平成27年2月定例勉強会 講師: 川岡 洽氏 (日本古城友の会幹事) 青年の家・学びの館 午前10時~12時 37名の参加 |
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2015.2.28(土)午前10時、2月定例勉強会に37名(会員30名)の方々が参加されました。 高尾部長の司会で始まり、立花会長の挨拶の後、講師の川岡洽氏から「お城を楽しもう」をテーマに、お城の知識<基本編・復習><日本のお城と飯盛山城跡>を詳しくお話しいただきました。限られた時間ではありましたが、詳細な資料とプロジェクターによる映像を駆使してたっぷりとお話し頂きました。 今回の講演会の前半は、平成25年2月の勉強会「お城」の基本編の復習で、お城とは何か、城の種類、曲輪、丸、普請と作事、土塁、塀・橋・濠、石垣、石積み、天守、殿舎、櫓(矢倉)、城門(虎口)、平城、山城などと、日本及び韓国のお城について、詳細に亘ったお話をいただきました。 後半では飯盛山城跡について、飯盛山城跡の概略、飯盛山城にかかわった武将たち、飯盛山城跡の縄張り図に沿って山城を探検しているように詳細に解説いただきました。 HPの掲載に当たり、講師のご厚意で当日配布されたレジメなどを提供頂きましたこと、記して感謝申し上げます。 |
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「城」という字を分解すると、「土」から「成」ると書き、戦国時代の山城は文字通り、山の土を削り盛土して構築されていました。また、お城といえば、大阪城や姫路城のように天守閣が立ち、石垣造りというイメージが強いですが、実は日本にある城郭のほとんどは中世の山城で、その数はなんと全国で3万とも4万ともいわれているそうです。これは各地域にいた中小領主が軍事拠点とした小規模な山城が数多く点在するためで、ちなみに織田信長が登場した安土桃山時代から江戸時代にかけ、城の歴史も「統一」へ向かい、天下人や大名による大規模な城へと統合され、全国で200ほどの数になったとされています。 |
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高尾部長より川岡氏の紹介 |
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講師の川岡洽氏 |
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「お城を楽しもう」 川岡 洽氏(日本古城友の会幹事) |
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機能による城門 馬出し 虎口前方に小さな郭を築き防衛力を一段と強化した、この虎口を馬出しといいます。騎馬武者が馬に乗ったまま出入りできる防備施設のある虎口。虎口の前方又は後方に一文字土塁を築きここから出入りする。 虎口と横矢 築城の縄張りは曲輪の配置の他地形を補い守りやすくする為に工夫がされています。とくに重要なのは敵が集中してくる出入り口や枡形の配置などです。城の出入り口を虎口といいますが本来は「小さく口をあける」という意味で「小口」と書いたものが次第に虎口となったといわれています 横矢掛り 土塁・石垣・濠の屈折の方法で、いかに有効に矢を射るかの工夫がはじまりです。 塁に凹凸や屈折があれば射撃が直線よりも、自由かつ安全で効果的である。 豊国神社 唐門 (現存) 伝 伏見城 大徳寺 唐門 (現存) 伝 聚樂第 本願寺 飛雲閣(現存) 伝 〃 三宝院 唐門 (現存) 伝 伏見城 本願寺 唐門 (現存) 〃 国指定 特別名勝 二条城 二の丸庭園 |
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平城(平山城) 濠を掘ってその土を築き、土塁にする。石を積み上げて石垣にする。 鉢巻石垣・腰巻石垣・・関東地方堀や柵を築き平地にして曲輪をつくる。 殿舎・天守・櫓-蔵等の建物を築てる。濠に橋をかけて門をつくり城とする。 |
