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交野歴史健康ウォーク 209回

交野の歴史文化
森燈籠の辻~森古墳群周辺散策
日時:令和6年6月8日(土)  午前9時集合
集合場所 京阪河内森駅 52名(会員31名)参加

 

案内:向井 克喜氏(交野古文化同好会)
行程 : 京阪河内森駅9時集合 →天田神社→川東神社→森燈籠の辻→二月堂燈籠→
常徳寺跡→卵塔・新川→雷塚古墳(標高156m)→傍示道500m→南山弥生住居跡→
鍋塚古墳→展望岩場→天田神社 解散 11時40分頃 徒歩 3.5km
 2024年6/8(土)、天候晴れ。午前8時40分過ぎから参加者が徐々に増えだして9時の定刻には河内森駅前附近は参加の皆さんで一杯になりました。総勢52名の参加者数は、2月10日の歴史ウォーク「消えた信貴生駒電鉄磐船駅と森地区歴史探訪」の参加者数56名に次ぐ多くの参加者で賑わいました。案内役の地元の向井克喜さんのご努力で森地区の皆さんにもお誘いされ沢山の方が参加されました。

 午前9時、天田神社へ向けて出発、皆さんが揃われたところで村田会長の挨拶の後、向井克喜氏の案内で森の燈籠の辻~森古墳群周辺の史跡をゆっくりと巡ってきました。
 天田神社から川東神社へそして森村へ、燈籠の辻・東大寺の二月堂燈籠などを経て、いよいよ本日のメインテーマの「森古墳群」へと進んだ。二月堂前には、向井さんのご厚意で竹で手作りの山登り用の杖が30本準備されており、各自頂いた杖を手に手にワクワクしながらゆっくりと山道を踏みしめ「雷塚古墳」の後円部の墳頂まで登り、全員怪我も無く下山しました。森古墳群への山道の整備や危険な箇所にはロープを張ったりして、事前に向井さんより十分な準備をして頂いたお陰です。感謝!感謝!です。

 参加された皆さんからは、「こんなに身近なところに沢山の歴史や言い伝えがあるなんて大変なお驚きです。」「沢山の古墳の状態や歴史をお聞きし古墳の上まで登ることが出来て本当に楽しかったです。周りの人たちに助けられ無事に下りることもでき感謝です。」「交野山より傍示を経て帰って来る時、今度は友人を誘って森の古墳を案内したいと思います。」「向井さんの事前の草刈り、ロープ張り、竹杖の用意などのお陰等々で、無事に最後までウォークに参加出来ましたこと、大変感謝しております。」「ハードな山道でしたがお天気に恵まれ、森林浴が気持ち良かったです、有難うございました。」「私にとりましては今までで最難関の山登りでした。飲み物、保冷剤、熱中症対策キットなどご用意いただき、またこまめな休憩やお声掛けのお蔭で、全員無事に楽しく有意義な時間を過ごせました。皆様、大変お世話になりまして有難うございました。」など嬉しい感想を頂きました。

 今回は、地元の森地区の自治会や山地保全活動など幅広く活発に活動されている、向井克喜様に大変お世話になりました。事前に山道の整備など綿密な準備に万全を期していただき、ウォーク当日は熱中症などにも気配りいただき、大変分かりやすくご案内いただきました。
 また、当日配布のレジメを提供いただき誠に有難うございました。記して感謝申し上げます。
 写真撮影には、毛利様、谷様にお世話になりました。有難うございました。
 
森古墳群・雷塚古墳にて記念撮影 
 
南山弥生住居跡にて記念撮影
 
南山弥生住居跡にて記念撮影
 レジメ  森燈籠の辻~森古墳群周辺散策
講師 : 向井克喜氏
 
 
 
 



 

京阪河内森駅集合・出発
 
 天田神社へ出発
 
 
 天田神社で挨拶と散策行程などの説明
  
    案内:向井克喜氏(古文化同好会)     村田会長の挨拶など
 
 森燈籠の辻~森古墳群周辺の探索
 森地区は交野三山の竜王山の南尾根の西側の扇状地に形成された小さな集落で、肥沃な台地と山から恵まれ、縄文時代には人が住んでいたと思われ、地域から発見された遺跡より弥生時代には集落が有った事から、稲作を中心とした村が形成されていたと思われる。

