ホームページに戻る
 

2020年 新春恒例の初歩き

令和2年須弥寺・住吉神社初詣と周辺めぐり

 明けましておめでとう御座います!今年は子年です。
1月2日、交野古文化同好会の恒例の初歩きで、
須弥寺と住吉神社周辺の史跡を訪ねて来ました。


日時:令和2年1月2日(木)  午前9時集合
集合場所 京阪・河内森駅
  27名(会員18名)参加
案内:高尾 秀司氏(交野古文化同好会)
行程 : 京阪河内森駅9時集合 → 森灯篭の辻 → 4基の灯篭 →
無垢根亭 → 水分地蔵 → 須弥寺 → 泉ヶ丘地蔵 → 大畑古墳
→ 八幡宮大燈籠 → 寺の灯篭の辻 → 無量光寺の墓 →
住吉神社 → 山添家 →京阪河内森駅へ 11時40分頃解散 
 2020年1/2(木)、天候晴れ。今年の正月は大変穏やかな年明けで初歩きとしては昨年に続き最高の天候の中、ゆっくりと歩くことが出来ました。早朝から河内森駅には、「明けましておめでとうございます」「今年も昨年同様どうぞよろしくお願いします」と、挨拶を交わしながら沢山の元気なメンバーが集合された。

 午前9時皆さんが揃った処で、平田会長の新年の挨拶の後、高尾秀司氏の案内で、河内森駅から森村へ、燈籠の辻・無垢根亭などを経て須弥寺で初詣。泉ヶ丘地蔵、大畑古墳を巡って、初めて案内された「無量光寺の墓」にお参りし、次いで住吉神社に初詣。最後は山添家など周辺の史跡めぐりと初詣、初歩きに相応しいコースを探訪してきました。

 参加者は元気な総勢27名(会員18名)の皆さん、新春の初歩きと初詣、意外と高低差のあるコースでしたが、皆さん元気に初詣と史跡巡りを楽しまれたようで、「穏やかで天気も良く、初めて訪れるところもあり、住吉神社の初詣もできて良い正月を迎えられ幸せです」と感想を頂戴しました。
 
 高尾さんには綿密な下見に万全を期していただき、大変分かりやすくご案内いただきました。また、当日配布のレジメを提供いただき誠に有難うございました。
  記して感謝申し上げます。

 ※HPを記載するにあたり、交野市史、WEB記事などを参照しました。
  記して深謝します。
 
須弥寺にて新年の記念撮影 小川さんにお願いしました。深謝!
交野古文化同好会・恒例初歩きレジメ
令和2年 須弥寺・住吉神社初詣と周辺めぐり
集合場所:京阪・河内森駅 午前9時集合
 
 
 
 

京阪河内森駅付近  出発
 
平田 政信会長の挨拶

案内の高尾秀司さん
磐船村役場跡
(JA北河内 磐船支所前)
 森にある交野市農協磐船支店の北に当たる。農協の倉庫になっている所で、交野市は旧交野村(こうのむら)、磐船村が合併されて成立している。旧磐船村の村役場がここにあった。森、寺、私市等が村域で、主として竜王山から磐船神社と山地と、そのふもとの村を中心にしていた。一番大きな村が私市であるから、人口はそんなに多くはなかった。

 江戸時代以来続いてきた交野の村々は、明治22年に、交野村=こうのむら=(それまでの郡津村・倉治村・私部村)、磐船村(それまでの寺村・森村・傍示村・私市村)、星田村の3つにまとめられます。

 昭和14 年には交野村と磐船村が合併し、交野町が誕生しました。昭和30年、交野町と星田村が合併し、現在の交野市の前身となる交野町が誕生し、昭和46年に交野市となりました。


