平成28年3月定例勉強会 私市・森・郡津のお宮のお話 講師:西角 明彦氏 (磐船神社宮司) 青年の家・学びの館 午前10時~12時 42名の参加 |
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2016.3.26(土)午前10時、3月定例勉強会に42名(会員35名)が参加されました。 高尾部長の司会で始まり、立花会長の挨拶の後、講師の西角 明彦氏から 「私市・森・郡津のお宮のお話」をテーマで夫々のお宮さんの由緒・歴史などについて プロジェクターで沢山の画像を映し乍ら大変詳しくお話しいただきました。 西角宮司は、現在交野市内10社ある神社のうち、5社(天田神社、若宮神社、磐船神社、 川東神社、郡津神社)の宮司を務められており、今回詳しくご説明頂きました。 「私市・森・郡津のお宮のお話」 講演の概要 1.磐船神社の岩窟めぐり (三宅裕司のふるさと探訪)DVDを鑑賞 2.天田神社 祭神:住吉明神 村社 例祭日 10月16日 3.若宮神社 祭神:住吉明神 無格社 例祭日 10月15日 4.磐船神社 祭神:饒速日命 無格社 例祭日 5月5日 10月16日 5.川東神社 祭神:品陀気命 無格社 例祭日 10月16日 6.郡津神社 祭神:天照大神 素戔嗚尊 住吉明神 村社 例祭日 10月16日 7.各神社の年中行事(27年度基準) ※磐船神社のホームページをご参照ください! ※ HPの掲載に当たり、講師のご厚意で当日配布されたレジメ及び プロジェクターの映像資料などを参考にさせて頂きましたこと、記して感謝申し上げます。 <資料及び参考資料> 北河内のお宮 (大阪府神社庁第3部) 磐船神社ホームページ など |
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講師:西角 明彦氏(磐船神社宮司) |
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高尾事業部長 |
立花会長 |
三宅裕司のふるさと探訪 「磐船神社の岩窟めぐり」 |
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「私市・森・郡津のお宮のお話」レジメ 平成28年3月26日
於 交野市青年の家
創建
年代不詳だが、交野で稲作が始まった弥生時代頃に田の神をお祭りするするために創建された神社。
裏山に物部氏のものと見られる古墳群があり、物部氏の祖先を田の神様として祭っていた。
ご祭神
住吉明神(四神)物部氏との関わり。
私市・森の村社であり、元は寺村の住吉神社も合祀していた。
創建
一般に天田神社の若宮と思われているが、江戸時代に磐船神社のご分霊をお祭りするためにお社を建てたが、それ以前より磐船神社の里宮として村の集落の入り口に創建されたと思われる。(磐船神社の遥拝所がある)
ご祭神
住吉明神(四神)
創建
天の磐船と呼ばれる巨石をご神体として祭る、磐座祭祀の古社。交野を支配していた肩野物部の一族が祭祀を担った
古事記日本書紀によればご祭神、饒連日尊は第一代天皇の神武天皇の東征に先立ち大和に入ったとされ、今から2、676年以上前の創建になる。
ご祭神
物部・尾張両氏の遠祖、饒速日尊
物部本宗家滅亡により交野から物部氏が追い出された後、主祭神が住吉明神に変わってしまい、交野中の神社がこれに従う。
平安時代までに修験道の霊場として組み込まれ、岩窟が行場となり、四社明神(伝鎌倉時代)、不動明王像(天文14(西暦1545)年)などの石仏が彫られる。
江戸時代には私市の他、星田、河内田原、大和田原の氏神であったが、宝永年間(1704~11)天災により社殿を流失し、そのことが原因で4村の宮座の争いが起き、それぞれがご神宝を持ち帰り、ご分霊を村でお祭りするようになる。
明治維新後当社のみ、ご祭神を饒連日尊に戻す。
創建
年代不詳だが、この地には天暦3(949)年に石清水八幡宮の荘園三宅山荘園が設置され、津田から星田までが含まれる広大なもので、鎌倉時代まで続く。当社はその頃に創祀されたと思われる。
ご祭神
品陀別命(八幡さま)
森、・私市の同地区の氏子は勅祭石清水祭においてそれぞれ火長神人、御前払神人として現在でも奉仕している。
創建
年代不詳だが、白鳳時代(646~7 10)にこの地に交野郡の郡衙と郡の寺である長宝寺が建てられ、奈良時代にかけて神仏習合の中で、一の宮として共栄していたが、鎌倉時代に長宝寺が焼失してしまい、一の宮だけが残った。
明治時代には神社合祀令が出され、高野街道の西の二の宮、大塚の三の宮を合祀して、名前を郡津神社と改め、現在に至っている。
ご祭神
天照大神(三の宮) 素戔嗚尊(一の宮) 住吉明神(二の宮)
当日のレジメとプロジェクト資料 講師:西角明彦宮司 |
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創建 年代不詳だが、交野で稲作が始まった弥生時代頃に田の神をお祭りするするために創建された神社。 裏山に物部氏のものと見られる古墳群があり、物部氏の祖先を田の神様として祭っていた。 ご祭神 住吉明神(四神)表筒命(うわつつおのみこと)、中筒命(なかつつおのみこと)、 底筒男命(そこつつおのみこと)、息長帯姫命(おきながたらしひめのみこと) 物部氏との関わり。 私市・森の村社であり、元は寺村の住吉神社も合祀していた。 |
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本殿 |
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境内の御神木は鬱蒼と繁っています。 |
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御神木 |
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境内の広場に古い社が北向きに建てられていたそうである。 |
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天保7年(1836)の灯篭 |
