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交野歴史健康ウォーク 第195回
京都歴史散策

伏見の幕末史跡をめぐる
京都市伏見区 徒歩 約9km 参加者31名(会員26名)
講師 吉岡 一秋氏(古文化同好会)


京阪交野市駅桃山南口駅昭憲皇太后陵→明治天皇陵(桃山陵)表参道→
治部池→桓武天皇柏原陵→御香宮神社→伏見奉行所跡石碑→月桂冠記念館
千石船乗場→長建寺→ 伏見港公園(昼食)→竹田街道 →伏見長州屋敷跡
伏見口の戦い激戦地址→龍馬避難材木小屋跡碑→松本酒造酒蔵→中書島駅




 2022.10.8(土)午前9時、京阪交野市駅改札口で集合。天候曇り小雨午後は晴れ間も。時間通り元気な30名の皆さんの顔が揃った。枚方市駅で1名待合せて本日の参加者は合計31名。
 吉岡一秋氏の企画立案で、秀吉の伏見城(指月城)を求めて桃山御陵から伏見の幕末史跡を案内して頂きました。 
 京阪宇治線の桃山南口駅を降り、JR奈良線をくぐり15分ばかり歩くと、明治天皇桃山御陵へと続く230段の階段前に到着。ここで、先ず全員で記念撮影。殆どの参加者は、230段の階段を登りきられました。残された5,6人は続いて、昭憲皇太后伏見桃山東陵→明治天皇陵(桃山陵)を見学。
 桃山御陵前で、秀吉の伏見城は二つあったこと、1592年に伏見指月城を築城、1596年慶長の大地震で倒壊。1597年に木幡(こはた)に天主閣をはじめ殿舎を完成し、秀吉、秀頼が入城した。本来「伏見城」は、この城のことであり、本丸跡周辺には、現在「桃山御陵」=明治天皇陵があることなど、詳しく説明を受けた。

 また、桃山御陵前からの展望は素晴らしく、かって広大な巨椋池があった辺りには現在向島団地が遠望された。表参道を下る途中では、水道工事により伏見城の石垣が発見され道端に展示されていた。
 桓武天皇の柏原御陵を見学後、御香宮神社に到着。当日は、秋祭で大賑わいのため、境内への見学は中止。山門(伏見城の遺構)を確認。次の見学地の伏見奉行所跡へ。京阪電車を渡り、材木町の酒蔵の町へ、月桂冠の大倉記念館を過ぎ、濠川に浮かぶ十石船など風情のある「弁天橋」、長建寺を曲がり中書島駅方面へ。伏見港公園で昼食休憩。
 午後は竹田街道を北へ、伏見長州屋敷跡、伏見口の戦い激戦地址、龍馬避難材木小屋跡碑を見学、大手筋を西へ歩き東高瀬川沿いにある松本酒造へ、映画やテレビのロケ地として有名な酒蔵処「松本酒造」の赤レンガと酒蔵の風景をバックに暫し歓談。午後2時頃、ここで一旦解散後、京阪中書島駅まで歩き、其々帰路に着いた。

 吉岡さん、ご案内頂き有難うございました。 
次回が楽しみである。一人でも多くの市民の方々にこの喜びを味わって頂きたいと思います。
 是非とも、皆さん誘い合って参加しましょう!!!
 
講師 吉岡 一秋氏(古文化同好会)
 桃山御陵から伏見の幕末史跡を歩くレジメ
 伏見の歴史を振り返ると、平安時代、巨椋池を背景に風光明媚な伏見桃山(指月の丘)に橘俊綱が山荘を営んだころから、伏見の名が知られるようになつたとのこと。
 その後、天下統一をとげた秀吉は晩年伏見城を築城、城下町を開いた。
 江戸時代には伏見港は、幕府公認の船で、過書船と呼ばれる船や、三十石船、二十石船、柴船などが行き交う港町として、また京橋付近が伏見港の中心で、参勤交代の西国大名の発着地となり、本陣や脇本陣がおかれ宿場町として多くの旅人で賑わったのである。