磐船村役場跡
 

昭和10年(1935) 
国勢調査 人口 1,474人

磐船村役場
森村の地名  小字名
 
森の地名の由来

 池田麗一著「須弥寺沿革誌」に、山司(荘司)として石清水八幡宮から派遣されてきた役人の名前が森に伝わっていると記されている。

 それによると延久年間(1069~1074)、森宮内少輔という有徳の人が森に住んでいた。彼は森にあった「警固観音」が大変荒れ果てているのを見て、私財を投じて再興した。そのことによって彼の名が上がり、これまで「無垢根(むくね)」と呼んでいたこの村の名前を「森の村」と呼ぶようになったというのである。「無垢根」というのは「白無垢」というごとく、純粋、汚れのないということであるが、森の場合は字が違って「椋(むく)の木」の意味であろう。山ろくの村であるから付近に椋の大木があった。その周囲に発展した村ということである。

 なお、森には小字名が実に多い。しかも、山地の方も細かに分かれている。これは江戸時代、森を領有していたのは、初めは大阪町奉行であった旗本島田越前守直時、次いで淀城主永井尚政、旗本淀城尚春(尚政の子)、弟の永井尚庸などの領地となり、最後は小田原大久保家の領地となって幕末に至る。
 この永井家のとき過酷な年貢の取り立てを行ったので、村人が自衛策として、わざと字名を多くし、細かい田に分散させ、段別が少ないように見せかけたためであると言われている。
 歴史健康ウォーク「地名を歩く」より  今日の話はなんでっか?2002.9.16(No35)
 
 地名を歩いてみました。地名地図を見ながら現地を訪れは゛背景が良く分かる。地名は、人間とかかわりが出来たから出来た。この「出来たから出来た」ことを調べていったら、いろいろなことがわかる。
 まず、私達の住んでいる地域の地名から調べ歩いて行くことにしました。
森地区の大量権(だいりょうごん)は小字地図には「大量橋」となっているが、村人は「大量権」と言っている。
今回のウォークでどちらが本当なのかを確認することが出来ました。
現在「大量権」の一部が駐車場となっており、そこには「大量権駐車場」の看板が掲げられていました。 
やっぱり歩いてみなければわかりまへんなぁ! 
 「大量権」(だいりょうごん)が正しい地名でしょう。
「権田」と同様、開墾地のことである。しかも大規模に開かれたものであろう。
南側(天田の宮北側)を流れる小久保川の水を利用したり、森新池の水を利用したりして、扇状地の扇夾部の砂質の所の開墾が行われたところと思われる。
また、この辺りを城戸(きど)という。
 森の西の出入り口の所を城戸、東の出入口を北城戸と言っている。「城戸」は「木戸」であろう。
 森を通過して山麓沿いに走る山根街道がある。この道路の東西の出入口に木戸を設け、村に出入りする人々を見張ったり、村への乱入者を取締ったりしたところであろう。夜間は木戸を閉めて村を防備したのか?。
 城戸のすぐ南に天田の宮が、北城戸を出た所に須弥寺があって、どちらも村人の信仰の場所である。
その場所に立って当時を偲べば、昔の人々の生活が手に取るように分かるのも「地名」を歩いてこそ
           「あなたの足下に地名がある」
     2002.09.14「第36回歴史健康ウォーク」より 
 油田(あぶらでん) :森は石清水八幡宮の神人(じにん)として昔から仕えてきているので、油田は八幡宮の燈明の油代として、この田の米を上げていたという説をとっている。
 しかし、村の長老たちの中には、それもあったであろうが、天田宮の油代としてこの田の米を換金していたという両方の説がある。今はどちらが正しいのか判断する根拠がないのであるが、どちらも間違いではないだろうし、時代の違いから後世になるにしたがい、八幡宮よりも地元の氏神を大切にするようになり、天田宮の賄い用の田となったと考えるのが妥当のように思える。


 大量権(だいりょうごん) :。「権田」と同様、開墾地のことである。しかも大規模に開かれたものであろう。小久保川の水を利用したり、森新池の水を利用したりして、扇状地の扇央部の砂質の所の開墾が行われたものと思われる。

城戸(きど)・北城戸(きたきど) :森の村の中から北東へ抜ける道があり、寺へと通じる道に出たところを北城戸という。
 城戸は、京阪河内森駅より東へ、森に通じる道路がカギ型に曲がる合流地点を言う。
 城戸とは、木戸のことで、森を通過する山根街道の東西の入り口に木戸を設けて、村を出入りする人々をチェックしたり、村への乱入者などを取り締まったり、夜間は戸を閉めたりして、村を防備した所である。
 森村 燈籠の辻
 
