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昨年より、コロナの影響で中止しておりましたが、緊急事態宣言が解かれ やっと久しぶりに開催となり、感染対策を取り乍ら私部をゆっくりと歩いて来ました。 |
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日時 : 2021年10月9日(土) 午前9時 京阪交野市駅前集合 参加者 21名 行程 : 交野市駅〜住吉神社〜北田家住宅〜想善寺〜無量光寺〜光通寺〜私部城跡 4.5km 11時30分解散 2021年10/9(土)、天候 秋晴れ。 村田会長の挨拶、「来年は、交野古文化同好会が50周年を迎えます、50周年記念誌の発行など記念行事にご協力をお願いします。本日は、実に11カ月ぶりの歴史健康ウォークです、高尾先生にご案内頂き、私部地区を楽しく歩きたいと思いますので、宜しくお願いします」で始まり、早速に駅前を出発した。 駅前から山根街道に入り、住吉神社〜北田家〜想善寺〜無量光寺〜光通寺〜私部城跡まで、周辺の史跡・遺跡の解説を聞きながらゆっくりと歩いてきました。 当日の参加者は「広報かたの」などで事前に見られた方を含めて、総勢21名(会員15名)の元気な皆さんでした。 高尾さんは御年89歳とはとても見えず、大変お元気で、参加者から驚きと拍手が起こりました。寺社や史跡についてゆっくりとお話し頂き、色々な歴史があることがお分かり頂けたことと思います。 「今日は私部の町を歩き本当に楽しい一日でした。代官屋敷を始めて訪れ大変良かった」と言われたことが印象に残りました。 また、先日来、会員の皆さんのお手元には、大屋喜代治氏の地域誌「河内国交野郡星田の里」が届いており、「素晴らしい本に驚きです」「自負出版され、我々にも配ってもらい本当に有難うございます」「これからじっくりと読ませていただきます」等々感動の言葉を頂きました。 ※高尾さんより当日に頂いたレジュメを参考にさせて頂きました。記して感謝申し上げます。 |
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当日のウォークマップ |
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![]() 住吉神社で元気に集合写真 |
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![]() 高尾秀司さんと青山洋二さん |
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大矢家の匂いヒバ ◆大矢家の前庭の木です。台風でこずえが折れたので、近くの交野造園さんがデザインしたそうです。ヒバは、ヒノキ科のアスナロ属 青森ヒバが有名 「あしたはヒノキになろう」 ヒノキチオール(芳香剤) ストレスを和らげリラックスさせる働き 枯死しても芯まで腐らない程耐久性あり |
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祭神は住吉四神で元禄5年(1692)の私部村寺社改帳によると、いつ勧請したか分からないとあります。社殿は住吉神社であるから住吉作りと思われるが、春日造りとなっている。これは奈良春日大社の社殿が20年毎に建て替えとなるので、江戸時代にその宮殿を譲り受けたからである。 また昔、境内に現光寺という宮寺があって、空禅(きゅうせん)というお坊さんが住んでいたという。会館の裏に空禅藪と呼ばれる所があり歴代の住職の墓がある。 また神社の入り口にある大鳥居は万延元年(1860)に私部口山の鳥居谷から原材を運んできて造ったものであります。 |
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(住吉神社社誌より) 1年も持たなかった「万延」事件続きで改元7連発!
明治天皇の父・孝明天皇の治世は、1846年(弘化3年)から1866年(慶応2年)の、21年に及ぶ。さまざまな事件が発生したせいか、この治世は、弘化・嘉永・安政・万延・文久・元治・慶応と年号が次々変わった。 特に安政期には、桜田門外の変や悪疫の流行など暗い事件が多かったので、安政7年(1860年)3月18日、「万年も繁栄が続きますように」との祈りを込めて万延元年と改元した。
ところが、実際は凶作、物価騰貴などで人心が動揺。翌年2月20日に早くも文久元年と変えられている。
万年どころか、1年も続かなかった「万延」であった。
(参考)「桜田門外の変」は1860年(安政7年)3月3日に起こった。
その後、すぐ元号が「万延」になることに。
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私部口山の鳥居谷から原材を 私部口山の鳥居谷から原材を修羅に載せ、 北川の川床を村中の人が引っ張ってお宮まで運んだ (鳥居谷から住吉神社までの地図) |
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![]() 交野山、伊勢神宮などの遥拝所 |
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きゅうせん薮 私部の産土の宮、住吉神社の境内の東にきゅうせん藪はある。 元禄時代、境内に真言律宗、つまり宮寺の現光寺があった。庵梁行三間、桁行五間、わらぶき、前一間しころ付き瓦葺、ここに空禅(きゅうせん)というお坊さんが住んでいた。空禅は中興の祖である。 右奥の墓石がきゅうせん和尚の墓石で、正面に当寺中興空蝉寂超大和尚、背面に正徳二年(1712年)と記されている。歴代の社寺僧の墓で、大変厳かな場所である。沢山の石塔と石仏が安置されている。 |
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![]() 大峰山五〇度供養塔(代官屋敷の道路を南に隔てた角地) |
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代官屋敷(北田家住宅) 江戸時代、私部の領主畠山氏の代官をしていたことから地元では「代官屋敷」として親しまれてきました。屋敷の広さは約4千平方メートル(約1200坪)あり、門長屋は55、8mもあり日本最長です。 又高さも2,6mもあり馬に乗ったまま出入りが出来るといわれたほどです。乾蔵から享保7年(1722)の棟札が見つかり、母屋の建築はそれより少し前頃と思われます。 昭和54年、国の重要文化財に指定され、毎年春と秋に公開されています。この北田家は南北時代の後醍醐天皇の重臣、北畠親房の子顕家の子孫と言われ、南朝没落後、その姓をはばかり、北畠の白を除き北田と称したという。 |
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一般公開日が春と秋の2季制に変わりました! 「広報かたの」などでお知らせします。 見学は事前に予約が必要です。先着30名 右記の文化財事業団に申し込み下さい。 交野市文化財事業団 TEL 072−893−8111 |