 しかし幕末期における伏見は、寺田屋事件や坂本龍馬襲撃などの血生臭い事件から、鳥羽伏見の戦いでは、伏見奉行所に入つた幕府軍と御香宮神社に陣取つた薩摩藩、長州藩との間でも戦われ、民家が炎上し町の大半が焼かれてしまつた。
 また、伏見といえば酒どころであり、壕川と枝垂れ柳と酒蔵などを思い浮かべる人々は多い。ただ順風満帆に現代に至ったわけではない。
 月桂冠の前身「笠置屋」は1637年酒屋を創業。その後造り酒屋の数も急増し、酒株制度のできた1657年には酒造家83軒、造石高15611石と記録。
 しかし、幕府は灘や伊丹、池田を幕府直轄の酒造地として手厚く保護し、京の町へ伏見の酒が入ることを禁止したため、ますます伏見の造り酒屋は減り続け。明暦から幕末まで生きながらえ酒造業を続けてきたのは、たつた二軒だった。
 鳥羽・伏見の戦いの巻き添えで、酒蔵のほとんど消失したが、明治になって伏見の酒は昔の勢いを盛り返し天下の酒どころとして全国にその名をとどろかせるようになったのである。

 今回は京阪中書島駅から伏見桃山駅を中心に、前半は平安貴族たちが遊興したであろう当時の巨椋池を、また、伏見城から秀吉が眺めたであろう月をそれぞれ思い浮かべながら、桃山御陵から俯瞰しようと。

 後半は、勤王の志士たちが闇にかくれ、高瀬川を京の町と往来、また、鳥羽伏見の戦いの激戦地など幕末の史跡をめぐるもの。
 その他、伏見街道沿いには町屋が残り、若沖ゆかりの石峰寺、レンガ造りの第十六師団司令部庁舎、欣浄寺の伏見大仏、撞木町の遊郭石碑など、実に見どころ満載の伏見である。
 歴史散策は、それぞれの時代に思いを馳せながら、時には当時の人々の息吹を感じることが出来れば、また一興かと思う。
    (石鏃170号 20〜21頁、歴史健康ウォーク「伏見の幕末史跡を巡る」 参照)
 
 
 
桃山御陵から伏見の幕末史跡を歩くMAP



 京阪交野市駅で集合・出発
 
 
 桃山南口駅で下車
 

京阪宇治線・桃山南口駅
 
桃山御陵(明治天皇陵・皇后陵)

230段の階段前で記念撮影
 
 
 
昭憲皇太后伏見桃山東陵

明治天皇陵(桃山御陵)