 
 
灯篭の辻 かえる石

蛙石の言い伝え  ふるさと交野を歩くひろい話(二)より(奥野平次著)

 昔、河内郡交野の森という村の城戸(きど)という処に、由松とお種と言う仲の良い夫婦が住んでいた。
この夫婦は僅かな田畑を耕作して生計を建てていた。ところが、ある日庄屋さんがきて「由松さんよ、郡代からの命令だが、大和の国の郡山城の普請に出てくれんか。各村からも数名の呼び出しがあるので、明日是非郡代の処に出頭してほしい。」こんな命令があった。
 由松は親類や近所の人達にお種のことをお願いして郡代のところに行った。お種も由松さんを見送るために郡代のところに行ったところ、多くの人々が来ていた。郡代から大阪城に入ってそれから郡山へ出向いてくれとのことであった。 
 時々夫から無事を知らせる便りが来た。「郡山城では石垣の石を各地から運搬している。もう3ヶ月もしたら工事も完了する。」と知らせてきた。
 その後、夫由松からの音信のない日が続いた。夫は元気で働いていてくれているとは信じているものの、音信がないのでさびしかった。3ヶ月も過ぎたのに夫は帰って来ない。他の村の人々は一人、二人と帰ってきたのに夫由松は帰って来ない。
 帰ってきた人達に由松の様子を尋ねたが誰も知らなかった。ところがある人の話に、城の石垣が崩れて数名の死傷者がでたということであった。
 お種さんは庄屋に行って由松の安否を聞くが、庄屋は郡山に問い合わせるとの返事だけであった。
 お種さんのことを村の人々が囁くようになった。お種さんは夫の帰るのを今か今かと待ったが夫の姿は見えなかった。村の人々が、淋しく夫の帰りを待つお種さんの気持ちを慰めては見ても、いよいよお種さんの悲しみは日増しにおおきくなり、涙のかわくことはなかった。

 そのうち、お種さんの行方はわからなくなった。関係先をも探したが不明であった。
 村の人達はお種さんの行方を探しているうちに、何時もお種さんが立っていた所に、大和から帰ってくる方の道を見るように蛙のような石があるのに気がついた。お種さんは由松さんの帰るのを待ちきれず石になったのではないか、誰が言うとはなしに世間の口に上った。

 この伝説は、寝屋川市のおばあさん(2代も前)の話として原稿が残っていると、門真市文化財愛護推進委員の方から奥野平次さんが受け取られたという経緯があり、今から180年も前の蛙石の話がよそで生きていたということです。
 
石清水八幡宮と彫ってある石灯籠
 
春日大明神と天照皇大御神の石燈籠

大灯篭の足元にくぼみ石が!
「くぼみ石」の由来を聞く。
 昔の子供たちが、餅つき遊びをした石の跡だという。
 「この石にじーと耳をあててみ、ぺったんこ、ぺったんこ、ぺったんこ・・・・ぺったんこの音が聞こえてくるやろ」と、亡くなられた奥野平次さんは子供たちにいつも言っておられたという。
 牛引き石
 しばらく行くと民家の軒下に、農閑期に牛を訓練したと言う牛引き石がある。
三角形をした石の頂点の部分に綱を入れる穴が掘られている。
 
 4基の燈籠

北側から石清水八幡宮・春日大明神と読み取れるがあとの二つは判読不明。
 大門酒造 無垢根亭
  交野に所在する「むくね村」で大門酒造が創業したのは文政九年(1826)のことでした。
創業者の名は、半左衛門喜之。裏山から湧き出る清冽な仕込水。交野が原の沃野で収穫された良質な米。それらを使って酒を仕込み、近在の衆に呑んでいただき一家を成したい。その屋号を酒半と称した若き起業家は、この青雲の志を持って酒造人渡世に踏み出しました。
 この創業者の熱き思いを受け継ぎ、爾来六代、百九十有余年の星霜を数える今日まで、いろいろな時代の波に揺られながらも酒造り一筋に励んで参りました。

