠屋などを割り振つた。
 宿泊の数日前には東西の見付と本陣前に「何月何日 紀伊大納言宿」と書いた高さ1メートル、幅23センチ、厚さ2センチ程度の木の札(関札という)を、約4.5メートルの竹の先にはさんで掲げられた。関札は、各大名家で用意するため大きさはまちまちで、敬称は略された。紀州家では表右筆が書き、全道中分数十枚を長持に入れ、勘定同心と七里之者が護衛して、当日までに各本陣に届けた。関札を受けた本陣は三宝にのせ床の間において灯明を上げ、丁重にあつかった。泊まりでなく、休憩、食事のときは関札には「休」と書いた。事後、関札は本陣に下げ渡された。今も残る草津宿本陣には多数の関札が保存され、紀州侯のものもある。枚方宿の池尻家本陣は明治に入つてすぐに廃止され、逼塞したため関札は1枚も残つていない。

 「七里之者」とは、紀州家専用の飛脚で、七里ごとに役所が置かれ、枚方宿にも岡村の宗左の辻の近くにあった。行列の通行前後50日程度、逗留し準備業務に従事したが、御三家の権威を笠に横暴な振る舞いをし、「一向がさつ」な連中として顰蹙をかった。かつてよく泣いて親を困らせるききわけのない子供のことを枚方で「きしゅうさん」といったのは「七里之者」を初めとして紀州様の行列通行の動員などで迷惑をこうむることも多かったことからであったという。

 ●通行当日、枚方宿本陣では出口村松ヶ鼻、下り立場まで見張りの人足を出し、人足は一行が見えると腰につけた鈴を鳴らしつつ『遠見が帰りました」と声を張り上げて走り、本陣に通報する。これを聞いた本陣の当主は麻裃を着用、両刀を差し、西見付に於いて平伏し行列を迎える。殿様の駕籠が当主の前に来ると、太さ5ミリ、長さ50センチほどの細い竹の先に白い和紙で作つた名刺のようなものをはさみ、出迎え礼をもつて差し出す。和紙には「枚方駅御本陣池尻善兵衛」と記されている。近習がこの和紙を受け取り、殿様に「枚方宿御本陣、池尻善兵衛、是まで出迎え」と言上すると、殿様から「大儀」と一声あるか、驚籠の戸を軽くあけて会釈があり、再び行列は進みだす。
 本陣までは宿役人が先導案内を行い、本陣当主は腰をかがめて行列横を小走りで通り越し、本陣前にて平伏し行列を迎える。
 殿様の駕籠は本陣の式台から上がり、茣蓙の上を、畳一段高い上段の間まで行き、殿様は駕籠から降りて、着座となる。駕籠は玄関奥の板の間に置かれた。旧枚方市史では出迎えの様子をこのように記述しているが、西国街道郡山宿本陣梶家の当主の話でも同様のことが伝えられている。このあと殿様の世話や食事はすべて随行の従者が行い、当主は家族のいる間に引き下がり、もはや出番はない。
 殿様の使うものはすべて持参するので、本陣が用意するのは炭と薪だけ、いい建具や飾り物を用意すると、壊されたり、翌日持ち去られることもあつた。郡山宿本陣の殿様用風呂場には風呂桶は無く、風呂桶のスペースがある。風呂桶は持参し、湯は別に沸かし、差し湯をする。寝具は殿様を追い越し、先に本陣に着く。紀州侯の場合、床下からの刺客の襲撃を防ぐため、布団と畳の間に敷く、3メートルの鉄の板まで持ち運んでいた。鉄の板をいれた本陣詰奥小道具方の御長持1棹は、極秘のもので通常10人程度のところ、17人の人足が運んだ。

 ●枚方宿を出た行列は伏見を経て、次の宿に向かうが、町楠葉で小休するのが「紀州家小休本陣米谷家」である。米谷家には寛政11年(1799)参府の途次、治宝が小休した時の留書が残されている。「紀州中納言御身内」「御本陣」などと記載された古文書もある。枚方には本陣がふたつあったということである。