230段の階段の向こうに素晴らしい景色、かって広大な巨椋池があった
 
 
秀吉の伏見城
 秀吉期の伏見城石垣、随所に装飾石 耐震補強の役割も
2022.10.14  最新情報   産経新聞・朝日新聞を参照
  
 木幡山伏見城の中枢部から出土した秀吉期の石垣=9月30日、京都市伏見区(園田和洋撮影)
豊臣秀吉が慶長大地震(1596年)後の16世紀末に築いた木幡(こはた)山伏見城跡(京都市伏見区)から城の本丸などを囲っていた石垣の一部が出土し、13日に京都市文化財保護課が発表した。石の隙間に黒い板状の石を詰めて縁取る工法を初めて確認。ぜいをこらした装飾で城中枢部と大名屋敷との空間を区別するためとみられ、同課は「城の中枢部の石垣の構築技術が分かる貴重な史料」としている。
 調査地は天守閣があった伏見桃山陵(明治天皇陵)の西側。当時の絵図などによると、本丸や西丸を囲む石垣の南西角にあたり、周辺にあった大名屋敷との間仕切りの役割を果たしていたとみられる。
 国有地の売却計画に伴い約60平方メートルを調査した結果、4段分の石垣(高さ1・8メートル)が東西7メートルで確認された。石は表面幅が約0・3〜0・5メートル大の自然石で、石同士の隙間を埋める間詰(まづ)め石に黒い粘板岩(ねんばんがん)を使っていた。
 木幡山伏見城から出土した秀吉期の石垣。石と石の隙間には黒い粘板岩が詰められていた=9月30日、京都市伏見区大名屋敷の石垣で粘板岩の使用例はなく、同課は「黒い石で石垣を装飾することで、中枢部とそれ以外との境界ラインを強調した」と分析。粘板岩はすずりの原材料として知られる板状の石で、周辺に産出地はないため、秀吉が石垣にも権力者としてぜいを凝らした様子がうかがえる。
 さらに、粘板岩は石垣を裏側から支える目的で敷き詰める「裏込め」にも使用されていた。城が慶長大地震後に造られたため、石垣の組み方にも崩落を防ぐ耐震工法を採用していたが、裏込めに板状の粘板岩を使うことで、石垣を補強していたとみられる。
     裏込めの高さから、本来の石垣は現状より1メートル以上高い7〜8段積みだったと想定。完成年代を特定する遺物は出土しなかったが、同課は四角い切り石を多用した徳川期に比べて自然石と間詰め石を使っていた点から、豊臣期の築造と判断した。
 
石垣に粘板岩を使用した例は、秀吉が伏見城とほぼ同時期に宇治川に築いた堤防「太閤堤」(京都府宇治市)以外にみられないという。中井均・滋賀県立大名誉教授(日本城郭史)は「石垣への粘板岩の採用例は少なく、石垣の歴史を考える上で重要な発見になった。大地震の直後だったので板状で接着面が広いという理由などから耐震強化の目的で試したのではないか」と話している。
現地説明会は予定されていない。(園田和洋)
 
木幡山伏見城
 寛永元(1624)年の廃城までに3度築かれた伏見城の2代目。初代の指月(しげつ)伏見城は豊臣秀吉が文禄3(1594)年に築いたが、慶長大地震で倒壊すると、直後の慶長元(1596)年に近くの木幡山に2代目を完成させた。これが慶長5(1600)年に関ケ原の戦いの前哨戦で焼失すると、すぐに徳川家康が同じ場所に3代目の城を再建した。慶長8年、家康はこの城で朝廷から征夷大将軍の辞令を受けている。
伏見城(別名・桃山、指月城)― 太閤秀吉の隠居城 ――

 伏見城は豊臣秀吉が晩年の隠居城として文禄元年(1592)指月の地に淀古城の天守と櫓および聚楽第の建物を移築して建てさせたもので、桃山文化の粋を集めた豪壮華麗な大城郭でした。

 しかし、移築された伏見指月城が、文禄5年(1596)閏7月13日の伏見大地震で倒壊したため、秀吉はこの大地震の経験を踏まえ、その翌日よりまず築城地に地盤の確かな木幡山(桃山)の地を選ぶとともに、新たに耐震性のある構造の城を築城した。本丸(現明治天皇陵北部)の西北に五重の天守が建てられ、そのほかに二の丸・松の丸・名護屋丸などを配置し、出丸を加えると十二の曲輪があったといわれる。輪郭式、連郭式の平山城である。ちなみに秀吉はこの伏見城中で没しています。
 このような伏見城でしたが、慶長5年(1600)関ヶ原合戦の際に、西軍の小早川秀秋と島津義弘の攻撃によって灰塵に帰しました。

 慶長6年に徳川家康は小堀政次と藤堂高虎に再建を命じ、将軍宣下式はこの城で行われた。
 元和9年(1623)三代将軍家光の時、一国一城の法度により廃城となり取り壊わされ、建造物は京都の社寺、石垣は淀城、大阪城の修築に使用された。

 ※現在の伏見城天守は、昭和39年(1964)にお城に遊園地、伏見桃山城・キャッスルランドの展示館として建てられたもので、本来の天守の位置が伏見桃山稜にあたるため、かっての伏見城のお花畑山荘に建てられたコンクリート造りの模擬天守である。

