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平成28年10月定例勉強会

近世の地域社会と入会史

  講師:後藤 正人氏
(和歌山大学名誉教授)

青年の家・学びの館 午前10時~12時
 28名(会員28名)の参加
 2016.10.22(土)午前10時、10月定例勉強会に28名が参加されました。

  立花会長の挨拶の後、講師の後藤正人先生から「
近世の地域社会と入会史をテーマで、「近世期における金ヶ原村の主な状況と農業などに係る入会権運動と村々の種々の関係」について大変詳しくお話しいただきました。
  
  このたび、後藤先生には大変興味深いお話をお聞かせ下さり誠に有難うございました。
  今回の勉強会の内容を取りまとめるに当たり、当日頂いたレジメを参考にさせていただきました。
   
  
近世の地域社会と入会史」講演概要

    1.
はじめに
       京都府長岡京市域の旧金ヶ原村の実情はどうであったか。

        近世期における金ヶ原村の状況と農業などに係る入会権運動などについて
    2.幕末維新期における金ヶ原村の状況 
        ・領主・伏見宮家の免定によると、村高は60石余、宮家の収取分が33石余
        村人には26石余で23戸で一戸当たりで1石余、大人2人がぎりぎりの食料状態

       
 ・金ヶ原村の沿革、地勢、税地、貢租、戸数、陵墓、物産、民業など。
         共同で入会運動を行う下海印寺村の実情について
     3.近世のおける金ヶ原村の「入会権」運動について
       ・入会権をめぐって・・・入会権の原型が江戸時代に存在し、当時の農業は入会山や入会地
        がなくては出来ない実情であり、勢い他村の入会集団などとの紛争が生じることとなる。

        ・金ヶ原村の「入会権」運動の実情
          金ヶ原村と下海印寺村の両村の庄屋が公儀(京都町奉行カ)へ宛てた9項目について
          詳細を明らかにし、入会権運動の実情を探る。
     4.結びにかえて
         ・近世において村高60石余の金ヶ原村は23戸の村で、小倉社の領有する山に対して
         共同所持的「入会権」を堅持し、訴訟を含む「権利」運動を行ってきた。
        ・金ヶ原村の入会及び「入会権」意識や、入会地の争論をめぐる領主の「済状」
         (確認書)を大事に保管していたことが貴重である。
        ・入会争論は1回の紛争解決で終結するというよりも、形を変えながら妥協を求めて
         繰り返すというのが入会史なのではないかと考えられる。

  ※ HPの掲載に当たり、講師のご厚意で当日配布されたレジメ及びWEB記事などを
     参照させて頂き、記して感謝申し上げます。


   ※ 講演の翌日、倉治の図書館で、「入会権」について参考図書を探したところ、
   「小繋事件(こつなぎじけん) -三代にわたる入会権紛争=」(戒能通孝著)岩波新書が
   見つかり早速読んでみました。


   また、WEBでは、100年に及ぶ東北農民の闘いを描く、入会権を巡る「小繋事件」の
    ドキュメンタリー映画が完成したとの記事を発見。(2009年)
   この映画には、3人のカメラマン、ジャーナリストが関わり、著者の戒能氏も描かれているようです。
   興味のある方は、http://lib21.blog96.fc2.com/blog-entry-816.html を参照ください。
   また、YouTubeで、ドキュメンタリー映画のダイジェストがご覧になれます。
     https://www.youtube.com/watch?v=sa5rtVmCFew (5分51秒)


    映画には、小繋の農民たちの訴訟を支援するために東京都立大学教授のポストを投げ打って弁護士となった戒能通孝氏(故人)や、戒能氏が早稲田大学教授時代の教え子で同大学大学院生だった藤本正利氏(故人)も登場する。藤本氏は小繋の集落に住み込み、農民を支援中に、農民とともに逮捕され、最高裁まで続く裁判の被告となった。
 戒能氏は最高裁判決前の1964年に『小繋事件』(岩波新書)を刊行したが、そのはしがきの中で、こう書いている。
 「小繋の農民はいわねばならないことを主張して、権利主張を行なった。その結果学んだのは、自分の権利、自分の基本権をまもるのは、自分自身であるという単純ではあるが苦難にみちた原則である」
免定(めんじょう)
 これをもとにして,幕末までにさまざまな土地台帳が作成された。年貢関係文書の中心は一般に年貢免定(めんじよう)あるいは年貢割付(わりつけ)と呼ばれる年貢徴収令状である(年貢割付状)。これは年に1本村に下付されたもので,村はこれに基づいて年貢を納めた。
 納租額を記して領主から村方に交付する文書を〈免定(状)(めんじよう)〉と呼び,また各百姓への割付けを〈免割(めんわり)〉と称した。