 今から1700年前の古墳時代には当時の豪族肩野物部一族がこの地域を治め、大陸から鉄鍛冶技術や機織りの最新産業技術を導入し、強力な勢力を有していたと思われる。その一族を埋葬されたのが森古墳 群と言われ、最大の前方後円墳「雷塚古墳(森1号墳)」は国内最古級(3世紀後半)と言われ、奈良桜井市の卑弥呼伝説の「箸墓古墳」と同時代と言われている。森地区は古代には「むくね村」と称されたが平安時代より石清水八幡宮の荘園になり、延久年間(1070年頃)石清水八幡宮の「森」神官が当地の向山(常徳庵?)に隠棲した際、むくね村の発展に大きな功績により神官の名を頂き「森村」となったと伝わっている。

 本日の歴史健康ウオークの森地区の歴史史跡や森古墳群周辺のポイントに付いて概要を下記にご案内します。

 天 田 神 社
 この周辺から下流域は甘田(アマダ)と言われ豊かな稲作地であり、古代の人々は感謝の祈りを込めて上流の極まる所に田の神を祭る宮を建て「甘田の宮」とよんでいたが平安の初めごろから「天」の字をあてられ「天田の宮」となったと言われている(ふるさと交野を歩く、山の巻より)。天田神社の鳥居の西側が奈良時代に制定された天の川流域の条里制の1条通りであり、この時代には神社が条里制の基点になったと思われる。 
  天田神社は私市地区と森地区の境界、私市側にあり、両地区の氏神となっていました。この付近は、弥生時代の集落跡が見つかっており、交野でも古くから人が住んでいたところでした。「交野町史」によれば、「このあたりは川水があって、稲のよく実る甘野または甘田の名があった。まことにありがたい田だとの感謝の祈りを込めて、田の上流に宮を建てて、田の神を祀ったのが甘田の宮のはじまり」とされています。境内から祭祀に用いられたと思われる土師器が出土し、付近の山麓からは肩野物部氏のものと推定される巨大な古墳群が発見されるなど、当地の歴史の古さを偲ばせるものがあります。              【祭神 本社 住吉四神】
     表筒命(うわつつおのみこと)、中筒命(なかつつおのみこと)
     底筒男命(そこつつおのみこと)、息長帯姫命(おきながたらしひめのみこと

 ④天田神社  
   ※郷土史かるた 「(あ)天田の宮は田の神まつる」

 私市、森の氏神社住吉四社を祀る。古代この地域は土地が良く肥えて作物が豊かな野で有ったので甘野と言われ川は甘野川、田は甘田であった。この甘田に田の神を祀った甘田宮が天田宮の起源。境内を流れる小久保川は私市・森の大切な灌漑水でありその分水堰「水分(ミワタ)」や奈良時代の1条通りとの関わりも?
 
 
 
 
 川 東 神 社
 天田神社から小久保川の石橋を渡った処の祠が森地区の氏神様「川東神社」である。森地区は石清水八幡宮の神人であり、その関係や肩野物部一族との関係もあると言われている。川東神社の直近の清水ヶ谷を源流とする小久保川は私市・森地区にとって大切な灌漑水であり、その分岐点「水分(ミワタ)」が南東50mにあり、私市側1条通りや森への分水堰がある事から、その水神でもあったとも考えられる。(昔は「末期の水にミワタの水を汲む」との森に伝わる伝説もある)
  創建:年代不詳だがこの地には天暦3(949)年に石清水八幡宮の荘園三宅山荘園が設置され、津田から星田までが含まれる広大なもので、鎌倉時代まで続く。当社はその頃に創祀されたと思われる。
ご祭神 :品陀別命(八幡さま)
森・私市の同地区の氏子は勅祭石清水祭においてそれぞれ火長神人、御前払神人として現在でも奉仕している。
 天田神社の小久保川の東側(川東)の森側にあるお社で石清水八幡宮との関連と言われている。森地区は平安時代から石清水との関わりが強く火長神人でもある。肩野物部一族との関わりや水分(ミワタ)との関連も?
  ホンダワケ命は「応神天皇」や「八幡神」の名で知られています。戦前までは武神として崇められていましたが、戦後から平和観念が浸透していくなかで、教育や縁結びなど日常生活に根ざした諸願成就の神さまへと変化していきます。「八幡さま」を祀る神社は全国に約4万ほどあり、日本中のどこへ行っても出会える神さまです。