歴史年表
1592年 - 豊臣秀吉が隠居所として宇治川沿いの低地丘陵である指月山に、後に破却した聚楽第の建物の一部を移築するなどして築城された(指月城)。
1596年 - 地震で倒壊したため、約500m離れた木幡山(現在の桃山)に新たに築城し直された(木幡山城)。
1598年 - 豊臣秀吉がこの城で死去する。
1600年 - 伏見城の戦いで焼失。
1601年 - 徳川家康により再建される。
1603年 - 「将軍宣下の儀式」に使用。

大坂の役の後、伏見城の役割は大坂城へ移り、江戸幕府にとってこの城の重要性は薄れたため、徳川秀忠の隠居後の1625年に廃城となった。
廃城後、開墾されたため桃山と呼ばれた。伏見城を通称桃山城というのはこのためである。
伏見城本丸跡などの主郭部分は、のちに明治天皇の陵墓(伏見桃山陵)とされたため、現在は無許可での立入を禁じられている。
 伏見城跡の復元イラスト
 
 
 伏見桃山城の石垣
 
明治天皇陵の参道の脇には、石垣に用いられたと考えられる石材が並んでいる。
これらの石材は、下水道工事の際に発掘された。
 
 
 
 

明治天皇陵の参道の脇には、石垣に用いられたと考えられる石材が並んでいる。
これらの石材は、下水道工事の際に発掘された。
HOME>>最新ニュース一覧>>【詳細】 Kyoto Shimbun 2008年12月24日(水)
黄金の「天目茶碗」出土
伏見・城下町跡 秀吉の趣味広がる?
写真
伏見城城下町跡で見つかった、内側に金を張った天目茶碗の破片

 京都市伏見区の伏見城城下町跡の発掘調査で、16世紀末の天目茶碗が24日までに出土した。内側には一面に金が張られており、豊臣秀吉の時代の黄金趣味を反映した逸品とみられる。

 調査地は、古地図には武将富田信高の屋敷と記されている。茶碗の破片は長さ7センチ、幅4センチ。金は往時の輝きを放ち、緑色の斑点が付いていた。東西幅14メートルの礎石建物の横の溝から出土した。

 調査した西近畿文化財調査研究所(兵庫県)は「確実に秀吉と同時代の遺物。大名が使ったとすれば、千利休のわび茶とは異なる黄金趣味の茶会が、一般大名にも広がっていた可能性がある」と話している。
京都新聞 2008年10月27日によると

秀吉の隠居所・指月城堀か
伏見城跡調査、全体像知る手掛かり
秀吉の隠居所であった指月城のものとみられる堀と石垣(右端)の一部=京都市伏見区東奉行町

 西近畿文化財調査研究所(兵庫県加東市)は27日、京都市伏見区東奉行町・西奉行町で実施している伏見城跡、桃陵遺跡の発掘調査で、伏見城の前身となる豊臣秀吉の隠居所の指月(しげつ)城とみられる堀や石垣の一部が初めて見つかった、と発表した。研究所は「城の全体像を知る大きな手掛かり」としている。

 近畿財務局の公務員宿舎の整備に伴い、今年5月から約3000平方メートルを調査。見つかった堀は東西の幅16メートル、南北の長さが11メートル、深さ2・2メートルだった。西側の護岸には石垣が確認された。堀の底から豊臣秀吉の黄金趣味をうかがわせる金ぱくを張ったきせるや高麗青磁の茶たく、16世紀後半の陶磁器などが出土した。

 秀吉は1592(文禄元)年に隠居所の指月城を築いたが、4年後の慶長大地震で倒壊した。同研究所は、見つかった堀が慶長以降の伏見の城下町絵図などに記されていないことから、「慶長以前に建てられた指月城の堀と考えるのが妥当」としている。
 治 部 池

明治天皇陵から桓武天皇陵へ向かう道の脇に見える治部池
 
桓武天皇陵
御香宮神社
 10月8.9日は、御香宮神社の秋祭りで沢山の人出で大にぎわい。見学は中止としました。

御香宮神社山門    伏見城の遺構
 
 
 