入会権(いりあいけん)とは、村落共同体等が、一定の主として山林原野において土地を総有などし、伐木・採草・キノコ狩りのなどの共同利用を行う慣習的な物権。入会権が設定された土地のことを入会地(いりあいち)という。入会権を持つ村落共同体を入会団体といい、判例は、入会団体の所有形態を権利能力なき社団と同じ総有であるとしている(入会団体の殆どは、権利能力なき社団うちの、いわゆる「代表者の定めのない権利能力なき社団」である。)。入会権は、土地に対するものだけでなく、入会団体の共同所有物や預貯金に対しても認められる。
  (ウィキペディア参照)

講師:後藤 正人氏(和歌山大学名誉教授)
勉強会 風景
近世の地域社会と入会史  レジメ

講師:後藤 正人氏(和歌山大学名誉教授)
「近世の地域社会と入会史」
講師:後藤 正人氏(和歌山大学名誉教授)
1 はじめに
 近世(豊臣政権~廃藩置県)の農業生産には入会と水利は必要不可欠の条件であった。京都府長岡京市域の旧金ヶ原村は史料が少なく、その歴史像も鮮明ではない(『長岡京市史 資料編3』長岡京市役所、1993年。『長岡京市史 本文編2』1997年)。
 長岡京市域は、江戸の初期から明治初年まで15ヶ村の村々が続いていた。「正保郷帳」(1644年作成指示、国郡毎に村名・村高が記載)では、金ヶ原村の石高(村高)は60石6斗8升である。これ以下には浄土谷村の50石5斗5升があるばかりであった。浄土谷村の石高が「元禄郷帳」(1700~ 1702年作成)では58石8斗5升9合と上昇するのに比して、金ヶ原村には変化がなかった。
 なお「天保郷帳」(1831~ 34年作成)では両村とも変化はない。こうしてみると金ヶ原村は経済的に停滞しているように見えるが、実情はどのようなものだったのであろうか。
 明治以後の町村合併では、市域の15ヶ村の内、1876年(明治9)に神足村へ古市村が合併し、1889年(明治22)には14ヶ村が新神足村、海印寺村、乙訓村の3ヶ村となった。金ヶ原村は、奥海印寺村・下海印寺村:浄土谷村と共に、海印寺村となる。

 以下では、近世期における金ヶ原村の主な状況と、農業などに係る入会権運動を検討し、村々の種々の関係を明らかにしてみたい。なお主に上記の「資料編3」所収の史料が管見の限りでは殆ど検討されていないので、利用している。
2 幕末維新期における金ヶ原村の状況

 寛延2年(1749)12月の金ヶ原村宛ての伏見宮家免定に依れば、村高は60石6斗8升で、定免が5割5分なので33石3斗7升4合、及び「日米」(付加米、1石につき3升)1石1合2勺2才を併せた34石3斗7升5合2勺2才から、「庄屋給米」6斗6合と「井料」(灌漑用水維持費力)米5斗を引いた33石2斗6升9合2勺2才を宮家が収取するのであった。
 従って一般村民に残されるのは26石3斗4合7勺8才となる。以下の史料を勘案すれば、1戸当たりではおそらく1石1斗位となり、これだけでは大人2人がぎりぎりの食糧状態と考えられる。

 京都府が1877年(明治11)頃に地誌編纂のために作成した「乙訓郡村誌」(京都府地誌・町村沿革調1・2号)は幕末維新期における郡下の村々の状況を示している。これにより金ヶ原村の状況を紹介してみたい。
 金ヶ原村は古くから乙訓郡に属し、「離合改称等ナシ」とする。「領域」は、東が下海印寺村、西が浄土谷村で「丘山ヲ以テ境シ」、南が円明寺村(現乙訓郡大山崎町)、北が「奥海印寺村卜山林及ヒ耕地ヲ隔テ界ス」という。「幅員」は、東西4町30間、南北4町20間、形は四角に近く、ただし面積の記載はない。

 「管轄沿革」では、慶長(1596~ 1615年)以前より伏見宮領とあり、明治3年(1870)から京都府所管となるという。江戸の初めから下海印寺村と共に村全体が伏見宮領であり、他の13ヶ村(古市村を含む)では1村に複数の公家領主などがいたことと比べて特徴をなす。

 「地勢」は、北方には平野が連なり、東西南の三境が皆山林を阻つという。運輸不利ではあるが、薪炭には乏しくない。「地味」は、赤色で地皮が殊に薄く、「稽稲梁(粟)二可ナリ」という。その他の植物は概ね適せずとされる。また用水に乏しく、常に「旱に苦シム」と強調されている。