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北田家門長屋 大きな構えは 代官屋敷 (交野カルタ)
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想善寺 宗派は西山浄土宗 本尊 阿弥陀如来坐像 天正年間(1573〜1591)惣善上人が一宇の堂を建て念仏生活をしたのが始りといわれ、後に想善寺と称した。その後寛政2年(1790)遍空上人時代当地の領主畠山義紀公が大檀越となり寛政5年(1793)秋に現在の伽藍ができました。 本堂の傍に地蔵堂があり堂内には中央に一木彫りの延命地蔵を安置しその左右には佛高12cmの千体地蔵尊を祀っている。新しく生まれた子供の幸せと恵まれなかった水子の霊の安らぎを祈って建てられたのであろう。 当地方では子授け、安産の帯受け、及び子供護りの地蔵として、参詣する人がおおい。 |
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無量光寺 浄土真宗西本願寺末本尊・阿弥陀如来 (平安時代) かつては、住吉神社の西の方に天台宗の尼寺 として建立 されたが焼失し、 1486年 頃今の位置に再建 されたとい う。 戦国時代には、このお寺は浄土真宗となっていた為、信長の石山本願寺攻めの時 (1570)、 当寺三世覚心が本願寺に味方 し、天王寺の方で信長方にいた私部城の安見氏 と戦ったため、寺は焼かれ覚心は 20年も帰 られなかったと伝えられています。 寺も享保15年 (1730)よ うやく再建できたという。明治維新の成辰戦争の時、幕府軍が立ち寄ったと伝えられている。 |
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無量光寺 本堂大棟獅子口 | |||||||||
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光通寺 宗派 は臨済宗 本尊 聖観 音像 (鎌倉 時代) 本尊は観音菩薩立像(秘仏)。 鎌倉時代の作、本造 (ヒ ノキ材)。 このお寺は室町時代のはじめに創建 され、その後京都東福寺の末寺 とな ります。別峯の創建 と伝えられてお ります。室町時代の終りから戦国時代にかけ朝廷にお茶を献ずるな ど極めて力をもつた寺でありま した。 またこの寺の石垣の中には 「石垣地蔵」 と呼ばれる 2体の石仏がみ られます。石仏はかな り風化 していて、わか りづ らいのですが、光線の具合で浮き上がることがあ ります。境内にはたくさんの石仏、弁財天、お稲荷 さん、お不動 さんな どが祀 られています。 お寺を開かれたと云われる別峯 さんのお墓 も墓地の中にあります。寺に残 る古文書によると敷地を私部城にとられたと書かれています。 |
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![]() 大改修が終了した本殿 |
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![]() 弁天さん |
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![]() お稲荷さん |
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お不動さんと役行者堂 |
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![]() お不動さんと役行者 |
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![]() 石垣を上がったところの本堂の東側に、「こばか地蔵」が沢山おられる。 昭和4年、信貴生駒電鉄(今の京阪電鉄交野線)の工事中、 交野駅の南踏切付近、「こばか」から出土したものが主に集められている。 |
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![]() 光通寺の西隣の梶さん宅の入り口に西を向いた丸彫りの足痛地蔵さん。 このお地蔵さんは足痛を治してくださるという。 |
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私部城は戦国時代時代に築かれた河内の豪族・ 安見氏の居城です。城は本郭・二郭・三郭・ 四郭からなる主郭と周囲の副郭で構成されています。 最近、郵便局附近の発掘調査の結果、郵便局 「5郭」跡である事が分かりました。 平成30年10月1日付で交野市の文化財に指定される。東西400m南北300m、甲子園球場の3倍強あります。 私部城は室町時代の始め頃に出来たと云われていたが、最近の研究で元亀元年頃 (1570年 )頃には立派な防御機能を備えた城であったことが分かってきま した。又松永弾正が二度も攻めてきたことが分かっております。私部城跡は交野郵便局の東側の森の中に土塁と切り通しがそのあとを留めております。 しかもこの城は平地に作られた非常に珍しいものであります。 近年開発が進み保存に不安を感じますが、市民の力でこのまま後世に伝えてゆきたいものです。 |
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【私部城の歴史】 私部城は何時頃出来たか? 1568年{永禄11}織田配下となつた安見右近により完成したとみられる 1571年{元亀2}安見右近が奈良多聞城で切腹においこまれる。直後に私部城を攻める。城主不在の危機を乗り越える 1572年{元亀3}4月松永久秀が再び私部城を攻める。この時は織田方の柴田勝家、佐久間信盛等の援軍により撃退 1578年 (天正6)安見新七郎所で信長が休息する 1581年 (天正9)信長の馬揃えに取次者である安見新七郎が召集される。以後消息。 |
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![]() 私部城 本丸堀跡 |
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![]() 新しく令和3年8月に建てられた私部城(本郭)の説明版 |
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最近、郵便局附近の発掘調査の結果、 郵便局 「5郭」跡である事が分かりました。 |
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![]() 交野かるたにも描かれている石仏 |
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最後までご覧いただき有難うございました |