 また、当社の創建年代は詳らかではないが森地区は古来岩清水八幡宮の所領であった事が知られ、平成十二年には区域内の 河内磐船駅北側より平安時代の三宅山荘園の遺構が発掘され、鎌倉時代まで荘園が続く事が確認された。また森地区の氏子は石清水八幡宮の勅祭岩清水祭に御先払神人として毎年奉仕しており未だに強いつながりを持っている。このような事から氏神として八幡大神である御祭神をお祭りしたものと思われる。

 当社の前に円柱状の灯篭の変形のようなものが一対立っている。
 それには壽永寺元皓と僧名が刻まれている。この人はもと森向井家の出で、須弥寺本隆和尚に導かれて佐太来迎寺に入り、後江戸浅草の 幡隨院で修業し、遂に宗学の奥を研めたので、芝増上寺走誉によって 江戸寿永寺住職にせられた人。寛永年間父母の墓参のため森に帰り当村領主大久保家のために大いに尽くすところがあったので、同家よりその宗家向井五衛門に扶持、馬、槍を許した。
 よって、向井家では当社の前に長い広場を設けて、そこを調馬場 とした。(現在)
また、この人は氏宮へ石鳥居を寄進したが、後それが倒壊したので その材を用いて立てたのが、現在社前にある一対の立石である。
 
 
 
 
 
 【あまだのみやちどりこども園】
  幼保連携型認定こども園 【あまだのみやちどりこども園】  (森新池がこども園へ)
 交野市の公私連携・幼保連携型認定こども園です。こどもたち一人ひとりに寄り添い、個性を認め合い、温かく見守り続けて行きます。地域に根差すこども園として、これまで以上に親しまれる保育園を目指します。京阪交野線・河内森駅から徒歩5分の駅近です。子どもたちは、天田神社や獅子窟寺、緑豊かな環境に包まれて、元気に遊んでいます。
 2020年4月民営化となり、公私連携・幼保連携型認定こども園としてスタートしました。2021年3月に新園舎が完成。4月より定員も210名となり、一回り大きなこども園となって新たなスタートを切ります。一人ひとりに寄り添い、個性を認め合い、温かく見守り続けて行きたいと思います。これまでと変わることなく地域に根差すこども園として、いろいろな役割を担い、これまで以上に親しまれるこども園を目指しています。 
 森新池 改修記念碑
當宮の口池は明治38年向井直勝氏の発起によりて創設せらる、氏の没後
昭和9年拡張工事を起工成るに及び村民氏の徳を追慕しこの碑を建つ 昭和9年5月
 
城戸(きど)・北城戸(きたきど)

  森の村の中から北東へ抜ける道があり、寺へと通じる道に出たところを北城戸という。
 城戸は、京阪河内森駅より東へ、森に通じる道路がカギ型に曲がる合流地点を言う。
 城戸とは、木戸のことで、森を通過する山根街道の東西の入り口に木戸を設けて、村を出入りする人々をチェックしたり、村への乱入者などを取り締まったり、夜間は戸を閉めたりして、村を防備した所である。 
森村の地名  小字名
 
森の地名の由来

 池田麗一著「須弥寺沿革誌」に、山司(荘司)として石清水八幡宮から派遣されてきた役人の名前が森に伝わっていると記されている。

 それによると延久年間(1069~1074)、森宮内少輔という有徳の人が森に住んでいた。彼は森にあった「警固観音」が大変荒れ果てているのを見て、私財を投じて再興した。そのことによって彼の名が上がり、これまで「無垢根(むくね)」と呼んでいたこの村の名前を「森の村」と呼ぶようになったというのである。「無垢根」というのは「白無垢」というごとく、純粋、汚れのないということであるが、森の場合は字が違って「椋(むく)の木」の意味であろう。山ろくの村であるから付近に椋の大木があった。その周囲に発展した村ということである。

