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2023年2月11日(土)冬晴れの中、青山洋二氏の案内で、交野で一番古くから人々の営みがあり、古い歴史が秘められた神宮寺周辺をゆっくりと探訪して来ました。 村田会長の挨拶の後、元気に交野ドームを出発。第二京阪国道の側道を歩き、右手に交野三山を遠望しながら最初の見学地・関西電力枚方変電所付近で「倉治古墳群」について詳しく解説を受けた。次いで、交野八景で有名な「源氏の滝の清涼」に癒され、地元の年配の方々には懐かしい旧中学校跡を通り、神宮寺遺跡、石仏の道を歩き、岩倉開元寺の古い歴史を肌で感じた、楽しい歴史ウォークでした。 ウォーク当日、前日の雨もすっかり上がり早朝より続々と多くの方々が、いきいきランド広場に集合された。参加された会員23名の中、令和4年度に入会された会員が10名と二桁となりました。また、交野広報を見られたり知人の紹介などで会員外の9名の方が参加され、その内1名が新会員に申し込まれた。50周年記念の今年になって、新入会員が48名増加、総勢161名となりました。 参加された方々から、「今まで無意識に歩いていたところに、こんなにも多くの古い歴史が隠されていたことに驚いています。こうして詳しく解説付きで見学出来て、とてもよくわかりました。また、交野のまちの地形や史跡・歴史などが分かってとても楽しかった。」など感想を頂戴しました。 ホームページに掲載するにあたり、講師の青山さんが研究・作成されたレジメ等を頂戴しましたこと、記して感謝申し上げます。 ※参考資料 平田政信氏著「考歴民」、奥野平次氏著「ふるさと交野を歩く(神の巻)」、交野市史・交野町史など参考にさせていただきました。 |
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いきいきランド広場にて記念撮影 |
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石仏の道 阿弥陀三尊磨崖石仏前にて記念撮影 |
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交野三山(左から交野山344m、旗振山345m、竜王山318m)を 第二京阪道路側道1.2kmより、遠望する |
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本日の講師は、青山洋二氏(中央右手を挙げて説明) |
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第二京阪国道の側道を下り、関電の変電所付近で、 倉治古墳群の詳しい説明を受け、源氏の滝へと進む。 |
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源氏の滝は高さ17.5m、白旗池からの渓流が流れ落ちて滝を形成。交野八景「源氏の滝の清涼」に選ばれていて、もとは近くにあった開元寺の滝が訛って「源氏の滝」になった。昔は修験者が身を清めた信仰の場であって、滝の高さ中程の北側に(河内名所図会)-享和元年(1801)にも宝形造四角形の不動堂。明治36年に京都妙心寺末寺の宣春院を移すが無住が多く、現在の六角形の不動堂は、昭和49年建立で年2回護摩木焚く法要がある。滝の左の岩に「不動明王の梵字」があるが、観音岩の梵字と同じ頃のもの。 |
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戦後間もない昭和22年、学校教育法施行により、6.3.3制の学制の中学校が突然出発。校舎も机、教科書も無い(ゼロ)からの出発と初代久保田校長は記す。交野星田学校組合立中学校として産声を上げ、当時現市役所辺りにあった、交野小学校の一部を4月に借用して、約半歳後当時滝の近くの「交野女子専門学校」を買収して、そこへ中学校移転。昼なお暗く、雨漏りもする校舎。交野の北東端部で地理的に不便で、生徒、教職員、PTAの方々から移転、改築の要望が起り、昭和36年遂に現在の所に新校舎完成。よって滝の校舎|ま、14年間存在しました。 |
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旧交野中学校(上)と旧プール(下) | |||||||||||||||||||||||||||||||
現在は、旧交野中学のプールの上に交野里山ゆうゆう会の作業場が建てられている。 |