 私どもはこの歴史と代々受け継いだ伝統を礎として、これからも交野の地酒、上方の酒として豊かな日本酒の文化の中で皆様に愛でていただける酒造りを目指して参ります。
 これからもどうぞお引き立ていただきますようお願いいたします。
 
 
 
 
 
 水分地蔵

この石仏群の横で水路が分かれているので水分地蔵を呼ばれている。

水分地蔵
北城戸付近
大門酒造正門の「無垢根亭」より大門酒造の長い塀があったが、今は住宅地化している。
山麓沿いを走る山根街道の出入り口に木戸を設けて、
村に出入りする人々を見張ったり、村への乱入者を取り締まったところだ。
 
 
円通山 須弥寺
 西山浄土宗のお寺である。開山は弘法大師(平安時代)と伝えられていたが、発掘調査で奈良時代の瓦が出土、従って奈良時代に出来ていたことが分かりました。後に石清水八幡宮から観音像を迎えて石清水と合し鎌倉時代には非常に栄えたと伝えられている。八幡宮の神官、森宮内少輔がこの村に隠棲し八幡宮から観音像を迎えて栄えたことから森の名前をとって、無垢根村から森村に呼び名を変えたと言われる。
 最近の研究で奈良の松永久秀が私部城を攻めるにあたって、須弥寺を拠点にしたことが分かってきました。
 
観音堂 「石清水八幡警固観世音菩薩」が祀られている
 
 
 
 
 
 
 
 
須弥寺の「参拝のしおり」
 
 
 須弥寺遺跡
 
 陽石
 
 
 

この石は、自然石ですが、その形が男根を連想させるため、当時の人々は石神と崇めました。
子孫繁栄を祈る古代人の間で信仰対象となったもので、後世これを陽石と称しています
須弥寺の河内三十三観音
 寺村と森村の境のあった巽山(現在は泉住宅となっている)に祀られていたそうですが、
住宅開発で巽山が削られた為、現在の須弥寺境内へ移されたとのことです。
巽(たつみ)の泉ヶ丘地蔵尊
 巽山(たつみやま)は南川の左岸「南川橋」の西南の丘陵を指して言っている。現在はケ丘団地という住宅地になり、山が削り取られ、周囲より一段高い岡となっている。
 巽(たつみ)は方角を指している。現在の寺からは西南の方角になり合わない。昔あった今井の集落からすれば、ちょうど巽の方角(東南)になる。東に竜王山が正面に見え、朝日を仰ぐ格好の地であった。
 泉ケ丘団地の一番東の高台に座っておられるのが、泉ケ丘地蔵である。静かに西方向の東車塚古墳を見下ろしておられる。これからもどうぞお守りください!
 
 
 
 
大畑古墳 車塚古墳群第6号墳
 須弥寺から寺村方向へと進むと南川橋の交差点に出る。この交差点の北一帯は一段高い岡状となっており、水田にはなりえず、畑作と利用するのが精々であったため、大畑と地名が付いた。

 大畑古墳は、交野で一番新しい前方後円墳で5世紀頃の築造とみられているが、今は住宅の下である。しかしながら、後円部を取り囲むようにして道が巡っており、前方部突端の「落ち」もハッキリ残っている。弥生時代の遺跡検出に伴って発見された。

 弥生時代後期の遺物が出土した住宅地の上が最近の調査で、前方後円墳で、墳長90~95m、後円径50m高さ3m、前方部約50m高さ4mが確認された。 現在では、交野車塚古墳群に属していると分類されている。
 
 
 
 
大畑古墳は後円部(向かって左側)と前方部(右側)が道路で分断されている
 東車塚古墳が発見された、交野高校が直ぐ近くに見えます。
 八幡燈籠
 
 大畑古墳の東側に京方面に行く道があってその道路際にあったものを
この地へ移したものと言われる。京都の石清水八幡宮への献灯であったのでしょう。
 
 
 