 なお、森には小字名が実に多い。しかも、山地の方も細かに分かれている。これは江戸時代、森を領有していたのは、初めは大阪町奉行であった旗本島田越前守直時、次いで淀城主永井尚政、旗本淀城尚春(尚政の子)、弟の永井尚庸などの領地となり、最後は小田原大久保家の領地となって幕末に至る。
 この永井家のとき過酷な年貢の取り立てを行ったので、村人が自衛策として、わざと字名を多くし、細かい田に分散させ、段別が少ないように見せかけたためであると言われている。
 森村 燈籠の辻
 森燈篭の辻:~春日大明神、石清水の献灯と蛙石~
 森の中心部に大きな石燈篭があり、石清水八幡神と春日大明神の燈篭である。旧森地区は石清水八幡宮の神人(火長神人)として平安時代(861年)より深い関わりがあり、現代もその伝統行事を大切に守り継がれている。この灯篭の直ぐ上には交野最大の庄屋があり、旧地域の中心点でもあった(令和になって旧庄屋屋敷は解体され新興住宅地になってしまった。  

 この灯篭の左側に「蛙石(陽石)」があり戦国時代(1585年)の悲しい昔話もある。
  
 (河内郡交野の森村の城戸という処に住む由松とお種と言う仲の良い働き者の若夫婦が僅かな田畑を耕し暮らしていたが庄屋さんから郡代の命で大和の国の郡山城の普請に由松と村人数名が駆り出された。郡山城の石垣普請は3ヶ月ほどで同行の他のものは帰ってきたが由松からの音信のない日々が続きお種は毎日夫の帰りを幾日幾日も待ち石燈篭の傍に立っていたが、何時しかお種が見えなくなった。村人が探したがその場所に大和からの帰り道を向く蛙の様な石があるのに気づき、お種が待ちきれず石になったとの民話。
 この民話よりお種さんは私市女と思われ「森男に私市女」と言われる様になったと推測される。)
 
灯篭の辻 かえる石
 森の中心部に大きな石燈篭があり、石清水八幡神と春日大明神の燈篭である。この灯篭の南隣にかえる石(陽石)があり安土桃山時代(1585年頃)の昔話がある。
 「河内郡交野の森村の城戸という処に住む由松とお種と言う仲の良い働き者の若夫婦が僅かな田畑を耕し暮らしていたが庄屋さんから郡代の命令で大和の国の郡山城の普請に由松と村人数名が郡山城に出向いた。 郡山城の石垣普請で3ヶ月ほどで同行の他の者は帰ったが由松から音信のない日々が続きお種は毎日夫の帰りを待ち石燈篭の傍で立っていたが、何時しかお種が見えなくなった。村人が探したがその場所に大和から帰りの道を向く蛙の様な石があるのに気付き、お種が待ちきれず石になったとの昔話」多分この昔話より「森男に私市女」と云われる様になったと推測される。

蛙石の言い伝え  ふるさと交野を歩くひろい話(二)より(奥野平次著)

 昔、河内郡交野の森という村の城戸(きど)という処に、由松とお種と言う仲の良い夫婦が住んでいた。
この夫婦は僅かな田畑を耕作して生計を建てていた。ところが、ある日庄屋さんがきて「由松さんよ、郡代からの命令だが、大和の国の郡山城の普請に出てくれんか。各村からも数名の呼び出しがあるので、明日是非郡代の処に出頭してほしい。」こんな命令があった。
 由松は親類や近所の人達にお種のことをお願いして郡代のところに行った。お種も由松さんを見送るために郡代のところに行ったところ、多くの人々が来ていた。郡代から大阪城に入ってそれから郡山へ出向いてくれとのことであった。 
 時々夫から無事を知らせる便りが来た。「郡山城では石垣の石を各地から運搬している。もう3ヶ月もしたら工事も完了する。」と知らせてきた。
 その後、夫由松からの音信のない日が続いた。夫は元気で働いていてくれているとは信じているものの、音信がないのでさびしかった。3ヶ月も過ぎたのに夫は帰って来ない。他の村の人々は一人、二人と帰ってきたのに夫由松は帰って来ない。
 帰ってきた人達に由松の様子を尋ねたが誰も知らなかった。ところがある人の話に、城の石垣が崩れて数名の死傷者がでたということであった。
 お種さんは庄屋に行って由松の安否を聞くが、庄屋は郡山に問い合わせるとの返事だけであった。
 お種さんのことを村の人々が囁くようになった。お種さんは夫の帰るのを今か今かと待ったが夫の姿は見えなかった。村の人々が、淋しく夫の帰りを待つお種さんの気持ちを慰めては見ても、いよいよお種さんの悲しみは日増しにおおきくなり、涙のかわくことはなかった。