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神宮寺1丁目の角地(地蔵の辻)に、さいのかみ(塞の神)が祀られている。村に悪魔を入れないように守っていただく神様だと言う。いつもお花が飾れ手入れされている。この辻を東に神宮寺2丁目の住宅街に入り山へと登れば、交野山への石仏の道に続く。 この山麓には、今から約9000年の昔、縄文早期時代に人々が居住していたという。ここに神宮寺縄文早期居住跡、天平時代の開元寺跡の石碑がある。 |
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神宮寺先縄文時代遺跡(神宮寺石器時代遺跡) 昭和31年の秋、石仏の道の弥勒菩薩の磨崖仏の下、二枚目の畑の南寄りのミカン畑でニ点の石器が採集された、一つはサヌカイト製の握斧式石器(ハンドアックス)長さ約9cm幅6cm、もう一つは同じくサヌカイト製のナイフ形石器、長さ6cm、幅2cmである。 今から2万5千年前と考えられている。握斧式石器は日常の狩猟にも、また人と人との闘争にも使われたと考えられている。 |
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神宮寺の村から廃岩倉開元寺へと通じる道が石仏の道である。 この石仏の道に存在する弥勒仏坐像石仏、二尊石仏、三尊磨崖石仏、阿弥陀如来立像石仏、阿弥陀三尊磨崖石仏、の5点が、平成14年9月1日付けで「廃岩倉開元寺関係石仏群」として交野市の指定文化財になった。 石仏の道をあがると、右側に東面して花崗岩の自然石に刻まれた弥勒菩薩(第一石仏)がある。この弥勒菩薩は坐像で、右腕を前に出してまげ、掌を外側に開き、左手は組んだ膝の上で掌を下に向けておいて、くつろいだお姿でおられる。リアルで緻密な線刻描画は、大阪随一の秀作と評され、鎌倉初期の作と言われる。 まわりは竹薮に囲まれ、しっとりとした趣はいつまで眺めていても飽きない。 山裾の藪(神宮寺の宮跡)のある北から里のかけて、奈良時代に開元寺と言う大寺が建ち、その寺が鎌倉時代の頃に、交野山の山頂に寺を移し岩倉開元寺と名を変えたといわれており、この道は岩倉開元寺への参道であった。往時、沢山の僧やお参りする人々が通った道である。 弥勒菩薩から登山道を登ると、右側に細長い池があり、この池の東端の小道に、二尊石仏(第ニ石仏)が西面している。さらに第二の山池を左に見て進むとぐっと南に山道は曲がるが、ここからすぐ右側に大石の頂部が見える。この大石の上部中央に南面して、半円の光背に阿弥陀三尊(第三石仏)が刻まれている。 本尊は阿弥陀如来坐像、脇侍は観音・勢至の両菩薩の立像で、文明11年(1475)と彫られている。室町中期である。現在、交野山への登山道(石仏の道)は、この磨崖仏の北側を通っているが、昔は南側の小川に沿って、眼の上に阿弥陀三尊を拝みながら「なんまいだ、なんまいだ」と唱えながら登ったと言う。 見落としがちなので、要注意。 道の左手に、頭部が少し欠けた阿弥陀さんがおられる。阿弥陀如来立像石仏(第四石仏)である。石仏の頭部右半分や光背の上部を欠損しているが、衣は通肩で来迎印を結んでおられ制作年代は室町時代とされている。石仏のある北側斜面は「鳩が谷」とも呼ばれ、以前ここから骨壺が出土したといい、開元寺の墓地であった可能性があり、この石仏も墓地に伴う供養のために造立したと考えられている。 この山道を更に、登ると左に傾いた大石がある。その上部切り込みの光背の中に阿弥陀三尊(第五石仏)が刻まれている。高さ3mほどの花崗岩に、仏の高さ40cmの本尊阿弥陀如来が蓮華座に坐し、これよりやや下側の両脇には、第さん石仏同様、観音菩薩と勢至菩薩の二仏が蓮華座の上に立っている。また、第二石仏同様に室町時代中期の作といわれている。右側の菩薩が赤茶けているのは、開元寺の火災の時のものともいわれている。 雨上がりの朝、こもれびが射す頃の石仏の美しさを皆さんも是非ご鑑賞下さい。きっとご満足されるでしょう。近いうちに、是非とも石仏の道をお尋ねください。 |
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廃岩倉開元寺石仏群・石仏の道 交野市指定文化財 平成14年9月1日指定 言い伝えによると岩倉開元寺は神宮寺にあった開元寺を移したといわれている。 最近ではその開元寺の存在が疑われております。しかし岩倉開元寺が存在したことは発掘調査の結果、その実在が確認されております。この山道に石仏は五体祀られております。 |
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弥勒菩薩坐像の右手は講師の青山洋二氏 |