燈籠の際に、楓の木が植えてあり、枝に何者か?の巣が掛かっていた。
 寺の燈籠の辻
 
 
平成30年6月の地震で倒れたと修復された
 
地震で倒れる前の風景
 寺の燈籠の辻、三基の大きな灯篭と二基の小さな燈籠がある。大きい方は左から「愛宕山」「二月堂」「柳谷観音」とある。昔の人がここを通ってそれぞれの社寺にお参りに行ったのでしょう。交野から京都、大和への分かれ道にあり、道しるべの役割をはたしていたようです。近くの人々がお金を出し合って建てたことが燈籠の裏の刻印から分かります。

 また、この場所は伏拝の辻とも言われ、柳谷は眼の仏様、愛宕さんは鎮火の神様、二月堂は切羽詰まった時にお願いする観音さんである。
 「伏拝」。昔の人々の生活の知恵である。ほんとうはお寺に参り、社殿にぬかづきお願いするのが当然だがここからお許し下さい。ご利益もお参りし、ぬかづいたのと同じようにと伏し拝むその方向の中心が伏拝みの碑である。

 昔、それぞれの信仰する講があって、ここに集まってはお祈りやお祭りをしたのではないでしょうか。 前日の正月元旦に、NHKTVで京都の西山の愛宕山の講の話があり、その話で盛り上がりました。

 
正行寺の地蔵団地と鬼瓦
 
 
 
 
 
 昔の年貢納めは除夜の鐘が鳴るとしまいだという。
正行寺の鐘は早くつき始めたので、村の人たちは善政だと喜んだようだ。
 
 寺地区の無量光寺の墓
 中野家の南の山中にある。この墓の北側に中野家の墓がある。
 無量光寺の第三世覚心が私部城主(安見右近)に追われ20年後にこの地区に帰って来て小庵を開いて布教活動を行った。その小庵が今の正行寺であるという。この村に無量光寺の墓があるのは何らかの関連があるものと考えられます。
  この墓は向井山にある。正行寺の南の石垣から、南に伸びた道の一つ目の辻を上がって行くと左角に灯篭がある。ここから南へ、中野家の周囲に沿って南の角から椋の2本ある藪の谷を南に下ると南川である。
 南川を渡って荒坂を上ると左が向井田で、その右裾をさらに上ると右上の尾根の上に蒲鉾型の石碑(高さ52.5、幅42.5、長さ43.0cm)、その北に無量光寺と彫ってある。
 その碑の北側に、板石があって、焼けた地蔵さん、その北側の碑に金七、庄平、治郎吉と彫って(安政6年)、北の端は南無阿弥陀仏(文化4年)、三つの碑が寄り添うように語らいが続いているようだ。

     奥野平次氏著 「ふるさと交野を歩く ひろい話」を参照P31  
 
 
 
 
 
 
 住吉神社
 もともとこの神社には物部氏の祖先である饒速日命を祀っていたと言われていたが、物部氏の衰退によって現在は住吉4神を祀っている。(表筒男命、中筒男命、底筒男命、神功皇后)
 寺地区の氏神さんで住吉四神を祀っている。古墳と思われる丘上に建っている。
神社の東の石垣に「くぼみ石」がある。昔の子供たちが餅つき遊びをした石の跡だという。

 また正月には神社の境内で収穫を占う的あての行事「お弓」が行われていたと言われる。このとき使ったと言われる「弓」は近くの民家に保存されているという。
 
 
 
 
 
くぼみ石
 
寺村の風情ある段々畑(棚田)
かいがけの道
「峡崖(かいがけ)道」
交野八景の一つ・かいがけの錦繍(きんしゅう)

 平安時代から鎌倉時代にかけて、京都の天皇や貴族たちの熊野(和歌山県)参りがさかんになり、京都から鳥羽に出て淀川を船で下り、交野にあがって「峡崖(かいがけ)道」をのぼりつめると大和へ出る。ここから王寺、五条を通って紀州へ行くのが一番近道だと、昔は随分通行人があったようです。

 竜王山麓一帯から南側にかけて、南山遺跡、山麓の横穴式古墳、府立交野高校の車塚古墳など多数遺跡が確認されていることから、古い時代からこの「かいがけ(峡崖)道」は、頻繁に利用されていた。