 
 初めは、「御諸神社」と称していたが、平安時代貞観4年(862)にこの境内から「香」の良い水が湧き出たので、清和天皇より「御香宮」の名を賜った。現在も本殿東側から名水百選・伏見の七名水に数えられる「御香水」が湧き出している。徳川頼房(水戸光圀の父)が寄進した表門、徳川家康によって建てられた本殿は、国重要文化財。拝殿は、京都府指定文化財である。
 慶応4年(1868年)正月、伏見鳥羽の戦いで薩摩藩の屯所となり、薩摩軍は5門の大砲を備えて、新選組が屯所としていた眼下の伏見奉行所に砲弾の雨を降らせました。御香宮蔵の『戊辰東軍戦死者霊名簿』には、新選組の戦死者24名の名も記されています。
       明治維新 「伏見の戦跡」  内閣総理大臣佐藤栄作書(上写真の文)
                (御香宮神社境内に設置されている)

 慶応3年12月9日 王政復古が発せられるや京洛の内外は物情騒然として朝幕の間に一触即発の陰悪な空気が漂った。ところが7日の明方、当社の表門に徳川氏陣営と書いた大きな木札が掲げられた。祠官三木善郷は早速社人を遣して御所へ注進すると翌日薩摩藩の吉井孝助が来てこの札を外し、ここに部隊を置いた。やがて年が明けて慶応4年正月2日、徳川慶喜は大軍を率いて大阪より上洛せんとし、その先鋒は翌3日の午後伏見京橋に着いた。そこでこれを阻止せんとする薩摩藩との間に小ぜり合いが起こった。その折しも鳥羽方面から砲声が聞こえてきたので、これをきっかけに当社の東側台地に砲兵陣地を布いていた大山弥助(大山巌)の指揮により御香宮と大手筋を挟んで目と鼻の先にある伏見奉行所の幕軍に対し砲撃を開始した。これに対し土方歳三の率いる新選組は砲撃の火蓋を切って応戦し、一方、久保田備中守の率いる伝習隊は官軍の前衛部隊を攻撃して奇効を奏し官軍を塁梁まで撃退した。しかし翌4日軍事総裁に任じられた仁和寺宮嘉彰親王は錦の御旗を翻して陣頭に立たれたので官軍の志気大いに振い、そのため幕軍は淀に撤退した。一方鳥羽方面の官軍も一時苦戦に陥ったが錦の御旗に志気を盛り返し、幕軍を淀から更に橋本に撃退し、遂に幕軍は大阪に敗走した。
 かくて明治維新の大業はこの一戦に決せられたのである。即ち我国が近代国家に進むか進まぬかは一に繋ってこの一戦にあったのである。この意味において鳥羽伏見の戦は我が国史上否世界史上まことに重大な意義を持つわけである。
伏見奉行所跡碑
 江戸幕府の遠国奉行の一つ。伏見の民生・御所の警固西国大名の監視所。
新選組がここで薩長軍と激戦をかわす。
 伏見奉行所は,慶長5(1600)年に創設されたが,実際は寛文6(1666)年水野石見守忠貞(1597〜1670)が伏見支配に専念するようになったのを最初とする。与力10騎,同心50人が属し,伏見市街と周辺8カ村(享保以降9カ村)を支配した。慶応3(1867)年廃止。慶応4(1868)年正月3日の鳥羽伏見戦では,幕府軍は会津藩を主とした1500人が伏見奉行所等に入り,御香宮に陣を張った薩摩藩将兵800人の官軍と対峙した。激しい戦いとなり伏見奉行所は灰燼に帰した。この石標は伏見奉行所の跡を示すものである。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
十 石 船
 
 
 
 
 
 
 
 伏見港公園(昼食)
 秀吉の伏見城築城の際、伏見港が形成され、大阪との水運の拠点となった。
三十石船、二十石船、柴船などが盛んに出入りし発展した。
 
 
 
 
 