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山を削って削平地をつくる。同時に切岸をつくる。 掘った土で土塁をつくる。柵を築いて曲輪をつくる。 建築物、山小屋程度の建物など建てる。櫓を建てる。 空堀(堀切・竪堀}を掘って防禦施設とする。 虎口を作って、土橋を作り、門とし城とす。 |
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中世山城の縄張り図の見方 | |||
城の字が「土」と「成」から構成されるように、中世の城郭は土づくりが基本であった。 土をうがって堀を作り、土を盛って土塁を設け、土をならして曲輪という平坦地を確保した。 これらの土木工事によって周囲との高低差を確保し、敵の侵攻を遮断しようとしたのが城である。 このような城の構造は「縄張り図」で示される。城の高低差は「ケバ」という 等高線と直角な細かな線で表現され、3次元の世界を2次元の図面上に展開している。 |
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当日の講演会会場で、パワーポイントを映しながら説明を受けました 資料の一部を紹介します。講師の川岡氏のご厚意で掲載を許可いただきました。 |
当日の講演会会場で、パワーポイントを映しながら説明を受けました 資料の一部を紹介します。講師の川岡氏のご厚意で掲載を許可いただきました。 |
所在 大東市北条・四条畷市南野 築城 建武年間1334~38 築城者笹々目憲法 臨戦的陣城 享禄4年~天文(1531) 築城者木沢長政 半永久的居城 永禄年間3年~7年(1560) 築城者 三好長慶 大改修 石垣造り 規模 東西400m 南北650m 標高315m 山城 遺構 削平地・石垣・土塁・井戸・堀切・竪堀・畝状竪堀・切岸・土橋 立地 河内の国と大和国の間には生駒山地が南北に連なり、国境となっている。その北西支脈に飯盛山があり城跡は尾根上一帯に築かれている。東は権現川の上流が流れ、渓谷によって生駒山地と分離されており、生駒山地の半島のようになっている。 北方から見れば単独峯にみえます。飯盛山城は永禄3年(1560)三好長慶が入城して史上で有名になるが永禄6年病没するまでの4年間で、城の大改修をおこなったようです。いくつか不自然な点もありますが縄張りのしっかりした、大規模で典型的な山城です。 城内はハイキングコースになっているが多くのひとが通り過ぎてしまう。幸い当城跡には楠公さんの銅像とNHKの鉄塔が中心部にたっているので目標となる。 山城探検には縄張り図と磁石が必要です。1/10000か1/25000の地形図があると安心です。 |
四条畷合戦で高師直6万の兵の将として四条に着陣、懸下野守その勢五千余騎、飯盛山に討ちあがりて(太平記) 南朝方の恩地左近太郎が飯盛山に立てこもり細川頼之軍に防戦した。 木沢長政,守護畠山家に取って替わり河内守護代を務めた。 永禄4年(1531)主君畠山義宣を裏切り細川晴元に寝返った 永禄5年 畠山義宣再度、飯盛山に木沢長政を攻めた。助けを晴元に頼み義宣敗死。 永禄5年晴元、三好元長を堺にて滅ぼした。 (日本城郭大系より) |
享禄5年(1532)この二度に亘る戦いに勝った長政は晴元を越え将軍家直属の家臣となった。 天文11年(1542)晴元は長慶と組んで長政と河内大平寺に戦い是を破り長政戦死。木沢氏滅亡後飯盛山城には交野城の安見美作守直政(宗房)が入城、自ら河内守護代となり主君畠山高政を紀伊に追放した。 永禄2年(1559)三好長慶は畠山高政を援け直政(宗房)は大和へ敗走した。 永禄2年高政は長慶の河内進出を恐れ直政(宗房)に与しふたたび直政(宗房)を河内守護代として飯盛山城に置いた。 永禄2年この処置に憤慨した長慶は高政が居城する高屋城を包囲し援助に駆け付けた直政(宗房)軍を寝屋川附近に打ち高政・直政(宗房)共に外援なく堺へ敗走した。 永禄3年(1560) 三好長慶、飯盛山城に入城。 |