 そのうち、お種さんの行方はわからなくなった。関係先をも探したが不明であった。
 村の人達はお種さんの行方を探しているうちに、何時もお種さんが立っていた所に、大和から帰ってくる方の道を見るように蛙のような石があるのに気がついた。お種さんは由松さんの帰るのを待ちきれず石になったのではないか、誰が言うとはなしに世間の口に上った。

 廣岡昌子様より、ご投稿いただきました!
 
「蛙石」のお話 PDFにてお読みください!
 
 
「蛙石」のお話 PDFにてお読みください! 
 この伝説は、寝屋川市のおばあさん(2代も前)の話として原稿が残っていると、門真市文化財愛護推進委員の方から奥野平次さんが受け取られたという経緯があり、今から200年も前の蛙石の話がよそで生きていたということです。
 
石清水八幡宮と彫ってある石灯籠
 
春日大明神と天照皇大御神の石燈籠

大灯篭の足元にくぼみ石が!
「くぼみ石」の由来を聞く。
 昔の子供たちが、餅つき遊びをした石の跡だという。
 「この石にじーと耳をあててみ、ぺったんこ、ぺったんこ、ぺったんこ・・・・ぺったんこの音が聞こえてくるやろ」と、亡くなられた奥野平次さんは子供たちにいつも言っておられたという。
二月堂石燈籠
 森燈篭の辻:~二月堂石燈篭~
 上記石燈篭の北東50mに二月堂の石燈篭4基があり、二月講の名残と思われ、二月堂は切羽詰まった時の願い観音でもある。川東神社ー春日・石清水灯篭ー二月堂燈篭ー水分地蔵(大門酒造東側)ー須弥寺観音堂(石清水警固観音菩薩)が北東一直線上にあり村の表鬼門と裏鬼門にもあたる(ルート地図に線で示す)。
 燈篭辻の真東に森古墳群となり、古代の人は方角を大切にしたと思われる。
 
いよいよ!森古墳群へ出発
 2022年1月の初歩きの時の宅地造成地の写真
   
 
 2年を経過して宅地造成は、ほぼ80%ほど完成した
 
 
 
