交野歴史健康ウォーク25回
かいがけの道から傍示の里の石仏を尋ねて歩く
(とき)平成14年2月23日(土)快晴 |
寺・正行寺の石仏 地蔵の団地 77体が綺麗に整備され 祀られている |
ごみの木地蔵 かいがけの道を登り 傍示の里に出るところに、 西面しておられる |
傍示の菅原神社 道に面して鳥居が立っているが 少し後戻りして、迂回して 登った所に祀られている |
廃蓮華寺地蔵 フットボール地蔵 竹薮の中、竹が生い茂る |
傍示・水神さん 道から5mばかり下に 雑木が繁る中に祀られている |
きとらの双体仏 仏高36cmのニ仏 向かって左は地藏さん 右は阿弥陀さま |
スマイル地蔵と天正地蔵 手前左が、天正地蔵 奥右手に、スマイル地蔵 根元の柿の木の枝が ばっさりと切り落とされていた |
スマイル地蔵 微笑んでおられる 河内と大和の国境 傍示の葬列はここを通る |
大仏道 傍示から大和へ通じる道 奈良の大仏建立の時に 宇佐の鋳造工の人たちが歩いた |
2002.2/23(土)天候快晴、参加者6人。 《ミニガイド》 【傍示の里】傍示とは、榜(ふだ)を立てて国境を示した。特に街道筋においては、この傾向が強い。傍示は河内国と大和国の境になっている。ここ傍示は交野から高山を経て富雄川を下り、三碓(みつがらす)で左折して奈良に通じる「かいがけ道」である。古代交野は天野川流域の条里制が施行されたごとく、豊かな地であり、かつ、渡来人の活躍の場でもあった。寺、森辺りに古墳や遺跡が散在する。当然この道は頻繁に利用されたことであろう。また、東大寺建立の際、大仏の銅の鋳型がうまく出来ないため、この仕事に熟達していた九州の字佐八幡宮にいた渡来人の鋳型師を招くことになり、宇佐から大和に行くことになった。一行は途中2斑に分かれ、一隊は枚方市の百済寺に、他の一隊は交野の獅子窟寺に宿泊した。そして、この「かいがけ道」を通り奈良の都に到着し、無事、大仏建立を助けたと言われている。 氷室山八葉蓮華寺から国宝級の快慶作の阿弥陀如来立像(高さ82.4cmの半等身像で、来迎印を結び、わずかに左足を踏み出して衆生に向かって来迎する有様を表わしている)が発見された。鎌倉時代初期、建久年間から建仁年間(1192〜1203ごろまで)に作られた作品で、快慶の造像活動の中でも自分の様式を確立するための模索していた時期と言われている。 現在の傍示に住んでおられる人の姓が、ほとんどが「伊丹氏」である。この伊丹氏が傍示に住みつくようになったのは天正元年(1573)のことである。 この年、かって摂津国伊丹の城主であった伊丹兵庫守親興が室町幕府の最後の将軍足利義昭に加勢して織田信長と戦争を起こした。しかし、戦況は思わしくなく、宇治の槇島が落とされたため親興は退去し、高槻の芥川城に逃げた。しかし、この城も織田方の荒木村重に落とされ、しかも、城主伊丹親興は討死してしまった。残った伊丹一族は淀川を渡って交野へ逃げた。しかし、織田方の追手の厳しさから逃れるため、交野の山中に入り、寺の背後の竜王山の後ろに移り住むことになった。芥川城陥落の功により荒木村重は伊丹の城主になっている。また、大阪冬の陣の時、伊丹因幡守という人が大阪方の武将として出陣している。 天正年間に伊丹氏が生活を始め、その後もこの小さな谷を切り開いて、あまり人口を増やすことなく、現在まで永々と生活してきているのである。 【北浦(きとら)】 里の北側で、中心に交野市野外活動センターがある。里に集落があり、また、田畑が開かれた後、北浦の谷も開かれたものと思われる。「浦」はこの場合「裏」のことで村の裏側の土地といった意味である。 傍示では「きたうら」をなまって「きとら」と呼んでいる。 |