足利義輝を将軍とし細川氏綱を管領に据え、畿内平定に乗り出した長慶であるが永禄4年紀伊に逃れていた畠山高政は飯盛山城を攻めるべく根来衆を率いて城下に迫り、三箇城を攻め落とした。 永禄5年高政軍の総攻撃が始まった。長慶が飯盛山城に籠り防戦している間、長慶の弟冬康、松永久秀が救援に駆けつけ挟撃して高政軍を打ち破った。 長慶は飯盛山・芥川・高屋を中心に河内各所に一族郎党を配し、治安維持をはかったが、三好氏の支配は地点地点に留まり、農民・国人領主層・一向宗徒を掌握することは出来なかった。緊張の中の平和であったが、永禄6年嫡子、義興病没、芥川城 弟安宅冬康を飯盛山城に自殺させた。 長慶自身も病にとりつかれ、死亡43歳。 |
長慶亡き後は、三好長逸・同政康・石成友通の三好三人衆が義継をバックアップしたが、松永久秀と意見が合わず義継は飯盛山城を出て高屋城へ移った。そして信長の畿内進出まで三人衆・義継・久秀は泥沼の戦いをくりひろげるのである 永禄11年(1568)織田信長が入洛し摂河平定が行われると三人衆もその軍門に降り松永久秀は大和国、三好義継は河内南部のみ所領を許され若江に居城を移し、飯盛山城は畠山昭高の所有となった。 元亀年間(1570~73)家老遊佐信教が主君昭高を助ける為当城を守備したが、天正4年(1576)信長に攻められ落城し廃城となった。 日本城郭大系 より |
現在城跡は飯盛山山頂部尾根上一帯に累々とその姿を残しており、城郭の内容は上記縄張り図(概略図)のとうり、生駒山地より北西に伸びた支脈の南北尾根、一直線上に主要郭を配しそれぞれの郭に2~3の腰郭を取り付けこの南北尾根から魚骨のように東西に伸びた支尾根に数段の郭を並べた姿は典型的な山城を表し千畳敷郭はその頭部に当たります。 野崎駅・四条畷駅方面から見ると山が横たわっていて一番高いところがくびれている所、左のピークが小楠公の銅像が建っている所を高櫓部、右のピークがNHKの電波塔の建っている所が千畳敷きです。 見学(探索)には野崎観音(慈眼寺)から登って四条畷神社へ降りてくるのが良いとおもいます。 |
具体的には慈眼寺境内の左側裏手より右に登るとよい。 裏手は野崎城跡の郭跡です。郭を数段登ると寺からの比高で90mぐらいで本丸跡につきます。前進して20mぐらい下ると尾根ずたいに通っている道と交差します。野崎城東側の堀切です。左手の道をとると少し下りになり谷川にでます。対面へ渡るとコンクリートの道にでます。右手へ登って行くと三叉路に出ます。右手に進んで行くと、右飯盛山の小さな看板があったと思います。 傾斜面の道を暫く歩くと道が合流します。休憩所になっています。もうすぐ飯盛山城跡です。大手口・畝状竪堀群の所に出ます。この案内文章には間違いがあるかも判りません。この一帯はハイカーが多いので声をかけて確認しながら歩を進めてください。 |
このルートで登城しますと最初に迎えてくれるのが大手口エリアです。 先ず左手前下方に7本の竪堀の痕跡があるが、上からでは笹で地面が見えません。現場まで降りて行って笹を掻き分け横切るように進むと浅いですがよく判ります。手前の長いのはへこんだ所にあるので道からでもなんとなく判りますがやはり現場にいって見学するのが良いです。 登城路に戻って反対側下の方まで目がゆくと斜面の郭と竪堀数本が見える。いちばん奥の竪堀は土塁を伴い直線で美しくも感じる。この竪堀も現場へ行かないと見えません。又もとの道へもどって大手門跡へ、南丸の土塁は高さ5m~7mの切岸になっている。左側上から横矢がかかる。正面千畳敷出郭からまともに矢が射かけられる。 |
千畳敷出郭を西側へ回り込むと目の前に土塁が見える。さらに回り込み郭の先端部右側から下へ20m位おりると絵になる堀切・土橋が目にはいる。 私達は直ぐ掃除をしたくなるタイプで誰ともなく作業を始める。綺麗になったところで写真を撮る。それから北へ向いて進む。 広大な郭・南丸・千畳敷出郭・千畳敷郭だ。当城の居住地域であり兵站地と考えることもできる。 |