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奈良時代、郡津に郡衙(役所)が置かれたころ、天野川周辺は稲作の一等地として条里制が敷かれ、私市を一条通りとして北へ枚方市まで十条通りと区画整地されました。神社の西にある鳥居をくぐって左に100メートルも行くと、東西に伸びる道が現れますが、それが一条通りです。 市内には私市・天田神社から天野川に向かって一条通りが列し、京阪交野駅の北側に四条通りが、そして郡津に五条通りが列している。 |
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裏山に物部氏のものと見られる古墳群があり、 物部氏の祖先を田の神様として祭っていた。 |
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上の山遺跡 コーナン枚方茄子作店近辺 |
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掘立柱建物の規模は長さ約8.6m・幅約4.5mで、両側に大きく張り出した屋根を支えるための「独立棟持柱」跡も見つかった。建物の柱穴は楕円形或いは隅丸長方形で、側柱穴の深さが約0.3mに対して、棟持柱穴の深さは約0.9mもある。 このような独立棟持柱を持つ構造の大型掘立柱建物は、一般的な掘立柱建物と違う特殊な建物として、「祭殿」・「集会所」・「首長の居宅」などの可能性が高い。 |
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創建 一般に天田神社の若宮と思われているが、江戸時代に磐船神社のご分霊をお祭りするためにお社を建てたが、それ以前より磐船神社の里宮として村の集落の入り口に創建されたと思われる。 (磐船神社の遥拝所がある) ご祭神 住吉明神(四神) |
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拝殿 |
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本殿 |
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秋葉神社(伝長慶天皇祭祀) |
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御神木 |
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磐船神社 伊勢神宮遥拝所 |
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磐船神社拝所石碑 |
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一般に天田神社の若宮と思われているが、江戸時代に磐船神社のご分霊をお祭りするためにお社を建てたが、それ以前より磐船神社の里宮として村の集落の入り口に創建されたと思われる。(磐船神社の遥拝所がある) |
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太神宮灯篭 |
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文政3年(1820)の灯篭 |
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文久2年(1862)の灯篭 |
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創建 天の磐船と呼ばれる巨石をご神体として祭る、磐座祭祀の古社。交野を支配していた肩野物部の一族が祭祀を担った 古事記日本書紀によればご祭神、饒連日尊は第一代天皇の神武の東征に先立ち大和に入ったとされ、今から2、676年以上前の創建になる。 ご祭神 物部・尾張両氏の遠祖、饒連日尊 物部本宗家滅亡により交野から物部氏が追い出された後、主祭神が住吉明神に変わってしまい、交野中の神社がこれに従う。 平安時代までに修験道の霊場として組み込まれ、岩窟が行場となり、四社明神(伝鎌倉時代)、不動明王像(天文14(西暦1545)年)などの石仏が彫られる。 江戸時代には私市の他、星田、河内田原、大和田原の氏神であったが、宝永年間(1704~11)天災により社殿を流失し、そのことが原因で4村の宮座の争いが起き、それぞれがご神宝を持ち帰り、ご分霊を村でお祭りするようになる。 明治維新後当社のみ、ご祭神を饒連日尊に戻す。 |
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磐船神社 河内名所図会 |
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天の磐船に彫られた加藤肥後守の拓本 |
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私市の磐船神社には、高さ、幅とも12メートル以上もある巨岩があり、神社のご神体として祀られています。 この巨岩は、加藤清正が大阪城の石垣に利用しようとしたが、あまりの大きさに断念したという伝説があります。しかし、近年この巨岩のてっぺんに、左の拓本のように、加藤肥後守と石工の名が刻まれていることが分かりました。 ここで登場する加藤肥後守は、秀吉の忠臣加藤清正ではなく、その息子のことと考えられます。 そのため、ご神体を運ぼうとしたのは、秀吉の時代より、少し後の時代だと思われます。 現在の大阪城の石垣も秀吉時代のものではなく、徳川家康が大坂夏の陣より後に諸国の大名から石を取り寄せ、築造したものということが分かっています。 加藤肥後守にしても、大阪城まで運び出すことができなかったことから、石に名前を刻むことしかできなかったのでしょう。ちなみに大阪城の石垣に加工されながら使われなかった石を残念石と呼びます。 |