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弥勒菩薩坐像(第一の石仏) |
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弥勒菩薩坐像(第一の石仏) 「石仏の道」を登って開元寺跡の石碑や縄文時代住居跡の石碑を過ぎて、山手にさしかかる所に弥勒菩薩坐像(市指定文化財)があります。この石仏は、やや稚拙さが感じられるものの、おおらかでゆりたりとした表情をしています。造られたのは鎌倉時代の始めごろとされ、山頂近くにあった岩倉開元寺の境界を示す傍示石と考えられています。この石仏群では一番古いものである。 |
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二尊石仏 (市指定文化財・第二の石仏) |
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二尊石仏 (市指定文化財・第二の石仏) 弥勒菩薩坐像石仏から更に登ると南に分かれる小道があり、その分岐点付近に西面して当石仏はある。高さが40cm程の小さい石仏である。向かって右側の像は比丘形左側は阿弥陀如来像とみられるが磨耗が激しいためその姿をよく知ることは出来ない。比丘とは托鉢する修行者や出家得度して修行した人をいう。 |
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三尊磨崖石仏 (第三の石仏) |
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三尊磨崖石仏 (第三の石仏) さらに登ると「文明十一年」(1479年)の銘が入った第三の石仏がある。三尊磨崖石仏(市指定文化財)が石仏の道に背をむけた形で立っている。以前には向いに登山道があったといわれる。高さ3.4m、幅3.7mの巨石に阿弥陀三尊を半肉彫し、枠の外側の脇には阿弥陀如来の種字「キリーク」が刻まれている。真ん中に阿弥陀如来、右側に観音菩薩、左に勢至菩薩(この逆の位置という説もある)を従えていると見られるが、研究者によっては両脇を比丘形とする意見もあります。 |
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阿弥陀如来立像 室町時代の作・全高43cm |
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阿弥陀如来立像 (第4の石仏) 第三の石仏の直ぐ北側、道をへだてて、阿弥陀如来立像(市指定文化財)があります。この石仏さんの後ろの斜面は「鳩が谷」と呼ばれ、以前にここから骨壷が出土したと伝えられており、岩倉開元寺の墓地の入口であった可能性もあります。「鳩が谷」という名前も「墓が谷」がなまったものではないかとも思われます。残念ながら、この石仏の右頭部が少しかけております。 |
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磨崖阿弥陀三尊像 (室町時代の作) |
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磨崖阿弥陀三尊像 (第5の石仏) 山道をさらに登り、標高160mほどのところに岩倉開元寺の寺域への登りロがあります。この登りロの手前に第5の石仏さん、阿弥陀三尊磨崖石仏(市指定文化財)があります。高さ2.5m、幅2.1mの巨石に彫られており、真ん中に阿弥陀如来坐像、右側に観音菩薩立像、左に勢至菩薩立像が彫られています。(逆の説もある)この石仏さんは西に面していることから、西方極楽浄土への往生を願って作られたのでしょう。 |
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磨崖阿弥能三尊像の東方、交野山の南東山麓(標高230〜300m)、東西約400mの間に20数ヵ所の建物跡を残していた。古文化同好会の先駆けである、交野考古学会が昭和29年10月から「岩倉開元寺」の発掘調査。この寺について全く文献がなく、この発掘は高く評価される。創建や焼亡年代は、地方伝説と考古学物証しかなく、数年に渡って遺跡の一部を発掘。「密教寺院の正方形(約26m)」の多宝塔と思われ、二段になった焦土層も発見した。その出土面から、下の層は室町前期、上の層は室町後期の再建と思われる。 | |||||||||||||||||||||||||||||||
最後までご覧いただき有難うございました! |