 奈良時代、東大寺大仏建立の際、銅の鋳型が上手く出来ないため、結局、九州の宇佐八幡にいた渡来人の鋳型師を招くことになり、奈良へ行くことになった。その一行は途中二手に別れ、一隊は枚方市の百済寺に、もう一隊は交野郡の獅子窟寺に宿泊。
そして、この「かいがけ道」を通って奈良の都に入ったと言われている。


かいがけ道の入り口に建っている石碑

寺村 風景
山 添 家【国の重要文化財】
  江戸時代中期、宝永2年頃に建てられた豪農で庄屋の家柄であった。屋根は寄棟作りの茅葺で、昭和44年国の重要文化財に指定されました。土間を入って左が牛小屋で、その上が男衆の部屋。その北側に「からうす」があって米を挽きながら牛の監視をしたという。5代秀隆は南伊勢の領主であったが、信長に敗れてここに住みついたといわれる。
 
古い民家の
   山添家

寺村の山添家は庄屋の家で建物180平方メートル、釘を一本も使わず、造られています。木造寄棟造り、かやぶきで土間が広く、四間取りの配置に奥座敷、棟札に宝永2年(1705)の文字があって国の重要文化財の指定を受けています。

山添家は国の重要文化財に指定されている。


この住宅は江戸時代の庄屋の家で、11代前の九左衛門平精が宝永2年(1705)に建てたもの。

母屋は土間の面積が広く、雨の日などは農事を広い土間ですることが出来たそうです。現在では全国でも数少ない茅葺きの屋根がとても珍しいものになっています。

この地方の民家は家の中ほどで、棟木を支える大柱を中心に、その周りに部屋を作り、だいたい「田」の字の形を動かすことはできない。それにただいろいろの枝葉を付けるだけのことであるのが原則。それは棟木をもつ日本の家には、その後、どんなに変化をあたえても、屋根が落ちては住んでいられなくなるから、この法則から抜け出すわけにはいかない。

このような根本的なところは、出雲大社の建物でもそれがみられて、以後日本家屋の不動の伝統となっている。

 
「ふるさと交野を歩く(里の巻)」
奥野 平次 著によると、山添家は次のように紹介され、
昔の人々の楽しそうな暮らしぶりが偲ばれます。

石畳の道を進むと右に泉水があって、茅葺きの軒下に出る。ここから見える軒先の裏からのまとまりが好きである。大戸をはいると左上の三角に組んだ「さす組み」があり大変立派である。
土間を入った左が牛小屋、その上が男衆の室、その北側に「からす(からうす)」があって、米を搗きながら牛の監視をかねていた窓から遠い昔が見えるようだ。
へっつい(かまど)が三つ、西の小窓の前にある石の流し台、その右がはんど壷。昔「一粒食い」に使用した赤白黒の歯がため石をここに沈めたというが、山裾の村の古い民俗の話をしてくれているようである。

土間の天井の丸竹の色は、294年前、宝永2年(1705)「平精」という先祖がお建てになってからの色である。また、土間の北東の角にある「いろり」の跡が楽しい。どんな人がどんな話をしていたのだろう。楽しい話し声が聞こえてきそうだ。
口の間は八畳、座敷は八畳と仏間、一室突き出た角屋(つのや)は六畳で、一般の家では見られない大切な人たちとの政治の場であったのだろう。

北側は台所と寝室。この家の夏は涼しく冬は暖かだとおっしゃる。ここの屋敷で特にいいなと思うのは、裏にある「つぶ」(むくろじ)と、表の赤い実のなる「もち」の古木である。また、座敷と角屋との間の菊水の欄間も古い物語をしてくれるようだ。

山添家五代孫秀隆は南伊勢五郡の領主であったが、織田信長に敗れてここに住みつかれたという。

昔の年貢納めは除夜の鐘が鳴るとしまいだという。正行寺の鐘は早くつき始めたので、村の人たちは善政だと喜んだようだ。

 番外編 
解散後、森新池・天田神社に初詣

森新池の埋め立て整地工事の風景

森新池が完全に埋め立てされ整地中です!
 
川東神社
 
天田神社に初詣して帰宅しました
 
 
初歩きご参加の皆さん、大変お疲れ様でした!
 最後までご覧いただき有難うございました!

交野古文化の歴史ウォークに戻る