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岩窟めぐりの入り口 |
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岩窟めぐり 岩窟内部 |
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岩窟めぐり 岩窟内部 |
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四社明神(鎌倉時代) 幅2メートル20センチ、高さ1メートル5センチの彫り込み内に線刻の光背を背にして四神が並んでいる。 |
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不動明王 天文14年(1545) |
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天の岩戸 天照大御神が隠れ、地上から光が失われたという「天の岩戸神話」 その舞台と言われる巨岩の磐座。 |
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白龍の滝 行場 |
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5月の春季大祭 |
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創建 年代不詳だが、この地には天暦3(949)年に石清水ハ幡宮の荘園三宅山荘園が設置され、津田から星田までが含まれる広大なもので、鎌倉時代まで続く。当社はその頃に創祀されたと思われる。 ご祭神 品陀気命(ほんだわけのみこと)(八幡さま) 森、・私市の同地区の氏子は勅祭石清水祭においてそれぞれ火長神人、御前払神人として現在でも奉仕している。 |
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鳥居 |
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小久保川を境に東側に位置しています |
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当社の前に円柱状の灯篭の変形のようなものが一対立っている。 それには壽永寺元皓と僧名が刻まれている。この人はもと森向井家の出で、須弥寺本隆和尚に導かれて佐太来迎寺に入り、後江戸浅草の 幡隨院で修業し、遂に宗学の奥を研めたので、芝増上寺走誉によって 江戸寿永寺住職にせられた人。寛永年間父母の墓参のため森に帰り当村領主大久保家のために大いに尽くすところがあったので、同家よりその宗家向井五衛門に扶持、馬、槍を許した。 よって、向井家では当社の前に長い広場を設けて、そこを調馬場 とした。(現在) 又この人は氏宮へ石鳥居を寄進したが、後それが倒壊したので その材を用いて立てたのが、現在社前にある一対の立石である。 (交野市史より参照) |
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寛保2年(1742)の灯篭 |
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大灯篭 |
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石清水八幡宮の放生会 森、・私市の同地区の氏子は勅祭石清水祭において それぞれ火長神人、御前払神人として現在でも奉仕している。 |
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創建 年代不詳だが、白鳳時代(646~7 10)にこの地に交野郡の郡衙と郡の寺である長宝寺が建てられ、奈良時代にかけて神仏習合の中で、一の宮として共栄していたが、鎌倉時代に長宝寺が焼失してしまい、一の宮だけが残った。 明治時代には神社合祀令が出され、高野街道の西の二の宮、大塚の三の宮を合祀して、名前を郡津神社と改め、現在に至っている。 ご祭神 天照大神(三の宮) 素戔嗚尊(一の宮) 住吉明神(二の宮) |
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本殿 |
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本殿外観 |
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右近の橘 |
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左近の桜 |
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市役所別館の壁に掲げられている片山長三氏の描かれた古代の交野が原。中央右手に流れる天野川、その右岸の台地には交野郡衙があり、長宝寺が建つ。南面して左右に塔が建ち、金堂、講堂と並ぶ姿は薬師寺式の寺院に描かれている。天の川の上流に天田宮に磐船神社がある。古代の交野が原の様子が浮かび上がってくる。 淀川に流れ込む天の川の下流部に伊香郷がある。息長氏の一族である。息長氏は天皇家の皇后を多く輩出した豪族で、本拠は滋賀県米原から長浜にかけての地域である。その上に田宮郷があり、田宮の津である。これも息長氏の一族田宮姫の里である。付近に万年寺山古墳、禁野車塚古墳などがあり、大いに勢力を張っていた。その上に郡津があり、郡津の津である。台地には交野郡衙があり、長宝寺が建つ。またその上には船戸があって、船戸の津で天野川の最上流の津である。ここからかいがけの道を上がり傍示から富雄を経て大和に通じる最短路である。 (交野古文化同好会40周年記念講演 水野正好先生 参照) |
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