 
                濠川に浮かぶ観光用の十石船
文禄3年(1594)、豊臣秀吉が伏見城を築き,淀川を巨椋池から切り離し城山の真下へ迂回させ、城の外濠として構築させた。酒蔵の多くは、この濠川に接して建てられ、明治の終わり頃まで、米・薪炭・樽材などの原材料がこの濠川を上下する十石船で運ばれていた。
大倉記念館の裏に回れば、濠川が流れ柳や雪柳がきれいです。春と秋の土、日、祝日には、伏見港公園と月桂冠大倉記念館の南側を十石船で往復することができ、酒蔵などの風景を楽しむことができます。
伏見港の三十石舟
 伏見港は昔「伏見の浜」と呼ばれて、伏見桃山城が築かれた頃から第2次世界大戦まで、淀川舟運の基地だったのです。とくに江戸時代には、おなじみの三十石舟や高瀬舟などが往来して、伏見は港町として大いに栄えたといわれます。
 明治に入っても、なんと外輪船が就航、数社が川蒸気を走らせたとか、その後東海道本線が開通したり、京阪電車が走り出したり、交通の近代化とともに、舟運は衰退しました。戦時中は軍用として港が整備されましたが、戦後の陸上輸送の発展とともに昭和30年代半ばで、港としての機能は幕を閉じたのです。その後を埋め立てたのが伏見港というわけ……(府民グラフ14号より抜粋) 

 伏見城築城にともなう河港整備によって水上交通が注目され、江戸時代から明治時代にかけて淀川の舟運が活発になっていった。1614年(慶長14年)には、角倉了以(すみのくら・りょうい)により京都二条から伏見を結ぶ高瀬川が開削され、宇治川、淀川を経て大坂までが水上交通で結ばれた。伏見はその中継点となり、京の街への入り口、淀川舟運の拠点として栄えた
 江戸時代の伏見港には、三十石船、二十石船、十五石船、高瀬船など2千隻もの船舶が往来していた。これらは幕府公認の通航証を持った過書船(かしょぶね)だった。淀川の航路では、上流の伏見へは1日、下流の天満橋へ半日の行程だった。上方落語「三十石船」は当時の船旅を題材にしたもので、船頭の舟歌や物売りの口上も交え、船に揺られながらののどかな旅気分を彷彿とさせる。大倉酒造の旧本社から西側にあたる南浜の一帯は旅客でにぎわい、船宿が軒を連ねていた。旅客だけでなく米や酒、薪などの物資も往来し、浜辺では運送業者の馬借(ばしゃく)が積荷を取り扱っていた。
 竹 田 街 道
  伏見長州藩邸跡
 伏見の町は、伏見城が形成されて以降、京都の中心部と大阪とを結ぶ物流の要衝として
多くの藩が藩邸を置いて拠点に、ここにあった長州屋敷は江戸中期頃に移転と言われている。
 
 伏見長州藩邸跡
 長州藩の藩祖は毛利輝元でその父、元就は豊臣秀吉に仕えた名高い戦国武将。その領地は中国地方の大半を占めていました。伏見城造営当初の藩邸は『豊公伏見ノ図』や中井家所蔵の『伏見城絵図』によれば城下の西の端、大名屋敷の一角と毛利橋の東に『毛利長門守』の屋敷が記されています。慶長5(1600)年の関ヶ原の戦いで輝元は西軍の大将として参戦して敗戦。徳川家康は戦争責任を問い輝元を隠居させ、その子、秀就に周防と長門の2国、現在の山口県を与えました。
 江戸時代中期の元禄12(1699)年の『御香宮文書』には中書島の新地開発を許可されたことが記されており、この時期以降に藩邸がこの場所に移転してきたと考えられます。この辺りと三栖向町の間には船大工町があり、船や船具製造に従事する人びとが暮らしていました。屋敷地は通りに面して町家が建ち並び、藩邸がその奥にあるような形態をしていました。
 幕末の元治元(1864)7月19日未明、長州藩家老の福原越後はここ伏見長州藩邸から武装した約500名の兵とともに、京へ進軍しようとしました。
 その途中、伏見街道の稲荷付近から竹田街道を守る大垣・会津・桑名・鯖江の藩兵と衝突、禁門の変が勃発しました。福原が率いる長州勢は敗走して伏見藩邸に立ち戻り、態勢を整えて打って出ましたが、彦根藩や他の連合軍が京橋から伏見藩邸を砲撃、このため伏見長州藩邸は焼け落ちてしまいました。
                    伏見観光協会
                      (社)伏見納税協会 青年部会
 