千畳敷及び北面の小郭群は破壊が著しいと専門家は云っているらしいが私もそう思います。この郭より北へくだりながら進むと右はコンクリート道路、左は小郭が階段状に並び高櫓郭との鞍部に?がり食い違い竪堀と土橋を渡る事ができる。 この高櫓郭から北方三本松丸の間は石類(石垣)の宝庫で至る所に石垣や崩れかけた石類・石ころが豊富にある。まだ埋もれている石垣もあると思います。西側に大きな幅のある竪堀がある。少し北へ進むと堀切、土橋があり両サイドが竪堀となっている。 北へ上がってみると当城の一番高い所で高櫓郭といいます。小楠公の銅像が立っています。御体塚丸Vから北東に延びる支尾根に五段の郭を連ねその先に四連続の堀切で防禦し圧巻です。郭Ⅲの北東支尾根に10段の郭を並べその先に二本の堀切と竪堀一本で防禦している。郭Ⅲから西に派生する支尾根に8段の郭を配し2段目と3段目の間に堀切をつけている。 本郭の東部に三段の腰郭がありその最下段に高さ1,5m長さ20mの石垣が存在する。高櫓郭・本郭の北東側の石垣、南西側の石垣。Ⅲ郭の西側にも石垣。本郭の北東支尾根、先端の郭と石垣。Ⅲ郭西側の石垣。 V郭御体塚丸東部2の石垣 楠公寺の南の窪地に土塁が一条設けられている。内部は谷から流れる清水の貯水池となっており山城の用水確保の苦労が伺える。 また高櫓郭、東50mの山中に金明水と呼ばれる井戸跡があり平時の飲料水として賄われていた。 (日本城郭大系90図面 飯盛城要塞図 四条畷市103頁参照) 飯盛山城の南北面が防禦不足、北面は急崖であり攻められ難い。南面に畝状竪堀があるとはいえ手薄である。安心できない。山麓で野崎城がガードしても上部尾根上を八か所の砦、大手門と桜池との間に六ヵ所桜池の南西と南東にそれぞれ一か所づつこの上に楠公ルートに奥行2~3m長さ4~5mの段郭が目的利用方法も判らないが京都の大文字山城のような施設が15~20か所つくられている。 |
山上居住の山城 軍事的防禦地域(高櫓部・本郭。Ⅲ郭・Ⅳ郭・御体塚丸・三本松丸・Ⅶ郭) 石垣造りの山城 従来は部分的に使用した芥川山城と同じ構造。しかし実際にはほぼ城域全体が石垣によって築かれていた。特に高櫓部・本郭。Ⅲ郭・Ⅳ郭・御体塚丸の主要腰部にも石組がみられる。 見せる石垣・・東側の谷筋が大手道。 河内平野から見上げる西面 石垣の特徴・・自然石を積む野面積み。勾配は垂直に近い。二段積みも高石垣 崩落した石垣や埋没した石垣の存在から、主要部は総石垣か? |
御体塚郭では、岩盤が高さ1.5mほどに露出しているが、石を組んだようにも見えます。 永禄7年(1564)、三好長慶はここ飯盛山城で亡くなりましたが、死後2年間喪は伏せられ、 八尾の真観寺に埋葬されたのは永禄9年(1566)のことでした。 此処はそれまでの仮埋葬地と伝えられています。 |
城 名 東西 南北 芥川山城跡 400m 450m 信貴山城跡 500m 630m 飯盛山城跡 400m 650m 高屋城跡 400m 800m(平城) 野崎城跡 200m 180m 田原城跡 120m 100m 北田原城跡 160m 130m 大阪城 1000m 1000m 二条城 560m 430m 私部城跡 300m 250m |
ビュアル版 城の日本史 編集者 内筒 晶 発行者 角川暦多 歴史群像シリーズ よみがえる日本の城 編集者 折井邦弘 発行人 中村雅夫 歴史群像名城シリーズ 大坂城 (株)学習研修社 発行人 太田雅男 徹底図鑑 日本の城 著者 中井 功 発行者 富永晴広 日本城郭体系 本巻18巻 編集者 平位 聖 発行者 菅 英志 別巻 2号 編集者 村井益男 編集者 村田修三 広辞苑 編集者 新村 出 発行者 守口良介 城と城下町 見方講座 監修者 伊ヵ崎淑彦 発行者 岩佐健彦 城のつくり方図鑑 著者 三浦正幸 発行者 柳町敬直 学研 漢和大辞典 編者 藤堂明保 発行人 児山敬一 |
野崎駅→10分→野崎観音→7分→野崎城跡→20分→辻の新池→10分→ 桜池→10分→楠公寺→6分→飯盛山頂→7分→登山記念碑 →3分→史蹟碑→25分→四條畷神社→12分→JR四条畷駅 |
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