 
欅の古木
 常徳寺(庵)跡
 森燈篭の辻から東側150m程上った処の山裾(向山)平坦部が小字で常徳寺と言う。森は古代はむくね村と呼ばれ、石清水八幡宮に勧請(861年)した折の火長神人であった事とその荘園であった事から、石清水八幡宮の次席の「森」神官が延久年間(1070年頃)当地向山常徳庵に隠棲したと伝えられ、観音堂(石清水警固観音菩薩)の再興や発展に尽力され、その功績を称え神官の名前を戴き森村になったと言われている場所と思われる。 
卵塔・新川 
 常徳寺跡から100m東に上った処が小字で卵塔(ラントウ)と言う。常徳寺の上部にある事からこの寺の墓が有った場所と思われる。別の説では鳥羽伏見の戦い時の幕府軍の敗残兵がこの場に逃げ込み「乱闘」になった場所との説もある。
 卵塔の谷筋と交差する小さな水路が新川である。江戸時代森村墓の下の堂の池の灌漑用に大改修のおり、墓からの水を嫌い小久保川の清水ヶ谷の水を引くために山の中に約2kmの水路を村人総出で普請した。
 高低差が少なく水平度を確認するために松明を焚き里から目視で測量をしたと伝わり、200数十年経つ今もこの水路は堂の池への灌漑用として森区水利組合で大切に管理され活用されている。
 新川の造成
 江戸時代に清水ガ谷の清水を灌漑池「堂の池」へ引くための用水路として村人が総出で各個人山に水路を建設した。水平度を見る為に松明を灯し麓から目測で高さを計測し工事をしたと言い伝えがあり、今も活用されている。
 堂の池の近くに墓谷の水脈があるがこの水を嫌い、清水を引いたのであろう。
河内森駅(京阪電車)の北側の道を山に向かって、農協磐船支店の南を通り、山神(尾根)の裾にある傍示道を上がってゆくと、交野市水道局の2基の貯水槽がある。その手前の川が東から西に流れ、貯水槽の左前でどんどんになって谷に落ちる。このあたりから小久保川と呼ぶのだろう。新川は、ここから川下に向かって落ち口の右側にあるU字溝から始まり堂の池に入る。「新川は、山神、卵塔、檜木山、楢が谷、檜木谷を経て堂の池まで1300mはあるだろうか」この新川は、向井さんや村民の協力で出来たそうである。
 「川手をどうつけるかを苦労された。現在の消防署の東側から提灯の灯りで高低をはかったそうである。」「どんなに苦労されたか。千日も熟慮されたという。測量の結果川床がどこの山にかかっても協力することが条件とされた。」
 
 
 いよいよ!森古墳群へと登る
 
 
 
 
 
 
 雷塚古墳:~森古墳群~
 卵塔谷の南東側山が森古墳群で昭和56年(1981年)に調査され、4基の前方後円墳と1基の円墳が明らかになった。森古墳群の発見の発端は昭和55年(1980年)岩船小学校の児童が化石探しの折に壷や埴輪の土器を発見した事で岩船小学校から教育委員会へ連絡等の適切な情報対応で畿内最古の古墳群と判明した。卵塔から約500m山道を登りきったところが古墳群最大の雷塚古墳(1号古墳)であり全長106m、後円部径56mの前方後円墳であり、前方部の幅が狭く前方部先端部が三味線のバチの様に開く形状より3世紀後半の古式古墳と考えられ、卑弥呼伝説の奈良県桜井市の箸墓古墳と同タイプ同時期と言われている。
 雷塚古墳の埋葬者は明確になっていないがその規模や年代から当時当地域を支配していた豪族「肩野物部氏」との説が有力であり他の古墳群はその一族と思われる。今後発掘調査等を期待し、文化財として保存を願う。
 
 
 
 
上の奥に見えるのが雷塚古墳の後円部
 
 
 
奥に見えるのが雷古墳の前方部
 
雷塚古墳の後円部頂上にて
 
 
 
 
 
 南山弥生住居跡遺跡
 雷塚古墳から傍示道を約500m上った左側に南山弥生住居跡の石碑がある。昭和34年の大雨で南山(標高215m)の崖が崩落し、そこから多くの土器が見つかり弥生時代の高地住居跡と判明した。何故こんな不便な山の上に集落(住居)を作ったのだろうか?
 この弥生住居跡の50m先に石切り場があり、昭和時代まで花崗岩を切り出されいた。
 
 
 
 
 鍋塚古墳
 南山弥生住居遺跡の手前の山が鍋塚古墳(6号古墳)である。全長67mの前方後方墳で他の前方後円墳は全て前方部が里側(西側)を向いているが鍋塚古墳の前方部は山側(南東側)に形成されている。何故??
  この古墳は平成7年に発掘調査が実施され後方部に南北長さ35mの竪穴式石室を持つことも分かり、他の森古墳群と同様の古式古墳である。
   
鍋塚古墳の葺石
 展望岩場
 鍋塚古墳の傍示道を右側に展望岩場がある。眼下に寺地区、交野から枚方摂津の山々まで一望でき東側には交野三山の一つ竜王山の雄姿が望める。場所はハイカーにはあまり知られていず、お天気が良ければゆっくりと眺望を楽しむことが出来る。
 
 
 
 
 
 
 
 
 天田神社・川東神社前にて解散
 
 参加の皆様、大変お疲れ様でした!

最後までご覧いただき有難うございました!

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