 「税地」は、田が6町5反8畝29歩、畑が5反7畝5歩、大縄畑(大体の測量)が1町9反22歩で、総計は9町6畝26歩である。この面積は14ヶ村中では浄土谷村に次いで少ない。

 「貢租」は、地租204円11銭、口米金6円12銭2厘、野税(?)28銭7厘、国税1円44銭、府税6円、総計217円96銭5厘である。この数字は浄土谷村に次いで低い。

 「戸数」は、本籍23戸・平民、寺1戸(浄土宗、後述)、総計24戸である。従つて14ヶ村中では、1戸当たりの税地では約3反9畝で10位であるが、1戸当たりの貢租は浄土谷村に次いで低くなっている。「人数」は、「男五十九口」平民、「女五十七口」平民、総計「百十六口」である。従つて1戸平均家族は約5人となり、14ヶ村平均は約52人なので大した違いはない(寺を除外)。5人に満たない村は勝竜寺、友岡、井ノ内の各村である。「牛馬」は、牡牛7頭であり、3分の1以下の農家が保有しているにすぎないが、他村と比べて特に低い数字ではない。「湖沼」は、御所ノ内池、鎮守の池、谷田の池が挙つている。全て村西山下にあり、1は周囲2町、1は周囲1町半、1は周囲1町半、併せて田畑9町6畝26歩の用水に供されていた。

 「陵墓」は、土御門天皇陵で、西北隅の字石塚にある(注1)。「寺」は、地蔵院が挙つている。村の中央にあり、除地境内東西9間5分、南北15間、面積142坪半という。粟生村(現長岡京市粟生)の光明寺(浄土宗西山派別格本山)の末寺である。最澄が開基であるといい、弘仁11年(820)の建立で、初めは天台宗であつたという。

 「物産」は米麦が割愛されているが、竹の子5600貫日、薪1080貫目が挙つており、多くは京都及び近村へ運ばれていた。竹の子の生産は、多い順で下海印寺村7920貫、井ノ内村6000貫に次ぐ。また薪関係の生産は他では奥海印寺村の薪柴8000貫、粟生村の木柴2000束などである。 14ヶ村全体では竹材、茶、菜種、豆類、大根、葭簀、芋、松茸などが目立っている。

 「民業」は、男が全て農業23戸、女は「夫業二従フ」とある。金ヶ原村と共同所持的入会権運動(後述)を共同で行う乙訓郡下海印寺村は、同じく村高214石825、戸数35(すべて農業、他に社1、寺2)、人数200、物産として製茶250斤、竹の子、竹などが挙がつている。

 「地味」では、「其色ハ赤クシテ砂礫ヲ混シ地質薄悪南方稲麦ヲ種ウルニ宜シ三方ハ収穫薄シ水利乏シク常二旱損二苦シム」という。

 以上のような両村の置かれた状況は、勢い他の領域に入会地を求めざるを得ない客観的な条件をなしたものと考えられる。
3 近世における金ヶ原村の「入会権」運動

 (1)入会権をめぐって

 この時代の肥料は、中世以来の入会山からの秣草が主であった。近世の土地所有構造では、領主の土地領有権と庶民の土地所持権が対立しており、前者が収取的権利で後者が経営的権利である。前者は駆逐され、私的性格の強い後者が私的土地所有権を経て、近代的土地所有権となる。

 明治民法以来、地盤を有する共有入会権と、他の所有に係る山の利用管理権を有する地役入会権が物権の1種として保障されていく(登記は不要)。こうした入会権の原型が江戸時代に存在し、当時の農業は入会山や入会地なくしてできないのであった。即ち、肥料のみならず、燃料・建築材・食料などを提供したからである。入会権は旧戸などの地縁団体が有し、世帯単位の平等な権利であり、入会地の処分などの重要な事柄については全会一致の原則が生きているのである。この原則は総会で生かされるが、決して機械的なものではなく、欠席者の黙認も含んでいる。この入会権は、秣草のみならず、用材、薪、茸・木の実など生産`生活を支える不可欠の存在であったので、勢い他村の入会集団などとの紛争が生じている。入会権には、村中入会、数村入会や、入会権の内容によって差等入会もある。なお乙訓地域における「入会権」訴訟では京都始審裁判所の下で、1886年(明治19)5月に和解した事件が知られている(注2)。
(2)金ヶ原村の「入会権」運動
 近世には入会地が田畑や、この地域では竹の子を含む竹木伐採のためにも必要不可欠の存在であったと思われる。上記の「資料編3」には関係する史料が収められている。なお史料では金原村とあるが、本稿では金ヶ原村で通した。