  参考 「東海道枚方宿」枚方市教委   「東海道枚方宿と淀川」中島三佳著
  「枚方市史第3巻」   「枚方宿の今昔」宿場町枚方を考える会

 関札についても詳しく説明されたが、
残念なことですが、枚方宿には1枚も残っていない。
 宿泊の数日前には東西の見付と本陣前に「何月何日 紀伊大納言宿」と書いた高さ1メートル、幅23センチ、厚さ2センチ程度の木の札(関札という)を、約4.5メートルの竹の先にはさんで掲げられた。関札は、各大名家で用意するため大きさはまちまちで、敬称は略された。紀州家では表右筆が書き、全道中分数十枚を長持に入れ、勘定同心と七里之者が護衛して、当日までに各本陣に届けた。関札を受けた本陣は三宝にのせ床の間において灯明を上げ、丁重にあつかった。泊まりでなく、休憩、食事のときは関札には「休」と書いた。事後、関札は本陣に下げ渡された。今も残る草津宿本陣には多数の関札が保存され、紀州侯のものもある。枚方宿の池尻家本陣は明治に入つてすぐに廃止され、逼塞したため関札は1枚も残つていない。 
 熊谷市指定有形文化財 古文書
「本陣の関札10枚」
を参照ください!
 枚方市の公式チャネル YouTube
「平成25年4月 ここが知りたい枚方市」枚方宿をご覧ください!
 
 =枚方宿を楽しもう=  広報枚方
枚方宿
 江戸時代、枚方は東海道の宿場町として、また、京と大坂を結ぶ淀川舟運の中継港として多くの人が行き交いました。市は、街道や史跡が今も残る枚方宿地区の歴史的景観を生かしたまちなみ整備を進めるとともに、地域や市民と協力して新たなにぎわいづくりに取り組んでいます。いにしえの街道を歩きながら、宿場町「ひらかた」の魅力を再発見してみませんか。


買い物や音楽を楽しめるイベントも
 毎月第2日曜に手作り雑貨など約180店が街道沿いに並ぶ「枚方宿くらわんか五六市」をはじめ、春と秋に公園やカフェなどで音楽を楽しめる「枚方宿ジャズストリート」など、一年を通してさまざまなイベントが開かれています。


水陸交通の要衝としてにぎわった枚方 
 京都と大阪の中間に位置する枚方は、古くから交通の要衝でした。文禄年間、豊臣秀吉が淀川左岸に築いた「文禄堤」は京と大坂を結ぶ幹線陸路の役割を果たし、やがて、京街道として整備されました。「大坂夏の陣」(1615年)の後、大坂城を接収した江戸幕府は京街道を東海道の延長部として組み込み、伏見・淀・枚方・守口を宿に指定。品川宿から数えると56 番目にあたる枚方宿には参勤交代で江戸・和歌山を往復する紀州徳川家が定期的に宿泊しました。将軍・徳川吉宗へ献上する象が、ベトナムから長崎に運ばれ、陸路で江戸へ向かう途中に枚方宿で一泊したという記録も残っています。
 
また、淀川を往来した「三十石船」の中継港としてもにぎわい、枚方宿には乗船場がある旅はたご籠(船待ち宿)もありました。船の上から「餅くらわんか、酒くらわんか」と乱暴な言葉で旅人に食べ物を売りつける「くらわんか舟」は枚方の風物詩として親しまれるなど、江戸時代の枚方は水陸交通の中継地として大いににぎわいました。 




枚方宿鍵屋資料館
   宿場町としてにぎわった枚方の歴史を紹介する展示施設として平成13年にオープンした枚方宿鍵屋資料館が今年で開館12周年を迎えました。
 鍵屋は江戸時代、三十石船の船待ち宿として多くの旅人でにぎわいました。明治以降は料理旅館を営んでいましたが、平成9年に廃業。200年前に建てられた主屋は市有形文化財の指定を受け、解体復元工事によって表口と淀川の船着き場に通じる裏口をつなぐ土間や船を待つ客が休むための板縁など、船待ち宿独特の姿がよみがえりました。
 同館は主屋と昭和3年建築の別棟からなり、主屋内部が見学できるほか、別棟では実寸大のくらわんか舟の復元模型や三十石船の旅人に船頭が餅やごんぼ汁を売る様子を再現した映像を楽しむことができます。「くらわんか茶碗」などの出土品約200点も展示され、枚方宿の歴史や淀川舟運について分かりやすく紹介しています。また、2階には63畳敷の大広間があり、邦楽の演奏会や歴史講座、茶会など近代和風建築の雰囲気を生かしたさまざまなイベントが催されています。
7月の交野歴史健康ウォークは、13日(土)午前9時京阪枚方公園駅(駅前西広場)集合。
京街道(枚方宿)を訪ねる、「鍵屋資料館の見学と周辺散策」。12時、枚方市駅解散予定です。
案内は枚方観光ボランティアガイド。参加費:500円(資料代・入館料など)
皆様、どうぞお誘いあわせの上、ご参加ください!
下記ホームページを参照ください!
 「大阪歴史散歩、三十石舟を偲んで京街道枚方宿へ」

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