 
 
 京 橋
 京都と伏見を結ぶ竹田街道に架かる橋が京橋。
 
 
濠川
 
 
 
 伏見口の戦い激戦地跡
 京都と伏見を結ぶ竹田街道に架かる橋が京橋。鳥羽伏見の戦いでは
この辺りの激しい戦闘のあおりで多くの民家が焼失したと言われている。寺田屋もその時焼け落ちたと。
 
  伏見口の戦い激戦地跡
 江戸時代、京へ向かう高瀬舟、大坂へ向かう三十石船、山城へ向かう淀二十石」船、宇治へ行く芝船など、千数百隻にもおよび舟運で賑わった伏見港の中心がこの京橋付近です。角倉了以による高瀬川の開削で、洛中と伏見が舟運で結ば」れるとさらに発展しました。ここから蓬莱橋北詰を結ぶ南浜の一帯には大名の」宿泊する本陣が4軒、家臣が宿泊した脇本陣2軒をはじめ、39軒の旅籠が軒を」連ねていました。江戸幕府は伏見を伝馬所として位置づけ、問屋場には人足100人、馬100頭が常時用意され、前の宿場から運ばれてきた公用の荷物を積み替え、次の」宿場まで搬送するという継ぎ立組織がありました。一般の荷物を扱う馬借も旅人や荷物で賑わっていました。橋の南詰には三十石船のように運上金によって幕府に公認された過書船を取り締まる「過書船番所」、一般の船を検閲する「船番所」、人足、駕籠、馬借の賃料などを掲示する「船高札場」などが設けられました。
 幕末の慶応4(1868)年1月2日、鳥羽伏見の戦いが始まる前日夕刻、会津藩の先鋒隊約200名が大坂から船で伏見京橋に上陸。ここに伏見御堂を宿陣として戦いました。伏見奉行所に陣を置いた幕府軍や新選組が民家に火を放ちながら淀方面へ敗走したので、このあたりの多くの民家が焼かれ、大きな被害を受けました。
                伏見観光協会
                 (社)伏見納税協会 青年部会
                  平成21年12月 建立
 
 「寺田屋」は鳥羽・伏見の戦いで焼失したのではないか!
              
 寺田屋は坂本龍馬が定宿として知られる、幕末の寺田屋騒動の舞台。2階には、刀傷の痕が残る柱があり、龍馬の居部屋だった「梅の間」には女将お登勢が街の画家に描かせたという遭難直前の龍馬の肖像画が掛けられている。

 文久2年(1862)4月23日の寺田屋騒動は、島津久光が1千名の薩摩藩兵を率いて上京したことから始まります。 この時急進派の薩摩藩士を含浪士など百数十人の尊攘派が集まり、関白九条尚忠と所司代酒井忠義を襲撃して、相国寺獅子王院に幽閉された尊融法親王をお助けして島津久光に詔りを賜り幕府を誅伐するとの過激な計画を実行しようとして寺田屋に集まっていました。

 そこに、公家方よりの通報を聞いた島津久光は、計画を中止させるために藩の鎮撫使を派遣し、説得して計画を中止させるよう命じました。
 しかし、鎮撫使側は上意討ちの許可が出ていたため、藩邸への同行を頑なに拒否した急進派藩士の有馬新七以下8名を、その場で斬殺せんと及んだため、激しい剣戟を伴う乱闘になり鎮撫使側も1名死亡、多数の負傷者を出しました。また、急進派側の藩士もその場で6名が死亡、2名の重症者(翌日藩命に背いた罪で切 腹)を出し、4月27日には1名が自刀して果て、これを加え9名の死者を出してしまいました。