 元禄11年(1608)3月付の「乍恐口上書之覚」は、以上の両村「共有」入会地に係る重要な史料にも拘らず、検討されてこなかった。と同時に入会山をめぐる多数の村々の諸関係をも示している貴重な史料である。この史料は下海印寺・金ヶ原の両村庄屋が公儀(京都町奉行カ)へ宛てた文書と考えられる。この文書は9項目からなり、この間の入会争論の歴史を見せて呉れるので、その内容をやや詳しく明らかにしてみたい(注3)。

 ① 「小倉大明神様御神山」(小倉社の領有山)は、古来より下海印寺村と金ヶ原村の請作として権利(「共同所持的入会権」)を維持してきた。請作とは中世的用語であるが、一般に年貢を払って土地を経営する権利義務関係を意味する。この場合は、竹木伐採や竹の子収穫が主であろう。正保年中(1644~ 48年)以来、小倉明神神主と金ヶ原村庄屋六左衛門との間で「山相論」が起こった経緯とは、金ヶ原村庄屋六左衛門は両村の請所山が金ヶ原村の山であると主張したことにある。この争論は、明神神主の処に朱印状が存在しなかつたために、中々埒が明かなかつた。

 ② 明神山の争論の場所は両村の請所ではあつたが、下海印寺村は争論の相手にはならなかった。然るに同神主が公儀へ「御願」したがために、その結果、下海印寺村庄屋・百姓と、金ヶ原村庄屋と同調する5人の百姓を除く、金ヶ原村の百姓とが全て召し呼ばれて、公儀から「山之子細」を尋ねられ、両村の者たちは古来より「山年貢」米1石8斗の内、7斗2升が赦免されて、同社へ1石8升づつ毎年上納して来たことを残らず申し上げた。種々の詮議の後、尤もの儀と思召され、下された「差上ケ之一礼」の案文の通りに両村が加判して、正保4年(1647)9月20日付けで手形を差上げた。この際の案文写しは両村の手許にある。

 ③ 明神山につき争論の節、明神方は金ヶ原庄屋六左衛門・新兵衛・嘉兵衛・市兵衛・喜兵衛たちの山を取り上げると申され、その上伏見宮の領地まで刈り加え、明神の所領であると度々訴訟を申し上げたので、また争論が起こつた。そこで伏見宮の家老中の御前に出頭して詮議することとなり、下海印寺庄屋・百姓残らず召し寄せ、段々尋問した結果、下海印寺村方から田地の分は伏見宮の領地であり、山争論の儀は先年申し上げた通り少しも相違ないと申し上げたことによって、金ヶ原村庄屋と百姓5人へも両村と一緒に仰付けられ、正保4年(1647)9月20日に手形を差し上げた。済状の通り年貢米1石8斗のうち、7斗2升は赦免されて、残り1石8升づつと確認されて従来通り手形を差し上げ、慶安3年(1650)8月5日に諸事を済せた旨の案文写しは手許にある。

 ④ 伏見宮の家老中が同年何月何日に金ヶ原村へ来られ、領地を残らず見分・吟味されて、絵図面まで作成されたことは実正である。

 ⑤ 明神方境内を神主が「郷内中」として支配された山の分は一の鳥居から社の奥まで約7、8丁(町)もあり、南隣は円明寺・山寺村の山境、北隣は伏見宮領並びに明神領山を友岡村の請所山・同じく久貝村の請所山境まで、神主が郷内中の支配山で、ただし年貢米はないが、諸事気ままに済ませているという。なお1町は60間、約109メートル強。

 ⑥ 神主の郷内中支配山の境北にある友岡村の請所山、及び久貝村の請所山を共に昔金ヶ原村の弥助・藤右衛門という者へ村中加判の上、永代に(土地所持権を)売渡したことは実正である。今でも弥助・藤右衛門の子孫は毎年年貢を神主方へ上納している。

 ⑦明神領の山を友岡村・久貝村の両村から金ヶ原村弥助・藤右衛門が買い入れた山の境より北は、奥海印寺村境までは下海印寺村・金ヶ原村両村の請所山であり、往古より(上記の通り)1石8升づつ上納している。

 ⑧ 下海印寺・金ヶ原両村の年貢米も、金ヶ原村弥助・藤右衛門たちの年貢米も残らず神主及び同8ヶ村の年寄中が1年に2度づつ会合し、これらの年貢を余さず食料としている(この8ヶ村とは、上記の下海印寺、金ヶ原、友岡、久貝、奥海印寺、円明寺、山寺の計7ヶ村と、あとはどの村なのであろうか)。それらの年貢米につき、欠米(不足米)などということは全くなく、明神様は次第に繁盛され、毎年毎に伽藍建立の願主も出現して、唯今は結構に修復されている。