 遺体は、伏見の呉服屋、井筒屋伊兵衛(斎藤酒造「英勲製造元」の4代前)とその手代数名が駆けつけ、 白木綿で包み大黒寺に葬ったとされています。この大黒寺は、寺田屋より700〜800メートル北にある藩の菩提寺で、九烈士の墓には、西郷隆盛の筆による墓碑が一緒に並んで建っています。西郷は泣きながら亡き同士たちの為に、大黒寺の墓碑を書いたとされています。

 藩はこの時、同士討ちを恥じると共に、迷惑をかけた寺田屋には、乱闘で破損した家財を即日に修復をさせると共に大金を渡し他言を禁じたそうです。
幕末の頃の寺田屋と浜風景
 電気鉄道事業発祥の石標
 日本最初の電気鉄道である京都電気鉄道株式会社の伏見線は,明治28(1895)年に開業し,この地を起点として伏見町下油掛までの約6kmを走った。この石標は,電気鉄道事業発祥地として伏見線起点を示すものである。
 
龍馬避難材木小屋跡碑 
1866年1月24日未明、伏見奉行所の役人が寺田屋を襲撃。
ピストルで応戦した龍馬は、長州藩士の三吉慎蔵とともにかろうじて寺田屋を脱出。
一時身を潜めていたと言われる材木小屋の跡。
 坂本龍馬、避難の材木小屋跡
 慶応2(1866)年1月24日未明、薩長同盟を締結した坂本龍馬が、長州藩【ママ】の三吉慎蔵と寺田屋に潜んでいるところを伏見奉行配下の役人に取り囲まれました。風呂場にいたお龍が、不穏な気配を察知して2階の龍馬に危機を告げたので、龍馬はピストルで応戦。三吉は槍を構えて戦いましたが乱闘になり、龍馬は両手首を切られてしまいます。負傷した龍馬を肩に掛け、裏口の物置を抜けて、隣家の戸を破り小路に出て逃走した三吉は途中の寺に探索者がいるのに気付き、方向転換して川端の材木小屋を見つけて密かに忍び込み、龍馬をその小屋に置いて濠川沿いの伏見薩摩藩邸に駆け込みました。この事件の顛末の詳細は「三吉慎蔵日記」に記されており、龍馬が潜んだとされる西浜の材木小屋は濠川の左岸南方にあったといわれています。
 藩邸へはすでにお龍が知らせていたので、藩邸の留守居役の大山彦八は薩摩藩の旗印を掲げた船を出して龍馬を無事救助しました。龍馬の傷は深く、静脈も傷つき、翌日まで出血が止まらなかったと龍馬の手紙にも記されています。龍馬とお龍は1月29日まで伏見薩摩藩邸に滞在し、約1ヶ月後に西郷隆盛らとともに薩摩藩の蒸気船三邦丸に乗船し鹿児島へ向かい、傷の治療をかねて霧島温泉に向かいます。これが、後に日本で最初の新婚旅行といわれています。
                  伏見観光協会
                    (社)伏見納税協会 青年部会
 
 
 
 
 酒蔵「松本酒造」
 1791年(寛政3年)創業の酒屋。創業時の屋号は「澤屋」
 
 
 灘と並ぶ酒の街・伏見には古風な酒蔵が今も残る。
風情たっぷりのその町並みや建物は被写体として最上。
現代の生活とうまく融合した魅力的なこの町の一角を切り取って、時代劇撮影が行われる。
 
 
 
 
 
 酒蔵の手前(西側)に流れている小川が「高瀬川」だそうです!
 
旧高瀬川
 
旧高瀬川
 午後2時頃、松本酒造の東高瀬川の堤防の上で一旦解散、中書島駅迄歩き帰宅。
皆さん、約9kmの伏見探訪、大変お疲れ様でした。
吉岡一秋様、ご案内有難うございました!

最後までご覧いただき有難うございました!