 ⑨ 20年以前(延宝6=1678年頃)、石川主殿頭(憲之、淀藩初代藩主)が明神山を検地する際に明神神主を召して、明神境内を確認した時に神主方に朱印状も確かなる証拠もないが故に、すでに検地の予定も決まり、新しい領主が入部するとの意を示したので、神主は難儀に思われ、下海印寺・金ヶ原は往古より請作の「山本」(経営主)であり、確かな証文があるので、急ぎ淀奉行所へ持参して参れと申された。これを承つた下海印寺・金ヶ原村の者は驚き、早速上記の慶安3年(1650)8月5日に公儀へ差し上げた済状の案文写しをお目に懸け、披見された処、納得され、奉行所でこのように確認されたことは結構なるよき証拠と見解が述べられた。正にこの証文ゆえにこの時の検地は免除されたのである。
 最後に上記の点に少しも誤りがないことを述べ、先年の通りに仰せ付けられることを願つていた。なお石川憲之は延宝5年(1677)に畿内と西国の天領(幕府領)における検地を勤めた。

 以上のように、金ヶ原村と下海印寺村が近世小倉社の領有地に共同所持的「入会権」を有し、共同で「入会権」擁護運動を行つてきた。近代に入つてからも共同で共有「入会権」の獲得運動を行つてきたのは一定の入会権意識の現れである。こうした両村の絆をなした重要な一つが中世以来、両村が他の村々と共に小倉社の氏子として宮座を形成してきたことによるのではないか。

 享保2年(1717)頃成立の「京都御役所向大概覚書」(洛中洛外神社祭礼之事)によれば、小倉社の氏子は10ヶ村で、円明寺、下植野、調子、友岡、下海印寺、金ヶ原、神足、古市、勝龍寺、久貝の各村であり、奥海印寺村は氏子ではなかった。また金ヶ原村と下海印寺村が共に伏見宮領であつたことも共同行動の一要因であつたものと考えられる。
4 結びにかえて

 近世において村高わずか60石6斗8升の金ヶ原村は23戸(他に1寺)の村で、小倉社の領有する山に対して共同所持的「入会権」を粘り強く堅持し、訴訟を含む「権利」運動を行なってきた。金ヶ原村は、田畑には地質に恵まれず、用水に乏しかったので、食料も不足がちであったが、勤労意欲を振るって小倉社の領有山に共同して入会い、共同所持的T入会権」に対する意識を持ち、やがて「権利」擁護のための「入会権」運動までの認識に到達した。

 明治以後の動向を若干述べておくと、廃藩置県による土地領有権廃止後、金ヶ原村は下海印寺村との耕地入組みを調整して、両村の「共有入会地」の確認を京都府庁へ働きかけていく。京都府庁は土地領有権の消滅が土地所持権の私的土地所有権への質的発展を理解できず、 10数年後に明治政府へ伺いを立てたが、政府は両村の「共有入会権」の要求を1週間余りで確認する。

 金ヶ原村の入会及び「入会権」意識や、入会地の争論をめぐる領主の「済状」(確認書)を大事に保管していたことが貴重である。領主の小倉社が朱印状を有しなかったにも拘らず、「請作」をしていた両村の共同所持的「入会権」を基礎とする慶安3年(1650)8月5日付の「済状」のおかげで検地や「入部」を免れたのである。なお入会の起源は中世に遡るので、中世における入会をめぐる様相にも関心が沸いてくる。また入会争論は1回の紛争解決で終結するというよりも、形を変えながら妥協を求めて紛争を繰り返すというのが入会史なのではないかと考えられる。


 <参照>

 
(1) 関連文献に、後藤正人「長岡京市域の『金ヶ原陵』と学徒の勤労奉仕」(『大阪民衆史研究会報』183号、2009)がある。
 (2) 後藤正人「入会権と法意識――近世と近代を通じた訴訟」『中日本入会林野研究会 会報』16号、1996。現『入会林野研究』誌は、乙訓郡の鴫谷山をめぐる入会訴訟を分析している。
(3) この元禄11年には、柳谷山をめぐる入会争論が浄土谷村と神足村との間に起こり、その後も争論が続いた(井ヶ田良治監修『古文書からみた江戸時代の浄土谷村』長岡京市教育委員会、2008)。元禄期の入会紛争の背景に、農業生産の飛躍を考える必要がある。

最後までご覧いただきありがとうございました

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